2011年07月 アーカイブ

ドレスの撮影。

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 仕事でいろいろなモチーフにレンズを向けるが、ほんとに、写真は難しい。カメラマンの人は技術とかセンスとかもさることながら、やっぱ、いい写真をたくさん見ているから、今、目の前のモチーフを見た時、その豊富な引き出しの中から最適な表現手法をチョイスできるんだろう。この光とこの環境ならこのアングルでこの構図で・・・みたいな。それが結果モノは言いようだが、「愛のある写真」になるのだろう。つまり、アーティストやクリエイターの皆さまの作品を見て、結局、それがあるのかないのかが最後の最後でその作品の強さや大きさや細やかさとして注がれ転写され刻印されるのだろう。う~ん、写真は難しい。

水の花火!?

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 大阪駅がリニューアルした。まだ、2回しかうろうろしていなので、全部はチェックできていない。ただ、デパート系とホテル系で大きくなったイメージ。だから、目当てのお店は自然と傾向的に登山関係か画材関係となる。で、ちょっと正面あたりに水の時計があった。時間が落ちてくる水滴で表現されたり、アサガオになったり、花火になったり。ここも大阪駅の新しいポイントになるのだろう。これ、かなり、金がかかっていそうである・・・。

いちごの絵。

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 これはパンフかパッケージ用に描いたいちごのリアルイラスト。昨今のデジタル時代、どこかで写真を探してくればいいじゃん!となりそうなのですが、写真ではいちごの形とか構図とか色合いとか、いらないモノが映っていたり、光の加減で影が要らないとかの条件が発生する。するとなかなか最適なイチゴの写真はありそうでない。また、パンフやパッケージに使うにはちょっと暗かったり個数が多かったりとそこでごちゃごちゃ調整作業をしていると時間をかけて探した割りには中途半端な一枚になる。だから、使うツールに合わせて色や構図や背景の設定などを自由に創れるイラストレーションがベストとなる場合が多いのです。例えば、以前に大根とピーマンをあるパンフレットの表紙用に描かせてもらった時は、なんとか、大根とピーマンで円を表現するという難題だった。そんな大根とピーマンなどない。だから、大根とピーマンを買ってきて、円形のフォルムにしてリアルで描いた。

 で、この作業、なかなか、ソフトウエアではいい感じにならない。3DCGソフトもあるので、大根ぐらいはどうにでもなるが、あとでどのようなフィルターエフェクトをかけても、やはり、ソフトと手描きでは根本のニュアンスやフィーリングが異なる。3DCGでないとリアリティーが出せないモチーフも勿論あるので、ここは取捨選択なのである。ただ、リアルを描く人は少ない。このデジタル時代だから、そのスキルが必要なしと高を括っていると表現ののびしろを閉じることになる。やはり、いつの時代も相関性であり、デジタルスキルとアナログスキルはバランスよく会得しておきたいものである。

MIYUKIさんお世話になります。

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 本日はパッケージの打ち合わせで大阪の株式会社MIYUKIさんへ行ってきました。すでにお送りしていたデザインイメージで実際の箱見本をすでに作成してくださっていたので、それを持ちかえり現物と比較検討し、デザインデータの仕上げに向かっているという感じ。いろいろ、表面加工の件や箱の構造のご提案も頂きありがとうございました。サンプルもたくさん頂き、チラシやポスターなどのグラフィックやWEBサイトのデザインが日頃は多いので、ほんとにいろいろ参考になりました。販売促進ツールとしてのグラフィックデザインと実際の商品が入って販売されるパッケージ。微妙にデザインや企画のポイントがあるのですが、そのあたりの微妙なニュアンスもすべてヒアリングしていただけるのでとても安心しています。よろしくお願いいたします。

あなたは何がしたかったのか?

 もう10日は経ったので大丈夫かなとブログネタにしてみました。というのも、大阪のあるなんとか情報センターというところから突然電話があった。別の者が出たので、電話番号を聞き、担当者の名前を聞き、私のところにそのメモが回ってくる。まぁ、メモで伝わってきた情報の段階でかなりふわふわしているのですが、まぁ、何かのネタになるかと、その電話番号に電話して担当者を指名する。すると、恐らく40代ぐらいの同年齢の男が出た。さぁ、この段階でどのような展開なんだと、少し、遊び心が出てきてしまう始末。いやいや新しいお客様かもしれないし、誰かお得意様からのご紹介かもれないので、失礼のないようにと「はじめまして・・・」となる。

 すると、いきなり、弊社は顧客情報の取り扱いについてクライアント・スポンサー様からご依頼を受けて調査やアンケートを実施してご依頼主の企業様に得られた情報を分析して報告している会社だと言う。うん?これを初めて電話した人にさらさらっと言って、10人が聞いて何人が理解できるだろう?私が特に気になったのは「顧客情報の取り扱い」と「調査とアンケート」と「分析して報告する」という3ヶ所。いやいや、今の段階で3ヶ所突っ込みどころがあったが、まだ、お話をしたげなのでそのままスルーした。相槌を打っていると、まぁ、この男しゃべるしゃべる。しかし、話の根幹になると具体例を言わないし根拠も論拠も文脈もふわふわし過ぎ。そして、流暢に言葉は並べるのだが心が全く伝わってこない。ああ~マニュアル通りにお話しているのかなと聞いていても、全然、結論に向かわない。3~4分間程聞いた段階で、ひとつ質問をした。匿名の企業からだとのことですが、それを信じる根拠は何か示せますか?と。それは弊社のシステム上申し上げることができません・・・という。では、どのようなアンケートを想定しているのですか?と聞くと少しトーンを下げて、「実はですね・・・」となる。しかし、それでも主旨が見えない。ので、仮にある企業様が弊社の事業内容や体制に疑問を持たれ調査されたとして、私がアンケートに答えた内容の信憑性はどのように報告されるのか?と。相対的なのか絶対的なのか?と聞き始めた段階で、この男、明らかに語調が変化する。さらに、もし、この仮説の元、その企業様から直接、何かしらの連絡や打診などのアクションがあった段階で、改めて貴方の会社と貴方のお名前を出して電話してもいいですか?と聞くと、「はい、いいですよ。」という。う~ん、百戦錬磨である。では、改めてこのご依頼主から直接なんらかの連絡が入り、貴方のお名前が出た段階で、こちらから連絡しますので、それまで待っていただけますか?それとも、この旨をその企業様に伝えていただき、確認後、もう一度、電話連絡を頂けますかと言うと、素直に電話を切った。で、10日間なんの音沙汰もなし。

 もう少しガッツがあるかなと思ったが、さすがプロフェッショナル、見切る判断も素晴らしい。

このDM、なんでやねん!

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 どこの会社か知らないが、ダイレクトメールが届いた。しかし、これを送料80円費やし、このチラシを作成するにもコストをかけただろうに、なのに、この緩さというかこの完成度の低い感じにクオリティーの薄い感じ、よくもまぁ、これで何かを仕掛けようとアッタクするなぁ~という感じ。デザイン力やコピーライトが緩いのはまぁよくあることだが、企画戦略の主旨でもありメインコンセプトとどうも内容が連動していないぞ。これをデレクションしてこのDM企画の最終ゴーサインを出したのはどのような人間だろう?とさえ分析してしまう。その人間像が想像つかない。ある意味怖い怖い。DTPがどうのとか、デザインがどうのとか、戦略がどうのとか言いたくはないが、そのまま、ゴミ箱へ捨てればいいのだろうが、どうにも、この突っ込み加減は凄まじいのでピックアップしてしまいました。で、内容はYahoo!のカテゴリー登録の販売代理店になれば・・・という主旨で、全国に営業所があるらしい。然るべきビルの写真は表示されているから、まんざら、薄い裏でもなさげだが、正確なところそんなことはどうにでもなる。しかも、Yahoo!の販売代理店がどうのこうのと言っている割に、URLもメールアドレスもなしかいっ!なんでやねん!となってしまうでしょう。緩すぎですね。せめて、80円出して戦略を練り込むならもっと誠実に正々堂々と直球で来てくださいよ。顔も心もスピリッツも感じられないこのDM、内容的にも質量は0。その未完成な緩い企画を相殺すれば、マイナスかもしれないぞ。これでもし電話をする人がいるとしたら、その人は日本語が通じない外人かもしれないですね。そこターゲットか!?みたいな。

 しかし、ひさびさに緩いDMでした。お見事!

ゴンチチさんはいいですよねぇ~。

 本日、ゴンチチさんのマネージメントをしておられる方と少しお話する機会がありました。毎日、ゴンチチさんのアルバムは仕事場で流しているので、そのマネージメントをしている方とのお話はなんとなくテンションが上がり、逆にそれを抑えるのが大変でしたね。ぜひ、ぜひ、長浜でのゴンチチさんのライブを成功させたいので、まだ、12月頃のお話なのですが、異様にテンションが上がってしまっています。しかし、実際、ライブを成功さえるとなると、ほんとにいろいろなクリアしなければいけない問題がありますが、問題が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、まぁ、試練ということで、なんとか成功するためのルートを構築していきたいと考えております。う~ん、存在が大きいだけに、どうしても、いろんなところにチカラが入ってしまいます。そのチカラではなく、別のところのチカラに変換しながら、いい展開をイメージしながら楽しめればいいかな・・・と思っておりますが、それでも、どこかにチカラが入ってしまいますね。・・・しかたないか・・・、だって、ゴンチチさんなんだから・・・。

第11位か・・・。

 ちょっと気になるメルマガより抜粋。「今回は、30代以降のキャリアアップを考えている方が注目している人気の資格をランキング形式で発表!このメールを読めば、今取得すべき資格がすぐにわかります。30代を越えるとキャリアの方向性が定まり、社内での昇進や独立を見据えて、資格取得を目指されるケースが増える傾向があります。是非、今後のキャリアや生活を見据えた資格取得を検討してみて下さい!」という人材派遣系からのメルマガです。確かに30代というのはひとつの節目であることは確か。大学や専門学校を卒業して企業組織に入り経験を積むと平社員からそこその責任を得て末端の動きから少しづつ仕事を回すためのポジションになる年齢である。その時に自分が持っている技術や経験値をベースに新しい展開を見据えると同軸ながら資格的な分野へのチャレンジの芽が見えてくる。逆にその年齢でその芽が見えてこないとのびしろは平行線・・・みたいな傾向になる。

 で、自分のビジョンと会社の方向性みたいな比較検討がこの年齢の頃から具体的に思考を牽引するようになる。それは必然と言える部分と偶然と言える部分があるので、方向性が見えていても実際のモチベーションがマッチしなければ、もしくは、組織がその器でない場合は、別の視野を得る必要がある。つまり、会社は社員を観察しているし、社員は会社を観察している。最初の衝動がちょうどこの年齢に押し寄せる。

 そこで人気の資格ランキングの第11位が「WEBデレクター」となっていた。その詳細は、「Webディレクターとは、サイト制作全般を取り仕切る責任者。企画立案から品質・進行管理までプロジェクト全体を取り仕切ります。近年のWeb業界の拡大により、ますます注目を浴びる存在です。Webディレクター講座では、初歩から専門スキルの習得まで、わかりやすく学ぶことができます。まずは無料の資料請求から始めよう!」というリード文脈から紹介されている。まさかこの講座を受けるつもりはないが、でも、一般的にこれからWEBデレクターになりたいと感じている人がどういうことから習得していかれるのだろうか?という部分は非常に気になる。例えば、この第11位より上の資格と言えば、「中小企業診断士」「ファイナンシャルプランナー」「社会保険労務士」「ビジネススキルアップ講座」「宅建(宅地建物取引主任者)」となっているので、まったく興味がない。しかし、社会の企業の人材に対するニーズのディテールは分かるような気がする。

 で、WEBデレクターは第11位なのか・・・と。ちなみに第14位は「グラフィックデザイナー」となっている。仕事に対して自分自身がどのポジションに立つかということに対して、社会一般的にどのような技術や経験値があれば自分自身のアイデンティティーをよりビジョンに近い位置に確保できるかがこの目的だろうから、まずは、自分自身のモチベーションを確認する必要があるように感じる。私は20代に2回転職して30代(30歳)で独立したので、このニュアンスの部分が実は分からない。こうして、毎日到着するメールマガジンやお客様の声を総合しながら、現代の社会の構造をリサーチしている程度。どこにニーズがあるのか?どこに戦略を捻じ込むのか?氾濫する飽和する情報の中で意外とサインは小さい。一瞬も気を緩めることなく、わずかなサインを大きな成果に覚醒したものである。

就職活動の想い出。

 実は自分自身大した就職活動の想い出はない。って、何が就職活動だったかも明確な記憶はない。だって、芸大の4回生の最後の1月頃まで就職活動など頭になかったし、別に大学に対してどこかいい会社を勧めていただけるとも考えていなかった。というよりも全然働くという意識というか社会に出るという意識が卒業制作を完成するまでまったく頭に無かった。終わって卒業が確定しても、さて、どうするのか?程度の意識だった。それこそバイト先を探すような感覚で1月の終わり頃から新卒者募集の専門誌などを物色した程度。よい時代だったのか、それとも、呑気過ぎだったのか。とにかく、在学中4年間で40種類以上のアルバイトをして4年間続けたバイト先も3社あったし、その中では、卒業したら働くか?と言っていただいた会社もあった。だから、さほど働くという意識と正社員として入社試験を受けて面接を受けてみたいなことはしなくとも働くことはできるだろうと考えていた。だから、どんな会社にするというよりもどこで働くかをそれなりに悩んだ。結果、なんのあてもなく「東京のデザイン会社で働く」がその時出した答だった。まぁ、この程度の指針でよくもまぁ・・・。

 で、現代の就職活動たるや、熾烈強烈激烈である。有名な国立大学でさえ・・・みたいなことだから、ガッチリ4年間勉強しても、「就活」は0スタートみたいな空気。そりゃ大変でしょう。ほんとに社会が人材をガチで選定している空気がありますね。「若者は何故就職できなくなったのか?」とか、「就職活動は1日200ページの読書から」とか、「就職活動のため、1,000冊読めば知識の水準が変わる」とか、「他者との徹底的なコミュニケーションが自分を磨く」とか、いろいろな現代を象徴するようなキーワードがそのテイの情報面にはちりばめられてる。が、逆にどれも、最近の若者はやっていないのか?ということ。それを別段特筆しなくとも、それぐらいは普通大学生ならやってきたでしょう!?みたいなことがフォーカスされているってことは、水準が下がったのか?確かに大卒の教育レベルを相対的にリサーチしたところ、先進国の中で日本は下から8番目だったそうである。50数ヶ国中ですから、これは問題。

 確かに自分が20代前半の時は日本の景気も良かったのだろうし、今ほど厳しい社会情勢でもなかったとも言えるが、もしも、この20数年で水準が下がり、社会構造が多様になり高い水準を求めるようになっていたとしたら、学生諸君の皆さん、これはシリアスな問題ですね。となる。なりませんか?

