「世論」というもの。

 「世論」を形成している数多の情報を物理定数で分類することが、言わば、経済や文化の仕組みにリンクしている。まぁ、人間社会はこんなに簡単ではないが、ほぼ全てこの方程式で解釈はできるはずであるという仮説。

 人が3人集まれば「世論」が生まれると言われている。だから、「良き世論」と「悪しき世論」を区別しましょうなどとは決して言えないし、慣習であれ政治であれ企業活動であれ、資本の面で上層部に君臨する人たちでさえ、この「世論」をコントロールすることは難しい。だから、いつの時代にも絶対に「世論」はなくならない。このどこにでもいつの時代にも人間社会のいたる場所に存在する怪物と人はどういい関係を維持するかしないかで孤立もし覚醒もし昇天もし失速もする。

 情報社会に生きている以上この怪物を無視することは生命の維持をも脅かすからである。無人島で自然に生息する植物や動物を食べて生活している人でさえ、言語を持つ以上、この怪物の影響を受けている。まして、現代の日本、この怪物はその実態を肥大させながら、ナノサイズでも活発に分子運動を続けている。しかし、その「世論」に対して誰かが確固たる責任を担うかというとなるとそれは違う。「世論」の「世論」たる所以はその責任が個人レベルにフィードバックされないことが条件。だから、無責任な怪物が自由自在に情報化時代を飛び回っているのである。熱くない火を吐き聞こえない咆哮を続け強靭な躯体で進化しながら繁殖を続けている。まるで、カブトの「穢土転生」である。

 「この健康食品はどうやら老化を防止するらしい。」という怪物に襲われぬよう、「今までに体験したことのないこのゲームソフトは凄いぜ!」という怪物に襲われぬよう、モノホンが持つガチでベタでリアルなvaleを見極めたいものである。