2011年10月 アーカイブ

100年後の存続か・・・。

 ジョブスの情熱。「技術とアートの両面で優れた製品づくりができる会社を目指していた。イノベーションと想像力を育てようと、不可能を可能にした社員を高く評価した。利益を生むことを目標とするほかの企業とは大きく異なる。自分の死後どころか、100年後も存続する企業にしようと思っていた。」「クック氏(現最高経営責任者)はジョブス氏と同じように、デザイナーとエンジニアのかけ橋になれる人材だ。デザインに優れているなど、一つの分野に精通しているだけではCEOになれない。優れたデザイナーにいい仕事ができるように働き掛けたり、そのデザイナーに合うエンジニアを紹介したりする役割を求めらられる。リーダーシップの形は異なるが、最高の技術と最高のデザインをつなげることに自分と同じように情熱を傾けていたクック氏が適任と判断した。」「若い頃、ソニーやその製品にとても敬意を払っていたが、だが、1980年代初め、製品のデザインはよりシンプルであるべきだと考えるようになる。当時のソニー製品はとても工業的なデザインだった。ドイツのデザイン哲学「バウハウス」に影響を受け、ハイテク製品もより明るく、使いやすいデザインであるべきだとの結論に至る。」「世論的に「人間らしさ」を理解するエンジニアが少ないと嘆いていた。だが、それは日本企業に限らず、世界的に共通した課題だと思っていた。」もう、次々と語録は絶えない。

 ちょうど、今、「下町ロケット」の物語が佳境になり、モノヅクリという視点で、いろいろ考えを改める気持ちになれている。完璧を求め「創造的反抗者に」という熱意がどう100年後に機能するのだろう?それを確かめる術はないにしても、人間のことを理解することは過去を振り返ることではなく、とにかく、未来を洞察・分析することなのだと思う。創ることとはそういうことなのかな・・・。

気にしない反射力。

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 今日もぶらりと書店へ。なんとなく気になったフレーズでこの2冊を買いました。「反射力」というチカラとはどんなものか?知識も経験も実績も結局ココイチで効力はないと考えている人間だから、こういうアプローチの書籍を買ってしまうのか、いやいや、反射力には自信があるのだから、さらにこの書籍を読めばその力が研鑽されるのか、いや、ただ、擦り切れるだけなのか。というタッチでまず一冊。

 で、さらに「気にしない技術」ということで、こんな時代だから頑張って頑張ってもその勤労感ってエゴみたいな部分がある。誰のために頑張るのかっていう部分でそれが明確でなければ、そりゃ頑張れないでしょうみたいなジレンマというか葛藤がある人が手にするのかな?と手にしてしまいました。チラミの段階では「前向きなのはとかくいいことだ。ポジティブシンキングの絶対化は、いつしか、前向きでなければいけない。という強迫観念になった。すべてにおいて頑張らなければならない~私たち。明るく人づきあいができなければ人格的に否定され、ツイッターや就活、婚活ブームに乗らなければ無能とみなされる。周囲の同調圧力に耐えかねて鬱になったり、やる気を失くしてしまう人が増えたのも当たり前。心が悲鳴をあげている。自分をだますのはもうよそう。世間や職場にふりまわされず、平凡な日常に幸せを感じるコツ」と内容紹介にある。努力家が報われない時代になったのか、努力のやり方が問われているのか、努力とは別の価値観が増加しているのか、まぁ、そんなこともさて置き、「気にしない気にしない」と自分のスピード感を確かめて何事も腹八分目で行きましょう!ということだろう。うんうん、全く同感ですね。

映画「HEREAFTER」。

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 意外とクリンスト・イーストウッド監督の作品は観ている。戦争関係の映画以外は観ている。本当に名作揃いなのですが、昨晩観た「HEREAFTER」は最高でした。恐らく今年もいろいろ映画をDVDや映画館で観たがベスト3に入ってきました。いわゆる、「リズムやインパクトやまして表現力」で押し切られ型の映画ではない。監督が自分の描きたい世界をとことん描いたからあとはポテンシャルにお任せしますので引き込まれてください的な「引き込まれ型」の傑作に近い。とにかく、レンタルショップさんではたくさんある棚の下段2列にひっそり置かれているから、ちょっと心配ぎみに手にしたが、冒頭3分で安心して最後まで観ることができました。やはり、このタイプの映画は明らかに「海猿」とは違う。

 で、次にマット・デイモン。このところ、個人的に特筆する映画の半分ぐらいはマット・デイモンが出ている。オーシャンは別にどうでもいいが、他の映画についてその存在感は他のどの俳優とも一線を画しているように目に映る。容姿と演技力などいうチープな語彙で表現できないマット・デイモンの魅力とはなんなんだろう?逆にどうなのよ?の連続でこれかなという感触が掴めないまま、映画は終わる。終わっても深い大きな余韻が残っているのにそれは何なのか定義も分析もできない魅力。本人の人間力50%と恵まれた監督・スタッフを引き寄せる運みたいなもの50%のような。とにかく、映画の画面に収まった時の全てがいい。

 で、で、この「HEREAFTER」という物語。恐らく、原作はなく、監督の組み立てた物語だろう。タイミング的に公開されて、津波のシーンの問題やテロの問題や死後のスピリチュアルなテイストが賛否両論ではあるが、それは、まぁ、この映画を語る時、大きなファクターではない。そこに注視する必要はなく、漢字で「死後の世界」みたいなことをあえて書き出すからそれにハエが飛び回る構図。美味しそうな臭いがすればそりゃハエは飛ぶ。しかし、この物語をどう捉えるかでこの映画の真価がみそにもクソにもなるようなぐらい振幅の激しい深い大きなテーマを監督は観る立場の人間全員に投げているような。だから、どこか、この映画を観ながら自分自信が試されているような気さえする物語の展開でした。この感覚は誰か分かるかな?

 そりゃ犬の言葉が分かるハイジじゃないんだから、死者の声が聞こえるあたりで普通の人はリミッターが機能する。まして、3.11の後、津波のシーンは空気的にと社会性とかセオリーとか先入観の警戒ランプが点滅するはず。でも、監督はそれさえ的から外して「人間の強さと弱さ」をしっかりと描き分けていると思えた。これがこの映画の本丸であるはず。うんうん、まだまだ、心の中にラストシーンの余韻が残っていますね。

井上銘「FIRST TRAIN」到着。

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 長浜のCD屋さんで発見できなかったのでアマゾンで購入。本日到着。楽しみ楽しみ。

カエラママ、イイネ!

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 ママになってもその存在感は光る。光る人って中から光っている光っている。

木村カエラ@8EIGHT8

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 ハツバイサレテカラ、イソガシカッタノデ、ホンジツニュウシュ。キムラカエラサンノアタラシイアルバム。サァ、イマカラキクゾ。

なにもかもが緩い。

 こんなメルマガが到着した。それは、どこかの企業がクリエイターを求人している広告である。世の中就職先がFIXしないパートタイマーが増え、若者の自立心は萎え・・・みたいなニュースが飽和しているが、ほんとに職場ってないのか?仕事ってないのか?若者のモチベーションってそんなにボトムなのか?と懐疑してしまう。不景気ありきでモノゴトを捉えるとそういう側面もあるだろうが、ただ、媒体として世間に注目されたいからその場面だけフォーカスしてレスだけを求めていないだろうか。カフェから出てきた二人のカップルの写真。解像度も低く二人はたまたま下を向いている写真で「熱愛発覚!」みたいなノリって今更どうよ?みたいな。

 その広告にはこう書かれている「待遇に自信あり!福利厚生が自慢のクリエイティブ求人」と。待て待て、クリエイターが待遇とか福利厚生で仕事を選んでいるの!?

 まぁ、上記の風潮が常だとしたらそれもいたしかたなし。でも、そんなサラリーマンチックにクリエイティブの仕事をしても楽しいかい?モチベーション上がりますか?みたいな側面の方に気持ちが傾く。これも、おっさんモードだから、実際、苦労を金出して自腹で買っていた感覚がある人間だけの共通言語かもしれないが、でも、「待遇」と「福利厚生」などの条件がいいって、クリエイターとして逆に嫌じゃないのかな?給料でさえも実力で稼ぎたいと考えているからこの仕事をチョイスしているんじゃないのか?固定給で適正な休日と適正な職場環境って、それすでにクリエイティブな職場じゃないじゃん!

 別段、どろどろもギトギトもメラメラも必要以上にすることはないが、すでにリミッターがあるなら、リミッターありきの仕事をすればいい。自分じゃなくても誰かがいつでも代用できる仕事をして楽しいか?というレベルの至高さというかアイデンティティ感を求めないと、そりゃ、緩い側面しか見えるはずなし。給料だの職場環境だの待遇だの福利厚生などどうでもいいとは言わないが仕事なんだから、7ぐらいの次でいいしょう!?

若者はなぜ「就職」できなくなったのか?

 日本図書センターから出ている児美川考一郎著の書籍「若者はなぜ「就職」できなくなったのか?」。副題が「生き抜くために知っておくべきこと」となっている。キャッチコピー的には「就職できないには理由がある!」「なんで、こんな大切なことを誰も教えてくれなかったのか!」というなぞなぞ。

 反響としては「就職できない子どもを責めていた自分が恥ずかしくなった。」「こうすれば就職できる!といった内容ではないが、もっと早くこの本を読んでいれば、就職活動の考え方が変わっていた。」「これから社会に出ていく若者たちが、ここまで厳しい状況に置かれているとはじめて知った。」「この本に書かれている現実は若者だけの現実じゃない。多くの人々が読むべき一冊。」となぞなぞ感を煽っている。素直に煽られれば、現代の若者が抱える問題や社会が抱える構造上の問題、引いては経済との相関性みたいことがこの著者の視点で紐解かれていると洞察して間違いないだろう。しかし、「生き抜くために知っておくこと」とは何だろう?現状問題無く生きているのに・・・。つまり、就職と生きているということの関係性にメスを入れているということになる。では、メスを入れるんだから悪腫瘍があると分析していることになる。ここで否定モードになるのか肯定モードになるかで腫瘍の存在感が一変する。つまり、癌細胞も同じで、癌細胞がDNAの変異か進化か退化かで発生するが、ある人は人類の敵と言い、ある人は死の世界への予約チケットだと言う。どちらにどれだけ足を突っ込むかはさて置き、人間の心はある側面とある側面で真実を捉えようとする。二つの目があるから遠近感や立体視ができるように、知覚するために人間は誰しも一定のルートでターゲットをロックオンする。しかし、脳はもっと自由で、ロックオンしたつもりがされている場合が多々あるとの論文がある。つまり鏡効果であり、リフレクションである。寺尾のアルバムのタイトルではない。

 で、「就職」というバクっとしたターゲットに対して、この著者がどうリサーチ、分析、洞察して文脈を整えているかがこの本の意義・価値だろう。「こうすれば就職できる!」などという発想というか着眼点がそもそも間違っているのだから、至極当然のことをこの著者は言っているだけかもしれない。しかし、世が世だけにそれが「反響続々!」というリアクションになっているだけ。だから、本が売れると売れる本の相関関係が整っていると言える。

 さて、この「若者はなぜ「就職」できなくなったのか?」というなぞなぞ(お題)に対する、解答はどんなテイだろう?例えばこんな感じかな?「心の底から就職したいと思っていないから。」

 で、バカリズムさんだったら?「いつか日本は沈没するから」ぐらいになるのかな?