 だから、大学を選ぶっつ~よりも、自己研鑽の場、自己探求の場、自己主張の場としての大学ではなく、社会生活をするための予備校状態!?が今の大学だとしたら、それはそれで、現代の社会構造にマッチするはずないな・・・となる。では、高校から大学にかけて今の若者は何をしているのか?もしかして、勉強ばかりしていないか???ということになるぞ、必然的に。人間個体としての社会性って入社試験でスーツを来てからスイッチを入れるんじゃないぞ。それこそ幼稚園の頃から人間の社会性は成長し始めているはずなのに、義務教育が上位の学校に行くための予備予備予備校化しているから、こうなるだけ。つまり、学校の先生にも組織としての学校という組織にも、それを推奨している日本にも問題はある。が、そんなこと言ってもにわとりと卵。いつ何どきのタイミングでもいいじゃん、「やるのか?やらないのか?」スイッチを持っているか持っていなかだけ。そのスイッチはどこにある?どこかからの授与を待つのか?親が譲ってくれるのか?問題集の答の欄を塗りつぶせばゲットできるのか?違うはず。それは、スイッチらしきものですが、ONもOFFもないダミーです。スイッチはつまり今も昔も自分自身ですという意識が根本的に欠如しているだけ。シュウカツ・シュウカツって新しい丼モノかっ!?って話。

 たぶん、スタンフォードやオックスフォードやマサチューでは違うんだろうな?でも、内定率はそんなに高くないはず。つまり、そもそも、社会性の相対人口比率ってそう変動していないだけで、それを、何かの目的でマスメディアやネットメディアが煽るから弱い方向に主軸が変速するんじゃないかな。この程度の分析・洞察では何も始まらないが、ざくっとそんなところじゃないだろうか。

 だって、初めてお世話になった会社の給料はヒトケタだったですものね。でも、そのドアを開く時、自分はこの世界で一人前に絶対になるぞ!という決意を胸にそのドアを開いた記憶がある。その覚悟が言わばスイッチなんですよね。ポテンシャルを学校のカリキュラムで高めようなどとそもそも本末転倒ですよね。あくまでもあくまでも具体例ではありません、ただの独り言でございます。

スマホは便利か?

 十数年前、携帯電話を買った時、なんて便利な時代になったものだと感動した。今のスタイルからすると相当大きいサイズだったが、その前に大きいトランシーバーぐらいの携帯電話。建設現場で現場監督が方からぶら下げているやつ。あのイメージが強烈だったので、便利便利だとは言え、ここはベトナムではないので、あれを方から下げて仕事はないなぁ~と感じていた。それが、手の平サイズの携帯電話が登場して購入した時は、何か新しい時代の感じがしたものです。そのから十数年、携帯電話を追随するようにスマートフォンが登場した。そして、機能合戦が始まった。最初は液晶のタッチパネルでちょろちょろスリスリするのが一見カッコイイようにも思えたが、さぁ、どうか?それだけ新しい技術でもないし、スリスリインターフェイスを制御するOSについても、もっと、携帯電話という機能の部分で頑張って欲しい。でも、電話はどんなスタイルになっても電話だから、余計な機能(アプリ)で付加価値としているようにしか捉えることができない。その機能は使う?無料ゲームとスマホの電話以外の機能との違いは何?公儀的な意味に置いてはどちらも大差ないぞ。で、みんなでスリスリタッチがどうもCOOLじゃない。インターネットWEBサイトのブラウジングという大切な機能があるから、マウスのない端末はこの手法でしか制御できないのは分かるが、普通の携帯電話の十字ボタンとスリスリタッチパネルの比較はどうなのだろう?

 で、買うのか買わないのか?ということがそろそろ迫ってきた。まず、iPhoneはスルーした。flashを見ることができないからが理由。で、アンドロイドを一回ガチで検討した。しかし、高い。その間、相当ガチでiPadを検討したがスルー。で、iPad2が出た。さほどリサーチはしていない。お客様のところでそれがあれば、こんなこともできるか!というテイで「便利な機能」を知るが、自分が持つ持たないの段階で「まぁ、いいか!」となる。つまり、電話をかけるなら今のauの携帯電話があるし、仕事でWEBサイトをリサーチするなら、小さい画面は嫌だし、iPadの操作性も好きではない。食わず嫌いなのは周知の上、やはり、これまで使っていたツールがいい。で、決定的な理由があるとしたら、たぶん、あの「スリスルタッチパネル」が嫌いなのだろう。WEBや写真をタッチパネルで閲覧している分にはいいのですが、文字入力が嫌い。いずれスマホの機能として言葉を話せば、勝手にテキストに変換してくれるような機能が標準装備されれば使うかもしれないが、お店で重要なことを声にしなければならない時は困るだろうなぁ~とか、やっぱテキスト入力はキーボードかボタンがいいなぁ~と思ってしまう。

 スマホか・・・。画面を大きくした分、本体が大きくなったことも嫌いの原因かもしれないし、スマホの機能上バッテリーの容量とか電話の接続性能などの面でまだまだ従来の携帯電話を越えられない現実もあるぞ。もうちょっと待とうかな・・・と言いつつ、結果、スマホは買わないような気がしますね。どう考えてもどうトレンドを過大評価してもスマホ自体が便利だとは思えない。結果、携帯電話とノートパソコンの折衷案だからかとも考えるからかもしれないが、お互いの利便性を装備しつもりが、よくあるテイで、お互いの利便性自体が失速しているような展開かもしれないぞ。電話は電話、パソコンはパソコンでいいんじゃなかろうか。そもそも「便利」って用意されているモノじゃない気がするし、どこか他動詞的なニュアンスが嫌い。テンションをどこか依存しているよな気がする。機能と技能で言えば、機能だけ先行して技能はどこよ?みたいな・・・。いたるところでよく見かける現代社会のsomething.

NIKKOR LENS 35mm f/1.8G

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 本日購入の新しいレンズです。とにかく、明るいレンズということで35mmの1.8Gにしました。で、これがそのボケ足の感じです。風景からポートレートに、そして、30cmまで接写できるので、まず、これは抑えておこうという感じ。あと欲を出したらマクロや望遠やシフトレンズが欲しいところですが、まずは、セオリー通りに揃えていきたいかなという感じ。レンズはニコンにしておけば、ボディをバージョンアップしても連携は可能ですし。まぁ、これで撮影のバリエーションがいろいろ広がるでしょう。やっぱ、明るいレンズは一本必要かなと。

そのもの蒼き衣を纏いて・・・。

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 ある方のブログでこんなアプローチを知る。ナデシコ=ナウシカと。う~ん、これは素晴らしいぞ!何が素晴らしいかってあらゆる万象がひとつに繋がる感じである。チェーンリアクションである。連鎖はお互いの熱量と熱量をぶつけ合い強烈な巨大な熱量になり大きな波動を生む。これは良きにつけ悪しきにつけこの波動の中で人間は暮らしているに他ならないということのリアル。

 なでしこ=ナウシカか・・・。そんな視点は相対的に俯瞰でモノゴトが見えている人の視線である。注視せずにマクロにミクロに木も見て森も見ている感じ。

 確かに澤さんが優勝トロフィーを掲げた瞬間、黄金のテープに包まれていた。今、地球はまさに腐海のそれに近い状態かもしれない。そうかそうか、姫姉さまは澤さんだったのか!

 で、巨神兵は復活していないよね?

MACはどこへ行く?

 あるメルマガより抜粋~「新Macミニを紹介するアップルのWEBページには、こんなコピーもありました。「必要なものだけ。不要なものはありません。」たしかに今日、個人的には光学式ドライブを利用する機会はほとんどありません。「音楽や映画が欲しくなったらiTunes Storeへ。」たしかに今日、というかもうずいぶん前から個人的には光学式ドライブを使っていません。「アプリケーションはMac App Storeからワンクリックでダウンロードできます。」たしかに今日、App Storeの便利さを知ってしまった以上、余程のことがない限り個人的にはパッケージに手が伸びません。ただし、そうはいっても、いざというときの利便性がまだ光学式にあるのも事実。他のMacやPCのドライブから認識させたり、外付けをいちいちつなげるのはやっぱり面倒で時間もかかります。でもその、いざというときも、たぶん近しい将来にはなくなるんだろうなあと思います。アップルがいうところの革新とは、まったく新しいものを生み出すのではなく、未来にある普通のものを今創りだすことですから(失敗もありましたけどね)。」とある。思考錯誤はいいが紆余曲折が曲がり過ぎ折れ過ぎ。何が便利かは誰が決めるのか?に軸足がない。そんなところを軸足にしていたら商品やコンテンツの進化はありえないが先方の言い分だろうが、そもそもを考えてみたい。パソコンはツールである。どう使うかはユーザーが決めるということへの割合いを無視して技術革新の押し売り(たたき売りかも?)である。で、あとは、これが「イマドキの便利です。」「サイシンのスタイルです。」って言ってるだけの言いっぱなし。

 これは私個人がMACを見切った理由ですが、ツールとしては別段さほど特化したことでもないし、別に、アップル=デザイン性、WIN=機能性などというパワバラはどうでもいいこと。さほどMACのインダストリアルデザインがいいとも思ったことはない。23歳の時(24年前)、新宿で初めてMACに出会った時からMACはツールでしかない。しかるにソフトウエアも同義である。機能と技能の関係をいい意味で無視できるほど趣味の世界でパソコンを捉えることはしないし、できないが正解。

 で、必要なものは?不要なものは?という質問が発言がメーカーから出る段階で完全に軸足がぶれている。そんな登り方では1,000m級の山も登れませんよ。アップルはダウンロードシステムで首を繋いだがそれは貴方の池に貯まっていた水をたまたま苦肉の策として売ったからでしょう。水はどこにでもありますからね。で、果汁(過重)を入れて、炭酸(起爆剤)を入れてボトルに詰めてパッケージ化したから、のどが渇いた人がそれを買っただけ。そんなそんな貴方達がのたもう程の大義名分は全てあとづけでしょう。

 MACという価値観はどこへ行くのだろう?できれば20数年のパワーユーザーとしていっしょに山を登りたかったですが、道の途中でほったらかしにされた気分です。だから、もう、アップルの展開には期待ができない。それに比べるとWINは足が地についているように感じる。相対的な重力に対して自重を受け止める体制が整っているような気がします。って、一寸先は闇ですが・・・。

 しかし、スマホってどこへ行く?あんなアプリ必要か?あんな無料ゲームに一喜一憂している時間が有益か?っていう前に感覚的に楽しいか?最新デジタルデバイスには非常に「?」が多すぎる。まず、それは何かを決めてほしいものである。それも、ユーザーに依存するのか?それとも、それはユーザーが決めることなのか?この現代では・・・。

どこが!?

 先週の日曜日、久々に映画館で映画を観た。目的の映画は想像以上に満足だったので別段それについてそれほどブーイングするつもりはなかったのですが、にしても、それってそれだけ何故人気があるのか?と不思議な感じが逆に改めての部分でリアルだった。そもそもそれは登場して相当年数が経っている。世界中でもブームなった。そこそこブレイクもあった。いろいろなグッズが世間を席巻した。ゲームに当然なった。それはそれでいいと思う。そういうベクトルがブーム的にハマることもあると捉えれらなくない。そんなこと言ってしまえば、AKBもエグザ~も韓国ブームもそれで考察想定内である。それを結果戦略だと言える人はそもそも結果が出ていることで事後のフレームとして理論武装しているのだから必然視もできよう。そして、年代的なことや仮にその戦略が的を得てなくてもそんなバイオリズムはエンタメの世界ではループしているもの。つまり、波動に乗ればセールスに結び付く。そして、そのポイントさえ見誤らなければ必ずトップに駆け登れるだろう。それに、選ばれたことにすれば、現在のそれが例え空虚な存在だったとしてもそれをたまたま偶然としてポテンシャルが内在していたとすることもできなくはない。全てのブームは一定のサイクルで巡っているという仮説の元にだが。しかし、それには、そのパターンもなくブレイクしたように考察しているし、他のアニメと比較してもそのキャラはさほどのびしろもなければ展開力もなければ魅力もない。さらに物語性が高いか?高くない。その存在自体に魅力があるのか?絶対にない。例えそれが子ども騙しだとしてもである。自分が子どもなら騙されてあげたのか?絶対に、自分自身が小学生でもそには120%反応はしない。もしや、それが世界を席巻しているなどとこの狭い日本で捉えているから黙視的になってしまうのか?もっと、視野を広げて捉えればそれはさすがにそれだけの価値と魅力と展開力があるのか?いや、絶対にない。あまり、ブレイクし頂点を維持しているこのムーブメントを頭ごなしに否定・嫌悪するのは良くないことだし、このテイについて一事が万事、天の邪鬼な私がへそを曲げて分析しているからかもしれない。僭越ながら、それでもである、それはどこが何がどのように一定以上の指示を長期的に引き寄せているか全く不明である。もしかして、私にはその神経が先天的に存在していないのかとも考えてしまう。

 それが、この夏休みに向けて「黒か?」と「白か?」だって!なんじゃそりゃ!?テレビアニメならいいが、映画ですよ、それも2本立てで、「BLACK OR WHITE?」って、なんでやねん!!!ほんとにこれだけは心の魂の精神の興味の好奇心のメモリが動かない。見事に動かない。

 なんなんだ!ポケモンって???

