「見る」という蓄え。

 「見る」という技術がデザインやアートの仕事にはとても大切。世の中の情報のディテール的には、秀逸な技術力やセンスのいいマッチングを構想する発想力、そして、パソコンの知識とソフトウエアの技術にどうも目が心が奪われるが、それらはただの枝と葉に過ぎない。幹の部分や根っこの部分ではこれらは「まぁ、あればいい」程度であり、さほど何かを創りアウトプットすることやビジネスの展開力を上げることには重要なことではないと考える。起承転結で言えば「転結」の部分。つまり、成るようにしかならない部分とでも言いますか・・・。とにかく素晴らしいパソコン環境を持っている、国内でも最速のパソコンがある。勿論、ソフトウエアも最新のソフトを全て揃えているが、さて、その人が素晴らしいデザインをできるか?素晴らしいアウトプットを企画・構想するチカラを持っているかとなると、案外、その逆の場合が多い。らしさの部分で言えば、だからその人はパソコンの環境を整えてソフトウエアを完備して準備していたい、コレクションしておきたいと感じているのである。つまり、組み合わせやゼロから何かを創造することには自分自身決して長けているとは実のところ感じていない場合が多い。妙なバランスである。

 無いものこそが「強請る」対象なのである。そして、この方程式はいつの時代も、まぁ、変わることのない普遍の方程式というか黄金比率というか錬金術というか。どれだけ自分の頭に論理でセオリーで納得を積み上げても心は知っている。頭と心のバランスについて、まゆつばな宗教テイストや哲学チックな論拠・論証でお茶を濁すつもりはないが、結局、人間は頭と心のバランス。どれだけ地位や名声や資産を持ってても心は知っているのである。自分のIDを。そして、そのジレンマと葛藤しながら・・・みたいなことなのである。

 で、言えば、上記の「地位・名声・資産」を全く持たない私のような人間はこの逆方程式に依存しなければ自分の存在が成立しないだろう・・・ぐらの危機感で毎日が勝負なのである。これまでもそう、今もそう、これからもそうなのである。

 話がかなり個人的な趣向に逸れましたが、まず、仕事という大きな流れをコントロールすためには、上記のようなポテンシャルを整理しておく必要があり、しかし、現状に維持に甘んじずつねに新しいこと、過去にクリアできなかったこと、親しい友からのアドバイスや苦言などを、しっかり整理してひとつひとつマークアップしなければいけない。そこで、一番基本的なことが実は「見る」「見た」とい蓄えの大切さなのである。これは、マイルストーンのようなものなのかもしれないが、知識や経験とはまたニュアンスが異なる。「見る」ためには「見えている」必要があり、この心の視力というかこの見え方はその時の気分やテンションに大きく影響を受ける。だから、心のベクトルがいつも同じ方向を向いているというわけではないので、この「見る」には非常にむらがある。が、それも実は大切なディーテルなのである。むらがあるからこそ「見た」になるのである。誰が見ても同じことを感じるなら、極端な話、人間のニーズは地球上同じである。しかし、慣習が異なり、文化や歴史が異なり、趣味趣向が異なり、ニーズが分散するのはこの限定できない言及できない感情の指標とも言える「むら」があるからこそなのである。ひとことに「むら」と言ってしまうが、ここには、感激も感動も憎悪も悲観も嫉妬も黙認もある。これらは絶対にデジタルツールには反映・適用・転用できないSOMETHING。世の中の情報の細部を虫の目でちくちく見ることも意義はあるだろうが、それが、実は「むら」であると捉える実態としての自分、つまり、自分の中の心としっかり折り合いをつけようとする心の軸が微弱だと、逆に自分が苦しいぞということ。これが現代の代表的な「苦しさ」のひとつかなと思います。

 時に「見なかった」という蓄えに対して自分自身を設定・限定する必要(もしくは勇気)がある。誰も心のから孤立したいとは願っていなのに書籍とアイテムに囲まれてアイソレートな状態でいることが落ち着く人もいるだろが、それは、つまり、「見えていなかったこと」を「見なかったこと」と捉える勇気ひとつなのかもしれない。誰に言っているという大義があるわけではなく、自分自身に対するよく湧き上がる独り言です。ツイッターではこの長文がつぶやけないので、やはり、ブログが一番です。