2011年06月 アーカイブ

いよいよ明日富士山開山!

 ついにそのシーズンがやって来た。明日から富士山が一般開山される。さてさて、今年はいつアタックするのか?どのルートにするのか?どのようなプランにするのか???楽しみ楽しみ。前年の反省点とするとできればマイカー規制のない日に5合目までマイカーで登りたいかな・・・という点と、できれば、7合目か8合目で休憩を入れたいかな・・・ということ。そして、余裕を持って頂上で一周したいなぁ~と今回の2回目のアタックはいろいろプランしております。そうそうガチでトレーニングしている訳ではないのですが、まぁ、そこそこの感じでサクサクと頂に立ちたいと考えております。楽しみ楽しみ。

夏は苦手じゃあ~!

cyoppu110630.jpg
 極寒の雪の中、しっぽを振り振り元気な君が、どうも夏だけはNG。たしかにその体毛は無理がある。でも、まぁ、暑さ対策も例年どおりにしてあげるので、頑張ってあと2ヶ月を乗り切ってください。っても、その顔を見ているとかなり辛そうですな。しょぼい眼がさらに小さく・・・。涼しいところを見つけて無駄吠えも控えて体力を温存してください。夜、涼しくなったら散歩に行きましょう。そして、いつものコースで水路にダイブして涼をとってください。

佐藤酒造様蔵開き!

sato-syuzo002.jpg
 昨日は暑い一日でした。どうやら、気温が6月の観測史上最高値。つまり、梅雨も吹き飛ばすような暑さの中の佐藤酒造様の蔵開きという構図。「あの蔵開きの日はまだ6月だったのに暑い一日だったなぁ~」とそんな余韻を残す、言わば「暑い船出」ということ。お酒創りは自然との勝負。人間が自然の恵みとどこまでガチに相対するすか・・・みたいなことですと、蔵の中を案内していただきながら蔵の方に拝聴。なるほどなるほど、やはり、最後の最後で人間は自然とどう向き合うかにつきるようです。自然をなんとかコントロールしようなどとfuckな奢りは捨ててポテンシャルに適正な行動とちょっと手の届く感の冒険心と探究心で歩を進めるが正解なのかもしれません。

 「日本で一番新しい酒造会社 佐藤酒造株式会社」っつ~ことで、皆さん、よろしくお願いいたします!って感じです。

詳しくはこちらです。http://www.nagahamanosake.com/

湖濱という価値。

sato-syuzo001.jpg
 数十年前に長浜で愛された銘柄「湖濱」。佐藤酒造様の創立と共にこのブランドが復活。成分のことや醸造のことなど、まるで、科学のようなお話なのでチンプンカンですが、ひとつモノヅクリという軸点で言えば、お酒もデザインも人が創るモノ。親しまれ愛される仕事をするためには一年365日、その軸点へのリスペクトを失わず切磋の琢磨で探究し続けることでしか、その次にあるenjoy(至高)が見えてこないのでしょうね。

 余談ですが、今年も2回目の富士山登山を予定しています。昨年は天候にも恵まれ、6時間で5合目からトップに至りました。あの急斜面、途中はMAX苦しかったですが、見事に一回も「諦める」という文字は浮かんできませんでした。まぁ、これも、高校時代、大学時代、東京時代の体力的なMAXや気持ち的なボトム感MAXの基準値があるから、富士山ぐらいは大丈夫。トレーニングもチマチマと1年以上やって臨んだので実現できたとも振り返ります。さて、今年はどうか?明日から富士山が解禁・開山です。体調は万全、いつでもCOME ON!という感じ。

 だから、お酒創りも気持ちを込めた商品創りをしているから自信を持って商われるのですね。とても大切なことだと思います。魂がお酒に沁み込むのですね。

詳しくはこちらです。http://www.nagahamanosake.com/

湖濱@佐藤酒造解禁。

sato-syuzo110629.jpg
 昨日は長浜の佐藤酒造株式会社様の「蔵開き」。こちらがそのメモリアルアイテム「湖濱」と利き酒用の「グイノミ」です。お酒とはその地の水と米と風土と自然が織りなす芸術品。そこへ、創り手の魂が愛情が込められるからこそお酒。お酒にはあまり精通していない私でもその背景にある意義や価値は充分に理解できます。決してお酒は強くないのですが、健康のために「たしなむ」コツも大切にしたいと思っております。なかなかの限定品ですから、嬉しいメモリアルアイテムですね。

詳しくはこちらです。http://www.nagahamanosake.com/

生物学的文明論。

 新潮新書の書籍。本川達雄(動物生理学者)さんの書籍である。そのタイトルが「生物学的文明論」とある。ベストセラー「ゾウの時間 ネズミの時間」の著者である。この著書から20年を経て、ココイチで現代を生物学的視点で捉えているのだろう。目からウロコの現代分析なんだろう。「ヒトと人間がズレている!?」とのこと。さてさて、どんな物語(論理・分析・洞察・仮説・定理)が展開されているんだろうか、楽しみ楽しみです。

ティナが来日する。

tina.jpg
 ティナ・シーリングがやってくる。さてさて、日本の大学生や招待した団体をティナはどう分析・洞察するだろうか?それが一番楽しみ。

 ネットで検索すれば、「ティナ・シーリグ氏は、米スタンフォード大アントレプレナーセンターのエクゼクティブディレクターで、「起業家養成講座」「イノベーション」などのクラスを担当する名物教員。著書『20歳のときに知っておきたかったこと』が昨年ベストセラーとなり、日本での知名度が急上昇した。その型破りな授業は、全米でも高く評価されている。「手元にある5ドルを2時間でできる限り増やすこと」と言った課題を学生に次々に与え、課題を解決していく中で、起業家精神やクリエイティビティを醸成していくといった仕立てだ。経歴からしてユニーク。スタンフォード大医学部で神経科学の博士号を取得後、ビジネス界に転身。戦略コンサルタントや起業など様々な経験を積んでいる。講演では、実証実験の成果やビデオ素材などを巧みに使いながら、スタンフォード大の授業さながらにオーディエンスを巻き込み、「常識に挑戦する」「問題を組み替える」といった「クリエイティビティを高める9つの要素」を紹介した。「最大の過ちはクリエイティブなアイデアを阻害することです。アイデアがなければ、どれほど時間やエネルギーをかけてもイノベーションは起こりません」と説く。さらに続く対談、質疑応答のセッションでは、自身のクリエイティビティを育んだ子ども時代の思い出や、人生観についても触れ、「私たちが生きる世界には数えきれないほどの不確実性がある。答えがないことを怖いと感じるかもしれない。『自分自身の冒険映画をつくっているようなものだ』と楽しむことが重要」と熱く語った。ティナ氏は言う。「若い方々自身が未来そのもの。社会はみなさん次第でいかようにも変わります。その社会がどういったカルチャーになるのか。その社会のなかにある企業カルチャーがどのように変化していくのか――。それはすべてみなさん次第であり、一人ひとりが未来のリーダーなんです。それを忘れないでください」。混迷深き、寄る辺なき時代。見通しが立たず、個々人がそれぞれに人生を切り拓いていくことが求められる今、「一人ひとりに起業家精神を」というティナ氏のメッセージは、力強く響く。」ぐらいのことはすぐに出てくるが、これはたぶんティナの実力の文脈化した表面的な部分だけ。実は、この見せている部分の裏にとてもつない大きく強く広い見聞と底知れない鉱脈がマントルのように高温で活性化しているのだろう。決して、地頭の強いストリート・スマートな人は自分を誇示しない。そして、地位や名声や富に興味を示さない。だから、ストリート・スマートなんだと勝間氏が言っていた。まさに、その代表格がティナだろう。

 ネットに掲示される情報はもう飽きた。一度、彼女の講演を見て聞いてみたいものです。

頭を下げる仕事。

 ほんとにテレビで映るたびに彼は頭を下げている。あの情けない顔と頭を下げる風景。そんなに頭を下げ続けても支持率は上がらないみたいな。どうよ総理。まず、陳謝する前になんとかならんのかと皆が感じているわけですよ。テレビの報道もとりあえず記者を集めて長い机の前に並んだパッとしない老体が意味不明のコメントを並べ、緩い質疑応答の末、全員が陳謝。フラッシュがパチパチパチって絵がとりあえず撮りたいだけでしょう。この映像流しておけば…みたいな部分、どこかありません?テレビ関係のディレクターさんはこれでひとつ報道映像が完了って思っていませんか?「おおっ、どこかの役員とか取締役が雁首並べて神妙な表情でふわふわした謝罪文を読み上げて、最後に申し訳ありませんでしたって、アフリカかアマゾンの儀式でももっと神格化して尊いイメージがありますよ!」つ~感じ。とりあえず「誤る」か「辞任する」か「首を吊る」かみたいなことでIDを確保している空気が、さらに、テレビやマスメディアの地頭力の欠如・空洞化を促進しているのか。それとも、ニーズがそれを求めているのか?

 辞任の時期とか次の代行は誰だとか?もう、誰がそこに来ても畑の土が汚染されているんだから仕方ないでしょう。畑の場所を変えるか、植える野菜を変えるか、その価値・定義自体を別の首に挿げ変えるかしかないでしょうに。「抜本的な改革」耳触りはいいが、本来の語感と活用方法を完全に誤っている。「情報時代のITリテラシー」これも耳触りはいいが、意外と芯は喰っていない表現である。全部全部が言わば「信長の真実」みたいなこと。いまだに戦国時代や明治維新が大好きな日本人は歴史に対して相当肥大した妄想と期待と依存をしている。「信長」の真実など、信長しか知らないはず。なんの史実か誰の捏造か知りませんが、「伝説」の源流は正確には誰も知らないから「伝説」なのであり、伝え説くってこと自体、「頭」は不明ってこと。

 さて、頭を下げ続け頸椎が鬱血しているでしょうね。あの顔色みたら、そっちの方が心配ですよ管総理。

JAZZと演歌。

 口は災いの元、雄弁は銀、沈黙は金と言うが、言葉は怖い。基本的に情報と人間の連動は目と耳でそれをインプットして声や端末で文字化することで実現(循環)している。だから、何を見て、何を聞いているかがそもそものスタートラインであり、同じモノを見ても聞いていも、その見方や聴き方でインプットされるそのフォルムが変形する。そして、この変形度合いについては絶対に同じカタチが二つとしてない。そして、それを消化し論理化する感覚化する時に何を蓄えて何を切り取ってきたかがその本体の吸収率を左右する。

 飽食の情報化時代、物理的に脂肪を多く蓄え活性率を下げている人は多いが、論理や定義も同じ。そんな生活サイクルを送っていると、必然的にあさっての言葉が漏れる。そして、緩い行動としてぶれぶれの万象に陥る。ストイックにモノゴトを捉えることは簡単であり、本能的に感覚的に言動を行動のリミッターを解除することも簡単。何も自分の中から聞こえてくる声に耳を傾けようなどと詩人のようなことを言うつもりもないが、自分の心が何と相対性のバランス関係を維持したいと感じているかを知っていることで、自分と世界の適正なバランスが見えてくるように思います。

 例えば、そこに「JAZZ」という食材が降りてきた場合、それをどう料理するかは、恐らく人の数だけ調理方法があり、盛り付け方があるはず。美味しいか美味しくないかも心の味覚次第。せっかく素敵な食材を確保したのだから、間違っても古き良き「いもがゆ」にはしたくない。

分類不可能ガガ様。

 頭の上に黒い電話を乗せて現れる。シャボン玉で全身を包んだような服でピアノを弾き始める。奇抜とか派手とかいう前に、思わず愉快な気分になってします。大人気の米国のアーティスト、レディー・ガガさんが、復興支援のために来日した。日本が好きなのだそうで、震災の翌日、3月12日には「日本の為に祈りを」と記したリストバンドを売り出し、1億2千万円を寄付した。記者会見では、ティーカップにキスしてみせ、オークションにかけて収益を被災地に送ると語った。観光庁から感謝状を贈られたが、「本当はこんなものいらいなの」と言う。ポップス愛好家に限らず、見る人が自然にニコニコするのは、このアイドルの「突き抜け感」が心に響くからだろう。被災者の避難所暮らしには終わりが見えない。原発事故は心理的にずっしり重くのしかかる。何か常識外れのことをしたい、されたい、という気持ちを、日本の誰もがいま抱いているに違いない。ガガさんはロックスターのデビッド・ボウイとクイーンを自分の活動の手本にしたそうです。演劇のような表現と、物語を感じさせる存在感。それらが「入り口」となって、観衆を日常生活から連れ出すからだと話している。人々が求めるものを感じ取るショービジネスの才能は、日本の政治家より勝っている。と、今日の新聞からの抜粋です。

 ガガ様は分類不可能という称号を押されても、さらに、その枠からはみ出るイマジネーションで常に変化してこられたのだろう。それは、こうして世界的なアーティストになるずっとずっと前から。だから、世の中のフレームに推し量れないのは当然。それでも、メディアはガガ様の度合いを数値や言葉で指標化しようとする腑抜け加減。指標がある以上、そこからはみ出るバイタリティーでこれからも変化していってほしいですね。パターンとして薬に依存したり、資産問題に巻き込まれたりする世界を席巻したビックネームが多いが、意外とああ見えて、ガガ様は計画的に有意義な意味のある価値のある道を進むような気がします。

 しかし、ガガ様に感謝状って!?明治維新かっ!