グーグルのモチベーション。

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 いつものことながら、素晴らしいタッチで素晴らしいアングルで素晴らしいモチベーションを捻じ込んでくるぞ。グーグルがITのひとつの金字塔として君臨している理由は人。人がオモロイから技術や環境がそれを覚醒させているに他ならないはず。つまり、インフラがどれほど活性されても好条件の立地がいくら奢ろうとも、COOLな人が不在の磁場には伝導が起こらない。与えられた条件だけで答を出すのに慣れている人にはなりたくないですね。いつもいつもグーグルの楽しいヘッダーを見るたびに、その画像に上からこう言われているようである。「で、お前は創ることを楽しんでいるのか?」と。

 そんな、素敵なヘッダー画像です。

尾獣キャラ9人衆。

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 これは言わば岸本さんの総決算ともいえるイマジネーションが込められてる。歴代の長や伝説の怪人や巨人などはいるものの、そして、中核の木の葉の面子はいるものの、やはり、岸本さんのイマジネーションはここからだったように推察する。さらに、10尾もいるわけで、マダラは最高の存在としてどう崩されるかが楽しみではあるが、もしや、すでにマダラの存在はもうこの世のそれではないような気もする。つまり、大戦などという存在は起こるべくして・・・と考えるよりも、ひとりひとりの人間の中にある小さな怪物が誰の命令を受けたからではなく、自ら戦争を欲している本能的な部分があるとさえ岸本先生は語っているような気がする。だから、ナルトの中の九尾は醜くおぞましく巨大なのである。

 言わば、人間が行ってきた戦争も同じ。「戦争反対!」「原子力反対!」と叫びながら、実は、理由はなんでもいいのかもしれない。自分の中にある怒りを確かめたいから、それは、生きているということの最大のリアリティーだと本能がオートマチックにスイッチを入れているような。尾獣を岸本先生はそういう位置づけで設定されたような気がします。だから、この作品は最高なのである。

山頂まであと少し。

 7月17日(日)伊吹山、初登頂まであと少し。なかなか素敵な山頂でした。こんな近くに素敵な場所があったのですね・・・。3時間は苦しかったですが、楽しかったです。

ジャズギターってこれですよね。

 う~ん、カッコイイ。やっぱ、いろいろな楽器あれど、ギターが素敵ですね。いや、素敵過ぎます。7月16日(土)、長浜市、キャラメルパパさんでのライブの一場面でした。

なでしこの強さ。

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 世界一の称号を手にしてもなんなんだこのふてぶてしさ。それに反するようなメディアの連中の美辞麗句のオンパレード。しかし、なでしこの面々はさほど・・・みたいな。そんなのあたりまえでしょ?とも違う、努力したから結果が出て当然!とも違う。なんか強い印象がテレビの画面から伝わってくる。何度も試合のリプレイを見るがその映像はたぶん今後、荒川静香さんの映像よりも多くテレビの人達は事あるごとに流すだろう。それに値する大き過ぎる偉大過ぎる結果。しかし、澤さんをはじめなでしこの面々のメディアの人達への苦笑いと失笑な感じはとても素敵だった。これが本当に世界レベルで戦い結果を出した人達の強さだと感じてしまう。その苦笑いとシンプルなどこかぎこちない感じの心からのコメント、さほど演出もされていない素のストレートな言葉がとても印象的だった。

 私たちは努力して世界一になった、でも、それが何か?みたいな強さ。これが男子になると、わあわあ言い過ぎて辛くなる。ほんとに結果を残してきた人達って皆こんな感じですね。自分のスタイルで勝つというカッコいいがそこに座って、ただただ、にやにやしているだけで伝わってくる存在感。ほんとうに強い人は多くを語らないのだということ。

 さて、メデァアの人達、なでしこさん達に「世界一の実感は?」と何回も聞いていたが、どう答えて欲しかったのだろうか?そんな質問を聞いて何になる。そこに目の前に世界一が座っているのだから、それを貴方達の言葉で伝えればいいじゃん!貴方達が感じた世界一をご自身のポテンシャルで受け取って言葉にしたらそれでいいじゃん!それが本当の「世界一の実感」でしょう?それをわざわざ聞かないないようにしてください。福島の頑張っている人達に頑張ってって伝えるよりあさってな言葉ですよ。

 強いなでしこが歴史に大きな金字塔を打ちたてたってこと。それを心で素直に感じたいと思う。

映画「SUPER8」。

 やはり、アタリだった。公開されてもう数週間が経つ。上映室には10数名。でも、明らかに「SUPER8」を観にきた感が漂う人達がいないぞ。他にも上映室は8ヶ所あるが、いずれも、ポケモンなどのお子様夏休みモード作品ばかり。これを映画館で観るのか?となる。まぁ、それでも、この時期、パイレーツでもX-MENでもなく「SUPER8」という予感があった。全くノーリサーチ。CMしか情報は頭にインプットしていない。それを判断するに、この時期のこの映画にしてはまったく世間一般的なセールスポイントが感じられなかった。人気の俳優も女優も皆無。しかもどこかSFタッチ。これではたぶん日本のマスメディアにコントロールされている人達は反応しない。それが、上映室の10名で理解できる。

 しかし、アタリだった。どうアタリだったかは、タイミングを見てDVDが発売されるまでにじっくり分析したいと思っています。もう数回頭の中ではこの映画が最初のシーンからラストシーンまで繰り返させる。覚えている限りのセリフとシーンを反芻しています。噛んでも噛んでも美味しい感じ。ひさびさの映画館での映画。このアタリな感じは爽快でした。

 いい映画と出会えたあとのこの感じ、う~ん、なかなか言葉にできない。

ストレステスト。

 これを検索するとこうなっている。その意味は多義的であり、必ずしも機器関連の用語でもないようですが、こうなっている。「『負荷検査』 元々電気製品・部品で耐久性を調べるために、定格以上の電圧、電流、外部温度、震動を上げてテストしている(特にコンデンサーは高温に弱い)。半導体ではオーバークロック動作も使われる。自動車、鉄道などでは速力や負荷(重量)を上げるのが一般的である。日本製品の優秀性はその中で育てられた。逆にアメリカでは国土の広さと多様性を受け、自国で販売することでテストに合格したことにした。」となっている。これを経済界や政治の世界に置き換えると、今の日本のそれはかなり緩い!?

 人間も機械も組織もなかなか具体的な予想不可能なストレスに強くなるには根本の部分が強い必要があるだろう。ちょっとし小さい問題に崩れるような弱さはどんな存在にも内在するだろうが、この言葉をある種のサインと捉えると、今、日本は想定外のストレスにさらされていて、その問題を回避するのにこうも組織や仕組みが綻んでいるというリアルだろう。さて、もし、教科書通りにストレスを用意して規定のレベルをクリアしても、政治家や一流企業の然るべき部門の人達は大丈夫か?テレビに登場する専門家もちょっと意見が食い違う感じになった場面で簡単に語調が上がっているぞ。かなり、脈拍も高く推移しているだろう。このような方も一応そういうテストがあればやってみるべきだ。

 他人事のように言っているが、自分自身もストレスやプレッシャーには見事に弱い。想定外の事が起こった時にすぐにテンションが上がるし挙動不審になる。でも、一旦そうなってしまってからが勝負だと思っているので、へこたれず諦めずそこを深く掘ることを続けていれば、次、同じトラップに出会った時に最適に対応できるだろう。要は予測し過ぎないことが一番いい。ストレスやトラブルやプレッシャーなど、変に小賢く「傾向と対策」視なんかするからもつれるのである。

 ビックバスの気配がある。しかし、バックラッシュしている。早く早く一秒でも早くポイントにルアーを入れたいが糸がもつれている。そこでこそ、じっくりと一息ついてラインのもつれを確実に直すことである。そして、この今のタイミングは逃したとしても、次のタイミングは絶対にやってくる。それを知っている人はその次のチャンスでビックバスを手にする。バックラッシュはとても辛い状況ではあるが、それを経て、次のワンキャストが強くなる・・・みたいな。

伊吹山初登頂!

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 毎日見ていた伊吹山。四季折々の伊吹山をいつもいつも見ない日はない。だけど、山頂まで登ったのは今日が初めてと・・・。そんなもんですね。早朝午前5時頃からアタックして無事3時間で到着したその山頂は、へぇ~こんなにも近くにこんな聖地があったのか・・・みたない感動です。これ昨年の富士山の時も感動したがこんな車で15分のところにこんなリアリティーがあるなんて・・・みたいな。

 実際、右の股関節と太ももの上が足では弱い部位なんですが、そこにやっぱ痛みが少し。でも、それでも、それを回避しながら、登る練習をしなければ、どこか痛くなるのは当然。そんな、レスキュー隊で毎日訓練訓練の人間ではないので、逆に、この感じがアベレージクライマーのそれかなと、自分を納得させながらの、伊吹山初登頂でした。あと、1回、富士山の第2回目のアタックまでに、最終チェックで2時間登りの1時間下りを練習して富士山に向かいたいと思っています。

 しかし、しかし、山ではいろいろな人に出会う。人間動物園である。全てをここでライトダウンすることはできないが、特筆するとしたら、あの方でしょう。しかし、その方のことをここで書いた場合、それは、あまり、武勇伝と対極にある場面だったので、クライマーとして小馬鹿にするような書き方になってしまうので、その表現は慎重に厳選しなければならない。だって、いつ何どき、自分自身がそういう感じにならないとも限らないからである。過信や奢りは山では禁物。常に、相手は自然と自分自身。だから、いい時もあれば悪い時もある。だから山は楽しい。心臓が飛び出しそうになるぐらいドックンドックンする時もありますし、膝も股関節もピクピクしながらガクガクで登る降りるを経験していると、体力や持久力がないんだなぁ~と感じる以上に、いろいろな意味で、それこそ人間として、「ああ~まだまだだなぁ~」と自分自身に言い聞かせていいます。そのちょっと癖になりそうな自分自身への研鑽感があるからこそ、山に登ると言ってもいいぐらいなのです。つまり、その日の体調、目標レベル・目標時間、天候の読み、パートナーとのコミュニケーション、出会ういろいろなすべての人に対するリスペクト。これが、言わば、山登りの本丸でしょうね。

 で、その人は、ちょっと、私が言うには僭越でありオコガマシイのですが、「まだまだ」だった。

 後日、その方は登場はしないが、山頂の風景をこのブログで映像で紹介しま~す。お楽しみに!

ゆかた祭り@キャラメルパパさん。

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 これがいわゆるカッコイイという奴ですね。この大先輩の演奏を見て何を感じるかで自分のポテンシャルが推し量られているようなそんな気分。なんだなんなんだこの大御所は?カッコ良すぎです。そうかそうかジャズギターとはこういう感じなのか、ずっと、ギターでJAZZをどう取りかかろうかなどと技術的なことばかりを考えていた。コードやフィーリングやテイストやって頭で考えるものじゃないんですね。ざくっとフィーリングでスタートすれば、プレイヤーがJAZZになっていたら、何を弾いてもそれはJAZZになると。つまり、JAZZを頭で考えている段階では決してJAZZにならないみたいな。勿論、この大先輩がどのような経歴でどのようなバックボーンかは全く存じ上げていませんが、それでも、この大先輩にJAZZが降臨していることは感じられます。ここまで到底なれそうにないですが、とりあえず、とりあえず、テネシーワルツから始めようと思いました。後日、この大先輩のライブ映像をこのブログにアップしま~す!お楽しみに・・・。

ゆかた祭り@ここちさん。

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 なんとも素敵なトロンボーンの3人組さん。夕方から集まって練習しておられるんだそうです。なんかとてもとてもいい感じの3人組のパパって感じですね。好きな音楽をこだわりを持ってああだのこうだの言いながら練習しておられるのでしょう。う~ん、どんな音楽のライブであれ、こうして、音楽を楽しんでいる人達をみるとほんとに羨ましいです。ひとりでも音楽は楽しいですが、たくさんで集まって練習して、こうして、素敵なステージで披露するみたいな感じが、素敵すぎます。

「下町ロケット」という物語。

 今年の直木賞の作品のタイトルである。先日発表だったからまだこのキーワードは新鮮なはず。このタイトルからどのような物語かを今の段階では想像しているが、実際、書店でこの書籍を発見しても、さて買って読むのかとなるといつも躊躇してしまう。結果、買わない場合がほとんどで、何故、気になっているのに買わないのか?について考えてみた。

 「下町ロケット」なんとなく日本の技術力を誇示するようなタイトル。下町のエキスパートが宇宙開発のどこか重要な部分を担っています的な部分をベースに展開される人間模様みたいなテイだと想像する。この段階で人間模様と宇宙開発が適正であれば間違いなく手にとりチラミして購入しているんですが、この切り口ありきの作品はどうもこれまでの傾向として「ハズレ」が多い。何も書籍の評論を生業にしているわけではないのだから、そこを敏感になっても仕方ないのだが・・・。でも、何故か、興味があるが、直木賞も芥川賞も受賞作品から出会うことはない。逆に、その後、作家デビューされた著者が温めて温めて書き下ろされた作品をたまたま書店で発見して、芥川賞作家や直木賞作家であることを知らず、へぇ~オモロイ物語だなぁ~ってなり、結果、あとがきとか著者のプロフィールを読んだ時に、「ああ、だったんだ!」となるパターンが多い。ので、最初から直木賞受賞作品ですというテイで読み始めることで、無駄にハードルを上げているからかもしれない。審査の批評を読んでもピントが合っているようにも思えず、時代性とか描写のテクニックとか言われても微妙な癖が気になる。フェイバリットな作家さんなら、この文書の癖やキャラの人格の魅力で引きつけられる訳で、審査員や批評家の意見は全然あてにならない。