 で、で、ジュニアさんだったら「人類はいつか滅びるから」となり、小木さんだったら「若者は就職という文字の意味を理解できなくなったから」という感じになるでしょうか。

昨日の琵琶湖はなかなかの秋晴れ。

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 適当な波と湖面にきらめく陽光がなんとも素敵な琵琶湖のワンカットです。波の音も素敵でした。

蔦の家。

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 こんなに立派!?に蔦に覆われた家ってどうよ。恐らくこの家に住んでいた人が望んだのか、いやいや蔦の生命力が強かったのか・・・?結果これなんでしょうね。蔦は家を強くするという考え方もあるよういですし、いやいや、虫や爬虫類が集まってくるからNGだという考え方もあるようです。私はカミさんにこの蔦のパターンを自分の家にも適用したいのでと提案したが、瞬殺で却下だった。虫や爬虫類がダメな人は蔦=虫の発想になるんですね。仕方ないか・・・と、諦めた。にしても、この家の場合は蔦に飲み込まれ過ぎ。

「下町ロケット」なかなか。

 「下町ロケット」は半分ぐらい読めました。なかなか、経営者としての視点で読んでいると身体の真ん中あたりが熱くなる感覚がありますし、研究者と経営の葛藤・ジレンマの部分や、研究者としての高みを目指すプライドの部分は、クエイエーターとして脳にビンビンと刺激が伝わってくる感じ。これ以上、物語について野暮なことは言えませんが、なかなかのものです。

 ただ、序盤戦と中盤戦までは構成力でなんとかなんとか持っていくのですが、あとの、締めくくりが日本の小説は緩くなる。最後にドカーンとひねったり、重く深く気高く余韻を残したり、もしくは、次に何か新しい物語が始まるのか???ってぐらい、種を植える感じとかが、日本の小説にはない。たぶん、そういうフォーマットで小説家が小説を捉えている文化というか慣習があるのだろう。素晴らしい映画は素晴らしい映画ファンが育て、素晴らしい音楽家や素晴らしいオーディエンスが育てると言います。たぶん、小説や文筆家が携帯小説やオンライン小説にふわふわしているから、ファンの設定もふわふわしてしまって、芥川や直木の審査員もふわふわに同期しているような悪循環かなと思います。

 でも、現在50%ですが、なかなか、いい感じです。

「サイボーグ009」が復活する。


 いつか来るだろうとは思っていたが、こういう作品になっているとは、知らなかった。

 最新のテクノロジーで石森先生のあの009が復活です。どれだけ石森先生のコミックスから、テレビアニメから、この9人のいろいろなシーンを描いたことだろう。子どもの頃、ヤマトよりもドカベンよりも仮面ライダーよりも「009」が一番描いていたような記憶が蘇る。そんなファンは相当多いはず。ちょっと、マイルドになり、ちょっと、人間っぽくなった9人が素敵過ぎる。これが進化なのか・・・と。

 で、公開は2012年の秋なのですね。まだ、2011年の秋なのに・・・。

「下町ロケット」を入手。

 ある方から小説「下町ロケット」を入手して昨晩から読み始めています。購入したいとは考えていたのですが、優先順位的に「下町ロケット」は上位ではなかったので保留状態でした。借りれるとは思っていなかったのでちょっと嬉しいサプライズでした。早速、毎晩読んでいるいろいろな書籍の最後の方で少しだけ読み始めたという状態。新聞広告でもかなりいいという評価が書かれていたので、読みたいランクは上がっていた。だけに、この入手は嬉しいタイミングでした。

 で、まだ、入口の部分ですので、なんとも言えませんが、かなりいい感じですね。最近、別のルートでこの著者 池井戸潤氏の読書に対する、小説に対するこだわりやスタイルを読めたことも、なんとなくタイミングだったのかなぁと感じています。小説の内容についてはここで書くことはできませんが、テーマが「ロケット」や「宇宙」だけに、自分自身としてビンゴなので、一気に読めそうな予感です。

 すでに、33万部の大ヒットだそうで、これだけ指示を得ている小説ですから、相当のドキドキ感が盛り込んであると期待しつつ1ページ1ページという感じですね。

 ただ、ひとつ心配なのは、科学的なアプローチが海外の小説と比べると日本の作品は感情や歴史に依存してしまう傾向があり、さらに、登場人物の心の葛藤や物語の芯に対しての洞察表現が比較的緩い場合がある。もっと、そこは突き詰めてほしい的な余韻が過去に何度あった。現在、ヒットメーカーの日本の小説家の作品もひととおり読むが、それでも、文体の構成や物語の流れや登場人物の設定はクリアしているのですが、ディテールが弱い。歴代の芥川や直木はほとんど読んでいるが、やはり、同じ印象。もう少しリサーチできるでしょう?という部分と、もう少し、深く登場人物の心象を綴って欲しいという部分で消化不良が残る場合が多い。「直木賞」だから期待はしているが、でも・・・という理由で購入に至っていなかっただけに、期待はしているが、危惧も5%ほどある。

 で、そいういう意味で楽しく読みたいと考えている「下町ロケット」なのでした。

I got it.

 「はいはい、分かりました」「よく君の言うことが理解できました」とい英語のニュアンスは「I think so.」よりも「I got it.」らしい。疑問形でも「Do you...」じゃなくて「aren't you.」みたいなことだろう。つまり、日常会話だから、何がなんでも文法文法重視ではなく、伝わるけど伝わらないみたいなことがコミュニケーションでは重要になる。日本語でも時代時代で巧みな技とトレンドや趣向があるが、いずれも、コミュニケーションとしてのツールとしての言葉ですから、フィーリングに要注意ということ。

 で、電話で話す言葉とメールで伝える情報にはそれぞれ特性がある。例えば、映像を作る時に注意しなければいけないのが、普通に使っているしゃべり言葉をただ聴いただけでは意味が不明な場合がある。前後の脈略なしに「こじん」と言っても「個人」「故人」「古人」いずれも「こじん」である。ナレーションや映像に唐突に登場する場合はそれぞれの意味が伝わる表現の語彙をチョイスする必要がある。逆にメールなどの場合は「個人」としてしまうと、非常に堅苦しい仰々しい語感になり、本来は、もっとライトなパーソナルなニュアンスで伝えたいことが、硬くなってしまったり。このニュアンスが発信側と受信側で微妙にズレていると、話の大前提がだんだん狂ってきて、最後の結論までにかなりの摩擦が生じ、引いてはニュアンスだけが狂い始めて、結局、なんのためのコミュニケーションなのかが靄の中へ・・・となる。特に日本語のコミュニケーションは結論が後な上に主語を割愛する場合が多い。だから、「誰が?」という部分と「で、結局何?」のように頭とお尻がふわふわして本来伝えたいことがどこかへ・・・となる。

 まして、不思議で謎だらけのトレンドキーワードが捻じ込まれた日には、世代間のギャップを整えるだけでコミュニケーションが終始してしまい、結局、言葉が馴染んでいる人の方が上みたいな構図になってしまいます。このパワバラにしても微妙で、若者がしゃべりたおして、年配が聞く立場にある場合と、年配からの意見が若者に伝導しない格差が、特にネットの社会では取りざたされている。で、結局、年配層が孤立しているように見えるが実は、孤立してしまうのは伝わる伝わらないという問題ではなく、伝えたいという熱意の高さが深く連動しているような気がする。そもそもこんなことを言っている段階で、この長文に若い世代はついてこれないだろうと思った段階でgame over。脳は主語を認識しないというひとつのtipsを例えば踏んだとしたならば、目的語と動詞でなんとかするぐらいのボキャブが必要な時代なのだろう。短く言い切れないと伝わらないというのは広告の世界だけであって、それぞれにケースバイケースであり、TPOで使い分ければいいこと。言わば、その応用力が欠如し、シンクロしましょうよ・・・ということかもしれない。で、そういうテイの先入観に惑わされて本来伝えたいことを濁らせないように。それさえクリアしていれば、結果、I got it.

神宿る島、竹生島。

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 竹生島にどんな神が宿っているのか分からないが、私は奥琵琶湖から見る竹生島が一番好きです。

これがクラカーのリアル。


 これが、いわゆるクラシックカーのリアリティーなんでしょう。贅沢なセレブな空気が漂っていました。でも、なんか自分自身はさほどテンションは上がらない。こういう嗜好品に何故こうも鈍感なのか。ひねくれている上に手の届かない存在をただ拒絶しているだけなんだろう。仮にあのシートに座ることができたとしたらこのひねくれた心も同期できるかもしれない。まぁ、私のレベル・感覚・ライフスタイルではホンダ「FREED(スパイク)」がちょうどいい。11月上旬の納車を楽しみに待つことにしましょう。

低温社会。

 プライベイトや職場での人間関係の「温度」が低下している。ネットを通じて人とつながることが容易になり、メールを使えば気軽にコミュニケーションができる。しかし、ネット上では「友達」の顔色をうかがいながら過ごし、職場では人間関係が希薄になり、孤独を感じる社員が増えているという。コミュニケーションに異変が起きているらしい。それは結婚しない人が増えたり孤独死が増えたりすることからの分析・洞察だろう。ネット上のコミュニケーションは対人での関係のディテールと何が異なるのか。このあたりが入口のようです。ネットの利用者や利用時間が急激に増えている傾向も踏まえると、孤独は嫌だがリアルに対面するのはちょっと・・・みたいなことで、ネットのアプリの中で「友達マーク」が付いていたら「友達」になった気分になる。その「友達」のアイコンが増えることで、自分自身はネット上にたくさんのネットワークが広がったと誤解している感じ。この状態で安心しているから、次の一手を出しそびれ、いつしか次の一手の出し方もそれを高めるための好奇心も失速する。だから、コミュニケーションに異変が起きているなどと新聞の編集者が洞察してしまうみたいな構図だろう。

 内向きの志向が強く、比較的「熱い人」は敬遠される空気感。だから「なるべく空気を読む」や「なるべく相手と合わせる」といった傾向のコミュニケーションが通例となり意識がフラット化する。させる傾向にあるのだろう。同じ趣味だっていうだけで安易に「友達」が成立してしまうSNSはどこか本末転倒な印象がある。「互いの共通点に頼る関係は快適な一方、現実ほど手応えが感じられず、物足りないのでないか。」という意見があるらしい。あたりまえ当然のお話。仲間と褒め合うことでのちょっと寂しいコミュニケーション。それは、リスペクトではない。そんなネット上で褒め合うことになれてしまうとその心地良さがリアルだと感じて結局意識が内向きになる仕組み。人との摩擦を避け、ネットの中で同類同志で褒め合う先に何があるのか?そんな場所では「熱い人」は敬遠される傾向にあり、全体的な人間関係の温度が低下するという流れ。

 それに、SNSもまさにの部分で、意外と制約はルールが多くて窮屈。非常にメンドクサイことが多いことで、ネットにアレルギーを感じている人はリテラシーが低いイコール熱い人ということにもなっていそうな現代社会構造が見えてくる。確かに、SNSはメンドクサイ。さてさて、この状況をすでにマークは予見していたのであろうか?であるなら、それありきで社会に摩訶不思議な調和をもたらした功績はさてさて、大きいのか小さいのか?結果、フラット化する情報の動向に体温は低くあるべき?熱くあるべき?

