ミリオンセラーが優れているという基準。

 よくテレビや書店でもそうですが、ミリオンセラーありきで価値のヨシワルシを決定しているが、この基準は本当に正しいのか?という素朴な疑問。つまり、固定観念やセオリーに対する天の邪鬼な一意見なのですが、例えば、音楽シーンでよく最近は昔の歌手の在庫処分的な映像を引っ張り出して、振り返り系の番組が多い。昔で言うところのレコードの売り上げ枚数に順位を決めて「第一位は~!」みたいなテイの奴。右向け右的な基準で言えば「多く売れた=多くの人に指示された=優れた作品」という方程式だろうが、そもそも、そういう時代だったからそういう基準で良かった良かったとなるが、さてさて、改めて冷静に客観的に考えて、「たくさん売れた」が「優れた商品・作品」としていいものだろうか?という疑問。

 「優れている」という価値を分解していくと、ニーズにマッチしていることや機能として優れていることやデザイン的な価値として優れている、そして、その道を辿ればルーツがしっかりしていて揺るがない価値というような存在感があるモノがそれに値するように思います。しかし、「多く売れた」だけの商品が必ずしもこれらの方程式にマッチしているとは、イコールだとはどうも考えにくいと思うのです。

 例えば、日本の音楽シーンでミリオンセールスを達成したいろいろなアーティストがいる。確かに「多くの指示を受けたからたくさん売れた人」という価値判断を適用してもいい方もいるのだろうが、いやいやこの人はどう見ても「売れただけ」タイプのような人も大勢いる。一重に好みという基準で、「それはあなたの好き嫌いでしょう!」と言われればそれまですが、少数派の意見かもしれないですが、上記の定義で言えば、ニーズにマッチせず、機能もチープで、バックボーンも到底確立しているとは思えないのに、ただその作品を指示した人が多いだけで上位にランクインしている。だから?とはならないのだろうか?

 つまり、現代のニーズは多様化している。「生物の多様性」などと、「月は丸い」的な当然のフレーズが横行しているように、「多様化」という言葉自体も多様に枝葉を分岐させている。価値がフィッシュボーンの時代はそれでいいが、大きな木の全体像が誰にでも見て確認することができるようになった時代だから、そもそもの部分で多様なことが本来の多様として映っているだけであり、ならば、古き良き時代の「ミリオンセラー」の対象に疑問を感じる視点も多様でいいのではないだろうかというQ。

 デザインの世界に入った頃は「グッドデザイン賞」という存在を知り、「おおっ!これが世の中的にグッドなデザインなのか!」と認知しして鵜が鮎を飲むようにそれを「グッド」な「デザイン」とインプリントしたものですが、まぁ、アヒルも大きくなればそれ相当の価値感が芽生え「グッド」にさえ疑問を感じてしまうわけ。時代が変革しようとしているのか、人が変革しようとしているのか、価値が変わるとき必ず仕組みが変わる。あらゆるエネルギー産業の天秤が動く時、そこにあらゆる波紋が起き経済も文化も覚醒・昇華する。この場合、トリガーはなんでもいい。溜めこんだエネルギーが海底で開放され4万人近い人の命が奪われた。しかし、地球全体としては70億人に向かって人類は増殖している。人間の英知の象徴に罅(ひび)が入り漏れた放射線の行方を辿る旅。群れてNOということは簡単だが、もっとモノゴトは多様な構造を持っていると知っていればそれが徒労だと理解できるはず。

 どうも、これらの全てに当てはまる方程式があるとすれば、「人が3人以上集まるとロクなことがない」ということがどうも唯一の真理のように思えてならないのは、天の邪鬼な私だけだろうか・・・。

 多く売ることが経済成長であり価値基準の全てであった時代から、次第に飽和し破裂して漏洩したこれらの価値基準がもう一度、化学変化を起こしチェーンリアクションを生む時、分解されたパーツがどんなフォルムに再構築するのだろう。さて、日本人にそのセンスがあるのかないのか?それぐらいの予見はしておいてちょうどいいぐらいの「想定外」となる時代なんじゃないでしょうか。