 で、これも、書籍としての情報のディテールが自分とマッチしているか否かは読むしかないのである。だから、小説家の人は大変だろうなぁ~と思う。こんな我がままな素人が相手なわけですから、自分がオモロイと思っている世界観を書き下ろすだけでは成立しないのですから。つまり、小説も映画もデザインの仕事も社会(ターゲット)との整合性の上にその特異性や品質や鑑賞性や機能性が求められていると言う構図。

 まぁ、「下町ロケット」、とにかく書店で発見したらチラミしよう。

映画「ソーシャル・ネットワーク」

 いつものことながら、D.フィンチャーにはいい感じでやられてきたが、さて、この映画「ソーシャル・ネットワーク」はどうだったのだろう?もしかして、これは「フェイスブック」のプロモーションビデオだったのだろうか。設定も物語もリズムも悪くはなかったが、この映画はD.フィンチャーでなければならなかったのだろうかという気持ちがまず見終わった時の印象でした。もっと、何か仕込まれているのか?とか、意外性というか、そんな部分を期待して観ていたからであり、これまでの作品は間違いなくそのテイストがあったのに・・・。残念というほどのレベルではないが。

 しかし、最近、あるイベントに関連する物語(原作らしきモノ)を仕上げようと取り組んでみたが、その難しさに放置状態になっている。一気に思っていること考えていること感じていることを物語化しようとしたのですが、自分自身の奥の浅さが簡単に露呈した。モチーフを描くために必要なリサーチというか体感している材料が少な過ぎたと反省している。しかし、この物語はどうしても完成させたいと思っている。想定以上に時間が必要かもしれないが、絶対にひとつの物語として完成させなければならない。一人で完結する作品である絵やイラストや小説などは、他人の意見を考慮せずに自分の世界をただカタチにするばいいが、映画を作成するための原作、もしくは、物語を構築する流れでの映像化などと、最終的に多くの人の手や想いを内在させる成果物にするためには、自分勝手な世界観や展開では全然ダメだという壁がある。なんとかなるだろうとか、この感じはこう書けばたぶん伝わるだろうということでは、絶対になんともならず、伝わらないということ。この現実は結構大きい壁である。

 共同作業であり組織で何かを作成する場合、いろいろな意味の「足並み」というか「協調性」が必要だということなのだろう。これは、非常に自分的には難しい。経験値がないと言ってしまえばそれまでなのですが、では、この経験値はどうして会得すればいい。情報が飽和しているとは言え、この場合の本当にほしい経験値はネットの中には存在しない。例え、フェイスブックで何万人の友人がいたとしてもそのルートから経験値がダウンロードできることはない。だから経験値なのである。正々堂々と正面からガチで取り組んで失敗して失敗して失敗した後に、何か手の中に残るリアリティーが経験値であり。失敗の過程から情報ではなく知見としての見方や捉え方が会得できてこそなのである。だから、いつもこのことを頭の比較的前の方に置いて反芻を繰り返している。それに取り組むためのアプローチもできることをやっている。情報やネット上の好奇心はこうも簡単に連動・連結・連鎖する時代になったのに、この感覚だけはどうしようもない。ネットの情報がこうも「学ぶ」という存在と距離があるとは・・・。

 で、映画「ソーシャル・ネットワーク」がPVに見えてしまったという訳。

美男でええのか?

 「イケメン」とか「美男」とか「草食系」とか何をどうしたいのだろう、マスメディアは?もうここまで捻じれると原型がなくなりますね。一方で歴史ドラマが戦国武士を描く、明治維新の革命家を描く、世界を又にかける企業戦士を描く、現代社会にメスを入れるキレモノ医師を描く、深層心理を解き明かすプロフェッショナルを描くって、それだけいっぱい軸を創って最終的にゲーム感覚でスイッチオフみたいな。うっすいトレンドにうっすい志。

 で、美男ということで、すらっとした美男が画面に映えるのは今も昔も同じでいいが、その使い方がちょっと乱雑ではないか。とびきりの美男を中心に話を組み立てればいいのに、たくさん集めてさぁ美男が画面にいっぱいみたいなテイがどうもテンプレート化してませんか?言わばAKBを筆頭にモーニングのあたりからの文化・慣習なんだろうけど、いっぱい並べてどれにする?みたいなテイが多様なニーズをキャッチするテッパン手法なのかな?それが的を得ていると言えば得ているが、その先に何がある?サメの歯と同じで、抜けたら次が用意されているからそれはそれでいいのだろうか?つまり、サメと同じ。泳ぎ続けて食べ続けてください。そこに購買やムーブメントが起こり、それが引いては文化になる。つまり、ローマのコロシアムの奴隷と獣が実は「美男」と「AKB」なのかな?

 で、ふわふわしている間に放射線の問題と電気の問題をグレイにするのかな?それも、人間の本能です。人間は忘却の生き物。CPUの構造は完全に左脳と右脳の中で起こっている化学変化を機器化したプログラム化した産物。当然、ゲームもクラウドもSNSもそうなるはず。すると、美男を並べてどんな夢を見せてくれるのか?ディックがつぶやくかもしれません、アンドロイド(美男)が電気羊の夢を見ているぞ!と。

常時モニタリング!?

 なんでやねん!不的確・不適正なツイッター・ブログを監視する業務を公儀に募っているらしいぞ。ほんとに監視とかモニタリングとか好きですね。ちぃっちゃ国のちっちゃい人達だ。CIAのマネゴト!?しかもアンダーグラウンドに潜む勇気も知恵もないもんだから、公儀に「わかってくださいよ、国の平和のためだから・・・。」みたいなことでしょうね。まぁ、モニタリングはいろいろなタイプがあるだろうし、さまざまなネット犯罪が横行しているのだから、やるべきだとは思いますが、どうせやるなら、水面下のもっともっとDEEPなところでやれば。仮に不適正だというブログやツイッターが判明した時に、モニタリングだけじゃないでしょう。仮想空間に漏れた放射線も仮想空間で除去するだけ?みたいなことではないでしょうね?しっかり、悪の根源を征伐してくださいね、御代官様って感じ。情報機関が得た情報をどう収集してどう活用してどのようにリアル社会の不的確で不適正な言動・思想・行動を鎮圧させるのか?そこが本丸でしょうし、そこも仮想空間だのみの机の上の会議手法では絶対だめですよ。つまり、監視しているということ=監視されているということをご理解いただき、あとは、双方の技術力とスキルと経験値でガチの勝負ってことですよね。そこにビジネスチャンスがあると捉えた人はアピールするでしょうが、その分野のスキルを持っている人がはたしてあなた達のその希望に沿った人達かな?という疑問も残りますよね。もし、悪意のある人が国のセキュリティーに侵入するためにこの業務委託を受けたとしたら、どうします?それも想定外?つまり、想定しすぎなんですね。今、想定していることが、次の瞬間、想定外になるってことを体感していないってこと。仮想と論理と知識の集積だけで問題を解決しようとしているから想定が想定でなくなるのです。

 1km離れた藪の中、スナイパーがスコープを覗くと敵のスナイパーが自分に向けて引き金を引くのが見えた。このシーンが彼が生きている時に最後に見たシーンだった・・・。みたいなことにならないように、潜む藪を選ぶべき。同じ性能のライフルを持っていることに格差は生まれない。このケースの場合、最も重要な判断は、どの藪に身を潜めるかですが、ただ、どこにその的確で適正な藪があるのか・・・?

 で、このブログは適正か不適正か?

テレキャスに向かう。

 まだまだ、運指を初めて2日目。まったく、離れていたので、びっくりするぐらい指が動かない。さらに、ボルダリングのトレーニングで指で壁にぶら下がっているので、両手の指の関節の調子が悪い。というよりも痛い。逆送するような運指作業。まだまだ先は長いが、でも、30分~1時間と単調な運指を続けていると弦が指にマッチしてくる。右手のピッキングもタッチが合ってくる。ちやんと的確に弦にヒットした上でリズムをキープできて、指がスケールを思い出すまでまだまだ、時間が必要です。まぁ、なんでもコツコツするのは好きなので、こんな感じのローギアで毎晩テレキャスに向かっていこうと思っております。指の腹も硬くなり、指が動くようになれば、次はコードとプラスアレンジ。私の感覚では、ギターは左手よりも右手がキモ。ギターを語れるほど何もしていないが、ビギナーなりに、左手よりも右手が難しいと思ってきた。結局、左手、右手って言ってる段階でレベルの低いお話かもしれないが、マルチビギナーはそんなもの。それが逆に楽しい。音楽で食っているわけではないので、楽しくありたい。しかし、ビギナーならビギナーなりのレベルと楽しさで、メインテーマであるJAZZに向かっていければと考えております。こうしてJAZZを始めたんです!という意思を主張することで、すでに、「JAZZを始めたのならこれとこれを聴いてください。」とか「JAZZのスケールは特別であり自由ですから、技術だけでは足りない。」という専門的なアドバイスをいただけたり、「テレキャスでJAZZに取り組むならこういう風に弾くとJAZZっぽくなりますよ」的なアドバイスを頂けている。皆さん、ほんとにJAZZが好きなんだと感じています。

 で、このJAZZの山にどこまで登れるか現段階では不明ですが、少しづつ登る準備をしてみようと思っております。一歩踏み込むと誰かが一歩踏み込んで来られる。この出会いは一歩踏み込んだ人にしか降りてこない出会い。いい出会いになるか、悪い出会いになるかは、自分自身次第。なんでも、そうかもしれませんが、楽しい感じの方に向かっている感覚はなんとなくありますね。

JAZZとは何だろう?

 検索するとこうなっている。「ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、根底的には西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の民族音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ニューオーリンズが発祥の地とされており、この地区での当時のスラングで、女性性器や性行為をjass、売春宿をJass Houseと呼んでいて、売春宿の待合室や酒場を主な活動場所にしていた演奏家たちのことをJASS BANDと呼んだことが、JAZZの語源となったという説もあるが、「JAZZはシカゴで成立した語」「フランス語のjaser(「くだらない話」の意味とも、アフリカ系アメリカ人に対する軽蔑を意味したとも言われる)から」などと、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀に入ると、コルネット奏者のバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博し、今日では「初代ジャズ王」と呼ばれているが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。」となっている。なんとも魅力的なJAZZのルーツ。

 これを現代に至るまでどう進化してきたのか、それをこの日本でどう消化してきたのか、掘れば掘るほどJAZZの鉱脈は大きいような印象である。ごくごく表面的にしかJAZZをこれまで捉えてこなったが、ここに来てどうじてもガチでJAZZをリサーチする必要があり、ただ、頭でJAZZってこうだよね…的なフワフワしたレベルではちょっと不十分なため、もう一度、この段階からJAZZを自分なりに掘り下げていこうと思っております。ただ、嫌いな音楽ではなく、JAZZのCDも数枚ある程度の私が、このきっかけでどこまでJAZZに精通できるかなど未知数すぎるのですが、それでも一回この鉱脈を掘ってみようと思っております。まずできることは、JAZZについての適正な情報を得ること。公平な情報と偏った情報の2つのベクトルでアプローチしていこうと思っております。そして、音楽であることから、やっぱり実際にJAZZに楽器を持って取り組むこともしなければ、たぶん、恐らくJAZZを語ることなど、JAZZの魅力など芯の部分で会得することは不可能だろうという直感。

 多くのムーブメントやイベントの成功(何を持って成功と呼ぶかは難しいが)の中核には必ずそれに精通する人の存在があるはず。歴史のイベントや歴史のアクションに魅力を感じられないのは、すべてがフィクションだから。どうも、戦国時代も明治維新もいろいろなアプローチが存在するようですが、微妙にディテールが異なる。これは、時代性と書き手の癖なんだろうが、真実か否かというこよりも、「それらしい」感で全て丸くフラット化させているのが嫌い。

 だから、JAZZは何だろうと一旦スイッチが入ったので、この手を汚してでも掴みたい掴めるカケラだけでも獲得したいと思っております。さてさて、どこを掘ればJAZZの原石があるのだろう?誰か知ってますか?誰かそのカケラを見せてくれますか?

目は心の窓か・・・。

 昨晩のテレビで「うその見抜き方」というテイのテレビ番組があった。さほど特筆することはなかったが、臨床心理医らしきおばはんが登場して「うその見抜き方」の講釈をベラベラって感じのテレビプログラムでした。人間が嘘をつく時、必ず表情にそのサインが現れるというあれ。伏し目がちになったり、眉を不自然に上げ下げしたり唇を噛んだりなどと簡単な導入部分から合わせ技の部分で番組を進めていた。そのおばはんはあまりテレビで見かけない人だったが、さぞ権威でらっしゃるのだろう。最近、このテイの取り組みに必ずおばさんが登場する。たぶん、その分野の権威ならおっさんもいろいろいるだろうし、おっさんの方が多いはずだと思いながらもテレビ的にはおばはんの方がいいのだろうか?タッチが優しいのか、語調が激しくともバランスが整うからだろうか。確かに、おばはんは強い。というか強いおばはんは無敵である。芸能人を相手にズバズバ立ち回れるのも、ならではの所業だろう。

 で、確かに「嘘」について、人の表情が反応する様々なディテールはいろいろあるでしょうが、そもそもの足元をすくうと、「嘘」って何だ?というお話。嘘を付くということは、いい嘘と悪い嘘があるとおばはんは言うが、そもそも、人間の言動に「良い」と「悪い」を決めているのはどこが基準か?そこから紐解かないと、それおばはんの主観だろうみたいなことが非常に多い。「嘘」の話を広げるなら、この度の大震災のテイで言えば、政治家や原発関係者の「嘘」は良いのか悪いのか?これも軸足次第ですし、対世界に対してなのか、対国民に対してなのか、対テロに対してなのかの軸でこの「嘘」はどうにでもカタチが変わるぞ。このおばはんは日本で一番の大嘘つきは総理大臣だと言っていたが、それはいったいどういう意味があるのか?まさに、what's do you mean?である。何かを言わなければならない。事実はこうだと知識として頭にあることが、どうして、言葉にする時に捻じれるのか。捻じれる程度ならいいが、反対向いているのは何故?論理で考えた結果、公共の電波でそんな「嘘」を言い続けて何の意味があるのか?つまり、しゃべっていることが別に「嘘」でも「本当」でもいいが、あなたがその場所で貴重な時間を費やしてお話していることがどういういう意味があるのか?をもっと強い質量のあるボキャブラリーで言葉にするべきかな?もう、何を言っても国民は信じてくれるはずがないから、適当な思いつくことをただマイクに向かってお話しているわけではないでしょう。個体として貴方の喉で声にしている責任は貴方自身に返ってくるのに、そのブーメラン、どこに向かって投げたいのか?

