目に見えないモノ。

 ある番組でのネタ。ある女優が高校の時に美術部だった。デッサンの苦手な彼女はこっそり石膏像をカメラで撮影してそれを拡大コピーしてトレスしてその上に木炭でタッチを入れたらしい。それを見た担当の美術の先生が「この絵は美しすぎますね。」と。自分で見て描いたデッサンではないことを正直に先生に打ち明けると先生が言ったそうです。「このアイディアは素晴らしいですね。しかし、この方法ですと、目に見えるものしか描けないですね。」と。ふぅ~ん、なかなかええこと言うね。いい言葉ですねとなる。この出来事は一見、深いように思える側面があるが、そもそも、絵に対峙する時にデッサンが苦手だからカメラでモチーフを撮影するような感覚の余地を与えた先生にそもそもの原因がある。もし、このような生徒がいたとしたら、トレスダウンした下書きにタッチを入れる時にどう感じたとか?なぜ、カメラは正確に物事を捉えられ、貴方は何故正確にフォルムを描くことができなかったを確認してあげるべきのような気がする。そこに、絵の深さがある。そして、さらに、何故、この美術部の時間に石膏を描くことが絵の訓練になるのか?そして、そもそも、絵の訓練とは何のためか?この部分が疎かにしてきたから、先生の生徒は石膏像をカメラで撮影したのではないかと思う。この先生は「目に見えないモノ」が見える時、それをどうするべきかをこのあとしっかりこの女優に伝えのだろうか。この断片的な言葉だけでその後、この女優さんがどうなったかはどうでもいいが、「見えないモノ」を描くことは、「目に見えるモノを描くこと」と比較してどれほど重要なのかと言うお話。目に見えるモノさえ描けない人間が、目に見えないモノだから、たぶん、心や魂や感覚の中にあるフォルムや色彩のことだろうが、それを絵にすることの意義や意味を優先するばかりに、目に見える美しい景色やフォルムや表情を見るチカラが養われないことになった時、それは、絵を志す人間として不完全だと思う。が、そもそも、完全な絵など描く必要もないのだから、一周まわってこの先生の提言は真理の断片として有効であることは確かではあるが。

 で、目に見えないモノを描くことに注視すると、目に見えているモノ画描けなくなるから注意が必要である。空想や想像の世界をいくら絵にしても他人と共有する前に自分自身に対して共有できているかという部分がどうも懐疑である。絵と対話するならまずしっかりと見ることである。そして、しっかりと見えていることである。が、それも正確にはそれを計測するモノサシはない。だから、絵は素晴らしいのである。