 で、方向性がデビット・ボウイだったとは、ちょっと意外なような、でも、かなり納得。王道ですものね。

ほんとうの復興か・・・。

 さっそく、池田晴彦さんと養老孟司さんが「ほんとうの復興」という書籍を共著で出された。その広告のキャッチは「ひとつになるな、日本。」である。まさに。いつまでもエリートスマート的テンプレート型の経済の政治の仕組みでマニュアル人間が正解のための正解を出し続ける国だから、こうなったのよ・・・とでも言いたいのだろう。これは、まだ、この書籍を手にとっていなので、ただの想像ですが、二人は軽くこうコメントしておられる。池田晴彦さんは「リスクを分散することがセキュリティになる。一律にやっていたらかえって危ない。」と。養老孟司さんは「自然は、初めから答を出している。解答は目の前にある。」と。う~ん、ほんとうの復興か・・・。たぶん、次の総理と官房長官はこの二人がなればいい。

 高学歴のエリート諸子の限界点がこれほどクローズアップされてしまったのだから、ちょっとは、そのあたり辛辣に捉えてくださいね、舵を持っている人達。

「仁(JIN)」の結末。

 テレビドラマ「JIN」が終わった。結末は結果、時間の軸に吸いこまれた。輪廻転生とタイムスリップを江戸と平成を坂本龍馬と南方仁をしっかり結合させた上で次への方向性をしっかりと示していたように思える。人の死と生命についてこれだけガチで考えさせるシーンをふんだんに盛り込む意欲、それを超一流の配役が適材適所で演じている壮大な物語だったと思います。

 留意する点は2つあったような気がします。ひとつは「血」という視点。結果、仁先生は外科医ですから、血についてどう描くかということで人間本体の価値観とか生命の不思議を描くわけですが、さらに、人間の血液が持っている古来からの機能やペニシリンについての考察など、いかに、人間の生命が微妙なバランスで維持されているかということを江戸(穢土)というステージでしっかり描く。どうも幕末が舞台になる物語は政治や人間の概念や慣習のジレンマばかり描きフワフワしてしまう部分をしっかり江戸時代の人間の存在感を描いていたような気がします。それに、いろいろな坂本龍馬をテレビや映画で観るが、このドラマの坂本龍馬が一番強い人間に写りましたね。

 二つ目は「手紙」である。これはツールとしての手紙、歴史の史実としての手紙、心を刻印するための手紙と、江戸だから当然ですが、デジタルツールのないこの時代、文をしたため、「お慕い申しておりました。」となると、う~ん、強いと感じてしまう。紙に残す手紙、印画紙に残す写真という人間の慣習やツールとしての価値を改めて再認識してしまった。紙の上に墨でしたためる手紙こそ、実は、歴史を紡ぐ最高のツールだと。サーバに保存された無限のテキストは、さて、未来にどんな意義を継承するのだろうか・・・みたいな。

 しかし、まぁ、素晴らしい配役揃いで、他のテレビドラマが貧弱に思えたこのクールでした。多分、次は谷だろうから期待はできない。大河ドラマよりも「いい役者」という視点では充実し過ぎていましたね。たぶん、「仁(JIN)」と「江」を比較した場合、単純にそれだけで比較できないが、上野樹里さんと、綾瀬はるかさんの使い方の違いだったような、つまり、この二人の演技力というか女優さんとしてのポテンシャルの違いがこの2つのドラマの決定的な差のようにも感じました。

 いやいや、ひさびさ(実は、前回のJIN以来)に、テレビドラマを第1回目から最終回まで観てしまった。満足満足。

家にある本の数。

 子どもの学力は何によって決まるのかということはさまざまな角度で検証されていますが、遺伝や環境の影響など多くの分析がありますが、その中ではっきりとプラスの影響があると分かった興味深いことがあるとのこと。それは何かというと、「家にある本の数」だそうです。これは、勝間さんの書籍本文からの抜粋ですが、非常にいいところをチョイス・フォーカスされるものである。

 これも、ただ「家に本がたくさんある」ということだけで、親が子に読ませている、ということではないらしい。最も重要なポイントは本の存在だと。つまり、家にある本の数が多いと、子どもの学力が高いらしい、ということが分かったそうです。「家にある本の数」というのは、親の知力や資力、知的興味などを示すものである可能性はありますが、必ずしも本の数が多いということだけでその親が必ず「賢い」わけではないですし、ましてそれだけで学力が養えるとイコールではない。しかし、本があることで、子どもの知的好奇心が広がるという相関関係があるのかもしれないということをこの統計は示唆しているということ。実際に統計的には家にある本の数が子どもの学力の代理変数になっているという文脈でした。

 これにはちょっとドキリですね。昨今の「ゆとり教育」だか「脱・ゆとり教育」だか知らないが、「教育」を行政や教育の現場の人達は弄び過ぎなのかもしれないぞ。そもそも、「教育」の定義が歪んでいるから、地頭の弱い社会人が増え、経済が歪むのかもしれない。まぁ、歴史から人は学ばないので、体系的に統計的に相対的に正解に導くことも重要ですが、直観的にミクロに絶対的なリテラシーも当然必要ですよというひとつの指標にはなるような気がします。たぶん、これらのリアリティーは電子書籍だけでは絶対的に何かが足りないんだろうなぁ~。教育の最少単位は家庭なんですね。これは責任重大です。

緊張MAX。

 まず、私が書店のレジのところで待っている状態での風体は、丸坊主、無精ひげ、オレンジ色のTシャツ、ヒザが破れているパンツ、そして、トレッキングシューズ。この状態で私はレジに並んでいました。すると、すぐ右どなりにある、書籍を検索できるサービスで突然「どないなっとんねん!」というおっさんの叫び声。ゆっくり右を向くと、太った50歳ぐらいのおばはんと私よりちょっと背の低い派手なアロハを着たちょっとパンチの効いたおっさんがそのコーナーで叫んでいる。おばはんはたぶんこのおっさんのカミさんだろう。どうやら10日以上前に注文した文庫本が何故まだ到着していないのか?というお話のようで、そのおばはんはその検索コーナーに常設の椅子にふんぞり返っている。まず、この夫婦がどのような文庫本を読むのか興味があったのでしばしその会話に耳を傾ける。すると、「注文した時にここにいたねえちゃんはどこにいる?」と叫ぶおっさん。さらに、「わしらは客やぞ!椅子持ってこい椅子!」という始末。慌てて別の店員さんが事務用の椅子を持ってくる。その二人をじろじろ眺める他のお客達。その視線を感じてかおっさんが「おらおら、何をじろじろ見てるんや!わしらは客やぞ客や!」。その二人を見つめる冷たい視線をこのおっさんはエネルギーに変えて小さく爆発を繰り返す。すると、一人の女性店員さんが来て、「このたびは~」というビジネストーク・クレーム対応の始まり。

 そうこうしているうちにレジが開き、いつも流れで財布からメンバーカードを若い男性店員に渡して、購入する本をレジに置く。すぐ右どなりで展開されるクレーマーの爆発にその若い男性店員さんは相当緊張している表情が窺えた。別にこの男性店員さんは緊張することなみじんもないのですが、おっさんがプチ爆発を繰り返すものだから、レジ付近の緊張感を一気に吸いこんだ感じの男性店員。その男性店員の表情も気になるし、右どなりの馬鹿夫婦も気になる。ちらちら見ていると、その店員さんが、「ブックカバーにしますか、ポイントにしますか?」と聞いてくる。私は書籍にカバーはしないので、「ポイントでお願いします。」と伝える。すると、この店員さんに妙な間があった。あれ?何か変なことを言ってしまったのかな?としばし冷静に考えていると、その店員さんが「メンバーカードをお願いします。」と言う。あれ?さっき、一番に渡したはず、私もこのレベルのうっかりは日常茶飯事なので、財布を確認する。が、確かにさっきメンバーズカードは渡している。で、「あの、さっき、渡しましたよね?」と伝えると。カードリーダーを即座に確認してその男性店員さんは深々と陳謝される。「誠に申し訳ありませんでした。」と。あ~あ、この馬鹿夫婦の爆発で完全に緊張しているんだなぁ~と読みとれた。

 そんな最中でもこのおっさんは何故10日前に頼んだ文庫本がまだ到着しないのかをネチネチと女性店員さんに迫っている。パソコンで検索している最中も、周りの客にプチ爆発を繰り返すおっさん。ちょっと、あまりにも店内の雰囲気が悪いので、おっさんを凝視した。そして、目があった瞬間に舌打ちをして完全におっさんをロックオン。そんな私を見上げるおっさん。2~3秒その状態を経て、おっさんから目線を反らした。そして、そのおっさんのボリュームは普通レベルに戻った。

 それを見ていた男性店員。お金を支払い、領収書をお願いすると、引き出しから手書きの領収書を取り出し、宛名と金額と但し書きをして領収書を破き始める。そこで、「あの、係印を頂けますか?」というと、慌ててハンコを別の引き出しから出してきて押す店員さん。これがまた、朱肉が乾いていてうまく押せない。3回目でなんとか押せたのですが、まだかすれている。でも、まぁいいかと「ああ、それでいいですよ、ありがとうございます。」というと、ホットした表情で領収書と書籍を渡してくれた。領収書も書籍もお釣りも頂いたがまだメンバーズカードは返して貰っていない。ので、しばらく、私が店員さんを見ていると、一瞬で緊張がMAX。目が泳いでいる。「あの、会員カードを・・・」というと、はじかれたようにカードリーダーからカードを排出して返してくれた。「君はカード忘れ過ぎ!」と心でツッコんで書店を後にしました。

 メンドクサイお客ですいませんでした。しかし、あの馬鹿夫婦が注文した書籍の名称を確認できなかかったことだけが悔やまれる・・・。

勝間恐るべし。

 いやいや、温存していただけに、非常にいいタイミングで購入できたことがとても爽快です。書籍を買うタイミングってとても重要で、気分やその時のモチベーションや気になっている感覚が適度に温まっている必要がある。このタイミングを逃すと書籍は自分自身にマッチしない。別段、パズルのワンピースを探している感覚でも解けない方程式の正解に向かっているわけではないので、マッチしないからと言って、「たまたま」ということで処理すればいいのですが、それも、含めて書籍との出会いはイチゴイチエイ。だから、ビンゴ!な時は本当に嬉しい。価値を感じてしまいます。勝間さんの書籍は1冊だけ、その段階では勝間さんの勝間さんたる背景を知らずに買った。そして、結果、あれ?この人テレビに出ている人なんだとなってから、ちょっと、2冊目を控えた。テレビからの情報を鵜呑みにしたくなったという、なんとなく、これもたまたまな直観があったからである。テレビに出ている人の書籍などよほどの理由がなければ買うことはしないので、1冊目の出会いは良かったが、テレビの先入観で読んでもしふわふわした話が2冊目で展開されていたら、とても残念だと感じたからである。テレビの印象は「さばさばとした口調で独自の世界観をお話するおばちゃん」だったからであり、その印象はさほど魅力的でも印象的もなかった。まぁ、そこそこのバックボーンでそこそこ話が適正だからテレビ関係者に引っ張られてカメラの前でしゃべているだけだろう・・・と。

 が、なになに、勝間恐るべし。昨日、いつもの書店に行くと、何故かそれが無償に読みたくなった。いつも、その書籍がそこにあることは知っていたから、今日もスルーかなと思ってふらりとそのコーナーに行ったのですが、昨日はなんとなく、ほんとになんとなく買ってしまった。2冊目の勝間さんの書籍。

 一気に半分まで来たところで、このブログを書いていますが、まさに、恐るべしである。この下りがなぜテレビで観ていると聴いているとああなっちゃうのかが不思議ですね。いかにテレビの切り取り方が無能かを痛感してしまった。それほど、この書籍はGOODである。

 その書籍のタイトルは「高学歴でも失敗する人、学歴なしでも成功する人」小学館101新書 勝間和代著(¥740+税)という書籍です。この段階で第4版なので、間違いなく良書でございますね。

第20回すべらない話。

 昨晩、人志松本のすべらなない話、第20回がゴスペラーズのイントロで始まった。毎回期待値が肥大する一方でメンバーも趣向を変えエンタメ感を意識して強い話を演出されている。が、そろそろ、第20回ともなるとこちらはスタイルから期待値の側面で入ってしまう傾向を強く感じた。「すべらない話」とはこうあるべきだみたいな空気が演者の皆さまの中にフォーマット化されていくつかのパターンに話の組み立てが偏っているような印象。面白い話ではあるが、置きにいっている感じ。それが、ちょっと残念だった。

 つまり、すべらない話のフォーマット化が本来のライブ感とか奇想天外感を失い、「すべらない話」テンプレートの中で処理されているような気が少しした。これだけの話術のエキスパートが集合してもテレビというテイの中では、何事もフォーマット化・テンプレート化されてしまうのかと・・・。ただ、それぞれ出演者の皆様のパワーバランスはピリピリしていてドライブ感があった。落語家よりも秀逸な話の組み立て方あり、感覚的に感傷的に落とす手法あり、ちょっと深い話で心の振幅を誘いながらのオチみたいな手法あり。どれも、テレビ的には75点でしたが、さてさて、松本さんはその出来をどう判断されたのだろう。MVSが結果、ジュニアさんだったことを鑑みると、内容はさほど高くなかったと考察できる。

 しかし、いつものことながら、雁首そろえた芸能人のオーディエンスの寒いコメントにはくらくらする。

 で、私の第20回のナンバーワンBEST OF すべらない話は、たぶん、大輔さんだろう。話が太く、感覚的で、聴いている人にイメージさせる部分と聴いている人の頭のイマジネーションに挑戦するような「お父さんの散髪」である。短い展開でしたが、これがたぶんベストでしょうね。この大輔さんのお話に比べると他の皆さまのお話はテンプレート内で組み立てとディテールにフォーカスしているが、いわゆる「すべらない話」の本来の芯からは少しづつズレていたような気がする。

映画「127時間」

127houer.jpg
 最近、特に、気なる映画は全くそれを観るまで予備情報をできるかぎり入手・リサーチしないようにしている。ちょっとでもテレビとかで適当な紹介をされているとすぐに目を反らし内容も聞かないよう音声をミュートしている。勿論、WEBサイトなどでの情報も全く入手しない。ただただ、自分的に「気になる」という感覚を映画館やDVDを手にする時まで反芻し純化させることが楽しいと思っている。

 「しかし、そんなことをしていると、ハズレが多いでしょう?」と言われるが、それが意外と少ない。逆に前情報を調べて調べて映画を観ました。で、ハズレの方が確率的には多いことに気がつく。これは、どういうことか?まだまだ、ゆるい仮説の段階ですが、飽和している情報には操作しようとする作意が在り過ぎて実際の映画作品の本質を歪めているのかもしれない。その情報を編集した人のポテンシャルが低かっただけかもしれないが。つまり、情報情報ってもその程度がリアルなところでしょうね。

 だから、この映画はまだ、数行のあらすじとこのメインビジュアル的なモノしか入手していいない。「気になるな」と感じた際の情報からまだ1歩も踏み込んでいません。この直観が意外とのびしろを頂ける場合が多いので楽しみにしています。

 で、ついでに「スーパー8」は今、一番の本丸。これも、CMしか見ていない。ネットでも雑誌でもどこでもこの映画についての情報を入手することは簡単ですが、まったく、それらに触手はのばしていません。で、来週あたり映画館に行こうと思っております。監督は誰かぐらいはCMで知っていますが、その程度で、ほぼ、予備知識0で観るこの映画「SUPER8」も楽しみにしています。

IT部門をスルー!?