 おばはんが言っていた、目は心の窓だって。ならば、言葉は心の澱なのかな?

パソコン時代に終止符!?

 またまた、ジョブスが言い切ってしまったようです。どうやら、スマホ時代をいつもの感じでゴリ押しするようである。確かに機能もいいしスタイル的にもスマートフォンってぐらいですから、いいのでしょうが、まだ、終止符って感じではないぞ。今のテイの携帯電話が登場まだそう歴史もない段階で、さらに、パソコンに関して言えば飽和していることは現実としても携帯性のあるなしで単純に「終止符」と言ってしまうことでどのタイプの波を起こしたいのか???というニュアンスが否めない。まぁ、世界に対して非常に影響力のある人間の言葉だから、「やっぱ、これからはスマホの時代なんやなぁ~」という割合が増えることで、新しいムーブメントや経済効果もあるだろうが、まだまだ、このシステムに有料な課金システムは存在しない。つまり、機能が先行して優先されるが、当の人間様の技能はさほどマッチしていない。だから、やはり、ハードを売りたいのでしょう。数万のアプリも別にスマホ使わなくてもいいじゃん!みたいなアプリばっかのような気がする。全ての発想や着想が逆のベクトルで出たから買う、あるから使うという構図と、チョイスして判断して吟味して買う人とこんなニーズがこれで効率化されるなら使おうという人の関係性がどうも蛇のしっぽのような気がする。

 この感覚も「使わないから便利さが理解できない。」と言われればそれもリアルですが、そもそも「便利」ってなんですか?というお話。電力問題が活性化する一方で経済を振る起こすための仕組みづくりの一旦がこのスマホ戦略なのだろうけれど、世の中のニーズは言わばうちわや扇風機のベクトルもあるし、もっと、メモ用紙やノートを活用しようという、手と筆記道具で脳を活性化しようという取り組みもあるわけで、小さい液晶端末をなでなでする感じがさて、人間の道具としていかなものか。って、自分自身欲しい気持ちは勿論あるわけで、とても複雑。まともに腕時計もしない人間がツールの意義を語るにはオコガマシイ限りではあるが、機能と技能の関係上、なんでもかんでも「終止符」なんて言い切っている立ち位置がちょっと強引すぎる。もっと、時間をかけていい商品なら水が大地にしみ込むスピードで樹々の根に届けって感じ。で、地下水になり大地が潤うみたいなことよりも、どうも、水路を創って水脈をコントロールしたいのでしょうね。そもそも水がなければ水脈は成立しないように感じるのですが・・・。

テレキャス到着!

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 本日、赤のテレキャスが到着しました。なかなかいい顔です。いい感じいい感じ。

チルアウト。

 チルアウトとは、「電子音楽の作曲者により生み出された、比較的陽気でスローテンポなさまざまな形式の音楽を表す包括的な言葉である。発祥は1990年代前中期で、くつろぐことを促す俗語から来ている。」ということである。また、「チルアウトはジャンル名であると同時に、ダンスフロアにいる客たちにダンスで火照った体を休め、落ち着かせる機会を与えるためダンスフロアの端にしつらえた冷たい(Chill)部屋で流される音楽からも来ている。この部屋には寝椅子、気持ちのよい枕があり、また陶酔に誘うサイケな照明、そして音楽による演出がなされており、その音楽は(特に数歩先にあるダンスフロアの音楽と比べると)明らかにダウンテンポなものである。1990年のKLFのアンビエントアルバム"Chill Out"で一般的になったとされる。」ということにも由来しているらしいが、なんとなくな感じですが、「いい感じの音楽」と捉えておこうかなと思っております。「癒し」とか「ヒーリング」とかという音楽のカテゴリーがあるが、分かったような分かっていないような気もするが、それって結果、理解できないほどいい感じだということ。人間何も「いい感じ」だと頭で理解しなくともいい感じにはなるということ。つまり、考えるよりも感じてくださいね的な意味で「アウト」なのかなと・・・。

分解と組み立て。

 ふと、自分自身の仕事について俯瞰で分析した時、デザインの仕事って与えられた案件を自分の感覚と技術でキレイに分解してキレイに組み立てる感覚なのかなと思った。特に何きっかけということではないが、いろいろな書籍を読んでいると、いろいろな著者のいろいろな考え方を知ることになる。一冊の書籍の中で頭に残ることは多くて10個程度のフレーズでしかないが、書籍を読むということに対してもどこか仕事をしている頭で捉え、リサーチしているような読み方になっているような。何故この書籍に興味を持ったのか、この著者は何をいいたいのか、どのような共鳴・共感を求めているのか、そして、今後この著者はどこへ行きたいのか?などなど。書籍の読み方はいろいろあるだろうが、これが、オンライン上のWEBサイトでのリサーチならここまでゆったりと情報を捉える事ができない。大枠、これは癖の部分で書籍に対する集中力とネットに対する集中力の差に他ならないのでしょうが、仮に、iPadを購入したらもっとその中の情報に対して集中力が上がるのだろうか?とも考える。つまり、書籍の情報は分解できるのですが、ネット情報は分解しにくい。というか、書籍は言わば一冊のリアリティーがあり、ネットはもう芋づる式の一連のチェーンである。情報量が多いことは嬉しいことだが、ここまで!という仕切りがないことがこの集中力を拡散させているような。これも捉え方の癖だから全てこの法則で捉えることはできないのでしょうが。

 で、分解の仕方も様々で何をどうあがいても自分のスキルでは規定できないパーツがある。このパーツをさらに細かく分解するべきか、このパーツはこのまま一個の個体として並べておくほうがいいのかという判断がある。仮に取り組むべき案件が目覚まし時計のような存在だったとしたら、そのパーツの数は必然的に確定している。ネジ1個、歯車1個、文字盤1枚、これがパーツである。分解した順番を忘れなければ、同じモノに復元することは簡単である。しかし、デザインという仕事は目ざまし時計とデジタル腕時計を分解して新しいアナログ・デジタル時計を創る感覚に似ている。アナログ時計のリアリティーとデジタル時計の利便性を兼ね備えた新しい時計を作ることが目的の場合、パーツパーツの特性と組み立て方の創意工夫がいわばデザイン力となる。キレイに融合させるためには、双方の特徴をしっかりと理解している上で、双方の完成度を組み立てる時に留意しなければいけない。この判断を誤ると、絶対に時計にはならない。ここがこの仕事の難しいところでもあり、楽しいところでもある。

 子どもの頃、なんでも分解することが好きだったことや、修理しているのか壊しているのか?みたいな行為が多かったことを経験値として失敗は成功の元的なアタックを繰り返してきたことで、ああ、このパーツはいつか使えるな、このパーツはたぶん何を作るにも有効ではないなという感覚というかスタイルが獲得できる。これがデザインの仕事をする上での最大のポテンシャルとなる。デザインの仕事をするにはセンスが必要だと鉄板の合言葉があるが、このセンスとは何だ?となるが、これは、分解する技術と組み立てる能力なのではと思った。

 だから、仕事場も頭の中もいつか使おうと思っているパーツでごちゃごちゃ。頭の引き出しにはこんなパーツは一杯詰まっている。整理もしなければいけないが、次から次へと興味のあるパーツを持ちこみ過ぎという意見もあるが、それでも、この作業は辞められないし、楽しくて仕方ない。常にどんな場合でも最適の分解をできて、最適な組み立て方ができるように研鑽を忘れないこと。それがこの仕事の大枠のフレームのような気がしました。

今年は須走ルート!

 さてさて、梅雨が明けた、明けてしまったぞ!さぁ、富士山モードのトルクを上げていこう。本日は伊吹山に練習を兼ねてアタックしようと思っていたが、自治会の溝掃除だったので断念。しかし、富士山は溝掃除レベルのしんどさとは比較にならないものの、伊吹山を山麓からアタックすればちょうど富士山の半分の距離がある。時間的にも約50%だから練習にはなる。来週、何も予定がなければ、日の出と共に伊吹山にアタックする予定。富士山に持って行く装備をすべて担いでって感じ。

 さて、今年のルートは「須走ルート」リサーチでは、昨年の「富士宮ルート」よりも斜面的には傾斜がなく、森林道もあり、景観的にも変化に富んでいるらしい。降りる時も面で降りれる部分もあるので、どうやら、リサーチしている段階では「富士宮」よりも楽勝かな?と想定している。しかし、富士山は富士山、あの高度は充分に体力を整えてアタックしないと、疲労や睡眠不足で高山病が誘発されるかもしれないし、気を引き締めていないと山はどんな事故と遭遇するか未知数。いくら自己防衛を完璧にしていても、自然が牙をむいたら人間の命などどうでもなる。だから、山登りは素晴らしい。

 さぁさぁ、もう、カウントダウン状態です。昨年は強引に「富士宮ルート」を持ち前!?の強引さで達成したが、今年は、ちょっと余裕を持ちながらもクレバーに、そして、時間的にもちょっと短縮(5時間30分ぐらい)を目指してアタックしようと思っております。それもガツガツではなく、どこか体力的にもメンタル的にも常に1~2割の余裕を持って、山頂に立ちたいと思っております。準備は万端、体力的には大丈夫です。例え雨になっても、風が吹いてもガッツリルートを踏みしめられるように準備をしてきたつもりです。そろそろ、最終のルートチェックをしてプランニングをしていきたいと考えております。

詳しくはこちらです。http://www001.upp.so-net.ne.jp/fujisan/fuji-s.html

水路の掃除作業。

 今日は朝から地域の皆さまと近所の川掃除でした。町内の水路の草や泥やゴミを排除する奉仕作業。皆さん、ゴミや泥を掻き揚げるくわやスコップなどを持参して暑い日差しの中、水路の草や藻やゴミを地面に上げて、自治会の方がトラックで回収に来られるので、ゴミや草をトラックにのせて作業完了。いつも見慣れている水路もいざ中に入ってみると、こんなにゴミがあったのか状態。皆さん、全身汗と泥にまみれて水路を掃除しておられました。まぁ、これはこの時期の恒例なので、日頃顔を合わせるだけのご近所さんともしばし汗まみれ泥まみれで歓談。暑い厳しい奉仕作業でしたが、最後のラムネの美味しいこと。皆さん、お疲れさまでした!そのまま家に帰り汗まみれ泥まみれの状態でノックダウンでした。こういうのもなかなかいいものです。

安全パトロール出動!

 それは、ほぼ、10~15秒の出来事であるから、全てが風景描写でしかない。しかし、その風景は今でも目に焼き付いている。だから、すべらない話というカテゴリーにしてしまったが、すべるとかすべらないというほど実はこの話には展開力も物語性もない。しかし、いったい何が起こっていたのか?その場所でどのような事件が発生してそこにいた安全パトロールの対象である、小学校低学年の7人に何があったのか・・・?それが、今でも気になって仕方ない。

 東近江市にパンフレットの配達に昨日行きました。昨日は梅雨明けしたような感じの猛暑。ちょっと、打ち合わせをして車に戻ってくると車の中はほぼオーブン状態。窓を全開にして風を通すが車のボディはお湯を沸かしたやかんのようにチンチン。さすがにやけどはしないだろうが、シートに座った瞬間、全身から汗が噴き出す。早く窓を開けて走り出さないと脱水症状で車の中で熱中症になるだろう。ってぐらい暑かった。

 だから、その場面が視界に入って来た時も何かご近所の年配の方が小学生の子どもたちの集団下校を見守っていて暑さで誰か倒れたのかと思った。それぞれの街でそれぞれ老人会の皆様が旗を持って道路の角に立ってくださっているあれ。ああ、おじいちゃんがんばっておられるなと思ったが、あれ?そのすぐ後ろに白い軽自動車で屋根の青色のランプが二つ点灯している。車の止め方も路肩でどうやら緊急モードのようである。で、そのおじいちゃんは何やらその低学年の子ども達を集めて何かをしゃべっている。大きなジェスチャーでよほど何か子ども達が危険な行為をしたのか、子どもたちが安全でないことをしたのか?という状態でした。

 一方子ども達はそんなおじいちゃんの話半分かなとすぐ右となりを車で通ると、全員がおじいちゃんの顔をじっと見て視線が固定さている。まるで、学校の先生に怒られているような、いや、それ以上の緊張の表情である。全員が後ろに手を組み、まるで、精鋭の特殊部隊が鬼教官を見るように微動だにしない体制で、その安全パトロールのおじいちゃんの話を聞いている。

 うん?いったい何があったのだ?安全パトロールのおじいちゃんと7人の小学学生達。その右となりを車で通る時、少しスピードを落として何か一言でもおじいちゃんの声が聞けるかと聞き入ったがが何も言葉は聞こえなかった。その場所を通り過ぎ、サイドミラーでおじいちゃんをチラリと見ると、さっきまで、腰にかけていた右手を上下に激しく降って小学生に何かを注意していた・・・。う~ん、何を言っていたのだぁ~???

 昨晩、寝る時もそのことが気になってしまったし、今でも、何を言っていたのか気になって仕方がない。ただ、間違いなく言えることは、あのおじいちゃんは心の底から近所の子ども達のことを考えている立派な安全パトローラーだということ。う~ん、何を言ってたのだろう???

