映画「ソーシャル・ネットワーク」

 いつものことながら、D.フィンチャーにはいい感じでやられてきたが、さて、この映画「ソーシャル・ネットワーク」はどうだったのだろう?もしかして、これは「フェイスブック」のプロモーションビデオだったのだろうか。設定も物語もリズムも悪くはなかったが、この映画はD.フィンチャーでなければならなかったのだろうかという気持ちがまず見終わった時の印象でした。もっと、何か仕込まれているのか?とか、意外性というか、そんな部分を期待して観ていたからであり、これまでの作品は間違いなくそのテイストがあったのに・・・。残念というほどのレベルではないが。

 しかし、最近、あるイベントに関連する物語(原作らしきモノ)を仕上げようと取り組んでみたが、その難しさに放置状態になっている。一気に思っていること考えていること感じていることを物語化しようとしたのですが、自分自身の奥の浅さが簡単に露呈した。モチーフを描くために必要なリサーチというか体感している材料が少な過ぎたと反省している。しかし、この物語はどうしても完成させたいと思っている。想定以上に時間が必要かもしれないが、絶対にひとつの物語として完成させなければならない。一人で完結する作品である絵やイラストや小説などは、他人の意見を考慮せずに自分の世界をただカタチにするばいいが、映画を作成するための原作、もしくは、物語を構築する流れでの映像化などと、最終的に多くの人の手や想いを内在させる成果物にするためには、自分勝手な世界観や展開では全然ダメだという壁がある。なんとかなるだろうとか、この感じはこう書けばたぶん伝わるだろうということでは、絶対になんともならず、伝わらないということ。この現実は結構大きい壁である。

 共同作業であり組織で何かを作成する場合、いろいろな意味の「足並み」というか「協調性」が必要だということなのだろう。これは、非常に自分的には難しい。経験値がないと言ってしまえばそれまでなのですが、では、この経験値はどうして会得すればいい。情報が飽和しているとは言え、この場合の本当にほしい経験値はネットの中には存在しない。例え、フェイスブックで何万人の友人がいたとしてもそのルートから経験値がダウンロードできることはない。だから経験値なのである。正々堂々と正面からガチで取り組んで失敗して失敗して失敗した後に、何か手の中に残るリアリティーが経験値であり。失敗の過程から情報ではなく知見としての見方や捉え方が会得できてこそなのである。だから、いつもこのことを頭の比較的前の方に置いて反芻を繰り返している。それに取り組むためのアプローチもできることをやっている。情報やネット上の好奇心はこうも簡単に連動・連結・連鎖する時代になったのに、この感覚だけはどうしようもない。ネットの情報がこうも「学ぶ」という存在と距離があるとは・・・。

 で、映画「ソーシャル・ネットワーク」がPVに見えてしまったという訳。