 このIT時代に大手の企業では生産性と効率化を図るために、IT部門を本来通す案件・プロジェクトでもスルーさせているパータンが2割ほどあるらしい。これは経営者幹部層に多い傾向らしく、IT部門に案件を流すよりも直接クラウドにログインして仕事を進める方が圧倒的に効率がよいということらしい。確かに大きな企業は大きな企業なりに確立された組織で動いているから、機動力やレスポンスのスピードは必然的に落ちてくるはず。しかも、多くの部署を情報が行ったり来たりしている間に人的な予期しないことが発生し情報が変異したり消失したりすることを、経営者レベルの人は回避するために、直接ログインみたいなことなのだろう。いくら優秀なスタッフを抱えていても、情報がそれぞれの経路を通すこと自体が組織の意味・価値なんだから、まぁ、本末転倒のお話なのですが、今や情報の質とは劣化させずに、そして、鈍化させずに、新鮮な状態で相互に活用しなければ、価値がないとされている。つまり、確認申請確認申請の行政のやりかたの弊害が、言わば、ヒューマンチックと対極に存在しているということ。ITリテラシーのボトルネックとはそこか!みたいな。結局、どんな道具を使ってもどんなに知識のある人がいてもどんなに技術力がある人がいても、処理能力(IQ)次第なのかな。

 高学歴が最近いろいろなメディアでヤリダマに挙げられている。まぁ、明らかに高学歴ではない私はなんのこっちゃ状態ですが、いわゆる「高学歴の人は災害に弱い。」高学歴でない人よりも比較的パニックになりやすくちょっとしたストレスで鬱になり人間としての機能が停止するらしい。そんな微弱性がイコール「高学歴」ということでテーゼになってしまているのだろう。そして、普通の人がそんな高学歴な人に手を差し伸べる構図が大災害の現場ではリアルに起こっていると。

 では、「IT部門の高学歴の人」はもう人間としてダメじゃん! なんでこんな構造になったのか、「ITリテラシー」と「高学歴」がこれほど失墜するような世界はこれからどこへ行くのか?ギラギラした獣のような肉食系の人間がこれからの弱肉強食時代を征する・・・みたいな。人間のIQと人間の臨機応変な活力みたいな能力ってそう言えばPCでは表現不可能ですし、インタラクティブってヨコ文字を聞いている分には耳触りはいいが、結局、ケーススタディーの典型で、変数を用意してデータベースで検索してくださ~い!ですから、「何を今更、そんなことは100も200も300も承知の上、その次の展開を今聞きたいの、私は!」という声が世界中のパソコンの前で蓄積してしまっているかな。だけど、ライブカメラでもリアル映像でもそれはまだまだ、リアルなツールではないのでしょう。やっぱ、FACE TO FACEが基本中基本としてのテッパンとなり、電話での会話におけるコミュニケーションがさらに至高となりフォーカスされる時、最後の最後で、人間力が雌雄を決するのでしょう。先読みは禁物としても、そんなことを予見させるオンラインからのニュース情報ネタでした。

「世論」というもの。

 「世論」を形成している数多の情報を物理定数で分類することが、言わば、経済や文化の仕組みにリンクしている。まぁ、人間社会はこんなに簡単ではないが、ほぼ全てこの方程式で解釈はできるはずであるという仮説。

 人が3人集まれば「世論」が生まれると言われている。だから、「良き世論」と「悪しき世論」を区別しましょうなどとは決して言えないし、慣習であれ政治であれ企業活動であれ、資本の面で上層部に君臨する人たちでさえ、この「世論」をコントロールすることは難しい。だから、いつの時代にも絶対に「世論」はなくならない。このどこにでもいつの時代にも人間社会のいたる場所に存在する怪物と人はどういい関係を維持するかしないかで孤立もし覚醒もし昇天もし失速もする。

 情報社会に生きている以上この怪物を無視することは生命の維持をも脅かすからである。無人島で自然に生息する植物や動物を食べて生活している人でさえ、言語を持つ以上、この怪物の影響を受けている。まして、現代の日本、この怪物はその実態を肥大させながら、ナノサイズでも活発に分子運動を続けている。しかし、その「世論」に対して誰かが確固たる責任を担うかというとなるとそれは違う。「世論」の「世論」たる所以はその責任が個人レベルにフィードバックされないことが条件。だから、無責任な怪物が自由自在に情報化時代を飛び回っているのである。熱くない火を吐き聞こえない咆哮を続け強靭な躯体で進化しながら繁殖を続けている。まるで、カブトの「穢土転生」である。

 「この健康食品はどうやら老化を防止するらしい。」という怪物に襲われぬよう、「今までに体験したことのないこのゲームソフトは凄いぜ!」という怪物に襲われぬよう、モノホンが持つガチでベタでリアルなvaleを見極めたいものである。

10ヵ国語か・・・。

 「10ヵ国語を手軽に翻訳!驚きの多言語翻訳ソフトの最新版!」というメルマガが到着した。う~ん、気になる。今からこの種類の多言語に精通することは不可能だが、こうして、ソフトウエアの力を借りて瞬間風速でも「10ヵ国語を手軽に~」という感覚を味わえるならこの価格(¥20,000)は値打ちである。実際、それをどのように使うのかということになるが、まぁ、英語、中国語なら仕事で文章を翻訳しないといけない機会とかがあるから、まぁ、その予習として捉えてもこの価格なら適正値だろう。

 と、ソフトウエアの価値を決定するための判断材料はその価格と機能内容が、取り組もうとしているオブジェクト・案件に適正かどうか?そして、どれぐらいののびしろがあるのかという視点と、それを、自分自身がどこまで会得・精通できるかという感覚との天秤になる。若い頃なら「興味本位」で「好奇心」でいろいろなソフトウエアに取り組んでいたが、実際、自分の仕事に関係することに対して有効で、しかも、会得可能なツールである必要があり、しかも、価格が適正であることが必須条件になる。と、つまり、上記の「10ヵ国語翻訳ソフト」も「デザインのツールとしてのグラフィック・WEBソフト」も「オフィス系」も結局、自分のさじ加減なのであることに気付く。というようにソフトウエアは道具なのである。嗜好品でも鑑賞物でもないし、まして、コレクションの対象でもない。持っていることで何の価値も生まない。価値を生まないことにコストをかける余裕もないが、気持ちの部分で好奇心の対象ではない。

 では、潤滑に資金があり、あらゆるソフトウエアを持っている。まるで、iPodの100万曲である。人間、一生のうちに100万曲も聞かない。と同じである。「ふ~ん、凄いですね。」で終わり。しかし、古いバージョンのソフトウエアでもゴリゴリに使って、最新バージョンの各種機能ができないような、表現や仕組みを創るノウハウを持っている人(職人・達人)がカッコイイ!なのである。最速のPCで最新のソフトウエアでぶざまなチラシもどきを創っている人、WEBもどきを創っている人を指して、世間は「一億人総クリエイター時代」だと呼んでいる。人が全てクリエイターであることは絶対に間違いないことだが、ソフトウエアで作成してプリンターから出てきた全てのオブジェクトが優れたクリエイティブだと勘違いしていると、上記の流れで「価値」が捻じれる。どこかでテンプレートを探してきました、ソフトウエアでパーツを組み合わせて、何かが完成しました。それを便宜上、なんとでも命名することはその人の自由だが、手法と目的がどこかで置き換わっている、まぁ、どこにでもある、よくある「交通事故」となる。そんなクリエイティブに対して高飛車に構える気持ちはさほどはありませんが、そんな私でも「あぁ~、これ事故ってるなぁ~!」というのがデジタルツールからよく創出されている。まぁ、言わば「大人のぬり絵」なんでしょうね。カタチにすることが楽しいみたいな。

 さて、100万曲と10ヵ国語の砂漠から一本の素敵な針をあなたは発見できますか?というお話。

昨日の琵琶湖。

 ちょっと風がありましたが、ひさびさの晴れ。波と太陽の光の反射がキレイでした。

隠し玉のさつまいも。

satsumaimo110623.jpg
 実は昨年の暮れからさつまいもを裁断して芽を出させて育ててみようと会社で育ててたんですが、気温とか管理不足で腐らせてしまっていた。難しいなぁ~と残りの種イモを暗いところに保管していた。そして、そのことをすっかり忘れていたところ、たまたま、その保管している場所を思い出しさつまいを見ると、半分はガッツリ腐ってカビ状態だった。しかし、残りの半分から小さい芽が出ている。で、腐った部分を捨ててすぐに余っている植木鉢に植えた。カビっていたので、ダメかなぁ~と思っていたのですが、なになにちゃんと成長開始。時期的には少し遅かったからもしれませんが、さぁさぁ、ここからこのさつまいもはどうなるどうなる?実は表のメインアイテムがすいかで、裏のメインアイテムがさつまいも。そして、リーサルウエポンがりんごと・・・。

 そうそう、春に植えた「ねぎ」と「にんじん」は収穫し始めています。少しづついろいろな料理に活用しています。これは大成功の巻でしたね。

すいかも絶好調!

suika110623.jpg
 そして、すいかも絶好調!まぁ、ゴーヤは放置しておいてもワサワサなので、このすいかが今年のメインアイテム。すでに、スイカの実がなる感じが出ている出ている。で、黄色い花も元気にいくつか。これは楽しみです。なんかこうして小さいスペースで菜園をして楽しんでいると、ミニマムに畑ができるかもなどと欲張ってしまうが、それは、プロの仕事のテリトリー。この程度のプランターの家庭菜園で一喜一憂レベルが実は一番楽しいのかも・・・。

きゅうりが絶好調!

kyuri110623.jpg
 今年のきゅうりはちょっと違うぞ。4苗植えて、2苗が枯れた時はちょっとショックでしたが、そこから追加で植えた2苗を含めてプランターには合計4苗が元気元気。すでに、一本収穫して美味しくサンドイッチにして頂きましたので、次はどいつだ!みたいな感じ。次はこいつかな???

生徒のいない学校。

junior_highschool001.jpg
 PTAの広報部長を仰せつかったので昨日は夕方から学校へ。まだ、広報部の皆さまは来ておられない。ひっそりとして構内の中庭。昼間は子ども達のにぎやかな声でいっぱいなのだろう。部活の生徒も下校し先生ももうほとんど帰られた学校。懐かしい気持ちが少し思い出されました。まぁ、こんな感覚もこうして広報部長を仰せつかったから出会える風景なのかもしれません。遠い昔です。

リハビリかっ!

otonanonurie.jpg

 最初このテイの書籍を書店で発見した時、思わずツッコんでしまった。「リハビリかっ!」って。そもそも、絵を描くということの楽しい部分は、3次元のモチーフを2次元で捉え、画面に切り取ることが楽しく、それを頭の中でイメージを再構築することが楽しい。もしくは、記憶の中のモチーフとその瞬間瞬間の感情をフォルムや色彩で再構築して画面に転写すること。だから、ソフトウエアで描く絵が嫌いなのである。結果、絵になっていればいいじゃんみたいなノリは「絵のようなモノ」ではあるが、本質は画面に画材がのっている色のついた紙なのである。この「絵」と「色のついた紙」の決定的な違いを無視して、「大人のぬり絵」って。

 百歩譲って、輪郭が印刷された用紙に色彩を入れるということでも、色の配色・混色は無限のパターンがある。どんな画材を使うのが主流か知らないが、30色や40色程度の画材でキレイに輪郭どおりに色を入れて、はい完成って、幼稚園児諸子でもそんなの楽しくないでしょう。園児の皆さまの方が自由に白い紙に友達とか花とか飛行機とか自動車とか恐竜とかヒーローとか描いてますよ。これが正真正銘の「絵」ですから。

 キレイに輪郭の中に色を塗ってもしそれを額に入れてうっとりしているとしたら、それは、絵を鑑賞しているのではなく、壁のペンキがキレイに塗れました感のうっとりでしょうね。まぁ、企画商品として、売れりゃなんでも作ればいいが、「大人のぬり絵」って大人なんだから、白い紙と対峙しましょうよ、そこは。

パソコンの調子が・・・。

 仕事場の気温が上がり湿度が上がるとどうもパソコンの調子が悪い。微妙なタイミングで処理がひきつっている感じがある。これは何故だろうか?パソコンの構造について世間一般レベルしか知識がないので、特に原因を限定できないまま、とにかく、再起動している。そのテイの書籍を読めばある程度パソコンの健康管理ぐらいは紐解かれているだろうが、それもめんどくさい。仕事に活用している道具である以上最低限の健康管理はしてあげないといけないのでしょうが、何をどうすることがパソコンの健康管理かも不明のまま20数年。とにかく、冬は問題が少ないが梅雨ぐらいから夏にかけて調子が悪い。そんなに劣悪な環境でもないだろうし、タバコも吸わないようにしているし、ホコリなども結構こまめに掃除しているのですが。

 結局、パソコンの健康管理ってドライバーから発生する熱で部位が疲労するのと外部からの様々な不正信号がOSに蓄積して、ある日突然ボン!みたいなことだから、ネットやメディアからのウイスルの侵入回避や負荷の少ない作業がセオリーなんでしょう。人間と同じで無理をすると疲労するし、外因に対してはでのでしょうね。

 まぁ、そんな仕事仲間だからお互いに使う人と使われる道具との関係性からそれらの癖みたいなものの傾向と対策をどう日々の仕事の中で取り組むかみたいなこと。言葉の通じないこの仕事仲間とどう正直に向き合い致命的なトラブルにならぬように、こまめにバックアップをしたり、定期的に新しい健康管理ソフトを入れていい状態にしておくことでいい道具でいてくださるということ。一旦へそを曲げると怖いですからね。酸素がなければ成立しない人間と同じで、電気ありきですから、そのことを肝に銘じて綱渡り・・・みたいなことでしょうね。人もパソコンも「ダマシダマシ」が鉄板なのかも。一生懸命に熱血系で取り組んでも、結局、自分は自分、他人は他人みたいな。なんのこっちゃ!

涼宮ハルヒとは!?

 私自身、見事に「涼宮ハルヒ」のことを知らない。なんのことやら・・・。しかし、どうも、このキーワードは大きなムーブメントになっているようである。歳を重ねると「そんなわけねぇだろう!」って思っていても、世の中のムーブメントに鈍感になる。意味とか価値とか先に考えてしまって本質が見えなくなる。本質に対しても人間として相性もあるのだから、横断歩道をみんなで渡るつもりはないし、沈没している豪華客船から手をつないで飛び降りることもしたくはない。とは思っているがが、ここまで何も知らないとなんとなく身体のどこかがモヤモヤソワソワしてしまう。これも一旦症状として表れてしまうと動いてみようかなと思っています。そんなに凄い凄いって何がどう凄いのかを。どうやら、いわゆる、危機的な超常現象をヒロイン涼宮ハルヒとその仲間が・・・みたいなテイのようですが、まだ、このレベル。とてもムーブメントを考察するには材料不足でリサーチ不足。踏み込んだがデッドボールは嫌だから、ガチで体重移動はまだできない。興味はあるが、直観もある程度機能しているので。でも、どこか気になる。

 で、まず、何をどうリサーチしようかという感じ。フラットな状態で、コミックスを選ぶ時、どうしてもどうしても、その絵のタッチで選ぶ傾向にあるために、「これオモロイで!これ読まんと始まらんね!」と友人に言われても、絵がNGだと物語もそのキャラへの感情移入が起こらない。というよりも、否定から入ってしまう傾向がある。これも相性。その感じで言うと、このタイプの絵はちょっと厳しい。のに、気になる感じがモヤモヤなのである。ここまで世間を動かしているのだから、何かののびしろは期待したい。とにかく1球目は踏み込む感じでいいボールが来たらバットを振ろうかな・・・みたいな。

IPPON画像#005

ippon_gazo05.jpg
 写真を見て一言。

 「キュウリかっ!」

 震災の復興を祈念してガガサマが来日。いやはや、突き抜けていらっしゃる。

日本酒仕込み微発泡梅酒「梅の酔」。

 ラベルとパッケージのお仕事での商品、微発泡梅酒の初仕込みをおすそわけしていただき賞味させていただいた。本来の日本酒仕込みの梅酒に専用マシンで炭酸ガスを混入した逸品です。これが上手い。夏場は最高だろう。梅のテイストもガッチリあり、炭酸の清涼感もガチでした。そのままグラスに注いで氷だけを入れて風呂上りに一杯。

 通常、晩酌など無縁の私がこの一杯の梅酒で20分後にはふらふら。どんだけお酒に弱いんやねん!ということなのですが、それでも心地よい眠りに誘われたという始末。まだ、市場には出ていないので、どこかで発見したらぜひ!

 圧倒的に日本酒より飲みやすいですし、女性諸子にはたぶんおそらくバツグンだろう。ちょっと寝苦しい夜な感じでしたが、コトリと落ちるように眠ったような気がします。朝も残らず快適に通常通りに起床できましたし・・・って、梅酒一杯で二日酔いになるか!いやいや、これが気を抜くとなるんですね、私の場合。という方にも美味しく身体にガチな梅酒の微発泡はオススメです。

 商品が発売開始されましたら、また、このブログで紹介させていただきます。お手頃な価格ですし・・・。

例えばこういうのだと・・・。

 例えばこういう15秒の映像だと、映像素材と音源素材を組み合わせてちょっと軽めに書き出すとこうなります。音源も8ビットのモノなので総データサイズが400MBちょっと。ユーチューブにアップするのにも5分程度でアップロード完了ですから、非常に簡単簡単。ほんと、映像配信の簡単な時代になったものです。あとは、コンテンツの創り込みをどうしますか?ということなんでしょうね。映像はほんとにオモロイ。

IPPON画像#004

ippon_gazo04.jpg
 写真(イラスト)を見て一言。
 
 「あぁ~、しんど」

JAZZ男(じゃずお)、来る!