都心でクライミング。

 新聞の記事より抜粋。「素手で岸壁を登る感覚を味わえるクライミングジムが都心部の繁華街に相次ぎ登場、幅広い消費者の関心を集めている。東京都渋谷区の区立宮下公園の施設では女性の利用者が半数近く占め、大阪市の難波に開業したジムは小学生らの親子連れの姿が目立つ。通りすがりに観て興味を持ち、そのまま体験する初心者も多いという。ロープを使ったロープクライミングでは、10メートル近い高さまで登った。屋外で空が近くなる感覚が気もちいい、バランス感覚があれば、腕力のない女性でも楽しめるそうである。」とのこと。どうやら、もう、気づいている人は気が付いているということ。

 そこにあるのは壁と自分の身体だけのクライミングとボルダリング。高価なエクササイズ機器に金を懸けることが健康づくりではない。1mでもいいから、壁にを登ってみましょう!全然視界が違ってきます。まして、10m~15mなんて最高です。もうそろそろ大量消費型の社会構造から等身大の身の長けにマッチした自己完結型の社会構造になるため、このクライミングの波動はひとつのサインなんじゃないかな。大盛り大食の映像を観るたびに気持ちが滅入った。あんな映像を何故テレビで流すのか?軸が狂うにも程がある。現代の推奨されている一日の平均カロリーを25~30%に抑えるととで自己治癒能力や細胞の再生能力が格段にアップするらしい。そして、結果、老化や認知症の症状を鈍化・遅らせることができるらしい。人間のDNAにはしっかりと理想的な生き方のマニュアルがびっしりと書いていあるそうです。もっと、自分の中の正しいを疑い、世間一般の通例に流されず、進行系で思考と行動のバランスを吟味しながら歩きたいものです。

 長浜にクライミングジムができないかなぁ~!!!誰か作ってくださ~い!

頭に汗をかくこと。

 確かに身体の健康のバイオリズムがある。それは、一日の周期でも四季の周期でも一年の周期でもあるのですが、大きく10~12年でサイクルがあるように思います。つまり、10代から40代にかけてそれぞれ身体が少しづつ変化しているような感じです。まぁ、10代の頃など風邪をひいたら病院に行く、ケガをしたら治療するレベルで、自分での健康管理意識などないに等しい。そして20代は一人暮らしの中でとてつもない食生活とこの仕事ならではのどこまでも不規則なリズム。もう、今考えると無茶苦茶に近い前人未到の生活サイクルでした。たぶん、それは若さでなんとか乗り切れたのだろうが、今同じことをしたらたぶん根本的な問題が発生して仕事などできないだろう。ってぐらい無理ができた。そして、30代はそれに少しづつ気づきはじめ少しづつサイクルを安定させようと努力していたような気がします。20代のペースで仕事をして「たぶんいけるだろう・・・」が「ああ、やっぱ無理だった」みたいなことの繰り返し。まだまだいけるからもうそろそろなんとかせんと仕事に支障をきたすぞ・・・みたいな。で、40代になった瞬間、ドカン!と40年間のおつりが返ってきた。見事に返ってきた。

 首、腰、体力、精神力、何をとってもボトムだった。ヘルニアのヘルニアたる所以を自分の身体でほぼ2年間、これでもかってぐらいに刻印させられた。何をどうやってもおかしい日々。これは実際辛かった。まともに運動ができない、1年中杖をついて仕事先に行く。夜は倒れるように崩れる。そんな中、留意したことはお風呂に15~20分入ること。夜遅くまで仕事はしないこと。朝飯はしっかり食べること。そして、できることでいいから時間を作って小さい運動でいいので自分の身体にマッチした無理のない継続性のある運動をすること。これを毎日続けることでなんとか43才頃から歯車がかみ合ってきた。すると、それまで、手汗や足汗が多かったのが、背中や腹に汗をかくようになり、最近ではこの暑さも影響しているが、頭に汗をかくようになった。不思議とボトムな時は手足だけしか汗が出ない。まぁ、その程度の運動しかできていなかったに他ならないが、それでも、一日、びっしり外回りで汗をかき充分に水分を補給して、どこでも昼寝を10~15分する。これで、昨年の夏も別段普通に乗り切れた。今年もどうやら節電節電で厳し夏になりそうですが、ちょっと、散歩したり軽いスクワットや懸垂や縄跳びをすると頭から背中から腹から手足まで均一に汗が噴き出す。これはとても嬉しいことだ。人間、暑い時は暑さへの正しく身体が反応することが一番の健康状態。だから、節電節電でクーラーは28度とか言っていますが、別に扇風機さえあればクーラーは必要ない。仕事場でも同じ、軽く40度を超えてくるが、扇風機で仕事はできる。ただ、パソコン君が熱を持たないようにだけは注意しながら。ので、一番気温があがる1~3時はパソコンのために部屋を28~30度にしています。健康についてこれほど神経質になったのもいわゆる「痛い目」に会ってきたから。やっぱ、人間、健康が何よりも一番の宝物ですね。

 昨晩、ある番組で100歳のおじちゃんが憧れのプロ野球選手に会えて、直立不動で歳で言えば半分以下の若造を前にして、目に涙を浮かべて「100歳まで生きてるといいこともあります!」と感激していた。これこれこれ!思わず、目頭が熱くなる。人生ってこれですよこれ!地位とか名誉とか肩書きとかどんな団体に属してどれだけ資本があるかなんてクソです。そんな属性のどこに価値がある?このおじいちゃんは人間の人生の最高の理想形だと思った。いつも笑顔でそのプロ野球選手からユニフォームを貰って子どものような笑顔だった。うん、絶対、こんな100歳になるぞ!!!

言葉の中の真意の割合い。

 さて、例えば「私を信じてください。」という言葉。この言葉の真意の割合いを何で推量・計測すればいいのか?という疑問。それは、文脈やボキャブラリーのスキルの問題でもないようです。では、何がそれを実感として判断させるのかとなるとこれがまた適正なモノサシがないとなる。それを直感でしか測れないと仮説すると、全てを直感で処理しなくてはならなくなるし、信頼関係という基準値さえ、実は直感でその質量が認知されているとしたら、そもそも「信じる」というこはただの直感の蓄積?とならないだろうか?極端な洞察であるから、話半分以下で読んでいただければいいが、それでも、つきあっている女性がいる。もうそろそろ(何がそろそろかは不明として)結婚した方がいいと親にも友人にも言われる。本人も周りの温度が温かくなるからその気になる(このその気というのも実はとてもファジー)。そして、プロポーズ。「私と結婚してください。一生幸せにします。」さて、この言葉の真意の割合はどうだろう?確証のためにダイヤモンドを買うがそれは形骸化した概念であり真意の割合を100%に引き上げる効果は実はない。つまり、形式上の流れで文化や慣習的な意味でそれをすることで真意が高くなるだろう程度の行為に過ぎない。でも、それを信じるか信じないかは個人のポテンシャル。そして、誓う。富める時も貧しい時も健やかなる時も病に伏していいる時もって、この言葉も実はどこに真意の軸足を置くべきかによくよく考えると迷うはずなのである。

 でも、これも形式的に処理する能力を義務教育や社会教育で学んでいる国民は迷うことなく、「はい。」と答えている。さて、ここまでの流れでどれだけ真意があるのだろう?実は、本当の確証はどこにもないはずである。それほど、言葉のクオリティーは微弱である。まだ、どこかの民族が獲物を発見して吠えている方が真意の割合は高い。つまり文化とはよく言ったもので、文字(記号)化することでそれを共通言語として信じてくださいよ、というルールなのである。だから、言葉を覚えた段階でその共通のルールの世界に踏み込むことで、真意は定かではないが、たぶん、これが「幸福」だろうと、世間のセオリー的に「幸福な人生」だと感じさせられて生命を全うするから、それが逆に幸福なんだという諦念とういか概念なのである。

 しかし、一旦、どこかでこのルールの隙間が見えてしまった人はその真意を改めて探すことが人生のそれに置き換わる。人生、知らなければいいことはたくさんあるし、知って逆に不幸になる場合も少なくない。言葉とはたかがそれだけのツールなんだと知ると、どんな説得も無意味に感じてしまうことがあり、その考えに対する自分の中の反証さえ意味をなさなくなるケースもある。

 ある方が私の価値観に無断で入ってくる時、私は否定も拒絶もしない。一旦、その言葉を飲み込み(飲み込んだふり)、時間をキープする。つまり、脳の言語中枢は人それぞれの処理速度を持っていると言われているから、早急な人にはタイムラグを置き、緩慢な人にはインターバルを入れない。これが、言語によるコミュニケーションの一般的な方程式。しかし、歳と共に自分自身のレスのスピードも鈍化するから、注意しなければいけない。しかし、歳と共にチャンネルが増え、使える色数が増える。つまり、不思議な比例と反比例が起こる。これを楽しめていると他人とのコミュニケーションはとてつもなく楽しくなる。結果、真意の割合を推量しながら、比例と反比例を座標化し何色をチョイスしようかという選択肢が増えると楽しくなるのである。

 だから、私のような人間に絶対に勧誘は難しい。年上の人からの言葉には極力リスペクトしたいとは考えているが、ある程度、貴方達も歳を重ねてきているのですから、目の前の人間が自分の発した言葉を受け止めていないことを感じとって頂きたい、という場面がよくあるのですが、私の頭の中では受け取った言葉がキレイに分解されて机の上に並んでいるだけなのです。その机の上の言葉のパーツをどのようにお返しするかだけを考えているので、絶対に、私は勧誘されない。大抵の人はそうだと思いますが、他発で人間の心は動きません。自発を促せるほど貴方達にポテンシャルがあれば、私から動いているはずですという言葉は絶対に口にせず、比例と反比例を楽しんでいるのです。逆にこの楽しみは誰の心の中にでも多かれ少なから起こっていることです。それを自覚するかしないかは別として・・・。だから、真意の割合いを時間や論理や語調で解決しようとしないことですね。それは間違いなく時間の浪費です。

癒しのメカニズム。

 その愛犬が飼い主を癒すという。そもそもその飼い主はちょっと自閉ぎみであまり他人とのコミュニケーションが苦手。技術職で仕事はできるがどうも対人関係で悩み結果職場からリタイアしたそうです。考えれば考えるほど気持ちが沈み社会との関わりがおっくうになっていったそうです。このパターン的にはよくあるあるのテレビの設定ですが、ほんとにそんな人(ケース)をわざわざテレビの事例でチョイスするほど一般的なのか?まぁ、一般的なテーマではテレビの視聴率に繋がらないから一般的ベースの特異な設定だろうが、どこまでリアリティーがあるのか疑わしい。その疑わしさをベースにショートストリーが展開される。

 その男性の妻がそんなだんなをふびんに思い犬を飼う。これが介護犬でありセラピー犬だというお話。ほんまかいな?の連続であり、ツッコミどころ満載な流れなのですが、それでも、テレビに注視している以上、これは結果引きつけられたということになってしまうのかも?も含めて最後までこのショートストーリーを観ていた(しまった)。もしも、クリームの上田さんならどんなツッコミだろうか?その視点がどんどん物語の核心になればなるほど覚醒される。そして、そのセラピー犬は飼い主の心臓発作を予知し飼い主は命を救われる。で、そんな折、今度はそのセラピー犬の癌が判明する。飼い主は自分の命の恩人を、恩犬を癌から救うために優秀な獣医を探して癌は摘出・克服される。さぁ、どや!ドラマチックやろ!というオチ。で、エピローグでそのセラピー犬は別の病気で他界する。この老夫婦に見守られて・・・という物語。なんじゃそれ!

 さて、この物語のどの部分が癒しなのか?斜めからしか見ていないから、ツッコむ部分しか覚えていないが、もし、これが自分の愛犬だったらどうなのか?結果、癒されたというリアリティーは感じるのだろうか?「癒す」という言葉ももうパターン化している昨今、それでも、人は癒されたいということだから、このテイが今もあの手この手でテッパン的に繰り返されているのだろう。癒しについてどう向き合うかが分からない上、癒しに対して自分自身がどの立ち位置なのかも不明。癒されたというリアリィーもあまり実感としてない人間だからかもしれないが、どうも、このメカニズムはある特定の人に対してのみ有効で、普通はというか、多角的にモノゴトを捉えるタイプの人間には無効のような気がする。つまり、癒すことができる人しか癒されているという実感を得られないような。作用と反作用の関係で、具体的に不明だが「癒す」という感覚を論理でも洞察でも座標化するでもなく「在る」と捉えられる人だけの不思議な感覚・共通言語とでも言うのか。

 それは、実は道徳のようなもので、慣習でも法律でも学問でもない、偏在する感覚。そして、誰にでも比較的浸透率の高い不思議なキーワードのような気がします。実際、ナイフで指を切る。血が出る。傷が癒されるという語彙からさらにdeepに踏み込んだ概念のマトリックス。そこでは、犬が人を癒しているのである。さて、人は犬を癒せるのか?

麻雀のようなもの!?

