JAZZと演歌。

 口は災いの元、雄弁は銀、沈黙は金と言うが、言葉は怖い。基本的に情報と人間の連動は目と耳でそれをインプットして声や端末で文字化することで実現(循環)している。だから、何を見て、何を聞いているかがそもそものスタートラインであり、同じモノを見ても聞いていも、その見方や聴き方でインプットされるそのフォルムが変形する。そして、この変形度合いについては絶対に同じカタチが二つとしてない。そして、それを消化し論理化する感覚化する時に何を蓄えて何を切り取ってきたかがその本体の吸収率を左右する。

 飽食の情報化時代、物理的に脂肪を多く蓄え活性率を下げている人は多いが、論理や定義も同じ。そんな生活サイクルを送っていると、必然的にあさっての言葉が漏れる。そして、緩い行動としてぶれぶれの万象に陥る。ストイックにモノゴトを捉えることは簡単であり、本能的に感覚的に言動を行動のリミッターを解除することも簡単。何も自分の中から聞こえてくる声に耳を傾けようなどと詩人のようなことを言うつもりもないが、自分の心が何と相対性のバランス関係を維持したいと感じているかを知っていることで、自分と世界の適正なバランスが見えてくるように思います。

 例えば、そこに「JAZZ」という食材が降りてきた場合、それをどう料理するかは、恐らく人の数だけ調理方法があり、盛り付け方があるはず。美味しいか美味しくないかも心の味覚次第。せっかく素敵な食材を確保したのだから、間違っても古き良き「いもがゆ」にはしたくない。