ゴーヤ爆発!

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 もう、収穫するタイミングを逸したので放置しておいたら、今朝のゴーヤ君がこれ。へぇー、ゴーヤってこうなるんだ・・・みたいな。これで種をまき散らすんですね。

 もう、熟して熟して熟していっぱいいっぱいになって、「もう、もう、限界です・・・、パカァーーーン!」みたいなことが、昨晩、どこかのタイミングで起こっていたのだろう。種を来年まで保管しておこうーっと。

朝の・・・。

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 うんうん、健康健康。

我が家のドングリ林。

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 我が家のドングリ林。プランタンレベルではこれが成長の限界だろうが、これでも、ミニマムなドングリの林。最近、植木鉢を約2倍の大きさにしたので、ここからもう少し大きくなるかもしれない。最近は花とか野菜よりも木の方が落ち着く。で、左はリンゴの木。

「ラリー・ジャパン2011」開催。

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 ということで、昨日は豊公園で「ラリー・ジャパン2011」の警備に行ってきました。続々と登場するクラシックカーに豊公園に集まったファンの皆さんはテンションを上げておられました。これでよく東京から来れたものだ的な車、車、車。ドライバーの皆さまはこれらのカーライフを楽しめる程の暮らしぶりの皆さまだから、疲れなど表情には出さずスイスイっとホテルに向かわれましたが、これ、疲れたでしょうね。恐らく。しかし、私は車にはあまり興味がないので、どれが何がなんという名前でとか年代とかも、まったくふわふわ状態。「これは寒くないのか?」「これは疲れるだろう?」「運転中はうるさいだろうな?」とか、まったく、ベクトルの違うことばかり一人で考えていました。中には1億の車もあるそうで、もし、仮に何かのタイミングで1億あったとして、買うのは車ではなく、ヘリだろうな。

「上から目線」の構造。

 「根拠はないが自身満々 あの人は何様なのか。」というキャッチコピーで「上から目線の構造」という書籍がちょっと気になっている。榎本博明というこの著者のことは知らないし、別段、エンジンでリサーチするつもりもないが、書店で発見したらちょっとチェックするだろう一冊ですね。

 「上司の注意に逆ギレする。」「お客様に説教する。」「駅や飲食店で威張り散らす。」「取引先の前で先輩面する。」「他人のミスを必要以上に誇張する。」などなど。いるいるって感じ。大人と若者、双方の視点を交え心理学的な見地からのメカニズムの分析という主旨のこの書籍。なかなかオモシロイアプローチである。まぁ、さほど悪意もなく本人には気がつていないテイで、日本人に欠落している唯一関西人だけに与えられたユーモアと会話のリズムがベースになっているような気がするし、「上から目線」って多分ご本人的には自覚の外。逆に言いたいのは「下から目線」の人が何故「下から」なのか?ってこと。結局、上とか下とか言っている人は自分を無理苦理「下」と仮定して述べているような印象がある。別にそんなにへりくだらなくともコミュニケーションはできるだろうに、何かどこか自信がないことを露呈しないように「下から目線」のポジションをキープしている。だから、「上から目線」が気になるような気がする。コミュニケーションの構図にそもそも「上」とか「下」とか感じる心理状態が注視すべき点のような。

 「上から~」の人って悪意とか策略とか別段なく、ただ、楽しく生産的にコミュニケーションをとりたいだけであり、主張するから主張してよというメッセージが込められているように感じている。

 ちょっと、ベクトルがズレているかもしれないが、世の中には比較的、比較的であるが「美人」と「美人でない人」がいる。これは現実である。で、比較的でありかなり主観が入っているので、このブログを炎上させてほしくないのですが、「美人は上目線が多い。」そして、「美人でない人は控えめが多い。」ように感じる。これはいろいろ複合的な要素が連動しているから一概にルックスで判断はできないが、自分のルックスや経歴やIQに自信が在る人は比較的「上から目線」傾向にある。しかし、それは、よくよく、冷静に分析・洞察すると、かなり無理・相当をしていることが分かる。つまり、全てはリフレクションなのである。その空気の中で反響している空気感や目線・意図のキャッチボールが、実は、「上から目線」の人の方が慎重で警戒心が強く、なお且つ、機知とボキャブラに富んでいる。つまり、ポテンシャルが高く日頃の努力と研鑽の賜物なのである。に比べ、「下から目線」の人や、「~でない人」はどうか?これらを怠っている人が多い。そんな人に限って「私は本もたくさん読んでいるし、ユーモアもあります!免許や資格もこんなに持っているんです!」と主張する。間違いなく、言えることは本をたくさん読んでいる人は自分で「本をたくさん読んでいる。」とは言わないし、本当にユーモアのある人は自分で「私はユーモアがあります。」とも言わない。それに、免許とか資格が最後の最後で仕事の現場でどう役に立つと思っているのか?資格も免許も便宜上の器に過ぎない。つまり全てはそういうこと。

 世の中「上から目線」と「下から目線」のバランスで調和がある。だから、上でも下でもいいので楽しいコミュニケーションをしていけばいいんじゃないかな、って、こんなコメントも実は上から目線・・・!?

IPPONグランプリはガチだ。

 しかし、見事にIPPONグランプリはガチな番組企画だ。頭が松本さんだけにそのあたりの天才的な視点とポテンシャルが他の番組との格差を明確に示している。どこまでのアドリブ感でオオギリという条件で選ばれた10名の精鋭の皆さんがお題に対してレスポンスを返すかという構図。柔道のそれを引用しての「イッポン」も見事としか言いようがない。あのお題であの時間でこの緊張感の中、よく、あれだけの解答が出揃うものである。まずは間違いないプロの仕事である。

 昨晩のグランプリはホリケンさんだったが、あの自由な芸風と繰り出されるクオリティーの高い解答はまさに一本の逸品である。歴代チャンプのバカリズムさん、設楽さん、小木さんもさすがさすが。そして常連ファイナリストのジュニアさんと有吉さん。そして、徳井さんと前栄田さんと三度さん、そして、アンガの田中さん。まさに選ばれし10名である。これも松本さんのセレクトでしょうが、まぁ、自肩の強い人ばかりです。歴代チャンプや常連ファイナリストに対抗して決勝に登ったホリケンさんと三度さんの予選は見事だった。しかし、決勝のステージには魔物が確かにいた。あのガチのタイマンで、あの問題を出されて瞬時に解答するなんて神業に近い。

 予選、決勝と印象的だった解答は、「銭湯の親父の引退の理由は?」というお題に足しての、徳井さんの解答「グラフィックデザインの世界に興味が出てきたから。」や、「¥0でできる超スーパーひまつぶしは?」というお題に対する有吉さんの解答「他人の墓参り。」などである。中でも昨晩の私の一番解答は「ゴジラが街を壊す時に気をつけていることは?」というお題に対しての小木さんの解答「100個のビルより1本のタワー。」だった。こんなのあの短時間でよくひねり出せるものである。

 こんなポテンシャルの人が現在のテレビ界を支えているのだから、おバカタレントや素人女子集団や韓国タレントが自由に泳げるはずである。ほんとにいいモノを観た感じ。

井上銘ファーストアルバム「FIRST TRAIN」

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 あった、あった、アマゾンにあった。これこれ。やっぱ、気持ち的にこれはダウンロードではなく、CDを手元に置いておきたい一枚ですね。

「愛をくらえ」というメッセージ。

 さて、ここまで愛以外にいろいろなこと喰らう楽曲が他にあるだろうか。古き良き楽曲に頬ずりしているコレクターや愛好家の方はこの際ちょっと置いておいて、新しい楽曲でルーツはどこにあるかなどもどうでもいいこと。今現在のリアルを歌うことのリアリティーで言うなら、この作品は現在国内最強だろうと思う。昨晩、初めてテレビでシホさんが歌っていた。例のちょっと足りない感じのモデルの方のお話ではない。

 冒頭にある歌詞が突き刺さる人はさて何人いたことだろう。

 「悲しい噂で日が暮れる、揚げ足取り合って、笑ってる。」か。

 ここまでばっさり世の中を切れるアーティストが他にいるだろうか?メッセージ性の強いアーティストは下手こくと世界を小さくして自分の投げたブーメランを受け止められずどこか自分の身体に刺さっている場合が多い。そんなブーメランを持っているアーティストも少ない時代になっているが。数多のユニットグループもポテンシャルの低いあまりも表面的過ぎる絵の構図とリズムの連動でテレビ画面をライブステージでパートタイム的にこなすこなすこなす・・・みたいな。K-POPについては押して知るべしだからノーコメントだが、あまりも、薄い。つまり、ニーズが薄く軽く微弱になっているということ。好むと好まざるに関わらず。

 逆に、フレンドリーなタッチで親近感を得るために、聴きやすいリズムとメロディーで心地の深度を上げる取り組みも本末転倒になりがち。音楽業界の形態がパッケージからソフト思考に変容したことで、お買い得な均一思考が市場に媚を売っているようなイメージ。アーティストとして自分のスタイルで立っていますということを感じられる人って少ない。実際、S.F.さんのプロダクションの仕組みや販売戦略のディテールは知らないが、それはその関係の人が熟知していればいいこと。ただのひとりのファンが気にすることではない。そもそもファンなどその程度の存在なのだから。が、だから、ファンはしっかりと目的を持ってそこに立っている存在を全力で心で感じようとしていることも忘れてはいけない。これがキモ。

 だから、シホさんは、「愛をくらえ」と歌うのだろう。特に漫画・映画「スマグラー」には興味はない。

サイバー・クライム

 ジョセフ・メン著「サイバー・クライム」¥2,415。ロシア・中国を拠点に国際化する凶悪なネット犯罪者たちの全貌に迫ったノンフィクション。今後我々に襲いかかる「サイバーの攻撃」の正体とは。という切り口の書籍。この価格だからまずもって相当の情報量だろうし、サイバーモノだけれど、オンラインの情報とは一線を画して編集してあるはず。電子書籍も出ているかもしれないが、サイバーな人達の思考とアンサイバーなテロリズムとの違いが分析してあったり、宗教的な要素、つまり、人間の倫理観やイデオロギーの部分での考察と連鎖していたら面白そうだと思う。また、実際の犯罪の仕組みやアプローチについて記述できる限界点があるものの、どこまでそのリミッターを下げているかもとても興味がある一冊ですね。現代における世界情勢を踏まえた上での「危険度」の指標も書籍に編集する段階でスリムになっているだろうが、それでも、「サイバー・クライム」としているだけにそのディテールとリアリティーは期待したい一冊ですね。本屋で見かけたらチラミしたい一冊です。

