美大生とゴッホの作品は同じ!?

 ちょっと乱暴な意見ですが頭に浮かんだので書き出してみます。何故ゴッホのひまわりは数十億の価値があり、美大生や油絵教室の皆様の作品に貨幣価値がないのか?「何を言っているのかい!お前は、そんなことその歳になっても分からんのかいな?」と言われても、正確にはその差は何かを言及することが限定することが本当に可能なのだろうか?私は同じだと思う。中途半端な例えで言うなら、ある洋画か日本画か知らないが然るべき協会がありその名誉会員の絵と公募展で上位入賞するために自分を削っている画家との違いは何だろう?これも答は同じである。

 でも、どこかでその価値が変異することが間違いなく起こり、現状の格差が生じている。双方の作品も作者が筆を置いた時は同じ一枚の絵なはずが、時間の経過なのか思念の作用なのか文化の方程式なのか何かの影響を受け化ける。ということはもしや絵画が世の中に何かしらの価値として浸透するためには化学変化が必要なのかもれいない。まぁ、生まれて死ぬまで脳の中で起こっていることが言わば分子レベルの化学変化反応だから、それで紐解くことがセオリー。でも、化学変化だとして、美大生の絵は何らかの原因で化学変化が起こらず、ゴッホのひまわりにはどんな化学変化があったのだろうか?それは人の歴史や芸術の歴史、もしくは、経済や貨幣価値の歴史と深くリンクしているかもしれないぞ。そう考えると絵画や芸術が非常に冷たい触感を帯びるが、でも、この疑問に対してこの仮説はあながち・・・ではないだろうか。

 で、逆説的に言えば、ゴッホだったから数十億円になったという仮説はどうだろう?これは相対性のお話になる。時間軸の中で必然と偶然をどのように体系化し分解するかでしか、この経緯を認識する術はないだろう。しかし、不思議と文化レベルや教育レベルの高い人は「ゴッホの絵」に対してそれそうとうの評価をするのが常。「いいものはいい。」という脈略のない価値観で生きられる逞しさ。余談になるが、組織におけるモゴトトを論理化する人達の集まりではよくこの逞しさに触れることができる。まぁ、逞しさというか鈍感具合というか無責任感の形骸化とでも言うか・・・。逞しくロジックを並べたブースでフリーマーケット状態はいいのですが、そのロジックは薄く質量がないことが多い。そして、必然的に継続力と波及力が弱い。

 う~ん、同じことなのに、何故も覚醒することをビジョン化すると覚醒しないのか。創造しているつもりが、実は破壊していることになってしまう有機物の神秘。この紙一重の綱の上を渡りたいなら、その表裏を天秤に掲げ簡単に答を出さないことが最も有効なアプローチなのかもしれないですね。と、スタンフォードのあの方は考えいるような気がします。