 実は今、「JAZZ男、来る!」というタイトルの映画を創ろうとしています。映画など創ったことのない私が何故このようなふざけたタイトルで高尚なJAZZを物語化しようとしているのか?を少しづついろいろなことを考えながらこのブログで紹介していこうと思っております。これは、ぶっちゃけの部分、自分が考ている映画のイメージを冷静に後日読みなおしたいからこのブログに書き出しているだけで、もし、これを読んだ人から、いろいろなアイディアやJAZZについての情報がちょっとでも集まればいいなかなと思ってブログ記事として書いています。そもそも、JAZZって何だろう?みたいなところがこのタイトルを着想したきっかけなんですが、いつか、どこかで、このようなタイトルの映画のDVDを発見したらこのブログのことを想い出していただけると嬉しい。って、まだ、何もこれと言って具体的なイメージがあるわけではなく、本日から少しづつ材料を集める段階。「この不景気な時代にさぁ~JAZZの映画って呑気なことを言っているものだこと・・・。」と世間一般の感覚だろう。が、この「世間一般」についての是非についても、JAZZを語ることで描くことで描写出来ないものかと思っております。で、JAZZなんだから、楽しくユーモアを盛りこんでスタイリッシュにムーディーにとネタを書き溜めています。言わばそんなことが映画創りの出発点でもいいのかなと思っております。制作費はどうするのか?協賛はどうするのか?配給会社はどうするのか?どこで上映するのか?誰に出演をお願いするのか?など全く0。でも、JAZZの映画を創りたい。この無計画で支離滅裂な感覚、さて、ありかなしか?

目に見えないモノ。

 ある番組でのネタ。ある女優が高校の時に美術部だった。デッサンの苦手な彼女はこっそり石膏像をカメラで撮影してそれを拡大コピーしてトレスしてその上に木炭でタッチを入れたらしい。それを見た担当の美術の先生が「この絵は美しすぎますね。」と。自分で見て描いたデッサンではないことを正直に先生に打ち明けると先生が言ったそうです。「このアイディアは素晴らしいですね。しかし、この方法ですと、目に見えるものしか描けないですね。」と。ふぅ~ん、なかなかええこと言うね。いい言葉ですねとなる。この出来事は一見、深いように思える側面があるが、そもそも、絵に対峙する時にデッサンが苦手だからカメラでモチーフを撮影するような感覚の余地を与えた先生にそもそもの原因がある。もし、このような生徒がいたとしたら、トレスダウンした下書きにタッチを入れる時にどう感じたとか?なぜ、カメラは正確に物事を捉えられ、貴方は何故正確にフォルムを描くことができなかったを確認してあげるべきのような気がする。そこに、絵の深さがある。そして、さらに、何故、この美術部の時間に石膏を描くことが絵の訓練になるのか?そして、そもそも、絵の訓練とは何のためか?この部分が疎かにしてきたから、先生の生徒は石膏像をカメラで撮影したのではないかと思う。この先生は「目に見えないモノ」が見える時、それをどうするべきかをこのあとしっかりこの女優に伝えのだろうか。この断片的な言葉だけでその後、この女優さんがどうなったかはどうでもいいが、「見えないモノ」を描くことは、「目に見えるモノを描くこと」と比較してどれほど重要なのかと言うお話。目に見えるモノさえ描けない人間が、目に見えないモノだから、たぶん、心や魂や感覚の中にあるフォルムや色彩のことだろうが、それを絵にすることの意義や意味を優先するばかりに、目に見える美しい景色やフォルムや表情を見るチカラが養われないことになった時、それは、絵を志す人間として不完全だと思う。が、そもそも、完全な絵など描く必要もないのだから、一周まわってこの先生の提言は真理の断片として有効であることは確かではあるが。

 で、目に見えないモノを描くことに注視すると、目に見えているモノ画描けなくなるから注意が必要である。空想や想像の世界をいくら絵にしても他人と共有する前に自分自身に対して共有できているかという部分がどうも懐疑である。絵と対話するならまずしっかりと見ることである。そして、しっかりと見えていることである。が、それも正確にはそれを計測するモノサシはない。だから、絵は素晴らしいのである。

かえる。

kaeru110618.jpg
 そこでじっとしてて虫とか飛んで来ますか?乾燥とか大丈夫なのかな?で、ここでどれぐらいじっとしているのでしょうか?何タイミングで移動するのだろうか?こんな小さい生物でもここに存在する意思とかあるのでしょうか?しかも、トイレの上で・・・。

HACK FOR JAPANか・・・。

 「Hack For Japan(ハック・フォー・ジャパン)」。「日本のためにハッキングをしよう」と呼び掛ける人々がいる。東日本大震災の被災地を支援するプログラマーの集団だ。彼らは一体、何者なのか。と日経新聞に掲載されていた。やるじゃん!って感じ。その数なんと600名って!人の気持ちがプラスに機能した時の素敵さは人の人たるそれ。悪人がマイナス座標で蠢いても善人がそれを打ち消すパワーバランスがまさに人のそれ。いいじゃんいいじゃん!

これですね。

 これですねこれ!ジェフベックの「freeway jam」なんですね。

刑務所図書館の人びと。

 柏書房から出ている¥2,500の書籍「刑務所図書館の人びと 金原瑞人・野沢佳織訳 アヴィ・スタインバーグ著」。著者はエルサレム生まれの米国育ちとのこと。ハーバード大学を卒業するもやりたいことが見つからずボストンの刑務所司書の職に応募してしまったことがこの書籍の始まり、とのこと。なんと不思議な経歴の著者だろう。でも、素敵です。元来、気弱な彼を待っていたのは、ギャングや銃器密輸人やサイコキラーたちだったらしい。なんとも事実は小説より~なんとかである。実際、図書館で本を読む受刑者はひとにぎり。そこは討論と喧嘩の場であり、秘密の手紙が行き来している。その彼が女因クラスを受け持つことになり、そこで書かれるエッセイのすばらしさも記述されている。そして、図書の間にはさんでやりとりをする文書「凧(カイト)」という存在。「ソール・ベローばりのラブレター」あり、「神のお告げ」ありの秀逸な文脈の宝庫。これらをアーカイブすることが司書の仕事の裏バージョン。なんと、稀有な経験から紐解かれた文書なのだ!という印象ですね。

 強制収容所における人間性の「壊疽」を止めるためにも文学が必要だと書いた、アウシュビッツから生還した「これが人間か」を書いたプリーモ・レーヴィー。本書は人が人であるための言葉と機知に満ちているということ。情報過多の中、その本質を見極められない現代において、制限・制約された空間でこそ言葉に接する意味や価値があるとこの著書には言っているような気がする。飽和した権利の中、知識が壊疽を起こしているのは実は刑務所の外の人間かもしれないぞ。この情報時代の一番先を走っている走者の後姿は決して見えないが、本当にこのルートでいいのか、このまま世間一般のスピードで走り続ける意味と、ちょっと、道草をしてうさぎ的でもいいから、木の陰でいろいろな言葉をじっくり追い、たまには昼寝してみることの方が、実は、いい感じなのではないだろうか。「うさぎと亀」の真理をいつまでも鵜呑みにしていると、本当のうさぎの気持ちも、亀の気持ちも、美談の側面しか見えない。さてさて、時にはのろまで堅実な亀のように、時には快活でううかりやのウサギのようにでいいのではないだろうか。今の時代、作用と反作用の相互性こそが様々なベクトルに効果的なのでは・・・。

これいいな。

fender_jp_tl.jpg
 うん、これいいな・・・。

小雨の奥琵琶湖。

 非常にいい感じの奥琵琶湖でした。湖面にカッパを着てロッドを振っているが正解の条件ですね。

奥琵琶湖の風景。

okubiwako110618.jpg
 この感じいいですね。いろいろ湖面に浮いていた頃を思い出しちゃいました。この小雨な感じ、水の透明感な感じ、そして、気温と気圧の感じ。ネストからちょっと沖合の深く沈み込むカケアガリあたりに何かストラクチャーがあれば、そこにでっぷりしたロクマルがステイしている可能性ありますね。チビバスを避けるなら攻めるポイントはそこ。しかし、数を釣りたいなら岸に沿って新しい藻が群生しているところ。ミドルサイズも中層を回遊しているでしょうから、サプライズの40アップも期待できるでしょうね。気圧が変化する前に爆釣アリみたいな感じでしょうね。懐かしい・・・。

テレビの存在理由。

 おそくら、4大メディアと言われる「テレビ」「ラジオ」「新聞」「雑誌」の中で、実は、一番最初に消滅するシステムが「テレビ」だという仮説があります。ラジオというメディアはこの度の震災でその存在価値をしっかりと証明しました。そして、ラジオ局自体の運営費用がテレビや新聞社・出版社と比較にならないぐらいに安価で効率のいい事業体系が展開できることもその存在価値と存続性の理由に挙げられていると。そして、新聞と雑誌は液晶端末系やスマートフォン系がその隆盛を極めようが人が情報のディテールに対して紙という媒体に愛着を得てしまっている限りそのニーズは消失することはないと言われており、電気ということが必須条件の液晶端末に対して、紙のメディアはスイッチを入れる必要も充電する必要もない。これ以上の便利さが液晶端末にあるのか?そして、コスト面でも大きな新聞社や出版社・雑誌社の形態をとらなければニーズに対して適正な規模の組織と筐体で発信し続けられる紙媒体というのは消失することはないだろうと言われています。

 それに比べて「テレビ」は?情報を得るための端末としてのコストやそのコンテンツを配信する創造するシステムや組織はあまりにも肥大してしまったということ。この現状を時勢にマッチさせスリム化させようとする取り組みは明確に昨今のテレビ番組には表出していますが、それでは、その情報をテレビで観る知る聞く必要がどこまであるかとなるとこれがなかなかつじつまの合わない事情があるようです。しかし、テレビ関係の人達は「ラジオ」や「新聞」や「雑誌」が消失しても、まさか「テレビ」が消滅することはないだろう・・・とテレビの有用論を崩さない傾向にあるそうです。でしょうね、一旦、文化のテーブルで「娯楽」「ステイタス」「エンタメ」の中核を担うビジネスモデルとして肥大・覚醒してきたシステムですから、相当の自負もあるでしょう。しかし、一番の危機感は、テレビ業界の人材的な空洞化がその一番の理由に挙げられているそうです。広告スポンサーが離れ、別の「娯楽」「ステイタス」「エンタメ」ソースが多様なニーズを満足させている昨今、肥大化したシステムを維持・管理することが難しいということが一番の消滅・失速・消失のトリガーらしいですね。その価値観にユーザーが反応しなくなれば、いわば親亀がこけるわけですから、なしくずし。

 で、世の中、ドックイヤーからマウスイヤーになり、トドノツマリ、バクテリアイヤーになった時、そのサイクルに人がついていかなければいけないのか、人のスピード感にもう一度、インフラ・デバイス・プラットフォーム・コンテンツの拡充サイクルを適正にマッチさせる取り組みをするのかしないのかということになるのでしょう。ここでテッパンの「時は金なり」という銘がそのリアリティーを帯びてくる・・・みたいなことじゃないでしょうか。

 早起きの鳥は芋虫を食べてきたが、芋虫も馬鹿じゃないし、鳥以外も芋虫は食べる。芋虫だって野菜や木の葉を食べるし鳥だってさらに大きな鳥に狙われてるんですね。自然はそういう仕組みでシンクロして正確なループを展開していることにもっと注視することで、テレビの存在理由のもう一枚裏にある、地球に上でこの一生をどう生きるかという本来DNAに記述している設計図がチラチラと見えるとか見えないとか・・・ってことじゃないでしょうか。もしも、その解析を完了している人達がいて、その設計図さえも消失させようとして、放射線を無視しているとしたら、鳥に食べらるのは芋虫ではなく人じゃない?人が描く「絶対悪」と「善人・聖人・神」の比較をたぶん深海でYrrは失笑しているだろうな・・・。

憂鬱でなければ、仕事じゃない。

 講談社から出ている書籍らしい。タイトルは「憂鬱でなければ、仕事じゃない。」と。幻冬舎の社長とサイバーエージェンの社長の共著らしい。なかなか、いまどきな書籍みたいである。「とてつもないビジネスマンのバイブルが誕生した!」となっている。二人の社長が交錯した瞬間の化学反応だ!みたいなテイである。この広告文から気になるフレーズをいくつか紹介します。う~ん、おそくらく、この本を書店で発見したら買うな・・・。でも、アマゾンでは買わないな・・・。

 「何が大切で何が無駄か?あななの臓腑をえぐる35の言葉」価値観の問題に注視しているのだろう。大切なもの、無駄なものをこの二人に決めてもらいたいわけではないが、「あなたの臓腑をえぐる」とまで書いちゃったのだから、よほど鋭利な言葉があるのだろと想像させるテクはさすが出版社の社長であり、講談社である。さて、35の便宜性が予定調和か物理定数か?ってことで気になりますね。

 人としての基本としての言葉。「小さなことにくよくよしろよ」と。そんなこと講談社の書籍に言われなくとも日常茶飯事ですって感じ。あなたのくよくよと私のくよくよをお互い電子顕微鏡で見た時、その形状の美しさと醜さ、不連続な運動パターン、未知の元素があるかないのか、そんなことで勝負できたら楽しいですね。

 人の心を掴むとしての言葉。「切らして渡せなかった名刺は速達で送れ」って、私は高校3年生の頃から、自分の名刺を切らしたことがない。名刺を切らしたことは1日もありません。N.Y.にも富士山にも山奥のダムでバス釣りをしていた時でも自分の名刺は持っています。

 成功への動機付けとしての言葉。「スポーツは、仕事のシャドーボクシングである。」まぁ、それはなんとなく理解できますね。ただ、仕事とスポーツをシャドーボクシングに例えるのはえぐり過ぎでしょう?!みたいな論理ですね。ただ、よりすぐりの論証を寄せ集めているだろうから、ここは別段、シャドーボクシングでいいと思いますが、運動音痴=仕事音痴っていう構図は何も身体能力のそれを直接指しているわけじゃなく、部活やスポーツをしてきた人間の健康管理だとか自分の身体や精神力の部分を自分で活性化させる術や日々の積み重ねの鍛錬みたいなところと微妙にシンクロしているんでしょうね。うんうんって感じ。所謂、タテのコミュニケーション能力について洞察してることが想定されますね。

 最後に、「ワインは、働く男の「血」である。」ともあるが、そこは「知」でいいんじゃない。

 で、やはり、ここまで気になってしまうと、買うな・・・たぶん。

IPPON画像#003

ippon_gazo03.jpg
 写真を見て一言。

 「なんか知らんけど、わぁぁぁぁぁぁ~!」

Mind Travel@Superfly.

mind_travel001.jpg
mind_travel002.jpg
mind_travel003.jpg
mind_travel004.jpg
 ほんと、goodな音楽って、頭をいい感じの空っぽ状態にしてくれますね。いいですねこの作品。

適正と天職の不思議な関係。

 少なくとも私が大学生の頃にはキャリア教育などはなかったし、適正チェックなどという便宜的な仕組みはなかった。大学のスタンスは大学。企業と連携はするが、さほど、学生の人生には割り込んでこないが普通でした。連携と言っても企業の採用試験予定日がインフォメーションボードに紙でピラリと貼ってあるぐらいしか記憶がない。でも、インターネットの無い時代に自分でリサーチして電話して就職活動をしていたみたい。(って、お前はしなかったのか!?)