ゴンチチさんの音楽の魅力。

 さて、ゴンチチさんというアーティストを知ってからほぼ毎日仕事中の80%は聴いているに近い。仕事に適していると言ってしまうとちょっと違う。無味乾燥だからデスクワークやPCワークや絵を描く時に邪魔にならないという意味では決してない。そもそも、音楽については専門家でもないし、これと言って突き詰めたジャンルの音楽のタイプはなく、クラシックからレディーガガまで、それこそ、U2からヒルクライムまで、引いてはエンヤから中島みゆきまで聴く。まったく音楽に対してジャンルにはこだわってはいない。が、ひとつ共通点があるとすれば、企画モノが嫌い。大嫌い。別にアフリカンドラムのアルバムとか、インストでもかなり前衛的な音をサンプリングしてリズムにひずみをかぶせてみたいな作品まで聴く。それでも、これ企画モノ!?という臭いのする音楽は一枚もないと信じている。いやいや、それも言ったら企画モノでしょうと誰かに言われてもそれは違う。自分が自分の感覚で音楽は決めればいいし、誰かから勧められてという場合でも、一番重要なのは自分の感覚と誰から勧めれたか。

 例えば、エグザエルとAKB48と韓流POPと言われるジャンル。これには心が反応できない。正確には反応できない以下。疑問しか浮かばない。これを聞いて何がどうなる?しか感じられない。まぁ、何事もアンチテーゼであるから、これが嫌いだからこれが好きみたいな基準で好きなジャンルが存在するわけで、それで言えば、ゴンチチさんは自分のフィーリングに近い音楽のジャンルになる。

 さて、そこの感覚を分析するが、それは今のところ全く不明である。かれこれ15年以上は聴いてるがそれは分からない。が、音楽ってそれが正しいような気がする。こんな音楽の素人が音楽を分かってこれは好きっていうことはまず正解でないような。分からないから魅力なのである。それほど音楽のプロというのは突き抜けていなければ、しかも、企画の臭いがしない、本体アーティストの人自身からにじみ出て湧き上がり醸し出してる「音楽の香り」が音色になるから聴きたいと感じるのである。

 言わば、デザインのプロとしてそのあたり、自分も突き抜けていたいと願う。

 そう言う意味でこのアルバムは素敵過ぎる。

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ネットで楽器が上達!?

 思わず新聞を切りぬいてしまった「ネットで楽器上達」の記事。「忙しくても手軽にレッスン」とある。「インターネットでギターやピアノの弾き方を学ぶ人が増えている。演奏の指使いなど基本的な知識を教える初心者向けから、1曲を短期間で習得したい中級者向けまで幅広い。忙しくて教室のでのレッスンに通えない社会人らを中心に、マイペースで自宅で練習を続けられる気軽さが支持を集める。実際に楽器を購入する人もおり、楽器販売の一部で回復の兆しもある。」という情報のディテール。

 これも言わば、パブリックなプレスリリース的要素が多分にあるから、具体的な物理定数は定かではない情報。ただ、鮮度はあるように感じられるし実際そいいうターゲットからのニーズが増えていることは現実だろう。ネットの浸透率が比例できるジャンルだとは思う。ツールとしてインターネットを活用する手法としては「あり」だろうし、実際、忙しい人のニーズをネットで救っているなら、課金が適正であれば、拡充するだろうサービスです。楽器の販売に繋がるだろうし、これを基軸に様々なビジネスモデルが構築できそうである。ここでも、ハイテクとローテク、デジタルとアナログの合わせ技が見事に成立している。どちらかだけでは成立しないモデルも共有・共存・共鳴させるから価値みたいなこと。

 で、発表したければ、YouTubeやユーストがあるし、実際のライブ活動のチケット販売などもネットを利用・活用すれば、すでに認知されファンが確保できている仕組みだからこその、リアルライブの醍醐味・・・みたいなこと。この、デジタル&アナログの手法が現代のこれからの戦略を組み上げる本丸の鉄板だろう。北海道のドラムと東北のベースと大阪のギターと高知のピアノと沖縄のボーカルがオンラインでセッション・・・みたいなこともどこかでやっているんだろうな。この発展形で言えば、ヨセミテのドラム、ジャカルタのウッドベース、ストックホルムでピアノみたいなトリオがオンラインライブとか・・・。

 ネットが世界を一つにするんですね。もう、ジョブスはいないのに・・・。

これこれこれ!


 これこれこれ!やりたいのはこれ!でも近道はないだろうな。でもやりたいのはこれ。必ず、どこかで、井上銘君のアルバムを探して買うぞ!

 で、このスコアどこかにありませんか?これを見ながらやればいいのだろうか?指の動き的にはトレスできるだろうが、あとは、JAZZのニュアンスなんだろうな。これをスリキレルまで頭に入れよう。

まじめの罠。

 日本の社会を覆う「まじめ教」に毒されていませんか?「究極の優等生」として悩んできた著者(勝間和代氏)が渾身の力を込めて綴る、いまの日本に必要な「脱・まじめ」の作法ということでタイトルが「まじめの罠」となっている。¥777だから、勝間さんのファンにしてみればお買い得だろう。トシさんの「まじめかっ!」というツッコミフレーズがどこからともなく飛んできそうな感じ。

 さてさてこの時代のこの国の「まじめ観」って具体的にはどうなんだろう。世界比較で「勤勉」が素晴らしい素晴らしいでそれをプライドだと勘違いしてここまで来ている人間に「まじめ」は「罠」ですよ、トラップですよ、fakeですよ、今のこの摩訶不思議な混沌としたカオスの時代だから、その罠に注意して道を歩きましょうと言っているのだろ。それは、決して、悪くないが、そこでさえ、そこかしこに「まじめ」が漂っているような気がするのが、けっきょく、脱出していないじゃん!みたいなことになっていたら、逆にそこは読み終えて「まじめかっ!」っツッコめるってモノ。

 しかし、人間の本質・資質はなかなか「脱!」できないですからね。逆にまじめでない人達の「罠」に対してあまり「まじめ」な人は免疫がない。「罠」が「罠」だと知覚できないぐらい、まじめ中毒になりまじめ麻痺になっていたとしたら、この一冊だけではリハビリは難しいぞ。ガッツリ社会のシステムと日本の慣習に浸りきっている神経でさえ、それだから、比較的、まだ、柔らかい学生の皆さまだったらどうなる?いまだに「まじめが一番」とだけ信じてモノゴトに対峙しているとしたら、免疫どころの騒ぎではない。まじめな先生が教えているからまじめな人間に成長するなんて幻想は捨てて、最初から自分を「脱!ありき」で構築する方がのびしろも期待できますし、その場その場での臨機応変力がつき、打たれ強い人間になるはず。

 確かにこれは表面的な表面を手でトレスするだけは入手できない経験値と技術力である。一回、金槌でノミを握りしめて頑強な大きな自然石に向かってこそ、自分の創りたい形が見えてくる。石の小さい破片が目に入らぬようゴーグルもするだろうし、石彫刻用のトンカチはマウスよりも思いですからね。マウスを動かして「石を掘ることは難しい。」と言葉知る以上に、金槌のストロークは意味がある。だからか、ボルダリングが好きだし、ロッククライミングに心を奪われている。

 海外ではデジタル機器中毒(インターネット中毒)を克服するために、日本の「そろばん」を導入しているらしい。これは、結果、そろばんのスキルを高めるためではなく、自分の目的対して集中力を養うために取り組まれているらしい。集中力を高めるためにはハイテクよりもローテクが効果的だということ。まさに、「ハイテクVSローテク」の時代であり、2者が戦う構図ではなく、この天秤のバランスが大切としているのだろう。何事も事の始まりがローテクから入り、今でも、ハイテクにガッチリのめり込めない自分は、まず、ゲームがNGだし、無料アプリとか大嫌い。だから、アプリをダウンロードしてコレクトしている人は引く。あったら使うけどってなかったら必須ではないという代物を何万何十万集めて何になるか?ということ。ならば、重い金槌で石にひとのみひとのみ入れて形を創っている方が好き。って、まじめかっ!?

映画「HEREAFTER」

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 監督はこの映画のオフィシャルサイトでこう言っている「死後の世界があるかどうか真実は誰にもわからない。ただ、人は誰も与えられた人生を精一杯生きるべきだと、僕は常に信じている。」と。まぁ、これだけを読んでもこの映画が秀逸なことは感じ取れる。が、しかし、日本国内の興行成績はどうだったのだろう?そんなことは関係ないか・・・。「アジャストメント」のマット・デイモンはなんとも素敵だった。ボーン役がはまっていただけに、グリーンゾーンも良かったが、「アジャストメント」はマットデイモンだから成立した映画のように感じられた。特にこの映画に関するいろいろなサイトやブログのレビューをあまり見ないので一般的な評判とか映画評論家のコメントとかもまったく知らない。ただただ、感じたことだけを書いているまさに「素人なんでも映画評論」ではるあるのですが、そんな、現在、もっとも注目しているマット・デイモンの最新DVDが「ヒアアフター」。たぶん、「このあと」みたいな意味なんだろうけど、もうすでに5日からレンタル開始しているのに、娘の情報では、最新作にも関わらずレンタルコーナーには数枚あったとのこと。まぁ、そうこれに飛びつきたい人も長浜市には少ないとみえる。まぁ、だろうなという感じはあるし、ビックリするような日本映画が全部空で、うんうん、サンミュージックさんのマーケットリサーチ力の正確さがこのレンタル率に表れていると感じつつも、「この映画が・・・」みたいな。まぁ、そんな映画は手に取ることもしないので、完璧に瞬殺でスルーしている。が、「ヒアアフター」がレンタル開始翌日に余っているってどういうこと!?斯く言う私も忙しく行けていないので同じ穴であるが、早く、ちょっと気持ちに余裕を持ってこの映画を観たいものです。早くしないと芸術の秋が終わってしまううう。

