音楽は消耗品なのか?

 以前にこのブログで日本とアメリカの読書に対する観念が異なることを少し書いた。「アメリカ人は読書を消耗品」と捉えてると。に比べ、日本人は書籍を手元に置く傾向が強い。本は借りるのではなく、購入して読みたいという強く考えているらしい。しかし、こうも景気が沈没して毎月のおこづかいがままならないと好きな書籍を好きタイミングで購入することはできない、というか、やってはいけない。音楽CDにしても、20代の頃はまぁ、独身だったこともあり、ちょっとバブルの空気もありで、好きな時に好きな書籍を買いCDを買い映画館に行っていた。それが、20年経ち、全てレンタル思考になっている。世の中、何においても「シェア」の時代。生活必需品もシェア、住む場所のシェア、仕事もシェア、人生も生活もシェアと・・・。だから、必然的にコミュニケーション能力が生きる力の四番バッターになる。

 しかし、そのスキルに長けている人が必ずしも善人であるとは限らず、比較的で言えば、悪人の側面が強い人が多いのがこの現代社会の常のように思うです。だから、Protect myself!なのである。自分で自分の真理は護身しろってこと。その上で、コミュニケーションしなければ、福島の放射線と同じ。漏れましたあとは何とかしてくださいで世界から孤立する構図になる。もっと、世界としっかりコミュニケーションできて、情報を完璧に共有できていれば少なからず6月12に現在の世界情勢における日本のスタンスにはならなかっただろう。まぁ、詳しくは知らないし知りたくもないが、どう考えても全てが想定外で結局根底で島国の民が地震一発でその歴史観や人生観が揺れ崩れたたということ。

 で、音楽が消耗品だという感覚はどうも世界的にそうなのかもしれないと意識をリセットしてみようと思うようになった。結局、iPodの技術がそれを具現化したのですが、音楽ってサーバに入っているモノなのか?ということに違和感(人間臭過ぎる意見かもしれませんが)があるということと、楽器から出た音がデジタル信号に変わりデバイスのディスクにcopyされて、それが聴覚を刺激して脳は音楽と捉えているのだろうけれど、それはモノホンの音楽か?という心が発信する疑問がある。だから、消耗品だと言われてしまうと、書籍と同じ、寂しい。

 消耗品という語感にクレームをしているわけではないが、言い方を変えれば「偏在している。」英語で言うと、「be omnipresent」でいいんじゃないかな。五感とリアルの間にいろいろな仲介物や媒体が在り過ぎ。それらは結局経済の仕組みを創ってはいるが、それでも、在り過ぎ。インフラとプラットフォームは本来ただのチューブでありただのライン(経路)じゃん!それが、いかにもって発信しています、クリエティブしてますってテイでコンテンツを送りだしているが、ただの土地ころがしと同じじゃん!そもそも価値など何も創出していないくせに、さもイノベーションチックにふわふわするな!ってこと。東電の顔はまさにその悪魔が降臨しているように見えます。エネルギーを確保してるから安泰安泰だったのだろう。時代劇の悪代官がどんな輩だったかは知りませんが、あんたらはその末裔か?

 武士は死して刀を残す。その使い手の研鑽を刃は次の使い手に継承する。研鑽を怠ると刃は鈍り、切れない鉄くずと化す・・・みたいな。刀(道具)は日々の鍛錬がその生命を維持させるみたいな。さて、音楽は消耗品か?どこかエネルギーのそれと存在感が微妙にシンクロする。鉄の元素、ウランの元素、さてさて、日本人と相性のいいのはどっちだ?