なぜ、自分は判断を誤ったのか?

 「なぜ、自分自身は判断を誤ったのか?」を簡潔にロジカルに言葉にできる知性がもっとも良質な知性だと僕は思っているという著者の本を読んだ。その本にはこう続く。「少なくとも自然科学の世界はそうです。自分が提示した仮説を他の科学者によって反証されるより先に、自分自身の実験で反証し、仮説を書き換えることは科学者の名誉の一部です。ビジネスの世界だって同じです。自分が作り出したビジネスモデルの欠陥と限界を社員に指摘される前に気がついて、「まだ儲かるのに・・・」という未練を捨て、大胆に「撤収」という判断を宣言できる経営者こそがクレバーだと。しかし、この知性観を日本のメディアは採用していません。メディアにかかわる人の過半は、自分が仮に間違っていた場合でも、それを認めずに言い訳を繰り返し、なんとかその場を言い抜けることをむしろ知的なふるまいだと思っている。」と。少しスポットすぎるフォーカスではあるが、メディアに対する総論としてこの切り口は面白い。

 ようは、「個体」と「世論」のギャップを明確にすることがクレバーだということ。森を見ている木を見ている葉を見ている人が3人集まって地球のことは議論できないということ。「世間一般にこうだから」「概要に記載されていたから」「企画書にこう書かれてたから」という軸足では議論は本来成立しないのだが、それをロジカルに体系化したかのように(実はこれも立派な体系化なのですが、)言える人は逆に素晴らしいのかもしれない。個体が存在しないことはリスク回避のためなのか、その人のIQの問題なのか?というモノサシのお話だろう。

 何かひとつの案件に対して自分自身が正論だと思っていることにスキやミステイクが存在した場合、システムのバグなら解明し記述しなおせば正常に戻るが、人間の思考のバグはそう簡単に書き直せない。つまり、人間の個体そのものが言わば大きなバグなんだから。バグとバグが議論して正解が出るはずがない。だから、モノゴトは進行系である必要性を内在している。この会議の結論は?とか、君の結論を言ってみなさい?などと言われると、便宜上、表面のうわずみをすくいその場のお茶を濁すことはできるが、決して、モノゴトを断片的に切り取り正解を出すことは難しい。この情報化時代でさらにそのアプローチは難易度を引き上げられている。

 例えば、「もっと、このお見積りは安くなりませんか?」という投げかけに対して、どうコミュニケーションをすることが正解なのだろう?適正値を知れば知るほど正解は出ないことを知る。このチラシの制作期間を2ヶ月貰えればベトナムか上海で印刷するればが、たぶん、最安値だろうし、印刷代を気にせずに最速を求めるなら地元で印刷すればいい。しかし、モノゴトはそう安易ではない。だから、いつも判断を誤まらないようにしているし、仮に誤ったとしても瞬時にB案を起動できるようにしている。それでも、適正値が見つからない場合、臨機応変に事態に対応できる判断力とポテンシャルを持っておきたいものです。

 最後の最後で、クラウドもソフトウエアもプログラムも判断はしてくれない。キーボードを叩く指の本体が軸をぶらさぬようにと瞬間瞬間がガチの勝負なのである。これにストレスを感じる人は決してフロントには立てない。想定以上にこのアゲンストはキツイからである。しかし、追い風が吹いた時、それを身体全体で感じられるのもフロントに立つ人の優越感である。この風がたまらなく心地いいのだから。