モノゴトの大前提。

 すべのモノゴトには大前提がある。極端なお話、人間は空を飛べないとか嫌いより好きがいいとか。まぁこの程度の大前提ならさほど気にする必要はないが、ポジティブな傾向で言うと「一人で戦争を止めることはできない。」「一人で大災害を食い止めることはできない。」「一人で多くの飢餓に飢えている人を救えない。」「一人で平和を創ることはできない。」となる。これらは感覚の中の大きな大きな大前提。これがちょっとダークではありますがネガティブになると「人は人を殺してはいけない。」「他人のモノを盗んではいけない。」「自らの命を絶ってはいけない。」「人を傷つけてはいけない。」などがある。これらは極端であるが絶対的なモノゴトの前提。細かい個人と個人の大前提となると、無断でプライベイトな話題を聞かないとかその人に対してまずいことや頂けないことはお話するべきではないなどがあり、それは自然や社会や経済活動・社会活動に置いてさまざまな大前提がある。これらをひとつ倫理という基準に置き換えると、ある側面でそれは整うように思えるが、倫理でさえその整え方は完璧ではない。人間は感情で生きているから常に気温や湿度や磁場の関連で血流が乱れ自律神経と脳内耐圧が変化して微妙な感情の機微を生む。五感からの情報も一秒一秒変化しているからこれらの影響を過大に受けることになる。意識してか意識せずとしてか、それが社会を構築している最少単位である個人の核である。そこが時間の経過と共にいろいろな思考を生みだしながらそれが交差している世界に置いて、この大前提をひとつでも多く会得しておくことが大切である。それは何のためか、他人としっかりコミュニケーションするためである。進化する電子機器の使い方にも大前提があり、インフラに対するリテラシーについても大前提がある。それを義務教育の中で学べない国は恐らく今後確実に失速していくだろうし、大学機関でこれらの応用編を会得できなと、専門知識だけでは社会に対して「不備・不具合・不毛」感に苛まれるだろう。

 さて、ということで、これもモノゴトの大前提なのである。

心の洗い方。

 昨日は山元加津子さんという方の講演に参加させていただいた。思わずぐっとくるエピソードの連続になんとも心が洗われた気がした。そうかそうかこうして心はたまに洗わないといつしかホコリやゴミが付いてしまっている。で、ストレートに心や頭にモノゴトが入ってこないような悪さをしているんだと。たまには心のデフラグを最適化しないといけないと強く感じた。

 深いキーワードをたくさんいただけたのですが、中でも強烈に頭に残っているフレーズは「知っているのに伝えないことは悪だ。」という心理。これってすごい言葉ですね。この言葉を出せる人はそういない。皆、自分も含めて、獲得した知識とか有益な情報ってコレクションしてしまう。で、仕事とか自分に有利に働くような場面まで温存しようとしている。これって意識するしないに関わらず、人間のエゴみたいな本能みたいな部分で悪気はないのにそうしてしまってはいないかい?という問いかけ。意外とこのネタは誰にも言わず一人でニヤニヤしながら独り占めして結局自分の器の中で腐らせてはいないか?という言葉。確かに、世の中は何ごとも独占の空気が蔓延しているから、共有しなければと口に出しながらもどこか出し惜しみをしている人間。自分も含めてこんなことを繰り返してきたから今の日本になっちゃったのかなとさえも思えた。

 山元先生、なかなか、素敵ですね。そんな心が洗われる言葉の数々が散りばめられていたので、講演が終わり余興が始まりそうだったので、さっさと会場を後にした。シンプルで強い気持ちがあるならば、純粋に自分自身に対しても他人に対しても同じテンションで共有させましょうってこと。

こんな日本庭園でした。

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 で、会場の喫煙場所から眺める日本庭園。虫の音とマッチしてこの空間にこの時間・・・みたいな。

アニメ・スープのヘッドがまた素敵。

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 で、主催者であるアニメーション・スープの創設者であるヨシムラエリ氏とMCのグッチさん。この会場で、このトーク。嵌り過ぎでしょう。なんか夢心地な空間でいろいろな意欲作品を鑑賞することができた。これってかなり至福な感じですね。2日間の開催で、2日目が観れなかったのがとても残念。アートなアニメの存在感はかなり相当ガチでリアルでした。僕たちはもしかしたら、かなり、整理され過ぎて、かなり、牽引され過ぎているのかもしれない。もっともっと、アートってのは自由であるべきだ!とこの会場の空気が語ってくれた。決してゴリゴリの押し売りではなく、感じてね・・・というニュアンス。それが本来のアートの存在感であり価値観なのだと改めて再認識。それを心の底から期待してここに来たわけで、それが間違いなく存在していたことが何より嬉しいこと。こんなミラクルってやはり探せばあるのですね。これは、絶対、ネットの世界には存在しないリアル。いやいや、素晴らしいひとときでした。この情報を頂いた姫に感謝。畳は汚れていませんでしたか?

まさに、ホットドック!?

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 で、その会場だけのオリジナル!?メニュー「ホットドック」君。犬の頭のパンがウインナーを咥えていると・・・、うーん、美味しかったです。で、ドリンクチケットで頂いたチェコのビールも素敵素敵。で、で、
会場内、雰囲気あり過ぎでしたね。腰が悪いのでザブがちょっときつかったが・・・。

シュヴァンクマイエルに捧ぐ共犯者たちの宴。

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 シュヴァンクマイエルに捧ぐ共犯者たちの宴の会場です。うーん、雰囲気が在り過ぎ。雨の京都。わくわくするというか、どこまでもフラットになれるというか、心が落ち着くというか、やはり、犬でも歩けば素敵な棒にあたるということか・・・。

井上銘(メイ)クン、これは買い!

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 20歳、ジャズギタリスト、ファーストアルバム「ファースト・トレイン」、よし、これは買いだ。こういうタイプをどこか待っていたようなところがずっとありました。だから、ドンピシャのドストライクの予感です。

プロフェッショナル・セールスマン

 プレジデント社から出ている書籍「プロフェッショナル・セールスマン」というタイトルで¥1,500なり。「伝説の営業」と呼ばれた男の壮絶顧客志向。例えば「お宅の前に50円玉が落ちていたのでお届に参りました!」とか「運転手さん東京まで十万円で乗せてくださいませんか」とか「プロである以上、手ぶらで帰ってきてはいけない」とか「人間には限界がある。でも、それは意外と高い所にあるんだよ」jなどなど。なかなな、秀逸な言葉が出てくる出てくる。確かに「気合いや根性には再現性がありません」「お得だと言われたら負けだよ」「俺はマンホールの上は歩かない」などなどと徹底したポリシーを感じることは感じる。だけど、やはり、言葉にした段階で文章にした段階で側面にしか光があたらない。これはたぶんこの著者も想定内。だけどあえて書籍にしたみたいな心意気が素敵。そこの光があたるなら、影の部分でさらに覚醒していきますよ的な自身がなければこの側面は切り取れない。そういう意味で、この言葉は光っている。最後の最後で言葉ではなく心が勝負だとこの書が締めくくられていたとしても、いやいやセールスマンってのは水ものだから、最後の最後はあなた自身のポテンシャルですと逆に突き放すのか、もしくは、丸く丸く¥1,500なりのまとめで締めくくるのか興味はあるが、この程度では、現在購入したい書籍ベスト10には入ってこない。また、成績不振のサラリーマンの気持ちを文面で高揚させる手法が折り込まれているだろうから、それが言わばこの書籍の効用だろうが、さて、それが¥1,500かとなる面もあるかなと本能が反応している。アマゾンで購入することはないだろうから、書店でぶらぶらしていてその時、今以上のテンションで気分が良ければ買うかもしれないな・・・程度ですね。

 で、☆の数で言えばたぶん、0個かな。これが根本的な判断ミスでないことを祈るだけ。でも、こが意外と☆が0個な場合が多いから、中途半端な人間になってしまうのか。信じる者は救われるといいながら、信じても信じなくとも救われないと思っているから、救われないのか。ただ、セールスマンのプロフェッショナルになりたいとは思っていない節があるからか。

ペーパータワー完成!

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 なかなかのアイスブレイク。で、一番はこのチームでした。いやいや、素敵素敵。もう、いろいろな素敵が混在してただほほえましく心が温かくなる風景でした。今回魅力発見発信プロジェクト第2回目「コンセプト策定」の第1回目ということでチーム分けからのスタート。ランダムに10組に分かれての初仕事。これから、あと13回でどんな展開になるのかとても楽しみな空気が漂っていました。ただ、40数名もいろいろなタイプの学生さんがおられるとそれぞれのチームでの空気感が当然異なります。しかし、社会とはそういうモノ。考えや知識や性格が異なるのが当たり前。それは、どんな専門分野に精通していようが、どんなに不特定な組織に属していうが同じこと。それをこうして大学の1回生の、さぁ!これからって時に経験されることはとても人間が活性化される経験であるはず。さすが理系の学生さん達であり、空気を引き裂くようなタイプはまだ発見できていませんが、いずれ、そのポテンシャルは洞察させていただこうと思っております。さぁ、自分自身が芸大の頃、18歳で、4名5名に分けられてアイスブレイクだと言われてもたぶん「ふーん」で終わっていただろう。それに比べたら、皆さんは優秀です。モノがデザインとかコンテンツとかの世界ですから、とっつきの部分で消化には時間がかかるでしょうが、なんか楽しそうだなレベルとなんとなくメンドクサイなというフィーリングがあれば、各回が終わった時に、その裏にある「楽しさ」の本質とか、「メンドクサイ」の本質と向き合ってみていただきたい。

 そこで別の自分の存在に気がつくはず。何も多重人格になってくださいということではなく、真剣な自分、協調性のある自分、目の前の案件を楽しむ自分、そして、集中している自分、いろいろな自分が発見できるのは、こうして、いろいろなタイプに自分自身がリフレクトしているから。言葉は自分に必ず返ってきますから、感じたことをできるだけ声に出して欲しい。自分の声が聞こえた瞬間、自分のIDが見えてきます。私自身も同じことがあの場所で確かに起こっているのですから、普通の五感と脳機能を持っている人なら誰も同じ。自分は人と違うと感じる気持ちと、いや、他人といっしょなど御免だという気持ちのバランス整えながら、時に熱意のトルクを上げ主張し、時に冷静な心地で人の意見を聞く自分の中の天秤を意識して、このプロジェクトに対峙していただきたいと思います。見事なペーパータワーでした。

 最後の発表会までよろしくお願いします。

日本人ってやっぱアメリカ通が多い!?

 昨晩、イタリア人の中でも「日本通」と呼ばれている人達がたくさん登場して、我こそは日本通だ!という自慢の特技やコレクションを紹介していた。和太鼓の演奏から、書の披露、コスプレの演舞からパラパラの演舞などなど。これも「日本通」かな???という出し物もあったが、皆それぞれに楽しそうに自慢の技や逸品を披露していた。中には京都で購入した130万円の着物を紹介したり・・・みたいな企画だった。日本の文化というか歴史のこの部分にフォーカスしたイタリア人の捉え方が意外にも素敵でちょっとびっくりした。そんなこと日本で暮らしていたらスルーしてしまうようなこともイタリア人にしてみれば、こだわりの対象になるのかと。

 で、日本人ってどんな「通」が多いのだろう?まぁ、「通な人」ということになると、人情の機微に通じている人という定義になるらしいが、日本人はどこの国のどんな文化をリスペクトしているのだろうか。やはり、英語文化に対するリスペクトは大きいだろう。日本の車の名前もほとんど英語だし、いろいろな商品の名称やブランド名などもほとんど英語。イギリス通なのかアメリカ通なのかという問題はさて置き、やはり、英語に対するリスペクト感はとても大きい。が、イタリア人の和太鼓に対して、日本ならロックンロールだろうか、今ならヒップホップだろうか、それともジャズ的なところだろうか。これって全て「通」でひとくくりにはできなものの、イタリア人が和太鼓をリスペクトしているように、エレキギターを日本のアメリカ通はリスペクトしているということになるのだろうか。ちょっと違うかな。

 では、コレクションの部分で、どこかの国のアイテムをコレクションする人ってテイで考えると、何だろう?インド通は何を集めるのか?アフリカ通は何をコレクションするのか?モンゴル通とかスイス通とかっているのだろうか?

