本を買う人、読む人。

 基本的に本を買う人と読む人は同じだと捉える日本。しかし、海外で書籍とは読むモノであり買うモノだという意識が薄いらしい。そう言えばそうだ。この錯覚が著作権や書籍ビジネスの流通のシステムに大きな影響を及ぼしているという構造上の論理がある。つまり、著者は何をなりわいにしているかという論点。しかし、著者が過度に著作権を行使してその代価を得る本質があるかというと、それはどこか先入観のようにも思える。つまり、著者が書籍をどうして欲しいのかという根幹の問題は読んで欲しいと思っているだけで、買って欲しいという要求はどこかあとづけのようになり、そこで、実は、儲けているタイプの人達がその食いぶちを失いたくないがために、本は買うモノというメディア操作をしているという論理。書籍を買うという心理には書籍をコレクションとして満足を得ている人が大きく関係している。では、書籍をコレクトするのは何故か?これも文化レベルのお話になるのですが、今すぐ読みたい本だから買っているということではなく、書庫に置きいつか読むために手元に置きたい、もしくは、一度は読んだが、また、読む時のために手元にコレクションするということがその背景にある。言わばそれが「書籍」のリアルなのである。すると、電子書籍は何か?正確にはそういう理由と背景からそれは「書籍」ではない。書籍として得る文脈のそれと、電子端末で情報として得るそれとでは、情報に対する価値観が大きく異なる。でも、書籍の中の文章もタブレットのテキスト情報も同じだと捉えることができる感覚の人は、この情報をできるだけ安価に入手したいというタイプの人だろうと言える。

 つまり、教育の現場のパラダイムシフトと同じで、学生は消費者で教育はビジネスだと捉えるならば、少ないコストと時間で最大限の効果を得ようとするベクトルが優位になる。が、教育を「効果」と捉える時点でもう大きく逸れて捻じれているから、現代のような教育の情勢に陥る。大学もひいては社会構造も同義。本来獲得しなければいけないのはフレームや定義ではなく本体の本質なのだから。だから、全てが空洞化する方向に陥るのかもしれない。

 で、買う人と読む人は同じではない。買って満足する人と文脈を読み知識として得る人との大きな相違点を掌握していることが、文化やビジネスとしての書籍流通に対して巧みにベクトルを修正させながら、マッチさせることができるような人になれる手法だと思います。では、メディアや広告やデジタルコミュニケーションの構造はどうか?まったく、同じである。常にこの関係を踏まえて戦略を講じなければ、味噌とクソが入ったみそ汁を飲むはめになる。

 まぁ、正確にはその性質上、味噌とクソは大きく異なるが、実は、科学的に物理的には同じ性質だったりするという乱暴な分析もできなくはない。文化が違えば「クソ汁」だってニーズがあるかもしれないし、逆にどれだけ公明正大に公儀における理想論で一般化したシステムでも、ニーズが捻じれていると、「味噌汁」だと思ってすすっているモノが「クソ汁」だったみたいなこともあるんじゃないかな?

 さて、あなたは本を買いたい人なのか読みたい人なのか?