 それに比べ現在はどうか?用意周到の極みで、適正と天職について体系化されているらしい。そんな、人の適正を分類するなんて本当にできるのだろうか?そして、天職の定義についても実しやかに書かれている。この関係をそりゃ学生諸子は信じるだろうなぁ~。行政の方針だからフレームだけこなしてホンマルの部分は現場のディテール優先でいいだろうが、それでも、いまどきのゴタクはこんなところだろう。「仕事が私の適正に合っていない。」「私の能力や個性がここでは発揮できない。」「私の努力が正当に評価されない。」ベラベラベラ・・・と。全て私が中心。

 でも、「社会人」になるんでしょう?社会って何でしょう?パブリックですよ、偏在している経済のフォルム、慣習のディーテル、文化の空気、情勢の臭い、そして、会社の価値・意義と自分がどう対峙するかでしょう。これらのゴタクはポテンシャルの低い、知性が劣化している人の言葉。そもそも、何かの問題に対して機能するポテンシャルがあなたの存在価値であるならば、一人で並べるゴタクを別の自分に転写してみてください。自分が何を言っているのか客観的に捉えることができるんじゃないでしょうか。適正と天職なんて、その道で数十年試行錯誤して自己研鑽して紆余曲折右往左往した人間だけがつぶやけるフレーズですよ。自分自身、学校で会得できた適正って例えば何だったんだろう???・・・・・・・・・・・・・・・、ないんかい!?

すいかの調子がいいぞいいぞ。

suika110616.jpg
 ことしのすいかは調子がいいぞ。きゅうりもいい、ゴーヤもいい。雨も充分降っているからいい感じいい感じ。

初ほたる!

 自宅のすぐ裏に小さい溝がある。井戸水がちょろちょろして、草も適当に生えているので毎年この場所にほたるが現れる。今年はまだかなと家の裏のキュウリに水をやっていると、ビンゴ!今年の初ホタルがこれです。自宅のすぐ裏にホタル・・・う~ん、なんとも贅沢だ。

 チョップ君もちょっとテンションがあがっています。

IPPON画像#002

ippon_gazo02.jpg
 写真を見て一言。

 「うんこ?」

広がるアートの可能性。

 社会における芸術の位置づけが大きく変化してきた。もはや芸術は、美術館や劇場での鑑賞、あるいや趣味や娯楽の対象だけの存在ではなくなりつつある。例えば、アーティストが学校に出向いて行うワークショップ型の授業。今では各地に定着し、子どもたちの創造性や想像力、コミュニケーション能力などの向上に大きな効果を発揮している。芸術の授業を受けた子どもたちが、そうではない子どもたちより、国語や算数、理科などの成績が高い。欧米諸国では、そんな報告まで出ている。とのこと。リハビリでは上がらなった腕が上がった。気がついたら車いすから立ち上がっていた。福祉の分野でも、お年寄りや障害者が芸術活動に参加することで、周囲が驚くようなことがしばしば起こる。芸術は教育や福祉、医療、まちづくりなどと結び付き、より社会的な存在として機能し始めている。という記事がある。

 さて、この記事の立ち位置はどうか?この記事を書いたライターの視点は正しいのか?

 さらに、自己表現としての芸術、社会への問題提起の手法としての芸術、文化や慣習を越えた絆を繋げるための方法論としての芸術。えらい、「芸術」は使いやすいみたいである。なんか、「芸術」をこれまで地球上に存在しなかったまったく新しいエネルギーや元素のようの扱いですね。それは、それで、別段、肯定も否定もしないが、ならば、「芸術の価値」が広く深く認知されたということ。つまり、野暮な話。価値には価値を適用するが人間社会の等価交換の大鉄則ですから、その道のエキスパートの皆さまがもっともっと社会的に認知され豊かとまでは言わないが、活動や作品の価値としての代価が適用されることを自分も含めて手を合わせたい、十字を切りたいものである。

 しかし、歴史をひも解けば、そういう時代の流れはいままでも何回も世界の各地で起こっている。そして、それの兆候は決して、国全体がいい状態の時期に起こっていなことが多い。つまり、何かしらの法律や教育のシステムが機能しなくなった時に必ず人間は「芸術」に助けを求めている。システムや国の経済機能が潤滑な時は、無視しているくせに。それが沈滞し失速すると手を伸ばす藁が「芸術」のような傾向を感じる。

 大きなうねりが来ているということに他ならない。クラウドにないモノ、サーバに保存できないモノ、体温があり触感のあるモノを、この重力の下で創造していきたいなぁ~と思いますね。

IPPON画像#001

 松ちゃんの「IPPON GRAND PRIX」を初めて観た。いわゆる「大喜利」形式のお笑い番組。バカリズムさんが3回目の優勝をされた。さすがである。なかなか、いいテレビ番組である。やっぱ、松ちゃんは天才である。

 その中のいろいろな問題形式にこの写真を見て一言~みたいな形式の大喜利があった。さすが、10名の精鋭が繰り出すボケは秀逸である。

 で、私も一言。

ippon_gazo01.jpg

 「女子のお弁当箱か!」。

 他に何か一言あれば、自由にコメントしてください。

ワラビー君が寂しい!?

 よくあるテレビプログラム。親が病気で死んで孤独なワラビーの子どもがいた。カンガルー系のそのワラビー君は本来ならまだ母親のおなかの袋の中で育つはずなのに外に出されてワラビー君は母親の愛情に飢えている。そして、その境遇から神経質になって飼育員と心を通わせることができていないと・・・。うん?それは全て本当か?誰に聞いたのか?病気で死ぬ間際のワラビーのお母さんがそうつぶやいたのかそれともその子どものワラビー君が「寂しい」とでも言ったのか?まったく、これらの設定に根拠がない。全て人間のエゴ。で、それがしゃらんとテレビの番組なり、ナレーションが流れ、雰囲気たっぷりのBGMに高揚・感動する視聴者・・・みたいなことがしたいんだろう。安易でありナンセンス。そんなにテレビの向こう側の視聴者の心は単純ではないぞ。それが仮に視聴率を獲得するテッパンのノウハウだったとしてこの脚色というか演出は安易すぎないか?それに呼応するタレントもタレントで、しっかり表情を創りワラビー君にうるうるの視線を落とす。

 別にワラビー君はそんなの欲しいと本当に思っているのかな?番組の尺の後半でそのタレントに近づきまるで母のお中の袋の中で安心して眠りにつく・・・みたいなことでオチ!?そんな動物を擬人化し過ぎでしょう。そんな視線で動物も人間も同じように描くから感動音痴続出なんじゃないの。人間は人間、動物は動物でいいじゃん!そこまで愛情表現を捻じ曲げてまで視聴率が欲しいのか?まぁ、テレビプログラムなどフィクションだからこれでいいっちゃいいが、ファンタジーならファンタジーでもっとガチで創りこんで欲しいなぁ~。安いロケで安い設定で最低限のナレーションとタレントの起用で効率的なコンテンツを創り過ぎ!

 で、ゴールは母の愛情を得たワラビー君が他のワラビー君のオリの中に返すことだって。動物使って適当に演出して感動音痴な視聴率を獲得して自分のポジションを確保しているだけ。それは決してクリエイティブではないぞ。ワラビー君は可愛いし、そのタレントさんも可愛い。が、そのシナリオで舞台を完結させるには設定不足。イモトさんの世界の珍獣達とのガチのリアルの方が数億倍楽しい。動物を描くなら、福島で放射線にさらされながら放置された家畜達にスポットをあてたら?福島の海岸で屍をつつく海鳥達の逞しさを描いたら?放射線を受けた海洋の魚や生物達の気持ちを代弁するプログラムを作ったらどうでしょう?そこをスルーして温室の中で生まれたペットの赤ちゃんを並べて「可愛い可愛い」のバーゲンセールではそろそろ感動音痴の人達も飽きてきますよ。

 本当にワラビー君が寂しいと思うなら、故郷に返してあげてください。

音楽は消耗品なのか?

 以前にこのブログで日本とアメリカの読書に対する観念が異なることを少し書いた。「アメリカ人は読書を消耗品」と捉えてると。に比べ、日本人は書籍を手元に置く傾向が強い。本は借りるのではなく、購入して読みたいという強く考えているらしい。しかし、こうも景気が沈没して毎月のおこづかいがままならないと好きな書籍を好きタイミングで購入することはできない、というか、やってはいけない。音楽CDにしても、20代の頃はまぁ、独身だったこともあり、ちょっとバブルの空気もありで、好きな時に好きな書籍を買いCDを買い映画館に行っていた。それが、20年経ち、全てレンタル思考になっている。世の中、何においても「シェア」の時代。生活必需品もシェア、住む場所のシェア、仕事もシェア、人生も生活もシェアと・・・。だから、必然的にコミュニケーション能力が生きる力の四番バッターになる。

 しかし、そのスキルに長けている人が必ずしも善人であるとは限らず、比較的で言えば、悪人の側面が強い人が多いのがこの現代社会の常のように思うです。だから、Protect myself!なのである。自分で自分の真理は護身しろってこと。その上で、コミュニケーションしなければ、福島の放射線と同じ。漏れましたあとは何とかしてくださいで世界から孤立する構図になる。もっと、世界としっかりコミュニケーションできて、情報を完璧に共有できていれば少なからず6月12に現在の世界情勢における日本のスタンスにはならなかっただろう。まぁ、詳しくは知らないし知りたくもないが、どう考えても全てが想定外で結局根底で島国の民が地震一発でその歴史観や人生観が揺れ崩れたたということ。

 で、音楽が消耗品だという感覚はどうも世界的にそうなのかもしれないと意識をリセットしてみようと思うようになった。結局、iPodの技術がそれを具現化したのですが、音楽ってサーバに入っているモノなのか?ということに違和感(人間臭過ぎる意見かもしれませんが)があるということと、楽器から出た音がデジタル信号に変わりデバイスのディスクにcopyされて、それが聴覚を刺激して脳は音楽と捉えているのだろうけれど、それはモノホンの音楽か?という心が発信する疑問がある。だから、消耗品だと言われてしまうと、書籍と同じ、寂しい。

 消耗品という語感にクレームをしているわけではないが、言い方を変えれば「偏在している。」英語で言うと、「be omnipresent」でいいんじゃないかな。五感とリアルの間にいろいろな仲介物や媒体が在り過ぎ。それらは結局経済の仕組みを創ってはいるが、それでも、在り過ぎ。インフラとプラットフォームは本来ただのチューブでありただのライン(経路)じゃん!それが、いかにもって発信しています、クリエティブしてますってテイでコンテンツを送りだしているが、ただの土地ころがしと同じじゃん!そもそも価値など何も創出していないくせに、さもイノベーションチックにふわふわするな!ってこと。東電の顔はまさにその悪魔が降臨しているように見えます。エネルギーを確保してるから安泰安泰だったのだろう。時代劇の悪代官がどんな輩だったかは知りませんが、あんたらはその末裔か?

 武士は死して刀を残す。その使い手の研鑽を刃は次の使い手に継承する。研鑽を怠ると刃は鈍り、切れない鉄くずと化す・・・みたいな。刀(道具)は日々の鍛錬がその生命を維持させるみたいな。さて、音楽は消耗品か?どこかエネルギーのそれと存在感が微妙にシンクロする。鉄の元素、ウランの元素、さてさて、日本人と相性のいいのはどっちだ?

美大生とゴッホの作品は同じ!?

 ちょっと乱暴な意見ですが頭に浮かんだので書き出してみます。何故ゴッホのひまわりは数十億の価値があり、美大生や油絵教室の皆様の作品に貨幣価値がないのか?「何を言っているのかい!お前は、そんなことその歳になっても分からんのかいな?」と言われても、正確にはその差は何かを言及することが限定することが本当に可能なのだろうか?私は同じだと思う。中途半端な例えで言うなら、ある洋画か日本画か知らないが然るべき協会がありその名誉会員の絵と公募展で上位入賞するために自分を削っている画家との違いは何だろう?これも答は同じである。

 でも、どこかでその価値が変異することが間違いなく起こり、現状の格差が生じている。双方の作品も作者が筆を置いた時は同じ一枚の絵なはずが、時間の経過なのか思念の作用なのか文化の方程式なのか何かの影響を受け化ける。ということはもしや絵画が世の中に何かしらの価値として浸透するためには化学変化が必要なのかもれいない。まぁ、生まれて死ぬまで脳の中で起こっていることが言わば分子レベルの化学変化反応だから、それで紐解くことがセオリー。でも、化学変化だとして、美大生の絵は何らかの原因で化学変化が起こらず、ゴッホのひまわりにはどんな化学変化があったのだろうか?それは人の歴史や芸術の歴史、もしくは、経済や貨幣価値の歴史と深くリンクしているかもしれないぞ。そう考えると絵画や芸術が非常に冷たい触感を帯びるが、でも、この疑問に対してこの仮説はあながち・・・ではないだろうか。

 で、逆説的に言えば、ゴッホだったから数十億円になったという仮説はどうだろう?これは相対性のお話になる。時間軸の中で必然と偶然をどのように体系化し分解するかでしか、この経緯を認識する術はないだろう。しかし、不思議と文化レベルや教育レベルの高い人は「ゴッホの絵」に対してそれそうとうの評価をするのが常。「いいものはいい。」という脈略のない価値観で生きられる逞しさ。余談になるが、組織におけるモゴトトを論理化する人達の集まりではよくこの逞しさに触れることができる。まぁ、逞しさというか鈍感具合というか無責任感の形骸化とでも言うか・・・。逞しくロジックを並べたブースでフリーマーケット状態はいいのですが、そのロジックは薄く質量がないことが多い。そして、必然的に継続力と波及力が弱い。

 う~ん、同じことなのに、何故も覚醒することをビジョン化すると覚醒しないのか。創造しているつもりが、実は破壊していることになってしまう有機物の神秘。この紙一重の綱の上を渡りたいなら、その表裏を天秤に掲げ簡単に答を出さないことが最も有効なアプローチなのかもしれないですね。と、スタンフォードのあの方は考えいるような気がします。

AKB48とSuperflyさんの違い。

 いったい何がこうも違うのか?同じプロのアーティストなのに・・・、何故、こうもう異質なのか。高校生の頃から、おニャン子~モーニング~AKBのラインは全く心の針が動かない。嫌悪するということでもないしその仕組みというかシステムは立派だと思うし、もし、今もどこかの広告代理店の仕事をしている立場で、AKBのツールを仕事でやる羽目になれば、一生懸命取り組んでいるだろう。しかし、それは仕事としてであり、少なくとも音楽を愛するひとりのおっさんとしては全く楽曲作品として価値を感じることができなままジレンマと共にその仕事をしていたことだろう。現在、どこかで、そのプロモーション活動をしてる人がいて、同じことを考えている人がいるかもしれないだろうが、そこは、プロとして襟を正しているのだろう。逆にAKB命みたいなテンションも実際理解できなくはないので、そういう思考タイプの人ならそれはそれで至高なはず。プロダクションに雇われてるデレクターなんだからそこはプロとしていい仕事を繋げることに終始するのが正解。