 さて、私はところで何通か?少なくとも、和太鼓にも着物にもパラパラにもリスペクト感はない。ただ、ジブリアニメとか盆栽とか日本刀とかってことになるとリスペクト感がある。でも、通というカテゴリーで括るのはちょっと違う。では、石を集めている人は何通になるのだろう?これは、人情の機微とはちょっと違う。レゲエのリズムに別にさほどテンションは上がらないし呼応もしない、アロマやお香などについても、別に何も感じないし、そんなマガイモノよりも蚊取り線香の臭いの方が素敵だと感じているぐらい。好奇心の対象が他の国の何かだったら通ということになるのなら、洋服を着ている段階で全てどこかの国の通だと言えるがこれはもういろいろな文化が混在しているからそこまで限定はできない。

 すると、日本という国は独自の文化や歴史があるわけで、もしかしたら、他国の通な人達よりも、人情の機微が希薄になっているとかいないとかって考えてしまいました。

Bruce Willisカッコイイなぁ・・・。

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 あのダイハツのCMを初めて観た時はちょっと感動というかショック。そうかそうか出るのかBruce Willisみたいな・・・。どんなオファーをしたのだろう。CM撮影の現場はどんなのだったのか?どんな雰囲気で現場は進んだのだろう。しかし、呼び捨てにするなダイハツのスポンサー役、って感じ。しかし、カッコイイーーーー。

ウンチと絵心なしという試練。

 最近スペシャル番組が目白押しだが、その中で「運動音痴と絵心のない人たちネタ」の番組があった。一定数の芸人が集められ、運動音痴チームと絵心なしチームに集めて2部構成の番組プログラムだった。まず、「運動音痴」というテイで集められた9名は強烈だった。しかし、芸人さんって運動音痴が多いのか???と思わせるぐらいひどい。いろいろ競技をウンチの人達が真剣に取り組む映像が流れる。その映像、もう、ガチのリアルだから面白い。何をどうしたらそうなるのか・・・ぐらい楽しませもらった。中でも、ウンチ9名の野球チームと小学生のチームの対戦。これがもう素晴らしい完成度。ウンチの中で適正テストをしてそれぞれのポジションに付くがこれまた想定以上にはじけている。16球連続ボールで1点を奪われる、左中間を抜けたボールをレフトがバックホーム、そのボールの中継にセンター、ショート、サード、ピッチャーが入るが、レフトが返したボールが誰のグラブにも納まらない。この奇跡。結局レフトの投げたボールが転々とマウンドまで転がってくる映像。これは小学生達の目にどう映ったのだろう。私自身は泳げないが他のスポーツはまぁまぁそこそこやってきた。球技も陸上も格闘技も平均以上だろうし、仮に、何か初めてトライしても、そこそこできるだろう。が、ウンチの人はそこの感覚が完全に欠落しているのだろう。

 で、本丸は「絵心のない芸人」達。これが強烈。これは言葉に到底できないので、ただただ、楽しませていただいた。僭越ながら、すでに、幼稚園の段階で私が作ったねんど細工の「ザリガニ」の周りには先生が集まっていたし、小学校の図画工作については押して知るべし。「絵心」の点で、苦労した記憶はない。だから、例えば、白い紙に「ピアノを演奏して歌っている人」という課題を頂いた場合、瞬時に頭の中にレイチャールズとかビリージョイルとか矢野顕子とか上原ひとみが浮かび、それを白い紙にどの角度でどのタッチで描こうかと考える。それが欠落していると「ピアノを演奏して歌っている人」はああなるのか・・・みたいな楽しい番組でしたね。いやいや久々にいいモノを見た。

 でも、芸人さん的にはこの試練、逆に仕事になって美味しかったのではないだろうか・・・。

専門家のためのWEBセミナーか・・・。

 「説明会では、最新のWebマーケティングの動向や、ユーザーの専門家に対するイメージ調査の結果等について解説をさせていただきます。集客やSEO、自社ブランディングなど、Webの活用について悩まれている方に参考にしていただける内容かと存じますので、ぜひ、お気軽にご参加ください。」というメルマガを頂いた。いいないいな都会ではこんなセミナーがそこかしこで開催されているのだろう。長浜だとどうあがいても「パソコン教室」に「インターネット始めませんか?」レベルのセミナーしかやっていない。これもニーズと密度の違いだからいたしかたなし。これが都市圏と地方の現実なんだろう。辛い。

 特に「専門家のための・・・」ということは、かなりの専門家が講師であるはず。セミナーに一回参加してあとは個別にご指導など願えたらもう最高だろう。いろいろなネットサービスやその手のテキスト本や専門誌は出ているが、どれも、ガチでとなると物足りない。やはり、専門家とダイレクトに同じ時間を共有したいと願う人は多いはずだから、これ、結局、そういうニーズの人口密度に比例してセミナーが開催されるっていう構図だろう。ニーズが少ない場所での主催者側の費用対効果を考えれば当然。パソコン起動してブラウザの説明をするだけで1日が終わってしまうセミナーと具体的なガチの運営術や戦略を専門家から聞けるセミナーとでは雲泥の差。

 ニーズは掘り起こせばあるだろうが、確固たる数値か事例に現れないとそういう起案に至らないのだろう。昨今のWEB戦略を考察するとその仕組みや構造は非常に深く広く高くなっている。どのレンジをどのように切り取り一定の時間で消化するかという部分でも、そのレンジを限定できるとセミナーの発信側も絞り込めるということだろう。一般的な事をお話するだけなら、セミナーを開催する必要はないが、専門的過ぎると参加者が限定されるのだろう。

 仮に長浜でそんなセミナーを開催するとしたら、どのレンジだろう???

PhotoShopのセミナー。

 「Photoshop関連書籍の著者が一同に集結!Photoshop CS5の役に立つテクニックを解説いたします。生でエキスパートが語るPhotoshop CS5の魅力をぜひライブでご覧ください。」というセミナーのご案内があった。確かに製版とか編集とか電子書籍とかという分野でのセミナーは何回か行ったことがあるが、さて、イラレとP.S.はないな。P.S.はテキスト本やある作家の方の作品集などは持っているが、特にイラレはテキスト本でさえもない。そんなセミナーなど行かずとも、そんなテキスト本などチェックしなくとも使えるよ・・・というわけではない。なんとなくセミナーにも行かず、テキスト本も買わずじまいというのが現実で、イラレのことを隅から隅まで熟視して使いこなしていますということではない。

 逆にたぶん、こんなセミナーに行くと、発見ばかりで、いかに長年自分の限られた使い方の中でしかソフトを使っていなかったということに気づかされるだけだろう。だから、たまにこんなセミナーには顔を出して最近の流行りやベーシックな知識を情報として知っておく必要があるのだろう。でも、実際、学校を出たところのビギナーでもないからそこのバランスが難しい。

 で、結局、イラレとP.S.は向学心は最後の最後になってしまう始末。それよりも、好奇心のある仕組みやソフトやサービスが多すぎて、それにやるべき技術に関する最新の情報をチェック&リサーチするのに時間がいっぱいいっぱいがリアルなところ。この休みにも、いろいろ頼もしそうな買い取り型のプログラムを購入したし、別ルートのテキスト本も数冊買ったし、いつものことで映像用のカメラや周辺機器のプリントアウトしたPDFカタログのチェックだけでも時間が過ぎていく。だから、「イラレとP.S.」がちょっと疎かになってしまいます。突っ込めば素敵な鉱脈があるだろうに・・・。

勤勉の精神は今。

 製造業であれ、サービス業であれ、現代の産業社会の土台となっているのは「勤勉」という存在である。勤勉をいかにして引き出すかが今日の経済学の古典的問題なのである。お金では決して買えない「勤勉」という存在はもう成熟した経済大国では常識であるが、このことは、本来産業の分野をルーツとしていない。倫理や資本主義の精神が根底にあり歴史の根も深い。今も日本の主要企業で実践されている「整理」「整頓」「清潔」「しつけ」「清掃」が伝承の手段になっていることは間違いない。だから、トイレの神様に注目するし、抗菌雑貨がヒットし、かつらビジネス・にきびビジネスが大手を振っているという経済の仕組み。

 しかし、これらがいわゆる勤勉な国民性のイメージになっているが、本当にそうだったのだろうか?だって、詳しくは知らないが、ちょっと前までは刀を持っていた国民が、ザンギリ頭で文明文明と言っていたと思えば、結局、濡れ手の泡に翻弄されただけ。何が残りましたってことになっている。戦国時代の百花繚乱にしばし今を忘れたくなる気持ちは分からなくもないが、これって、間違いなく逃避。どうやら、「頭皮と逃避」の間にあるバタフライエフェクトがキーかもしれないですね。

 勤勉であれ!と少年を大志を抱け!の間にある深い谷には今も澄んだ渓谷があり美しい水が流れている・・・みたいなことないですかね。

スペンド・シフト。

 「米国において、2007年末に始まる大不況によって、この2年間に13兆ドル相当の富が奪われた。米国の純資産の15%、年間GDP(国内総生産)にも匹敵する。しかも、ガソリンを始め資源価格は乱高下しており、自分の生活を守り切れない米国民が激増した。本書は、この暗い時代の米国の消費・生活変容の姿を「スペンド・シフト(消費支出変容)」という現象を通して描いている。ただ、案に相違して、この書籍の副題「希望をもたらす消費」が示唆するように、どこを開いても笑顔が溢れ、心弾ませるエピソードが詰まっている。たとえばデトロイト。1950年に180万人いた人口が今では90万人を割っている。しかも、4人に1人が失業するという衰退都市。それでも、その地に留まり、新たにレストランを開業する人がいて、それに親身になって協力する同業者たちがいる。米国10の州や都市を訪ねて、それぞれにおいてこれまでとは違った生活スタイルやビジネスモデルが育つ姿を紹介している。紹介する地域も多様ならビジネスも多様である。大学文化センター、都市農業、再生可能エネルギー、図書館、書店、リサイクル、住宅メーカー、地域通貨、カーシェア、そして、まだ名もないビジネス。今、米国においてあらためて見直されている「人と人との交流」。そこに呼びこまれる「ソーシャル・メディア」。その結果、生まれる「消費支出変容」がこの書籍の骨格である。話の内容は小企業に留まらない。大企業においても顧客との関係において同種の動きが生まれていることが報告されている。」と新聞広告は紹介している。

 まさに、この潮流は日本の現在の状態に酷似している。国力が日本の方が低いだけに、個人よりも組織やマスに依存していきた国民性だけに、その状況は国全体がデトロイト状態だろう。しかし、「スペンド・シフト」をいいカタチで飲み込み、その本質からこぼれるわずかな栄養分だけでもエネルギー源になるのではないだろうか。この書籍の存在を知り、ひとつふたつ考えてみるが、そこに確かに「暗い印象」はない。そもそも、無表情で何を考えているか分からない国民性なんだから、そろそろ正直に「実は何も考えていませんでした。」と言ってしまって、そこから起動した方がいいのではないか?まぁ、総理になったばかりだからそんなふわふわもしていられないでしょうし、目の前の大きな問題もあるわけですが、そもそも、大きな潮流が変容していることを、世の中と同じスピードでその高学歴な頭で思考と行動をシンクロさせて欲しいものです。思考より行動が先行してしまうタイプの人は大きな失敗もするが、学ぶことも多いと思いますね。

 で、戦争(敗戦)は言わば日本の一番大きな「失敗」だったことはしょうがない。原発の問題もいつまでも設計図ばかり確かめてないで、壊れたんだから正面から直すのか捨てるのかを決めてください。そんな簡単な問題ではないと言うでしょうが、そんなに難しい問題でもない。大切なは「今」。

 なぜなら、モノゴトは時間の経過と共に常に変容しているのだから。

ゴンチチ・ライブチケット予約開始!