 ビジネスは短期勝負ではない。長期的な取り組みの中に小さい波をどう設定できるか、大きい波が来たとしてもリバウンドで組織が微弱化したりコンテンツが失速すれば弱いビジネススタイルとなるそうです。ある出版社の社長の言葉より。で、そんな大きな波小さな波があるもので、それらを、運と言ってしまうにはちょっとニュアンスが違うんだけど、確かに努力のディテールや環境の整備や人材のポテンシャルに関係なく、大きな意味での波動があるように思います。積み上げて積み上げたモノが成就するとは限らないし、ふと視点を変えれば素敵な鉱脈にビンゴ!という場合もある。運は追いかけるものじゃない、運は向こうからやってくるモノだっていう言葉もありますが、確かに、追いかけても追いかけても運との距離が縮まらない感覚は確かにある。でも、ふとした瞬間、隣の席に運がほほ笑んでいるみたいな。

 で、これを麻雀に例えると、卓を囲むのは4名。ルールは同じ。経験値や技術力やセンスは異なれど、もし、同じレベルの4名が卓を囲んだ時、それでも、勝ちと負けるが結果として出る。これは、何がそうさせているのか?ということ。ぼやぁ~とした表現でしかないですが、それを「運(luck)」としてあながち的は得ているような気がします。だから、全体が見えている人、運の流れが見えている人は、つもが悪い時にあがかない。しかし、引きが強い時には一気に役を高く勝負に出る。役が高くなりにくいと判断できるなら、まずは上がっておき、次の配牌で勝負する・・・みたいな。決して、麻雀は強い方ではないのですが、弱い方でもない。振り込むと悔しいが、場の流れや運の流れが見えてくると、振り込む感覚がその前に予見できたりする。そこらあたりから麻雀が楽しくなったような気がします。

 麻雀も商売も同じなのかもしれない。直感ってホント大切です。

WEBサバイバル概論。

 世の中のWEBサイトが、WEBサイトのサービスが、コンテンツが、生き残るためには非凡である必要がある。そして、極端で最新である必要がある。まぁ、いろいろそれ関係の書籍を読んでいるとそれ的なことで集約できるように思うのです。大資本の大型店舗店内とミニマムでDEEPでコアなお店の展開の2極化が鮮明になればなるほど、その相関距離が長くなり、その中間値であるミディアム層に新しいニーズが眠っている、そこを鉱脈としてビジネスを展開しては・・・という人もいる。いったいどこ掘れワンなのか?昔の金鉱脈はリサーチ機器や衛星からの地球面のスキャンなどできなかったらしいから、まさに、直感だけがたよりだったそうである。トリフと豚の関係ですね。でも、金や有益な鉱脈が発見出来た時の騒ぎったらなかっただろう。油田も同じ。つまり、掘らないと出ないという鉄則は今も昔も同じで、それはデータとか物理定数では推し量れない未知の未開の領域なのですね。だって、データで確実にそこが金脈だとしてみんながみんな掘り始めたら、せっかくの金脈をシェアすることになりますからね。より研ぎ澄ました直感とよく掘れるスコップと掘りあてるまで諦めない精神力と体力・・・と。これがまさにWEBサバイバル概論なのかなと。

スイカ2号も・・・。

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 もう1本の苗のスイカ2号も小さな実を付けました。このまま大きくなると柵に挟まってしまうし、自重に耐えられない可能性もあるので、なんとか成熟までひもで吊るして見守りたいですね。ふわふわの産毛がなんともかわいいですなぁ~。

スイカ1号は順調です。

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 我が家のスイカ1号は順調に大きくなっておられます。うんうん、いい感じ。

緑のカーテン。

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 今日は朝から激しい雨。でも、ゴーヤやスイカやキュウリ的にはとてもいい雨。ほんとにゴーヤは元気で強い。この雨でいっきに緑の大きなカーテン(日よけ)になってください。

辞任力。

 武士が切腹する瞬間は映画や映像でしか見たことがない。武士の魂の潔さとでもいうのか、切腹の美学みたいなものがあるのだろう。実際、目の前でそれを見たら同様に潔しというリアリティーがあるのだろうか。自分の命以上にもう私に責任の代価として差し出すものがありません!というスピリッツが切腹である。切腹だったのだろうと想像する。そのための脇差しであり、介添えとは中途半端に死ねなかった場合に首を落とす役目。この役目もまたスピリッツである。切腹する人と介添えする人の関係とは一体どのような関係性なのだろうか?ふと、江戸の時代、武士は全体の人口の何%ぐらいいたのだろうかと考える。おそらく15~20%だったと推定したがそれらの人間が常に一定レベルの責任を自分の中に保持しその大義や忠義に反した場合、切腹だったのだろう。人間だけですからね、自分で自分の命を断とうと判断する生物は。最後のそのために常に脇差しを持ち歩く人間ってどうよ?みたいな。そこまで覚悟ができて責任の意味を理解しているなら、失敗はバネにしてプラスのベクトルに変えなきゃ・・・みたいな。でも、江戸の時代はそうではないパワーバランスとメンタルバランスで支配されていたのでしょうね。

 で、平成23年、自らの責任をしてカメラの前で頭をペコリ。これで潔しとは到底言えないぞ。もし、あなた、今が江戸の時代なら、謝罪をしたその首は数秒後にその机の上ですよ。首がなくなった自分の身体を見ながら自分の犯した失態を反省するかなその首は?今が江戸じゃなくて良かったですね。ほんとに辞任力のある人達ばっかりだ。一定の冷却期間を経て第2の人生の始まりですか?脇差しぐらいそっと胸に忍ばせて第1の人生の無念を第2の人生でフラットにしてはどうですか?「辞任」はゴールではなくスタートなのですよね、貴方達にとって、って、「結婚」かいっ!

覗くのは簡単。

 あるメルマガからの抜粋です。「さて、本日は最近非常に注目されております[facebook]や[Twitter]について日本国内の最新情報をお届けいたします。インターネットの集客媒体として[facebook][Twitter]は大きな注目を集めています。それを象徴するかのように、本屋に行けば[facebook]や[Twitter]と冠した本や雑誌は何冊も見つかります。しかし、そんな市販の本は役に立ちません。なぜなら、「集客のプロ」が書いたわけではないからです。本を開いたとしてもツールの使い方の説明がほとんどだったり、友達と仲良くなる使い方ばかり書いてあるのが大半だなのです。あなたのような「ビジネスに活かしたい」「集客を成功させたい」と思う方なら、「ソーシャルメディアをビジネスに活かす方法」を学ぶほうがずっと意味があるはずです。そこで、数々のプロモーションを成功させ、何千人何万人という人数を集めてきた集客のプロが「facebookやTwitterなどのソーシャルメディアで集客する方法」を無料で公開しました。」となっている。さて、この文章の下部に貼り付けてあったURLはクリックするに値する価値があるのか?ないのか?まだ、実はクリックしていない。この文脈から想像できるだけそのメルマガの主の言うところの「意味」を自分の中で反芻・覚醒してから覗こうと思っています。ここまで言うなら相当だろうな~という部分と、ここまで立派なルアーを投げてくるならさぞ充実した気持ちにしてくれるんだろうなぁ~と期待しています。が、大抵、そんなひねりを捻じ込んでくるわけではなく、無料は無料のテイだろうとも思っています。結局、無料でのぞかせて~みたいな誘導でしょうから、絶対に鵜呑みは禁物にしても、どこで調べたか私のところにメルマガを送ってきたのだから、私なりに分析して楽しく何かのサインに変換できればと考えております。うん、2~3日寝かせてみよう・・・。

 で、たぶん、2~3日後にはどうでもよくなってこのこと自体を忘れているだろう・・・。いい意味で。

やっぱ2番か・・・。

 とにかく、標準的な日本人なものだから1番になりたいと思う。まぁ、昨今はそういう時代でもないのだろうが、子どもの頃から勉強でも運動でも趣味の世界でも勝負なら1番になりたいと思って努力しよう・・・みたいな人格でここまで来たような感覚がある。それがいいか悪いかなどこの歳になってしまえばあとの祭レベルではあるが、どんなしょうもないことでも1番になるのと、1番になれなかった差が精神的にとても大きな意味を持っている人間だなぁ~と思います。なぜ、それほど1番になりたいのかはまったく自覚できないが正しいのですが、どうせ努力して勝負するなら1番でしょう!?みたいな程度だろう。オンリーワンという称号がもてはやされた時期を経て現代の日本ではこの感覚はどこへ向かっているのだろう。

 しかし、なかなか1番になれないことばかりが人生続くとどこかで諦めるモノ。でも、上記のように標準的な日本文化で育まれてしまったものだから、この1番になりたい感じが歳を重ねる毎にどこかエスカレートしてきている感覚がある。これがとてもやっかい。子どもの頃に植えられた種が枯れずにいまだに発育中なのだろうか。とはいえ、努力してすべてが1番になれたかというとそうではない。あと一歩で優勝というところで無念だったことしか覚えていないぞ。振り返るとそんな記憶ばかり。クロコダイルが投獄されて白ひげに敗れた銀メダリストがこの海には五万といて、白ひげに敗れただけで海賊王になれなかったと言っていた。尾田さんもココイチでなかなか深い物語を捻じ込んでくるものである。

 社会に出るとなかなかこのテイの1番になるための競技や勝負に出会えない。仕事にしても何をもって1番かなど不明だし、働きながら何か唐突にギネスを狙うことなど無謀極まりない。そんな中、バスフィッシングのトーナメントに出ている時があった。4年ほど毎年4~6回の毎月のバスフィッシングのトーナメントである。40~50名でブラックバスを釣りその総重量で競う大会である。ただの趣味の世界だとは言え優勝を目指して毎回臨んだが結果一回も優勝はできなかった。そのかわり準優勝が5回あった。「また2番か・・・。」みたいな。

 これを筆頭に、とにかく、なんでも2番が多いのである。1番になるためにできる努力をするのだが、いつもいつも2番。なぜこうもう2番が多いのかと・・・。だから、いつかは1番にとモチベーションが切れないのかもしれない。しかし、全力で勝負して1番と取りたい人が1番になれないとかなりへこむ。でも、又か・・・みたいな諦めとなにくそ!というモチベーションの微妙なバランスが実は一番楽しいのかもしれないと、たった、これだけのことで哲学チックになってしまうのである。だから、お前はいつも2番なんだと誰かに言われていそうである。つまり、1番になる人ってのは別段努力せずともコンコンコンと結果を出す人なんじゃないかと。努力型の人間はこの天才型のコンコンコンタイプには勝てないのかもしれない。

 で、昨日は年に一度の健康診断。体重・身長・視力・聴力・血液検査・脈拍・血圧などなど午前中いっぱいかけて検査していただく。しかし、できるだけ早く終わりたいので本来8時30分に検診センターに行くのが一般的なのですが、いつも15~20名程の人員がこれらの検査をするため、1番の人と20番の人では終了時間が2時間の差になるのです。そこで、昨年は30分早く8時前に病院に行ったのですが、6番だった。う~ん、結果、終わったのは12時過ぎ。ので、今年は1番に行こうと思って1時間早く病院に行く。まさか、1時間も早く行けば余裕で1番手にエントリーできるだろう、早過ぎてちょっと時間をもてあましてしまうかもれいない。そのためにちょっと本でも持って行こう。と7時30分に病院に到着。病院もまだ受付が閉まっている。ナースっぽいひともまだ早朝の雰囲気で院内を歩く人もまばら。うんうん、これは間違いなく1番だ。検診センターの入口に到着する。

 う~ん、わけのわからん中肉中背の65歳ぐらいの親父が早く来た人用の丸椅子に座っている。そして、元気な声でこちらを向いて「おはよございます!」と挨拶される始末。「おはよようございます。」とその人の隣に座る私。う~ん、やっぱ2番か・・・。

アンダー・ザ・ドーム@キング

 出た出た出てしまった。ひさびさのキングである。またもや独特の条件と状況が設定されているみたいである。小説もあまり予備知識を入れないのがベターなので、小さい広告でこの新刊のことを知りましたが、まだ、ネットでは検索していない。書店で発見したらチェックしたいと思っております。近年、キングは長編タイプから短編タイプといろいろなスタイルの新刊を出してこられた、本人いわく、長編は出版社の希望であり自分としてはあまりのり気ではなかっとかつぶやいているが、さてそれもfakeかもしれいないし・・・。まぁ、キングが素直に何かを世界の読者にコメントとして打ち明けるというようなことはされないだろうし、してほしくもないが、こうして、新しい切り口の新作が出てくることはとても嬉しいことである。

 上下で¥2,900が2冊か、う~ん、大物である。

くよくよしていいんだ。

 小さいなことにくよくよしない人間は仕事が出来ないらしい。逆かなと思いきや、ある書籍にはそうは書かれていない。世間一般常識的に言えば、小さいことにくよくよせずに、計画的に大きくフレームで捉えて小さい失敗は気にせずに・・・みたいな感じが王道かなと思いきや、実は、それではダメ。確かに世間一般的に小さい失敗の積み重ねが大きな仕事に繋がるという構図。大きな仕事をするためには大きな人間にならなければいけないと小さい日本の教育は語られてきたような印象が深い。でも、それは、基本的に間違いのようです。自分自身に置き換えても、やっぱ小さいことが気になるし、ちょっとした失敗でお客様や仕事仲間の皆さまの気持ちが逸れてしまわないか心配です。それが、びびっている、自信がない、視点が小さく低いと自分自身を悲観している部分が多分にあった。しかし、無理苦理虚勢を張り自分を大きく見せようとクジャクのように羽を広げるがそれでも、小さいことが気になる感じが否めない。まぁ、気になるんだから仕方ないか・・・と人には言えないような細かいことをちまちま配慮・考慮しながら大きく見せよう大きく見せようとしていた感じ。

 で、くよくよしている自分に自己嫌悪している節があった。しかし、この著者はそれでいいと言う。なんとなく、この共感は強く深く近い。なぁ~んだ、くよくよしていいのか!と。小さいことに気がまわらないような人間に絶対大きい仕事を頼みたいとは人は考えないとこの著者は言う。確かに!

 あとこの書籍にはこのテイのネタが34本ありますから、また、このブログで少しづつ紹介していきます。

EMI-TAKEIさん。

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 いやいや、新しい人が次から次へ出てこられますね。しかし、目力あるなぁ~って感じ。

100mか・・・。

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 この歳になってもまだドキドキします。100mのスタートライン。苦しい練習を経て勝負がたったの10数秒。でも、ここれが100m。この感じは中学生の頃からとても好きでした。野球についてはセンスが皆無だったのであまり部活は楽しくなかったが、100mは大好きでした。あのスタートラインの緊張感、飛び出す感じ、ゴールを目指してただ走るという感じが一番性に合っていた。やはり、瞬発力タイプと持久力タイプで分けるなら、自分は完全に瞬発力タイプの人間なのだと思います。このスタート地点を見ているだけでワクワクしてきます。そうそう、90歳で100mを走っていたおじいちゃんがいたなぁ~、とても素敵です。できればああなりたいものです。

JAZZならやっぱこれかな?

