複製不可なるモノ。

 デジタル時代の繁栄には「複製」というキーワードがそこかしこに適用できる。そもそも、技術の進化とはこの技術で全て包括できるような気がする。多様なニーズを商品化してレスポンスを得るために常にフロントを走っている人達は複製技術を進化させてきたとも言えなくない。沈滞している分野、失速している分野に言えることは複製のスピード感に追随できなくなったからの孤立であり、そこに元来の価値を創出できくなったことで必然的に降下しているのである。まるで、生物の世界の自然淘汰のような構造である。絶滅危惧種が保護されるの対象は生物だけのお話でビジネスモデルは絶滅しようが保護の対象ではない。熾烈な弱肉強食がそれ。サバイバルに生き残りたければ進化しなさいとどこかから声が聞こえるとか聞こえないとか。でも、そもそもの部分で進化という言葉、ある側面で便利で有効だが、ある側面で破壊や混乱をもたらしているとも言えなくない。しかし、世の中はバランスであるから二極化も必然であり、創造も破壊も必然なのであろう。

 「シェア(共有)」という本能の部分と「孤立」という頭脳を持ってしまった人間が協調性とエゴのジレンマで右往左往している間に障害競争をクリアしている脚力のあるランナーがゴールするみたいなことなんでしょうね。「仕事がない。」という言葉を悲痛に捉えると上記の考察から必然と捉える側面と偶然と捉える側面に分岐するが、さて、この場合の「仕事」の語感はどうあるべき?社会や経済の構造からはじかれそうな人が「稼ぎが少なくなって・・・」みたいな愚痴はどこか孤立の頭脳で自分の存在を擁護しているようにも思え、デジタル複製時代に自己のポテンシャルで共有すればいいことを心で理解していても、頭が反応できていない悲劇なんだろう。

 東大・京大のスマートエリートが現在ストリートで起こっていることを黙殺してきた結果、正解が誤解になる構造・法則。つまり、正解などどこにもないのだから、偏差値をいくら稼いでもリアル社会の綾の中でバックラッシュ・・・みたいな。

 ラインが出せなきゃルアーはキャストできないぞ、ルアーを動かせても反応させなければバスは手の中に落ちてこない。しかし、バスを釣ってもリリースすることが全体のモラルなんだから、何故、ルアーを投げるのか?と開き直ることは容易いがそれがバスフィッシングですからって感じ。つまり、複製不可なるモノとは、自分の手を汚して濡らして傷つけながら得た獲物であり、それは、得ているという実感ではなく、たまたま、今だけ手の中にあるという感覚でいいはず。複製して所有していると勘違いできるならそれもいいが、数多の原理をひも解き自分の存在をそこに見出せたと勘違いできるならそれもよし。結局、所有と共有のジレンマを繰り返しいつか炭素に還るだけなのだから。

 で、今、何にディテールを感じますか?五感は何をキャッチしていますか?独占しようとは考えずに共有しようとすればすべての摩擦が最低レベルに落とせるはず。摩擦を減らして誤差なくし違和感がなくなれば、必然的に感覚は研磨され時間の流れが自分自身のパスルとシンクロするはず。そこが結局一番気持ちいいことのような気がしますね。この法則はたぶん古今東西の数多の概念や宗教や哲学が分析・論化しようとしてきたことであり、その一旦を知識として得ていても実際、飯が食えなきゃ生命は維持できない。まぁ、このように文章化している段階でもうヨタ話・虚像・井戸端のつぶやきなのですから、ブログってここが限界点なのでしょうね。