 でも、同じとは言わないが、歌を歌う楽曲を提供するプロフェッショナルとして、こうも、存在感とか心地よさとか押される感じとかがAKBとSuperflyさんで異なるのか?あちらは数十人、Superflyさんはひとりじゃん!烏合の衆とは語弊があるが、あれだけ集まっても多分私の個人的な見解の中では、Superflyさんの爪の垢と比較しても格が低い。まぁ、爪の垢とは古風な引用ですが、Superflyさんを構成する元素のデオキシリボ核酸のひと繋ぎでもAKBでは勝てないだろう。つまり、それを構成している最少単位が違うのだろう。しかし、音楽ビジネスの世界は潮流がある。隆盛があり衰勢があるように、この捉え方にもその振幅があるだろうが、今、さて、3edアルバムが6月15日に出るぞという段階において、私の中でのパワーバランスはそれぐらい違っているように感じています。

 同じ、女性なのに、どこでどうなればと、どういう条件が揃って揃わないとこういう差が生じるのかとそれがとても不思議です。同じポテンシャルと同じ志を持っている。同じように研鑽を繰り返し同じように道を進む力を持っているのに、何かひとつのタイミングで人生は大きく分岐する。それをしばし立ち止まり必然だったのか偶然だったのかとその経路を体系化するがその段階で時間軸は先に進むみたいなこと。何事も動いているということが基本でありモノゴトを思考する時のベースにあることを心は感じているが頭は納得していないみたいな。教育もビジネスも文化も歴史も経済も慣習も同じ。微妙な誤差と微細な摩擦を有効にエネルギーに変換しながら、思考の分岐点で決して向こう側に行かぬこと。やむを得ず止まってしまったなら、どこで道を間違えたか確認して、勇気を奮い立たせその場所まで戻れるかのループ。ここまで来たからもう戻れない・・・は単なる頭の考える都合なのです。何歳になってもこの人生のさじ加減はできるような懐でいたいものです。硬化した思考は決してチェーンリアクションは生まないし、そんなこと人間の設計図(DNA)には一文も書いていないはず。

若狭湾の夕景。

wakasawan110611.jpg
 昨日は伯父の法事で若狭へ。ご存知、このエリアは言わずと知れた原発銀座。この地で生まれた人間にとって今回の東北での出来事はとてもリアル。あまりにもリアル過ぎていろいろなことが麻痺している状態だとも言えなくない。いつ何どき天災に見舞われ自分の故郷が同じことになるやもしれないという複雑すぎるこの心の中をちょっとクリアにしてくれるこの若狭湾の夕景でした。しばし、カメラを構えそのキレイな光景に心を奪われた。いつまでもいつまでもこの夕景がこのままであって欲しいと願わない人間はいない。原子力発電所の存在が地域にどのような恩恵をもたらしどのようなリスクを負わせているかを考える。簡単に答のでない疑問を前に人はいつも手探ることを止める。そして、気持ちを切り替え、未来を強引に向こうとする。今を凝視せずに、達観したように「輝ける未来」のビジョンで頭を満たし、答の出ない疑念を隅に追いやり棚に上げる。それはとても簡単であると共にこの能力が人間を進化に向かわせる。さて、それが進化と捉えられるか否かは、神は信じないが神のみぞ知るである。

 さて、空の上でこの偏在する価値観の中で人間の文化と呼ばれている空間と時間の中で、神がいたとして、その方はこのことをいったいなんとしたいのだろうか・・・?これも一種の逃避かもしれないし、思考の誤作動かもしれない。しかし、心地はいい。そんなことを考えてしまうほどに美しい夕景でした。

 ひとりの人の命が途絶える時、残された人の心に残るものがある。これを繋ぐことは使命感とか本能とかっていう存在のさらに奥にある何かが強烈に作用しているような気がする。武士は死して刀を残すと言う。刀を奪われた日本人が次に手にしたモノは何?もう一度、今、この手に何が握られているのかを再確認するいい時期なのかもしれない、日本は。

芸術家はお金を求めてはいけない!?

 映画監督 山下敦弘さんという方の記事がある。山下さん高校3年生の春、進路相談をする友人についていくと美術の先生から「映画が好きなら日本大芸術学部か大阪芸術大学で学べるよ」と言われたそうです。そして、大阪芸術大学の映像学科へ進学されたそうです。山下監督は芸大では、今につながる出会いやたくさんの刺激的な仲間と触れあうのが楽しく、音楽や演劇や様々な交流をしていたそうです。そんな4年間の最後の卒業式で映像学科長が言った言葉がこれ。「君たちは芸術の道を志したのだから、お金を追い求めてはいけない。面白いものさえ作れば後からお金はついてくる。」だそうです。う~ん、この記事を読み、ひさびさに自分自身の大阪芸術大学での4年間が思い出されてしまった。

 そして、この監督は映像計画、私は美術学科。まぁ、芸術である以上、映像も美術も工芸も舞台も同じなのですが、この記事にあるとおり、ほんとに刺激的な仲間が圧倒されるほどいた。そんな4年間だったから、社会に出て同様の出会いを期待するが、まぁ、何度も思い返しても、大阪芸大で出会った刺激的な連中と比べたら一般社会の刺激のなさ加減に慣れるに結構リハビリ期間が必要だったように思う。

 大阪芸大での出会いや仲間達の事を標準と考えると、一般社会での刺激の度合いは、凍えそうな感じでした。でも、東京で1年間リハビリ(イラストレーションの専門学校にバイトしながら通った。)を経て新宿で働き始めた頃は立派な!?社会人モードで頑張れたのも、この山下監督が言われたようなスピリッツが流れている大学だったから、自分の軸をしっかり維持できたような気がします。で、今でもその軸がぶれないのも、この4年間があったからこそ。ほんとに人生の宝以上の4年間でしたね。

 「お金がついてくる」の部分はまだ全然ついてきませんが、面白いことをするために、おっさんになってもこのままずっとオモロイ人間でいたいという心を失わずに、というか、4年で会得・覚醒したアウトロー感覚を一般社会用にシフトダウンする感じで、このまま、最後までオモロイ人間でありたいという想いを軸に歩を進めれたらいいなぁ~と思っています。

 芸術はお金ではないがお金は大切。ただ、お金のために芸術にリミッターを付けることは本末転倒。まさに、あとからついてくるが理想ですが、そのあたりも、あまり、深く考えずにナチュラルに自分らしく何事も・・・という感じでいいんじゃないかなと思っております。

 芸術を別の目的で乱用するイベントが多い。芸術家になれるのは最低限、自分自身ととことん向き合える人でなければなりません。習い事のように木を削りました土を練りましたキャンバスに筆で絵具をぬりました楽器をひいています歌を歌っていますで芸術家になれた思うのは自由だが、恐らく、私が芸大の4年間で出会った仲間なら、失笑で言葉もないだろう。街にアーティストが集まってくるのはいいことだが、似非やダミーやフェイクを集めても絶対にアートにはならないことも、僕たちは頭で理解しているのではなく、心で感じています。そんな連中をアーティストと呼ぶのです。芸大を出たからアーティストではなく、どこかの公募展で優勝したからアーティストでもない。頭で考えず心で感じる感性を共有できないと言語中枢で何を理論化しようが結局「いたちごっこ」です。突き抜ける衝動を一度でも感じたなら、その感覚を持ち続けたいと願うのがアーティスト。自分の存在が無意味に感じ生きていることの意味とか価値を一度でも突き詰めようとしたことがあるならそれがアーティスト。言葉や文字ではなく、何かどこか気なる人がいたらその人も気になった人もアーティスト。確かにこの関係に「お金」の介入する余地はない。

ふしぎなキリスト教。

 まぁ、神についてどう考えるかって人間の永遠のテーマでありテーゼでしょうが、このような書籍が生まれる、そして、それが世の中に流通するってことを考えると、「キリスト教」ありきとなる。これについて否定も肯定もしないし、人間最後の最後で信じる者が救われるという概念はとても人間らしいからそれはそれでいいんじゃないと思います。ただ、既成事実としてこのような書籍が生まれる経緯を人類学上といういう類のアプローチで行う時、その両極かその振幅の中に存在する議論のテイストは、キリスト教が普及する以前のどこかのタイミングで発症したこと。それをまず紐解かなければ、ふしぎかどうかも規定できないだろう。仮説に仮説を重ねても…みたいな感じ。

 でも、世界で一番発行部数の多い書籍が「聖書」だから、「THE BOOK」っていうぐらいの存在感を今更なんともしがたいわけで、それはそれとして、自分自身がどう考えるかという鏡のように捉えることが一番大切で正確なアプローチではないかと思います。否定や肯定について生産的な議論はできないわけですし・・・。信じているモノが何かをいったいどんな方法や道具で共有すればいいのか?人間の心はそんなに簡単で単純ではないでしょうし。まぁ、「ふしぎ~」としておく方が人間的かなと。

 で、茂木さんが推薦分を書いている。脳科学の分野から一体「キリスト教」に対してどんな洞察をされるのだろう?それは窒素や水素に対して何を思うか・・・に近いアプローチになりそうですしね。

 その起源から近代社会への影響まですべての疑問に答える最強の入門書ってことですが、別に入門するテイはさて置き、すべての疑問の出所と信憑性がまずどう確保されているかを知るだけでも、この書籍、なんとなく興味が湧いてきます。

そろそろ。

ibukiyama110608.jpg
 そろそろ、緑がキレイになってきました。この週末あたりアッタクしようかな・・・。

石原軍団さん!?

 皆でCMに出て禁煙啓蒙活動ですか!?なんじゃそれ!!!ほんとに皆さん禁煙してるの?そもそも興味がない・・・、そんなことないでしょう?お酒の時のたばこの美味さを知らないとどの顔にも書いてないぞ。なのにそんなにひょうひょうと「お医者さんと禁煙!」とか言ってる感じ、嘘臭せぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!まれにみる嘘臭さ。ここまでテレビの電波を使ってガチの作り話を見せられるとあまりにものハリボテ感が満載でひとつの別のリアリティーさえ感じてしまいますね。

 論拠するところも変だぞ!お医者さんと禁煙って、やっぱ、喫煙を病気だと区分し始めている。愛煙家に言わせれば「私はタバコも酒も女も博打もしません!」など公言しているツルツルな野郎の方が危険。健康の定義は人それぞれ。多様でこそリアル。趣味趣向の部分であり、文化の部分であり、慣習の部分。これを疎かにし過ぎるから経済や流通や政治が停滞・沈滞・失速するのです。基本は全て同じ。人間力が低下しているから緊張感と研鑽感が足りない足りない。みんなみんなそんなにクローンになりたいのか?みんなで渡っても横断歩道で引かれたら死にますよって感じ。

 で、つ~ことは、結果、禁煙の啓蒙もビジネスにしようとしていません?なんて安全な国なのでしょう。何をどうしたいか?ゴールをどこに設定しているか知りませんが、そんなに優等生な健康大国を創って目指して日本はどこに向かうのか???吸わないのも自由、吸うのも自由でいいんじゃないでしょうか。吸わない人が辞めた人が、吸っているいる人や辞めていない人を降圧的に諭す・・・みたいこと、ほんと、この国のあるカテゴリーの人達って好きですね。それが自分の大切なIDENTITYだぞみたいに・・・。と、禁煙しなさいと言われただけでそんなにテンションを上げる必要はないのですが、言うなら返すよ!というスタンス。禁煙の前に福島に漂っているあれについてもっと国や機関に警鐘を鳴らせば・・・。

 いずれは、呼吸の仕方とか会話レベルとか歩き方とかも規制されたりして・・・、それって、もう、人間の必要あるのかな???つまり、石原軍団の皆さんがロボット!?マネキン!?マリオネット!?傀儡なのか!?

お仕事で似顔絵!

works110608.jpg
 まぁ、こちらがどこのどなたかは個人情報保護方針として、どこかでビンゴしてください。ブログやSNSの中に存在するアバター。もともとどこかの国の神と言う意味が捻じれて映画になりプロフ用のキャラクター画像の名称になっている。でも、なかなか、特長を捉えたキャラの表現がけっこうイケていた。それに表現方法もいろいろあるんだなぁ~と、「アバター制作サービス」業務のサイトをチェック・リサーチしていた時の感想。

 昔から人の顔を描くのが一番大好きで、何回もこのブログでつぶやいているのですが、静物や風景画はニーズがなければ描かない。動物もあまり・・・。そこに人がいれば描くのですが。しかし、仕事となるともうなんでも描く。リアルでもキャラクター化でもアートアートさせたり3DCGソフトを使ったり・・・。

 で、これは写真を見て下書きをしてカラーインクでフォルムを決めて不透明水彩を重ねていく方法です。最後に調子を整えるのにもう一回カラーインクで整えています。似顔絵って目じりとか鼻の向きとか髪の毛の表情で印象がガラリと変わるので完成形はイメージしながら描くのですが、描いている途中でも一旦冷静に描画中の絵を確認してアレンジを加えながら、写真と合わせてその方のイメージを頭の中で覚醒して仕上げているイラストレーションです。

 この作業が、どうも私の場合、ドローイング系のソフトウエアではできない。タッチとかちょっとした滲みなども計算しているようでしていない、言わば、感のようなモノが最終的に似顔絵の完成度を上げていくように感じるからです。あとひと筆入れるか入れないかでどうにでもなるのですが、その判断をソフトでは作業的に簡単過ぎて気持ちが入らないみたいな・・・。

廃墟の写真か・・・。

books110608.jpg
 なんとなく切なく、なんとなくドラマチック、そして、なんとなく異国感が漂うこの写真集。そうかそうか、このタイプでもちゃんと図書館に所蔵されているのか・・・。ちょっと、感動です。

 しかし、このカメラの人、よくもまぁこの視点でいろいろ動いておられること。それがまず感動。日本各地に点在するこの時間が止まった空間な感じはなんでしょう。悲劇なのか芸術なのか?って感じ。書店でチラミはしていただけに図書館で借りられるって紙一重で「買い」ではなかったのでso-good!

 でも、日本人って出版文化が発達してきた国民だから、書籍は買って読むということが軸にあるらしい。でも、現在では中古本やシェアが主流だし、電子書籍なのふわふわしたコンテンツもあるし、そのあたりのニーズは多様になった。でも、学生の頃は時間があれば図書館にいたので、働き出してから自分のfavoriteなbooksを買う特権を与えられた感じはすごく大人な感覚だったような記憶がある。しかし、買うだけが能じゃない、借りて読む文化のアメリカに習うのもいいかもしれないぞ。だって、アメリカ人は「読書」を消費と捉えている。じゃあ、日本人は生粋のコレクターか!?浮世を離れた所蔵家がどこかカッコイイみたいな空気が旧態依然からありますよね。じゃあじゃあ、「家は借りて住め、本は買って読め!」って誰の言葉だ?

