まちづくり!?

 そもそもこの「まちづくり」という言葉は東京・大阪時代には無縁だった。そこに意識が向いていなかったからであり、そこにフォーカスするほど暇でもなかったのか、そんなことよりも仕事のことを考えることが最も重要だと考えていたからだろう。歳と共にエッジが丸くなったのか、貪欲さのあまりに余計な蛇足に首を突っ込んでいるからか、いつからか自分の中で「まちづくり」という言葉が結構な頻度で思考に絡まる感覚を覚えるようになった。そのまま流せば街の活性化を抽象的に表現している語彙に過ぎないが、でも、この言葉が世の中全般的にかなり独り歩きしている感じがする。とりあえず「まちづくり」って言っておけば、大義名分が公儀の元、成立して繋がってますよ絆ってますよとハリボテの自負を示せる便利なキーワード。

 まぁ、同義で「ボランティア」という語彙も氾濫しているし、「エコ」については、そもそものエコロジカルから相当遠くなっている。ハライチさんにすかさずボケてツッコンでいただきたいぐらい。

 で、「まちづくり」って実は何だろうと考えてみる。いろいろ変数はあるだろうが結局「人」がその最少単位であることから、教育や人的なネットワークづくりがそれに値するように思います。しかし、これも枝葉の多い語彙であり、相互に連動していることから社会性という軸と本来個体が持っている倫理観やモラルや慣習などがこれらを綿密に時に乱雑に繋げている。「私はまちづくりを頑張っています。」と公言している人を洞察すると、その裏にいくつか不思議なキーワードが隠れている。その個体が持っているジョーカーを無視してゲームを進めているといつしかそのゲーム自体がジョーカーの取りあいみたいな力技になり神経戦から武装戦に展開し、結局、白と黒でどっち?みたいなことになる。これも、まわりまわって文化や慣習で括ると歴史や未来像が芋づる式に繋がっている。結局、つながってるじゃん!みたいなことに気付く時、個体と社会という関係で最終的にポテンシャル勝負になるが、それでも、結局、正解はなく、白と黒とも言い難いグレイなゾーンで時間だけが経過していることに愕然する・・・みたいな。これが意外とずっとずっとループされると、まさに、ねずみ小屋の車輪のように走っても走ってものルームランナー状態に陥る。走っているのに同じ位置、だけと、カロリーは消耗している。消耗していることがそれのリアリティーになり、実際は1mmも前に進んでいないのにカウンターだけは進んでいる状態。

 これがもし「まちづくり」の実態だとしたら、ちょっと怖い。