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 NAGAHAMA JAZZ WALK!ライブ第2弾、12月3日、長浜の曳山博物館伝承スタジオで開催される「ゴンチチ」のライブチケットのオンライン予約が本日より開始しました。小さいホールならではの、とってもとっても近くでゴンチチの演奏に酔いしれること間違いなしのライブです。素敵過ぎる音楽をぜひぜひ会場に足をお運びいただき感じてください。

公式WEBサイトはこちらです。http://www.nagahama-jazz.com/

マスコミに頼らない・・・と。

 そもそもデザイン会社や代理店の制作会社にいた人間にしてみれば、マスコミはひとつの媒体だったし、企画書を起案する場合でも、末端の一手法としてとしか捉えていなかった。広告代理店の仕事に携わっていた時代はそんな感じだったし、滋賀長浜に来て、地方で何かを展開しようと考えた段階で、さらにマスコミという存在は遠くなった。しかし、WEBサイトを企画・制作・運営するという仕事に着手してからは、どこかでマスコミの存在を意識せざるを得ないというか、対マスコミに対して、どうメディアを構築して認知させるかという意識が少しづつ芽生えていった構図。で、WEBという手法がここまで浸透し進化し拡充してしまうと、さらに、こんな小さなデザイン会社でもいっちょまえに「マスコミに頼らない」などという価値観が芽生えてくる。で、実際、このことに対峙して具体的に何をどう考えるかという段階になると、そこで、ほんとに自らのポテンシャルや会社としての機能と展開力に向き合うことなる。

 さて、まったくマスコミに頼らず何か広告展開を起案するまでにはさすがに至らないのが現実であり、媒体に対するパブリックな広告表現手法はやはりまだかなり意識下にある。しかし、それにかけるコストとなると、必然的にか現実的にか、もしくは、潮流的に削減の方向になる。頼り甲斐が無くなったのか、経済構造が分散した結果、その選択肢が細くなったのか、ただただ、その手法と連動する綾が少なくなったのか、それはただ神のみぞ知るであり、制作者としてクリエーターとして、コンテンツを企画し制作して展開する立場で「頼らない」という選択肢に鉱脈を見つけ何か自らのプランを捻じ込みたいという気持ちは多いにあります。個人の時代だと鼓舞することは容易いがそうそうイージーな構造でもない。政治家が言うように言葉と現実のギャップの谷はいつの時代も思った以上に深い。

 では、実際、現在、マスコミに属する人達はどう考えているのだろう?リアルな声はなかなか聞こえてくるまでに至らないが、案外、まだ、想定内だと思っている人が多いのかな。いやいや、見えている人達はそこから離脱して自らの販路を独歩し始めているのかな。まぁ、そんなこともちょっとは頭の片隅に置き、目の前の対応に集中しなければいけないです。そこが何よりも本丸なのですから。失敗や不備はいつでもどんな瞬間でも背中合わせ。どんな場面でも適正な対応ができるように心を持つことしか実はできないが正解でしょうね。頼る頼らないってことを考えた段階で全てのトルクが失速するような気がします。

奥琵琶湖。

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 峠から見降ろす奥琵琶湖。これは何回見ても飽きないですね。いろいな季節で様々な表情を見せてくれる琵琶湖。いつか絶対に琵琶湖をモチーフにしたこの気持ちを物語にして映画にしたい。などと妄想が膨らむほどの絶景ですね。

トンネルを抜けると・・・。

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 トンネルを抜けると、そこは秋晴れの奥琵琶湖でした。

こんな家、かなり良くないですか?

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 こんなファンが天井の梁に在る家ってかなり良くないですか?

瀧澤材木店公式WEBサイトはこちらです。http://www.takizawa.cc/index.htm

見学会会場内の暖炉。

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 この暖炉、素敵過ぎでしょう・・・。

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瀧澤材木店 現場完成見学会。

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 見学会の会場内に設営された休憩用のテーブル。これがまた、素敵過ぎてずっと座っていたい感じ。なんでこれだけ自然の木ってのは落ち着くのでしょうか。こんな本格的なモノホンの木でガッツリ組み上げた骨組みの家だから、素敵であること間違いなし・・・ですね。

瀧澤材木店公式WEBサイトはこちらです。http://www.takizawa.cc/index.htm

45歳から・・・?

 「45歳からの会社人生に不安を感じたら読む本」ってかなりストレートなタイトル。「給料が高い人、出世が早い人ほど要注意!」とあり、あなたな何を準備しておくべきか?とこの書籍の広告は問う。スペシャリストを目指してはいけない。ビジネススキルより人格を磨け。相手に8割しゃべられ、自分の言葉はシンプルに。1日2時間の勉強で司法試験に合格する方法。人脈は広げるよりメンテナンスが大事。年収3割アップ程度で天職するな。などなど、この著者である植田統氏は書き出している。いろいろな仮説が頭をよぎるがなぜ「45歳」だったのか。現在の日本の経済や産業の現状を捉えてこの数値に設定された感じがあるが、これも出版社の編集者とこの著者の感覚から規定されている部分だろう。何も不安を感じたから読む本ですと言われても、その不安要素がガチでシンクロするとは思えないし、そんなことも世の中にはあるもんだと張りつめていた心が優しくなれるのならこの書籍の価値はあるのでしょうね。

 そして、このタイトルにするすことで、40歳の方と50歳の方では捉え方が違うだろうし、不安って何だよ?みたいなことを明確にするためにも何かの糸口になればそれは有益な¥1,470だということになる。情報の価値が問われている。貨幣価値に置き換えるとき、それは、個人の素養や考え方で変異する。だから、面白い。「会社人生に不安」ということは、サラリーマン対象のようなニュアンスではあるが、そもそも、「会社人生」って何だ?とも感じる。

 「成功するキャリア30の秘訣」というサブタイトルもちょっと質量が軽い。何も100人が100人とも自分の人生に「成功」を求めているか?となるし、それを「ありき」で人生を過ごしてきたからの「不安」でしょう!?みたいな構図もある。給料の高い低い、出世のスピードの早い遅いって何が基準なのかというお話を抜きにして、根本的な不安の解決には至らないでしょうに・・・とツッコンでしまった一冊でした。

長浜バイオ大学魅力発見発信プロジェクト開始。

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 本日、長浜バイオ大学さんで長浜バイオ大学魅力発見発信プロジェクト第1回目のガイダンスが開催されました。自分自身、大阪芸術大学の1回生の頃をしっとりと想い出していました。18歳か・・・、無限の可能性があると言われていますが、その頃、自分自身に「無限の可能性」なんて文字は心にも頭にもどこにもなかった。ただただ、自分の人生がどうなるかどうするか少ない選択肢と貧弱極まりない経験値の中で精一杯目の前の課題を理解することに集中していた記憶である。ひとりひとりの顔を見ながら少しだけお話をさせていただきましたが、まだ、リアクションはないに等しい。しかし、ポテンシャルはいずれ見えてくる。皆さんが社会に出る時、何かこの15回の講義と実習の中であの丸坊主頭のおっさんはこんなこと言っていたなぁー、その時はなんのこっちゃだったが、あの言葉はこういう事だったのか・・・とフラッシュバックしていただけるような言葉をこの丸坊主の頭の中からひねり出していきたいと考えております。私とて人とのコミュニケーションはこうだなどと達観したレベルでは到底ありません。ひとつひとつが試行錯誤の連続です。皆さんと一緒に自分自身が研磨できれば全てはリフレクションですから、皆さんにも少しは響かせることができるのではとテンションの上がる感じでした。

 あと14回、こちらこその部分でよろしくお願いいたします。って感じ。

ある次期社長さんからの刺激的な切り口。

 ある次期社長さんと昨晩飲んだ。彼曰く、「だまして奪うか信じて与えるか。」とのこと。うーん、真理ですなぁ。その調子で11月のゴルフを楽しみにしていますよ。そして、就任後、目の前で90を切ることを宣言しておきたいと思います。パターはフォームでもストロークスタイルでもありません。「入れるという気持ち」だけあればいいと思いますよ。

ジョブスの名言集か・・・。

 ジョブスは多くの偉業を残した。カタチあるモノ、カタチのないモノ。カタチのないモノの中でも言葉は特にジョブスの人間を明確に示している。

「ハングリーであれ、馬鹿であれ。」
※なるほどなるほど、その通り。

「毎日、今日が人生最後の日かもしれない、と考えるとすれば、
いつか、必ずその考えが正しい日が来る。」
※なるほど、全く、その通り。

「日本人は死んだ魚のように岸に押し寄せてきた。
まるで海岸を埋めつくす死んだ魚のようだ」
※この言葉に至ってはリアルすぎてまだジョブスは生きているような言葉である。

肉体のなき今、ジョブスの魂はいったい何人の心に宿っていることか・・・。

偉人の死。

 大き過ぎる業績とその名前を残して偉人が他界された。決して個人の偉業でないことは周知としても、その存在感が世界のクリエイターに残した遺産はあまりも大きい。恐らくパソコンのパの字も知らない人間がその魅力を感じてそれまで三角定規やディバイダや烏口でやっていた仕事をMACにマウスに持ち替えさせたのだから、言わば、強烈である。ほぼ、24年前の新宿でのお話。その間の進化にドップリと関わらせていただけた幸運を心の中で噛みしめながら、偉人の死を悔みたい。遠い日本の地から冥福を祈るクリエーターは想像以上に多いはず。ビジネスの現場で紆余曲折があり、体調の面でも2回の大きな手術をされたと新聞で知る。人間、ジョブスが伝説になるためのここがスタートラインなのかもしれない・・・。