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 確かにこのタイプは嫌いではない。しかし、どんな音が出るのか弾いたことがない。JAZZのイベントに関わる以上、やっぱ、口だけではだめだろうと思っている。そんなのなんとでも言えますからね。「僕はJAZZが好きだ。」って言ったもん勝ちみたいな部分で、JAZZの仕事をしたくないと思っている。しかし、どうしてもこのタイプのモデルは買う気がしない。弾いてみたいとは思わない。とは言え、ストラトも嫌い。技術のことはさて置き好き嫌いばかりのたまわっているが、ギターなら、テレキャスかレスポール。そして、アコギも好きじゃない。まったくのイメージ先行の基準でしかないのですが。でも、JAZZならやっぱこれを1本持っておく必要があるのかな・・・。迷う迷う迷う。

 よし、ここから始めよう。凄いサイトがあるものです。毎晩1ヶ月も弾いてたら右手も左手も大丈夫だろう。独特のスケールがあるようなので、これを反復反復でアドリブできるようになるまでガチで頑張ろう。チョロリと弾けたらカッコいいぞ。

詳しくはこちらへ。http://www.joey-web.com/jazz/

緑色の白鳥。

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 これは、我が家の家庭菜園で3本目のキュウリ君。「変なカタチ」と思って何気なく切り取ってテーブルに置いてみてビックリ!これトリやん!緑色の白鳥やん!みたいな。これはミラクルである。

ブログのモチベーション。

 「何故、そんなにブログを書けるのか?」という嬉しい質問を頂くことが多い。数年前まではブログ?なんのこっちゃというタイプの人間が、書くこと自体が楽しいのか、少しづつレスポンスを頂けることが楽しいのか、貯まっていく記事をたまにぼぉ~と読み返すのが楽しいのか、まぁ、全部が相互に関係しているから続けられているのですが、やはり、一番は、「ブログ読んでますよ。」と言っていただけることが一番モチベーションになっている。いつもややこいことばかり書いているので、「ちょっと、コメントしようと思っているのですが、コメントを考えているうちに日が経ってしまい・・・」ということを言っていただける。これも嬉しいことですが、意味不明の乱筆乱文ではなく、もっと、チカラを抜いた記事にすれば、コメント数も増えますよというアドバイスも頂くことは頂く。でも、コメントは勿論、頂きたいがコメントを頂くことは自分にとって副産物なので、コメントが多いからコミュニケーションの活性率が高いとも言えないだろうという天の邪鬼の私は、いつものことながら、マイペースに続けています。そして、人間のタイプ的に「適当な力の抜き加減」が最も苦手。

 以前、ある書籍に毎日5,000ビューあり、ビジター数が1,000あれば、ブログとして優良だと判断していいというモノサシが書いてあった。数年前のことだから、現在の適正・標準値はどれぐらいか不明だが、とりあえず現在の目標はここ。でも、数字を上げるためだけに書いているわけではないので、やはり、自分自身が楽しい感じにならないと絶対に続かない。書くこと(入力する)が楽しいのか、文脈をアウトプットするのが楽しいのか、記事が蓄積されることが楽しいのか、まだ、限定はできないですが、どれもそこそこボチボチでいいかなと。結果、目標値になれば、嬉しい。現在、このブログは毎日4,000~4,300ビューでビジターが700~750を推移しています。それほどの人が何らかのカタチで場面でシチュエイションで読んでくださっているからこそが一番の続けられる理由ですね。「にわとりと卵」の法則のループで「楽しい」と「書く」が上向きのスパイラルになると、こんな楽しい存在はブログだけということなる。

なぜ、自分は判断を誤ったのか?

 「なぜ、自分自身は判断を誤ったのか?」を簡潔にロジカルに言葉にできる知性がもっとも良質な知性だと僕は思っているという著者の本を読んだ。その本にはこう続く。「少なくとも自然科学の世界はそうです。自分が提示した仮説を他の科学者によって反証されるより先に、自分自身の実験で反証し、仮説を書き換えることは科学者の名誉の一部です。ビジネスの世界だって同じです。自分が作り出したビジネスモデルの欠陥と限界を社員に指摘される前に気がついて、「まだ儲かるのに・・・」という未練を捨て、大胆に「撤収」という判断を宣言できる経営者こそがクレバーだと。しかし、この知性観を日本のメディアは採用していません。メディアにかかわる人の過半は、自分が仮に間違っていた場合でも、それを認めずに言い訳を繰り返し、なんとかその場を言い抜けることをむしろ知的なふるまいだと思っている。」と。少しスポットすぎるフォーカスではあるが、メディアに対する総論としてこの切り口は面白い。

 ようは、「個体」と「世論」のギャップを明確にすることがクレバーだということ。森を見ている木を見ている葉を見ている人が3人集まって地球のことは議論できないということ。「世間一般にこうだから」「概要に記載されていたから」「企画書にこう書かれてたから」という軸足では議論は本来成立しないのだが、それをロジカルに体系化したかのように(実はこれも立派な体系化なのですが、)言える人は逆に素晴らしいのかもしれない。個体が存在しないことはリスク回避のためなのか、その人のIQの問題なのか?というモノサシのお話だろう。

 何かひとつの案件に対して自分自身が正論だと思っていることにスキやミステイクが存在した場合、システムのバグなら解明し記述しなおせば正常に戻るが、人間の思考のバグはそう簡単に書き直せない。つまり、人間の個体そのものが言わば大きなバグなんだから。バグとバグが議論して正解が出るはずがない。だから、モノゴトは進行系である必要性を内在している。この会議の結論は?とか、君の結論を言ってみなさい?などと言われると、便宜上、表面のうわずみをすくいその場のお茶を濁すことはできるが、決して、モノゴトを断片的に切り取り正解を出すことは難しい。この情報化時代でさらにそのアプローチは難易度を引き上げられている。

 例えば、「もっと、このお見積りは安くなりませんか?」という投げかけに対して、どうコミュニケーションをすることが正解なのだろう?適正値を知れば知るほど正解は出ないことを知る。このチラシの制作期間を2ヶ月貰えればベトナムか上海で印刷するればが、たぶん、最安値だろうし、印刷代を気にせずに最速を求めるなら地元で印刷すればいい。しかし、モノゴトはそう安易ではない。だから、いつも判断を誤まらないようにしているし、仮に誤ったとしても瞬時にB案を起動できるようにしている。それでも、適正値が見つからない場合、臨機応変に事態に対応できる判断力とポテンシャルを持っておきたいものです。

 最後の最後で、クラウドもソフトウエアもプログラムも判断はしてくれない。キーボードを叩く指の本体が軸をぶらさぬようにと瞬間瞬間がガチの勝負なのである。これにストレスを感じる人は決してフロントには立てない。想定以上にこのアゲンストはキツイからである。しかし、追い風が吹いた時、それを身体全体で感じられるのもフロントに立つ人の優越感である。この風がたまらなく心地いいのだから。

サイモンは影が薄い。

 "Simon's presence is not felt strongly."直訳すると「サイモンは影が薄い」となる。この英語はどこで使うんだ?みたいなこと。これらが、ほんとに日本の英語のテキストや英語の教材には意味不明の非現実的な英文が多いということ。これどんな場面で使える英語なのか?こんなのを事例に出して英語を覚えりゃそりゃ世界の英語レベルで最下位になりますわ!みたいなこと。

 I started going bald when I was in collage.で「私のはげが始まったのは大学時代です。」という英文。これは辛い。なんだこれは?ハゲについて日本人はとても敏感だからアデラ~系のビジネスが成立しているわけですが、ハゲについて無関心な国民が増えればアデラ~系はビジネスチャンスを失うのだから。でも、大学時代とはちょっと切ない。私自身、30代で前頭部が薄くなり、毎日気にするのがメンドクサクなりそれからマイバリカンで3mmの丸坊主人生となった。でも、20代の頃、ハゲるかな?という緊張感から一気に開放されて、たぶん、ストレスも軽減されたのだろうし、毛根の脂分も比較的キレイになったのか、薄くなる加減が緩和された。まぁ、こんなプライベイトなお話はどうでもいいが、ちょっと、この例文は切ない。

 It hurts when i urinate.「小便するとき痛い。」病院に行けばいい。

 Their new baby is as cute as a button.「今度の赤ちゃんは可愛い。」その赤ちゃんのお兄ちゃんかお姉ちゃんはどうなのさ!この例文をなぜこのテキストに入れたの?悲し過ぎるでしょう。

 Maybe I'm going to be fired.「たぶん、私は首になるでしょう。」辛い。

 It turned out that they were struck by lighting.「彼らは雷に打たれたものと判明しました。」ということことは、判明する前段階で彼らはどのような状態だったのか?雷に打たれた彼らが一体どういう状況だったら、この例文が表現する状態になるのか?これがもっと哲学的な意味が背景にあれば、おおっ!これは深いじゃんとなるが、本当に雷に打たれたのだとしたら、判明した場所が病院であることを祈りたい。それにそうそう雷には打たれないぞ。それが例文?

 The slave ran away for his life.「その奴隷は必至に逃げた。」どの奴隷?

 Look at that scrawny half-starved dog.「あの半分死にかているやせこけた犬を見てごらん。」なぜ、それを誰かに見せる必要があるのか?それに昨今の野良犬で死にかけているような日本人のような野良犬など発見できるのか?野良犬や野良猫やカラスなどはもっと想像以上に逞しいぞ。逆に、彼らの心の声ならそれはユーモアがあっていいじゃん!カラスが2匹ゴミをつつきながら人間を見て言っている~みたいな挿絵があればこの例文はマッチするかもしれない。

 I'm going to take this book.「この本を盗んでいくよ。」という例文に母が子どもといっしょに書店にいて、書棚の本に母が手をかけているイラストがある。ダメじゃん!盗んだら、お母さん。

 と、この書籍、突っ込みどころ満載なのですが、最後にココイチをひとつ。

 Ten to one be will forget to buy milk.「ほとんど確実に彼は牛乳を買うのを忘れるだろう。」う~ん、牛乳ぐらいは覚えておこう。で、なんで牛乳なのか?

 と、どっかの書店で目に止まったらぜひチラミしてください。タイトルは「笑う英会話」¥476です。

すべての仕事を紙1枚に・・・。

 アマゾンで第1位という著書「すべての仕事を紙1枚にまとめてしまう整理術」がクロスメディア・パブリッシングから¥1,449で出ている。著者は高橋政史という方。「いらないものを思いっきり捨て、シンプルに整理する力を磨くと~」みたいなことであり、「これでダメならあきらめてください!」とある。頭の中のモヤモヤと、机の上のごちゃごちゃを、一気にスッキリさせる7つのスキルが身につくらしい。まぁ、この著者の背景がこの書籍を読むまで知覚できないから、これらの言葉の信憑性がどこまで伸びるかは未定としても、この場合「すべての仕事」とはいったい何を指しているのだろうか?1枚の紙にまとめることが整理術だとは理解できるが、仕事の目的はそもそも整理ではない。それはひとつのプロセスですし、言わば、仕事にゴールはないのから、いずれも仮設定の仮設定で「工夫が足りない!」と相対的に言いたいのだろうか。しかし、その道のエキスパートなら工夫をしてきたからエキスパートとして成立中なわけで、この書籍が4万分突破したということはいったいどれぐらいのリアリティーがあるのだろうと考えてしまう。

 アマゾンで第1位はいいが、アマゾンでベストセラーになる「仕事術」ってかなりフラットで軟化しているスキルのお話の可能性があるぞ。まして、受け入れられやすいシステムだから、相対が絶対かとなるとおそらく相対のはず(そもそもメデァイのテイで絶対ではない。)。この7つのスキルとやらに取り組んでも少なくとも4万部の購入者はそれを情報として知っていることになり、その50%が正直にこの7つのスキル獲得にトライしたとして、その満足度は相対的に¥1,447の価値があるのかないのか?というよりも、それが¥1,447の価値なのかな?となる。つまり、この著者や出版元の狙いは啓蒙するために啓蒙しているのである。そして、「これでダメならあきらめてください!」と広告面にライティングしてしまう広告デレクターの直下のライターの狙いは意外と薄いように思える。

 さて、「すべての仕事」の部分であるが、おそらく、「ひとまず便宜上「すべて」と想定できる仕事」が正しい。整理術だから、さすがにまとめないでくださいとは言えないだろうが、「紙1枚」という変数を定義することで視覚化して具現化しましょうということだろう。有効なインプットとアウトプットを繰り返すことで、思考の流れを潤滑にして能率と効率と品質を上げましょうということだろう。

 「紙1枚」も、メモ用紙なのかノート1ページなのか大判模造紙なのかロール紙なのか規定されていないから、このアプローチも鵜呑みにはできない。世の中、効率効率と時間を短縮することばかりに注視しているが、短縮することがイコール効率だとは思えないし、本や新聞の読み方が変わった!などと読者の声をチョイスしてピックアップしているが、どう変わったのかが問題で、整理できたが、スリム化し思考をダイエットしたつもりが大切な筋肉や脂肪も落としてダイエット成功みたいなノリでは本末転倒。思考の瞬発力や持久力を高めるためには紙1枚にまとめることはほんとに有効か?2~3枚ぐらい必要なんじゃないの?それにちょっとぐらいモヤモヤがある方が脳細胞は活性化し続けるんじゃなの?と、生産的にあくまでも生産的な意味でツッコみたい書籍でした。まず、買わないが・・・(なんや、買わんのかい!?)。

スイカの赤ちゃん。

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 このようにうぶ毛付きでスイカの赤ちゃんがすくすくと。この可愛いスイカラインがとっても素敵です。

さつまいもがグイグイと。

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 ここに来て、充分な雨も日射もありで、瀕死のさつまいもでしたが完全に復活モードです。確かここまで根が付けばさつまいものポテンシャルはこんなもんじゃないはず。ただ、この程度の植木鉢なので、どこまで覚醒するかは未定としてもこの力強い葉の色を見ているだけで元気になりますね。別段、大きな第2世代は期待していなので、元気に葉を茎を伸ばしてほしいもの。

節電の夏が始まる。

 節電対策が始まる。ほんとに決め事が好きだなぁ~。そりゃ、橋本知事も熱くなるはず。