贈り物。

 最近出会った、あまにも素敵な文脈なので全文紹介します。「メディアの危機に際会して、僕がいちばん痛切に感じるのは、この「これは私宛ての贈り物ではないか?」という自問がどれほどたいせつなものなのかを僕たちが忘れはじめていることです。この自問の習慣のことを、かつてクロード・レヴィ=ストロースは「ブリコロール」という言葉で説明したことがあります。「ブリコロール」というのはフランス語で、「日曜大工」とか「器用仕事をする人」とかいうことですけれど、要するに、「手元にある、ありあわせのもので、なんとか当座の用事を間に合わせてしまう人」ということです。資源の乏しい環境におかれた人間は「ブリコロール」的に生きる他ありません。山奥で暮らすとときとか、ヨットで船旅をしているときとか。そして、人類史のほとんどの時間を人類は「手元にあるありあわせのもの」で間に合わせるしかないという状況で生きてきました。あれがないから、ちょっとコンビニで買ってきて、というわけにはゆかない。ですから、「ブリコロール」的な潜在能力は僕たちの生得的なビルドインされているはずです。マトグロッソのジャングルの中で採取と狩猟の生活をするインディオたちが限られた資源を最大限に有効活用するために、環境に対して独特の踏み込みをする習慣を持っていることを知りました。ジャングルの中でふと目についたものがあると、彼らはそれを熟視して、こう自問するのです。「こんなものでもそのうち何かの役に立つんじゃないかな?」。これこそすぐれて「ブリコロール」的な問いなのです。この言葉はおそらく沈黙交易の起源において、テリトリーのはずれで、「なんだかよくわからないもの」に遭遇して、それを「贈り物」と考えたクロマニヨン人の考えと、本質的には同型のものだろうと思います。その「なんだかよくわからないもの」がいつ、どのような条件の下で、どんなふうに「役に立つ」ことになるのか、今の段階ではわからない。そもそもその価値や有用性を考量する手持ちの度量衡がないからこそ、それは「なんだかよくわからないもの」と呼ばれているわけです。でも、ある種の直感は、それが「いつか役に立つ可能性がある」ことを教えます。そのような直感が活発に働いている人だけが「いつか役に立ったときに「ああ、あのときに拾っておいてよかった」と思っている自分の感謝の気持ち」を前倒しで感知することができる。だとしたら、それは、さしあたりは意味も有用性もわからないものですが、その人にとっては、すでに「贈り物」なのです。映画でよくあります。登場人物が物語の途中で、何かを拾う。あるいは置いていこうとしたものを、なにかのはずみでポケットにしまう。そういうシーンが大写しになったら、それは伏線です。必ず後で「それがあったおかげでピンチを脱出した」という展開になります。よくあるのは、「聖書」と「家族の写真を納めたロケット」。これは胸を銃撃されて、誰も死んだを思ったときに、聖書やロケットが代わりに銃弾を受け生き延びた・・・という話につながります。似た話はあまりも多いところから考えると、これはずいぶんと起源の古い説話原型なのでしょう。その教訓は明らかです。人が「無意味」だと思って見逃し、捨て置きそうなものを、「なんだかわからないけど、自分宛ての贈り物ではないか」と思った人間は生き延びる確率が高い。そいういうことなのです。」という文脈です。

 これはある書籍のかなり後半の文脈なので、ここだけ抜粋してもその真意は文脈以上に伝わりにくくなっていますが、これをこの文脈にならい「贈り物」だと捉えた人は情報の海からその書籍を釣り上げてください。

 つまり、用意されたプログラムにはのびしろはないということです。どちらかと言えば、パソコンなどもフリーズしたり誤動作をする時にその真価が見えるみたいな。人間も同じかなと思います。正常にモノゴトが潤滑に流れている時はそれには気づかない。しかし、どこか流れに淀みができたり、落差のある流れに実は有用性が潜んでいるのかもしれないですね。飽和する情報が「自分宛て」と捉えていただくためにも、セオリーや相対性はそこそこにして、ポテンシャルと絶対値で「贈り物」を練り上げたいですね。