広がるアートの可能性。

 社会における芸術の位置づけが大きく変化してきた。もはや芸術は、美術館や劇場での鑑賞、あるいや趣味や娯楽の対象だけの存在ではなくなりつつある。例えば、アーティストが学校に出向いて行うワークショップ型の授業。今では各地に定着し、子どもたちの創造性や想像力、コミュニケーション能力などの向上に大きな効果を発揮している。芸術の授業を受けた子どもたちが、そうではない子どもたちより、国語や算数、理科などの成績が高い。欧米諸国では、そんな報告まで出ている。とのこと。リハビリでは上がらなった腕が上がった。気がついたら車いすから立ち上がっていた。福祉の分野でも、お年寄りや障害者が芸術活動に参加することで、周囲が驚くようなことがしばしば起こる。芸術は教育や福祉、医療、まちづくりなどと結び付き、より社会的な存在として機能し始めている。という記事がある。

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 さらに、自己表現としての芸術、社会への問題提起の手法としての芸術、文化や慣習を越えた絆を繋げるための方法論としての芸術。えらい、「芸術」は使いやすいみたいである。なんか、「芸術」をこれまで地球上に存在しなかったまったく新しいエネルギーや元素のようの扱いですね。それは、それで、別段、肯定も否定もしないが、ならば、「芸術の価値」が広く深く認知されたということ。つまり、野暮な話。価値には価値を適用するが人間社会の等価交換の大鉄則ですから、その道のエキスパートの皆さまがもっともっと社会的に認知され豊かとまでは言わないが、活動や作品の価値としての代価が適用されることを自分も含めて手を合わせたい、十字を切りたいものである。

 しかし、歴史をひも解けば、そういう時代の流れはいままでも何回も世界の各地で起こっている。そして、それの兆候は決して、国全体がいい状態の時期に起こっていなことが多い。つまり、何かしらの法律や教育のシステムが機能しなくなった時に必ず人間は「芸術」に助けを求めている。システムや国の経済機能が潤滑な時は、無視しているくせに。それが沈滞し失速すると手を伸ばす藁が「芸術」のような傾向を感じる。

 大きなうねりが来ているということに他ならない。クラウドにないモノ、サーバに保存できないモノ、体温があり触感のあるモノを、この重力の下で創造していきたいなぁ~と思いますね。