3つの知。

 知は3つに分類できるというお話。それは、「学問」「知識」「情報」の3要素。情報とは日々なんらかの形式と目的で流れてくるものであり、新聞やテレビなどのマスメディアが提供しているモノから現代ではネットの中から提供されてくる。マスメディアからソーシャルメディアに変異する段階で情報は比較的スムースに移行していった形跡がある。これに対しての部分で知識とは何か?知識とは人類が長い歴史の中で蓄積してきたもので、情報のように断片的ではないい、言わば体系的なモノ。その中で普遍的な価値観となったものが学問となります。

 例えば、出版文化とはこの3つの知の中で知識と学問をカバーしています。そして、それらを共有することで国民全体の水準が向上して民主主義に対して深く関連性を与え文化として成立するという構図を呈しています。よって、ネット文化が発達・進化・浸透し「情報」のみの流通が盛んになったとしても、知識と学問という視点ではどうも欠落している状況が現代のネット社会の構造だと言えなくないのです。これは、まさにの部分です。マスメディアの失速と出版文化の衰退がもたらすその国の文化や教育レベルの沈滞はこの3つの知の構造がいかに活性化さているかで推し量ることができるという仮説です。

 すると、インフラの整備からビジネスモデルの創出などイノベーションに関連する人材がそのスキルやセンスを含めた知識と学問のスタイルを発信することが沈滞し、情報だけが飽和した状態で商品やサービスや人的な資産が新しいベクトルに向かう土壌を失うというこになってしまうという警鐘をどこかで具体的にネットの技術に取り込まなければこの失速モードはシフトチェンジできないような・・・そんな気がします。3つの知を改めて考える時、そのベクトルはおそくらプラットフォームでもインフラでもデバイスでもないなずです。これらはただのツール。やはり、有料で優良なコンテンツを創出する人と人がネットワーク上に点在する仕組みを、もしくは、それらの素養が活性化されマンパワーがグイグイ覚醒する仕組みづくりにもっと軸足を持っていかなければ、文化や経済や教育の水準は必然的に失速してしまうのではないでしょうか。ガチでベタでリアルな思考と構造と行動がネット内でリアル社会で活性化されないと、そこでこそ本当のつばぜり合いをしなければいけないですよね・・・という感じ。

 さてさて、クラウドの中にシャングリラはあるのか?阿弥陀浄土さえ包括しかねないネット文化の隆盛を、今、改めて分解して再構築できるポテンシャルはどこで息を潜めているのだろうか・・・。

心が熱くなる時。

 人間、心が熱くなる時ってあります。それは、感動だとか怒りだとか。その時ってなんとなく自分的にはパワフルに心のエネルギーが満タンになっている感じがあります。素晴らしい映画や絵画を観た瞬間にいっきに沸点に達する感覚や、納得いかない行動や言動に触れた時、言いようのないエネルギーが心に充満して、深呼吸をしたり、ちょっと、目をつぶり沈静する感じ。でも、それって力があるなしでいうと確実に自分の不思議な力のみなぎる感じが実感されて、ちっぽけな事でぶつぶつイライラしているのに、なんとなく、熱い感じは気分的に悪くない。ぼわっと燃える瞬間があまりにも日常的に多過ぎるとそれはそれで扱いにくい人になってしますが、適当に、自分なりの基準や軸でぶつかるのは精神的にはいいことじゃないかと思います。人を傷つけたりモノを壊すことはNGですが、自分で着火して自分で消火できるなら、ちょっとぐらいイラっとしても心の健康にはいいのではないだろうか。

 と、自分の挙動を擁護しているようなことを言い訳的に書いている感じがするのですが、それでも、心が熱くなることがないと、やはり、心も低体温が続く。すると、リアル体温と同じで免疫力が低下して身体機能も低下するだろうし、新陳代謝も体温が高い方が活性化する。たぶん、同じ個体だから心もおなじはずと、全く医学的根拠も科学的根拠もない持論ワールド全開である。

 で、ネット社会は便利で情報が豊富、多種多様なニーズをそれぞれのデバイスで獲得したい時に獲得できるということでは熱いのですが、その中に存在するコンテンツについては、温度が低め。ブログが炎上するって一時流行ったがそのエネルギーって実はネットの中だからこそ大切な仕組みなのかもしれないと思います。誹謗中傷は建設的ではないが、生産的な論拠に置いて心が熱くなる、ポジティブな炎上は逆にその書き手や発信者のポテンシャルの高さの尺度を示しているような気がします。どうも、ネットやオンラインのパワーユーザーは冷静過ぎてフラット過ぎて一歩踏み込まない感じがしてて、もっと、ガツガツしてるぐらいがちょうどいいように思います。人に避難されたり、攻撃を避けるために、フラットな意見をどれだけ並べても、日常会話レベルをわざわざ携帯端末からつぶやいても、それって、熱くないような気がする。まぁ、熱いか熱くないかは別としても、踏み込んでこないから踏み込めない感じの日本人のコミュニケーションは探り合いの文化。一刀両断の間を見切るようなネット内のコンテンツがないものだろうか・・・、たぶん、構造上システム上無理だろなぁ。こればかりはリアル社会のリアリティーに勝る「熱さ」は存在しないだろうし、どこまで技術が進化しても、3D映像で心は熱くならないぞ。

IH-COOKING HEATERデモ。

ih_cooking_heater01.jpg
ih_cooking_heater02.jpg
 昨晩はIH-COOKING HEATERを導入していだいた業者様からその使い方の説明ってことで、実際にクッキングヒーターで料理づくりのデモを自宅で行っていただいた。これが、なんとも次から次へと素敵な料理の数々。しかも展開が早い。そして、次から次から短時間で料理が仕上がっていく。なんだなんだ、これまで、ガスで料理していたことが非常にローテク過ぎて、「料理はガス!」みたいなCMのコピーワークが薄くなる。これは凄いじゃん!モホノンの料理人にしてみれば、料理がガスなのかもしれないが、このIH-COOKING HEATERの仕組み・構造は非常に論理的というか科学的。

 まず、高価ではあるが、IH-COOKING HEATERとマッチングの高い性能・素材の鍋が必要ではあるのですが、まったく、炒め物に関して油が必要ない。そして、肉じゃがなどの煮物についてもほとんど水は入れていないのですが、野菜から出る水分とわずかな調味料でこの感じ。焼きそばにしてもまったく油を使っていないから味が深い。肉じゃがのじゃがいもなども一回も鍋を空けずにじゃがいもの芯までふっくらと熱が入り味も沁み込むのだそうです。そして、何よりもスープが圧巻。普通なら市販のルーの元を買ってきて鍋で煮てコトコトになるのですが、今晩のスープは違う。なんとホワイトソースから作るのです。牛乳・小麦粉・バターと少量の調味料。そして、カット野菜で完成。しかも早い。そして、既製品のルーにないすっきり感と味の深みが確かにある。ほぉ~×10である。そして、そして、御飯も実はIH-COOKING HEATERでわずか15分。これも、熱のコントロールが完璧にできるという特性と短時間で高温になる特性があるから、美味しい御飯がわずか15分という仕組み。もうこれは料理の革命である。

 おまけにこのケーキがわずか10分程度。しかも、全てタイマー熱量をコントロールしているから、ひとつの料理について材料をセットしたらあとはタイマーが切れるまでノーチェックでOK。で、パンも焼ける、焼き魚もOK、お料理を科学的に分析し、能率とクオリティーを追及できたのも電気制御だからなのかもしれない。「オール電化」の価値がこんなに具体的で論理的だとは、ちょっと、革命的な出来事でした。

 とは言え、これで、私自身がケーキを作るわけでもないので、直接、この機能を私がフル活用することはないだろうが、でもでも、IH-COOKING HEATER料理実演デモは強烈なインパクトでした。何事も商売ってここまでエンドユーザーレベルで対応されると、まぁ、高価な買い物ではあったが「参りました。」となってしまいますね。腹を満たされると人間って心も満たさせるという錬金術のそれ。

少しづつツイッターを。

 日常の機微をつぶやくことでリアルな何かがキャッチできる。このリアルタイム感が言わばツイッターの機能だろう。つぶやく人のリアルタイム感が時系列に更新される画面を見ていると、動いている人の気持ちが意外と伝導してきて見ている個体とすれば、まるでこの小さいデバイスやPCの中に自分だけの世界が広がる感覚。この機能をいかに活用するかはポテンシャル次第ということが基本なのでしょう。

 MIXIも最初の頃、一冊書籍を買って取り組んでみたがさほどハマらなかった。現在ではマイペースにボチボチペースになっている。FACEBOOKもしかりで、お誘いを受けダイブはしたが、まだ、さて、どうしたものかという感じである。に比べると確かにツイッターは機能的にはSNSよりも性に合っているような気がする。ツイッターの中に同じ趣味の人や同じベクトルの人を発見するとなんだかうれしいし、その人のブログを辿り、北海道や東京のボルダリング事情を読んだり、メンサ(IQ148以上のコミュニティ)の入会テストにトライした人の記事を読んだりすると、さすが、この情報のディテールはネットならではと共感を覚える。それが、ゴルフや釣りや山登りなどにしてもそうであるから、この共感をリアル社会で得ようと思ってもなかなか時間的な制約やコスト的な制限があるから、これこそネットならでは共感となる。

 と、情報の信憑性というか、情報の体温・皮膚感覚というか、そのあたりが共感を得るためのどうやら本丸だということなり、モノホンを知ることで得られる仮想空間のリアリティーとは、発信している人らしきSOMETHINGがそののびしろを決めているということなるのだろう。それを例えば仕事に適用した時に、どのようにしてその共感を得ていただこうかと考えることが、言わば、広告とか販売促進ツールの開発に深く連動しているように思います。これが、ネットの中でモノホン感のリアリティーを感じているケースと情報を発信してそのリアリティーを感じて欲しいというケース。立ち位置がこちら側とあっち側に分かれるもののそこを精査できれば、誰に対して何を訴求するかアピールするかが体感的に見えてくるのではないでしょうか。

 しかし、その場合のキモは発信者が高慢でも卑下しててもダメだということ。情報交換に置いて最大のルールはフラットであることのように感じます。水平なガラスの上に水玉が2滴落ちている。よほどこの液体の中に意志のある微生物が増殖していない限り水平面でひとつがひとつに向かうことはない。しかし、一方向から風が吹けばその水滴は同じ方向に移動するだろうし、水平面が少し傾けば同じ方向に流れ出すだろう。つまり、情報の世界の中では、水平であることが前提の世界なのか、風なのか傾きなのか、もしくは他の何らかの力が作用しているかで水滴は動くということ。最初は2滴でも、一筋の水の流れになり、大きな器に流れつけば水は蓄積される。それがバケツなのか、河川なのか、湖なのか、大海レベルなのかというこで、一滴の情報が体積を変化させるのだろう。リアリティーとは傾きであり流れであり風である。それを感じるのは人間が本来持っている平衡感覚や技能の部分。それが鈍かったり未熟だったりすると動きたい時に動けないみたいな、自分で自分のリミッターを解除できないみたいなことになるのだろう。

 誰もが自分自身を常に「活性化」したいと願っているはず。しかし、人生の中で体得・会得・獲得した数々の固定観念や先入観などのスタイルは時に活性化を阻むリミッターになる。そして、このリミッターが意外と気持ちいい場合が多い。さて、ツイッターとは最新のリミッターなのか、それとも、古き良きリアリティーの機能を装備しているのだろうか???

 で、最後の最後で自分のさじ加減ひとつだろうが、それでも、やはり、どこか隣の芝生は青い。

キュウリ収穫!

syuukaku110604.jpg
 このキュウリ、先日黄色い花が咲いていたと思ったらここまで育っていました。思わず収穫してしまいました。イチゴ君はこれで今年の収穫は終了~。さてさて、あとキュウリは何本獲れるのかな・・・。

MACのLLセットを買って・・・。

glass110604.jpg
 マクドナルドのLLセットを買うとついてくるこのグラス。なんか気になって買ってしまった。カミさんはそんなおまけのコップが増えても仕方ないやん!と怒られるが、それでも、これは欲しかったんだい!欲しいんだから仕方ないじゃない。マクドナルド、頑張ってはると思いますよ。

政策空転。

 政治家で飯を食っている人達がこの新聞の記事のこのフレーズを見て聞いてどう感じているのだろう?もう、いろいろなことが起こり過ぎて麻痺状態だから、逆にハイになれる人もいるだろうし、この情勢をなんとか自分にできることを~と精進している人もいるだろう。しかし、その構造も上に行けば行くほど炎上の度合いも高く、自分ひとりの判断やポテンシャルではどうにもこうにも状態でしょう。まして、この大惨事に適正な決断をして国民に方向性を示すなど八百万の神でも降臨しなければ難しいでしょうね。世界も国民も凝視しているわけですからね。だから新聞の人たちも面白おかしくレベルで簡単に「政策空転」などという語彙をチョイスするのはいかなものか・・・。

 このヘッドコピーはまぁ、日経新聞のライターの最高責任者の人が確定して新聞のテイになっているのでしょうけれど、この語彙を見て国民に何を訴求したいのでしょう?さらに火に油を注いでください~放射能に海水をかけてくださいとでも言いたいのでしょうか。いやいや、なんとかしなきゃいけないから、国民の皆さまがひとつになり~的なノリで政治・経済・文化を、そして、歴史を牽引する判断をしている人達にエールを送り、国民ひとりひとりレベルでできることをやりましょう!と言いたいのか?言葉本来にある含有された真意の側面から現代の多様なニーズの構造がその札の一枚一枚を剥がしにかかる人、お札を貼り込む人との混沌でもし、大蛇丸の穢土転生が成立しているなら、いったい実態はどこだ?

 「政策空転」。空転させている原因はどこだと言いたい?政策はこの状況でどうあるべきだと言いたい?新聞メディアの人達、政治家の皆さまもそれで飯食ってるんですよ。腹は黒いかもしれませんが、その学歴とキャリアとポテンシャルでこの情勢を乗り切って存在価値を示そうとしているはず。適当なとは言いませんが机の上でキーボードで打ったであろうこの「政策空転」という言葉。アウトプットしたならその責任の大きさも感じてるのかな?ただ泥水をかき回したら購読数が伸びるなんて考えていたとしたら、あなたが一番相当タチが悪いかもしれませんよ、実は。

Nagahama Jazz Walk...

 「JAZZ」とは一体何だ!ググるとこうなっている。「ジャズ(jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に発展した音楽形式。アフリカ系アメリカ人の音楽形式と西洋音楽の技術と理論が融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、バラード、コール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション、ポリリズムなどの要素を組み込むことが特徴的とされている。 その自由な表現形式は黒人音楽家のみならず白人音楽家にも注目され、技法や理論など急速に発展した。20世紀半ばには人種の枠を越えた音楽のジャンルとして認識され、現代音楽理論をも内包する高度な体系をつくりあげた。その結果、人種、国籍や狭義のジャンルを越えた音楽芸術の現代的様式の一つとなり、様々な方向性に発展を見せる現代の音楽の源流を形作った存在であると考えられている。」となる。ここの説明文の中で特筆できるフレーズは「アフリカ系アメリカ人と西洋音楽の融合」と「ジャンルを越えた」と「現代音楽の源流」あたりだろう。しかし、ここまで明確に記述される側面から「JAZZは難しい音楽」という印象を受ける人も多い。実際、フリーダムな印象を自分自身も抱いてはいるが、どこか、「難しい」という印象がある。ただの先入観だと思うが、この先入観が意外と音楽に対する数多の障害になる場合が多い。人は万象に対峙するとき、まず、感じていることを否定し考えることで受け入れが実感を得たいと判断する。しかし、一旦、身体にそれが入って反芻され消化されると「感じる」という側面で捉えようとスイッチを切り替える癖がある。それは、野菜嫌いの子どもにも似ていて、トマトが嫌い、ピーマンが嫌いのあれ。でも、この症状は人間の生物としての本能だそうです。古来、自然に生息する数多の植物を食する時、現代では普通に食べられる植物と食べられない植物を分類し体系化されているが、昔の原野でそうではなかった。空腹を満たすために口にした植物の猛毒で死に至るケースも多かったことだろう。それをどこかのDNAに記述されていているのだろう、警戒が「トマト嫌い・・・」になっているとかいないとか。

 で、「JAZZ」に対する先入観も実は「禅」のアプローチが正しいのかもしれない。色即是空天上天下唯我独尊我思う故に我が在るようにJAZZも在るみたいな。

麦わら屋。

 昨今、麦わら帽子と言えば勿論、ルフィーですし、それは辿るとシャンクスになる。では、何故?シャンクスが麦わら帽子なのかと言う部分については、まぁ、今後の楽しみののびしろとして、旬な部分で言えば麦わら帽子はルフィーの代名詞。でも、自分自身のFavoriteな世界で言うと、その前は勿論、三平三平君となる。これも切っても切れない設定ですよね。では、ルフィーと三平はどこでシンクロしているかということになるが、その前にもうひとつ、麦わら帽子で言えば、「人間の証明」が回帰される。森村誠一さんの小説である。「mama,do you remember...」のあれである。麦わら帽子が深い渓流にクルクルと落ちていくあのシーンは目に焼き付いている。麦わら帽子が何故こうも記憶に残り印象に残るのかはメディアの操作もあるだろうが、このアイテムをチョイスした作家さんの意図がそこにあるはず。で、私自身、ルフィーの場合、ゴム人間であることよりも、シャンクスから譲り受けた「麦わら帽子」の方に実は深い願いというか想いが潜んでいるように思うのです。三平もいつもかぶっていたあの丸いフォルムの麦わら帽子。これが、ストローハット的なフォルムになるとちょっとダメ。おっさんゴルファーの夏のアイテムです・・・みたいなテイは正直カッコワルイ。自然のフィールド感や純粋なニュアンスから離れていく。この時代何故「麦わら帽子」なのか???みたいな、これは何かのサインかもれいなぞ・・・と。

 で、昨今のクールビズにしても節電ムードにしても改めてこの夏、日本人はエアコン・クーラーを離れて自然の涼や和のアイテムによる暑さ対策を強いられることになるだろう。エコエコエコエコって呪文のように唱える企業のリアルが木陰の大切さや湧水の活用術やそよ風の意義を知ることになるだろう。汗を出すことが何か身体から表出する毒素のように捉え脂分があることが不潔だぞ!みたいな啓蒙はもうナンセンス。汗は外気と体温をその蒸発のシステムでコントロールして体内の塩分のコントロールをしているし、脂分は実は梅雨の季節、空気中に培養される細菌やウイルスが体内に侵入することをブロックしているし、暑い夏などは乾燥から防ぐために皮膚を保護しているのです。なのに、ふわふわしたCMの真理を真に受け汗を出さない脂分を除去する化粧品やアイテムを強要する。まぁ、売りたいためだってことは理解できるが、嘘はダメ。抗菌抗菌って実は身体の免疫力を低下させているだけ。実は「花粉症」も同じ。正常な身体にはしっかり自然に存在する花粉を一旦体内に取り入れて抗体を作る機能があるのに、それを、間違ったアプローチで低下させているから、花粉症となる。花粉症の人が多い方がマスクや薬が売れますからね。これも、実は売り手市場のメディアコントロール。

 麦わら帽子の麦わら屋ルフィーのことで、えらい話が大きくなったが、この夏に向けて、今、お気に入りの麦わら帽子を探している。どこかにココイチの麦わら帽子ないですか?

平山ユージさんという存在。

yuji_hirayama01.jpg
 最初に知ったのはコミックス「岳(ガク)」が始まり。すべてはそこから始まった。その前の感覚としては、自然には興味があったが特に山登りとかハイキングレベルはどちらかというとリアルな感じがなく、さほど達成感とか刺激の部分で競技という印象が薄く別に・・・というレベルでした。それよりも、バスフィッシングやゴルフの方が刺激的だと思っていたから。でも、漫画が導入とは言え、富士山に登りたくなり、日常レベルで訓練をして実際富士山の頂に立ち、山のリアルを知る。絶対に途中で諦めたくなかったので体調の管理をしながら富士山を登るのに必要な練習をいろいろした。それと並行して、同じく漫画「岳(ガク)」でロッククライミングという存在を近く感じたいという願望が湧きあがった。そして、ボルダリングという競技の存在を知る。それは漠然としたロッククライミングという印象からか、落ちたら死ぬやんというイメージから、しっかり知識と技術と身体を造ればこの腰痛持ちの私でもできるかもしれないに変わっていく。そのポイントポイントで明らかに遠い存在ではあるが、間違いなく「平山ユージさん」の存在が大きく牽引してくださっている。これがモノホンの「カッコイイ」だと、この確信に濁りも淀みも疑念もない。この男が世界で一番カッコイイと思っていますね。山男だからとかルックスがとかじゃなく、その存在感の全てがカッコイイ。別にその傾向があるわけではないが、男が目指すカッコイイは間違いなく「平山ユージさん」ですね。この笑顔、最高でしょう。飾らない語らないエゴらない、そんなイメージです。岩にしがみつくと人間は自然の偉大さを心の底からリスペクトするのでしょうか、紙一重の過酷な山の自然の中でモノホンだけがその真理にタッチすることができる・・・みたいな。

詳しくはこちらです。http://www.stonerider.jp/

言葉は道具!?

 話は意外な入口から入りますが、昨日、コミックス「ナルト」の最新刊を発見。そして、購入。想定以上に早い展開にちょっとびっくりしました。内容をここで記述することはできないのですが、知っている人は「なるほどあのことね・・・」とか「ほぉ~、そういう見方しますか・・・」的なことでたぶん「うんうん」だろう。実は、カミさん的にはナルトはジライヤが死んだところあたり、もしくは、サスケが我が道を歩き始めたあたりでNGになってしまったらしい。確かに、大きな物語の分岐点だったとは思うが、そこでこの物語がめんどくさくなるって、ちょっと、物語の枝葉が分かれ過ぎたのかもしれない。しかし、それは、岸本先生が向かう「結」の部分へのアプローチ。キャラクターが想定意外の展開をして、話が複雑になったからと言って失速していては、作者の創造力に負けたということ。やはり、世の中、複雑で難度が上がるとストレスになるほど、フラット化しているのだろうか、などと考えてしまう。

 一方、私のテンションは逆に上がっている。確実にこの最新号でも上がった。というか、この「ナルト」の忍びの世界のひとつのルールを感じることができたことはこの最新刊が初めてだった。なるほどなるほど、これが岸本先生が言いたかったことなのかとガッツリ昨晩は3回読みこんでしまった始末。

 そのひとつは人間が口にする声にする言葉についての洞察。「沈黙は金、雄弁は銀」というフレーズが岸本アレンジをして巧みに描かれている。結論はまだ確定していないが問題提起としてはなんと秀逸な引用だろう。そして、「侍の刀」に対する洞察。そうかそうか、そういう捉え方か。と、この部分が一番テンションが上がってしまった。しかし、待てよ、これって「少年ジャンプ」っすよね。小学生あたりから読んでますよね?ナルトは今も連載されてますよね?ってことは、この内容で小学生達は「あり」なんだと改めておっさん目線でひとり盛り上がっていることにドキリ。この下りは小・中学生は無理だろうなぁ~。いやいや、最近はこれでいいのだろうか???と。

 で、言葉も刀も道具。道具は目的のためにある。そして、使う人と連動してそのポテンシャルを発揮する。言わば道具は使う人でのびしろが決まってくる。だから、人は自分を死ぬまで研磨するのだ。妥協した人は道具を手放し、同時に言葉も失うと・・・。なるほどね、ひとつの大きな真理かもしれないぞ。

SUPERFLY@MIND TRAVEL

 いよいよサードアルバム出ますね。楽しみだぁ~!ファーストですでにベストアルバムと言われ、セカンドであのクオリティー、そして、サードのキャッチコピーがこれ。「圧倒的クオリティを誇る3edアルバム!」だそうです。でしょうね・・・。今、モノホンの楽曲を聴きたいならこの女(ひと)だけでしょう。見事にこの女(ひと)しか・・・って感じですよね。ライブ行きてぇ~でも、そんなエネルギーがない・・・。う~ん。

17種類のパフォーマンス。

 ココッティが言う、「俺は人の嘘を見抜く力がある。嘘をついた時の男には17種類のパフォーマンスが現れる。ちなみに女は20種類・・・。」と。あのトレーラーの一室でのココッティ(ウォーケン)が迫力満点で攻める。それを受けるデニス・ホッパーの存在感。ココッティ、「お前が息子のことを隠していることは知っている。そして、それを私に言わなければお前自身がどうなるかもお前は知っている。いいな、息子はどこに行った?」。しのぎを削る父親(ホッパー)、「よし、わかったよ、息子はやってきたが、お前たちの言うようなことは一切話さず、500ドルを持って行ってしまったよ・・・。」見つめるココッティ。左ストレートでホッパーの鼻骨が折れる。

 そして、さっきは断った「チェスターフィールド」を改めてココッティから1本貰い火を付ける。そして始まる名シーン。「俺は本を読むんだ。」~割愛~「さぁ、今、俺の言ったことは嘘か?」う~ん、最高のシーンです。この10数年、いろいろな映画を観ているがこのシーンを超えるシーンはひとつもない。

 ウォーケンとホッパーの最高のシーン(ディアハンターよりもいい)である。言わば、この映画のひとつの大きな核はここ。結果、タランティーノは「レザボア」を書き、「トゥルー・ロマンス」を書き、「パルプフィクション」を書いて失速していった。それも仕方なし。世の常。あとは、変人・奇人で通用するのだからそのキャラで過ごせばいい。でも、いずれ、また一周回って、「レザボア~」のようなエッジの効いた作品を創られることだろう。と、まぁ、そういう意味も含めて、パルプフィクションの「金時計」に続く・・・みたいな。

TRUE ROMANCE

true_romance01.jpg
 最近はこのタイプの映画がないなぁ~。この映画は歴代お気に入りのベスト10に確実に入っているのですが、第何位かは決められない。ベスト100に拡げるとそれこそ思いつくままに一気に映画のタイトルが頭に浮かんでくるが、「トゥルー・ロマンス」は別格。その基準がよく分からないと映画好きの仲間とは意見が食い違うが、これは確実にベスト10圏内です。ではベスト3には何が入るかとなるとひとつは「ブレードランナー」となるし、では、「ファイトクラブ」となると、ベスト30圏内。で、で、「トトロ」や「カリオストロ」はとなるとベスト50圏内となるり、「X-MEN ウルバリン」や「ウォンテッド」あたりがベスト100圏内となる。だから、全くド主観のセレクトではあるので、勿論、賛否両論あるのですが、「TURE ROMANCE」はたまらないのです。全てたまらないのですが、中でも、C.ウォーケンとD.ホッパーのあのシーンはワンシーンだけをチョイスするなら、ベスト5に入りますね。で、このG.オールドマンは?もう、しびれ過ぎて第何位とかどうでもよくなる感じですね。いいですよ「TURE ROMANCE」。

我が家にオール電化がやってくる。

 本日、我が家にオール電化がやってくる。地デジの準備も出来ているし、なんと理想的な日本国民だこと。オール電化については興味があったが、なかなかいいプランがなく、検討・保留していた。しかし、時代はやはりこの流れ。ガスや灯油の価格がガンガン上がることをカミさん的に考慮した上での取り組みです。試算結果的には今回の設置コストはガス代と灯油代を相殺すれば5年目からプラスに転換する。平行してどこかで「太陽光発電」の導入もここ15年間検討してきたので、いよいよかな・・・という感じ。

 で、車はどうか?ガソリン車はどうか?となるが、これもハイブリッドをガチで検討する時なのかもしれないぞ。であるなら、先駆者であるプリウスというラインが見えてくるが、そこに、どれほどのリアリティーがあるかをより緻密にリサーチしていこうと思っております。

 まずは、本日我が家にオール電化がやってきます。5年後、ガス代が灯油代がガソリン代がどうなるのか?ヨーロッパでは2023年に原子力発電所の稼働率を0にするらしい。さてさて、日本はその勇気があるのかないのか?数千年、数万年レベルの先の世代に悪しき残留物を残してしまった。その当の国の決断は世界にその存在の是非を問う大きなマイルストーンになるはず。人間の50年、100年先を想定できる能力を今こそ・・・みたいな時ですよね。この能力は人間だけの能力なんですから、っていうか「能力」でもないかもしれない。言わば、性(さが)なのか業(ごう)なのかみたいな、まぁ、そんな感じで。

まずは御礼を。

 別段、頑張った感はないのですが、楽しくブログを書いてきただけなのですが、アクセス解析結果はリアルである。まずは6月のアクセス数が10万件を突破したことをこの場をお借りして報告させていただきます。これも一重にこのブログに何らかの理由でアクセスしていただけた結果。4年前は1ヶ月のアクセス数など数千件だったのですから、「継続は力」って感じで一息つくのも違うように思いますが、ひとつの区切りとしてこのブログを読んでいただけた皆様に心からお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。私自身はWEBサイトやデザイン関連のメディアや販売促進ツールの企画・制作に携わらせていただいている人間であり、その人間が「ブログを否定していては何も始まらんでしょう!」というある仕事仲間からの警告を素直に受け入れたことでこの数字を獲得することができたと振り返ります。その大阪芸大の頃の友人に心から感謝すると共に、彼へのリスペクト感はそれこそこのアクセス数のように日々アップしているシンクロしているフィーリングです。宜野湾で今日も彼はガツガツ動いていることだろう。

 これからブログを始めようと思っている方もちょこちょこ書いてきたがこれってほんとに効果があるの?と感じている方、人間関係と同じ、自分自身と仕事の関係と同じ、自分自身と社会の関係と同じです。すべてが作用と反作用の関係ですから、世の中の等価交換の法則はアナログツールでもデジタルツールでも同じのような気がします。「打つから響く、響いたから打つ。」の鉄板の方程式を自分のペースで取り組むことで、立ち位置が変わり景色が変わりモチベーションが活性化されるのだと思います。

 たががブログ、されどブログだと思います。

 で、すぐに「ゴールはどこだ?」となってしまうのですが、実際、何事に置いても正確にはゴールはありません。人はゴールに向かいたいと思って走っているとどこかで思いたいですが、実際、それは、全てにおいて中間地点だったり、ただの分岐点だったりします。ゴールを目指す!的な啓蒙書もよく売れているようですが、これらはすべて幻想です。複雑怪奇な時代ですから、適当なゴールを適当な位置に設定することは簡単。適当な書籍をチラミして「おおっ!ここが自分自身のゴールか!」と一念発起して頑張るのもいいですが、それは決してゴールではなく、夏休みの宿題みたいなものです。ブログを書き綴ることで何がいいのか悪いのかではなく、そこで自分自身が何を思うかに注視すれば、自分らしいブログの意義や意味や価値が感じられるのではないでしょうか。それは非常に他人に伝えることの難しいリアリティーかもしれませんが、伝えようとするエネルギーがブログやMIXIやFACEBOOKやツイッターをここまで覚醒させました。それは、技術や仕組みに優位性があったことだけではなく、この時代の人間のモチベーションが結集する原因が理由があったから。それは、傍観しているだけでは決して会得・体得・実感できないSOMETHING.

 禅のようなモノとするのもオコガマシイほどそれはこの中にしか偏在しない価値観のようです。

 まぁ、こんな長いつぶやきをこうしてここで書いていれるのも少なからず「ブログの恩恵」です。こんなテイでこれからも「らしい感じ」でボソボソと書き下ろしていきたいと思っております。まずは御礼まで。