ACTについて。

 何故会社名を「ACT」にしたのか?滋賀県に来て営業活動をしている中で一番多い質問です。この名称を考えていたのがちょうど大阪の会社を休職させていただきN.Y.に滞在していた時でしたから、かれこれ18年前のお話。大阪に帰ってきて前のデザイン会社で作成したロゴタイプは今でも使っているし、あの時に考えていたことをそういうご質問の場面ではお話している。

 まずは、何よりも「行動的でありたい。」と考えたからの、actionからの「ACT」それが着想のスタートでした。そして、会長のお名前を頂き、ADVERTISING COMPANT TANIGUCHIと連動させた。しかし、着想の背景にはあと2つあり、「ACTIVITY CREATIVITY THINKING」で「動く人、創る人、考える人。」としている。これは、ストレートにこのままでクリエイターとして必要な三位一体観から紐解いた。そして、もうひとつ考えていた背景として、「ACT+G」という背景だった。正確にはACGTでDNAの4大エレメントである。上記の「ACTIVITY CREATIVITY THINKING」に「GROUND」または「GAIA(大地の女神)」というこの地球という存在を盛り込みたかった。だが、これは着地点が見えずに結果「ACT」にした。しかし、「G」については、重力やグラフィックなど関連・連動させたいキーワードがたくさんあったので、もし、次の段階でステップアップするなら、名称は「ACT+G」とするだろう。これで遺伝子の用意ができたことになる。まぁ、質問を受ける場面では、これらのお話の前半戦30%ぐらいしかしないのですが、会社名の背景のほぼ全容はそんなところ。余談ですが、実は、「GALAPAGOS」の「G」も意識はかなり強い。

ウェブPR力ってこと。

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 これこれ、これからはここがいろいろな意味で軸足になってくるでしょうね。もうやるのかやらないのかという話ではない。やらないのなら終わり、やっているけど終わるかもしれない、やるならガチでやれ!という世界でしょう。やるとかやらないとかじゃなくて、やっているありきで何が降りてくるかが勝負。やらないのは土俵に登らないってこと。フィールドに立たないってこと。リングに上るのが怖いならお金を払って観客席でどうぞの世界。そもそも、尻込みする時点でTKOでしょうね。

 まぁ、そうガツガツいかなくともって考えてしまう自分自身のリミッターが最後の最後で命取りだぐらいのテイでちょうどいい。四の五の言っている人、あなたの大切な大切な一と二と三はまだ有効ですか?もう、世の中、六とか七の世界ですよって感じじゃないかな。

WEBデザイナー白書2011.

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 ここ数年、絶対にこの月は買っているWEBの専門誌。何と言っても「WEBデザイナー白書2011」という記事が面白く有効である。

 中でもリアルだったのは、あなたはWEBデザインの仕事を始めて何年目?という質問。なんと10年以上という人達が25%もいた。かれこれ、私自身も10年状は携わっているからこの25%に入ることになる。で、正確には1997年のWEBサイトの書籍をガチで読んでいたので、恐らく、14年前頃からこの仕事を始めていることになる。そう考えると結構長い。10年以下の人が75%なわけだから期間だけは長いということになる。そして、年齢のアンケートがあり、46歳から50歳の比率は3%、これはトホホ・・・である。そうかそうか若い世代のビジネスなんだと、ちょっとがっくりである。もう、いろいろな意味でこの世界では古株の中の古株になってきてしまっているぞ。でも、まだまだ、引退するつもりは毛頭ない。まだまだ、こだわりねばり捻じ込み続けていく所存です。

都会では聖人になれない!?

 「都会で聖人になるのは難しい」とブルース・スプリングスティーンは何かの作品で歌ったそうである。人を誘導する情報に満ち満ちた現代社会は田舎に住んでも聖人になるのは難しいだろうという考察がある。宗教上のタブーや世間体など社会的な束縛から逃れ、先進国で生活する多くの人々は自らの意思に従って食事や娯楽や性生活を楽しんでいるが、将来に備えた節制より目の前の快楽に手を出し、その代償として肥満や浪費や依存症にむしばまれているという洞察と構図。

 地球温暖化や国家債務の増大など巨大な危機を招き寄せる流れが確かに存在している。それは必ずしも個人レベルの問題とは言えない。資本主義社会は、自己抑制の利いた労働者を必要とすると同時に、消費者の抑制を取り払うことに注力していたとも言える。「なぜ意思の力はあてにならないのか」という書籍の著者ダニエル・アクスト氏は米国のジャーナリストだそうです。自己規制の効かない米国社会の病理と個人の意志が生活環境などに左右されるもろい存在であることを様々な逸話とデータで示している書籍らしいですね。

 この夏の節電が示すように日本社会は米国と違う面もあり、しかし、自らに自制力は確かか?と問うて顔を上げて答えられるか?とこの著書は紐解いているらしい。

 船乗りを魅了する魔女が住む海でオデュッセウスは自らを帆柱に縛ったと。この著者の処方箋とはプリコミットメント。事前に自らを課す制約であるらしい。欲望を消すのではなく、野心に満ちながら欲望に弱い自覚があるからこそ理性的な対処ができると指摘しているらしい。日経新聞の吉田利子訳で¥2,800なり。

 これは間違い一冊のようです。まず、意志の力をあてにしている社会や個人について規定してから、ここを再認識してから、読み始めたい一冊ですね。意志とは何だという仮説や規範がないまま、ページをめくる勇気はない。何も今更聖人になりたいとは考えないが、何事も理性的な対処はしていたい。

穏やかな琵琶湖でした。

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 昨日はちょっと暑いぐらいのいい天気。風も穏やかで琵琶湖もこんな感じでゆるかな湖面でした。空もキレイに蒼く抜けてこのままこの場所でぼぉーっとしたてたかったですね。

虫、鳥、魚、こうもり!?

 世の中を見る視点のお話。モノゴトは時に主観を離れて、虫のようにミクロに、鳥のように俯瞰からマクロに、水流を生きる魚のように全体の潮流を見ながら、そして、時にコウモリのように逆の視点で捉えることで、先入観や固定観念で捉えたことが軟化・流動化して新しい発見がありますよというあれ。こんな杓子定規に何事も実現できれば苦労はしないが、こういうスタイルでモノゴトを見るという視点があるという知識・情報だけはインプットしておいてもいいかもしれない。人間の脳は主語を認知しない。「楽しい」「美味しい」「しんどい」という動詞だけを認知するということ。つまり、ミラーニューロンが機能することで、自分と他人、主観と客観の区別をするのが意外と意外、脳は苦手という仮説がある。なんか分かるような気がする。

 固定観念やセオリーに逆行するだけのコウモリ君だけでも、流れに流される魚君でもダメということだろう。個性が強くあることをただ主張するだけで実感し切っている人がよくいるが、これは、多面的にモノゴトを取らえられず、言わば、虫なら虫籠、鳥なら鳥かご、魚なら水槽、コウモリなら動物園!?で暮らしているそれになるのだろう。そこは生きる上で楽かもしれないが、振り幅は限定される。主観を強調しながら客観も調和させている人は強い。

世の中「自吸時代」へ。

 なにやら、書籍を自分で断裁してスキャナで全ページを読み込んで自分だけの電子書籍を作ることを「自吸(ジスイ)」というらしいぞ。凄い世界です。電子書籍は出版関連のビジネスからパーソナルなレベルに広がったということ。そのニーズに伴いその手のツールが販売されてまた新しいニーズに拡充・展開・連動していくのですね。そうか現代は自吸時代なのか。そこまでしてタブレットに入れておきたい書籍情報って「よほどクラス」なんでしょうね。まだ、電子書籍は販売店のサンプルでしか見たことがなく、実際、自分の持っているタブレットで改めて購入して読みたいということにはならない。

 電子書籍はそもそも書籍を読まない人が増えてきたから、買わせようとして電子書籍としたのか、とても本を読むことが好きな人達が簡単にたくさんの書籍を読みたいというニーズが開発コンセプトのコアなのか?今となってはもうどうでもいいことですが、電子書籍ってまだまだ市民権は得ていないような気がすが、それも、ただの「食わず嫌い」かもしれない。なんでもいいので買って読めば情報の端末して便利かもしれないし、それほど、アレルギーを感じるほどのデバイスでもないと思いますが、書籍は書籍のテイでいつでもどこでも自分の時間の流れでタイミングで読みたいから、本を読むのにスイッチを入れて・・・というのが慣れていないだけ、活用できていないだけなのですが、かなり億劫です。

 仮にタブレットを買ったとして、「自吸」はするかな???

漆原さんスッゲ!

 だって、オリンピックに出場した選手とか、筋肉自慢を売りにしているダンサーとかパフォーマーとかそれも日本から海外に至るそれぞれの分野のキレキレの人達が厳選されて厳選されて100名集まっているわけでしょう。その中で3つのステージを公平に競うってことで、これ以上の企画と設定ってないですよね。中には特殊部隊とか体操や海外の特殊な訓練を受けてきた人もいるでしょう。ということはつまり「SASUKE」はいろいろな意味でエベレスト級(最高峰)だということになりますね。まぁ、競技の内容がかなり特殊ではありますが、それでも、これらの筋肉エリートの皆様が毎日訓練に訓練を重ねてトライして第1ステージから第3ステージに絞られていくリアルはテレビを観ていて自分自身の手や足がピクピク動いてしまいますし、クリアしたらクリアしてテレビの前で拍手拍手となる。最近、テレビ番組が仰天映像とお笑いタレントのポテンシャル比べになっているので、このタイプの面白い感じはもう世界陸上レベル&オリンピックレベルですって!

 で、昨晩は第27回大会だったのですが、これまでの完全制覇者は3名。この少なさ。で、唯一の2回目の完全制覇を狙った漆原さんが見事40秒で20mのロープを登り切った!うーん、爽快。しかし、漆原さんSASUKEに登場する筋肉アスリート達がその(スポーツ系)分野でエキスパートなのに対して、靴屋さんの店員さんだとのこと。何もこのSASUKEの頂点に立つためには恵まれた設備やトレーナーは必要ないということ。ガチの一人旅なんですね。でも、靴屋さんの店員さんが40秒で20mのロープを登れる!?登るんですね、それがSASUKEなんですね。

いい額ですね。

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 長浜市内のイベントで発見した額。こんな額があれば逆に油絵本体はどんなイメージがマッチするんだろう・・・などとしばし立ち止まってしまいました。古いということが素敵だというベクトルに変わる分岐点ってどこなのだろう。これは非常に微妙な世界だ。

一人ではできないこと、一人でやるべきこと。

 「チームプレイが基本的に苦手」。その言葉どおり中学・高校と、毎日土を舐めて自分自身へのリアルとして獲得した実感であり体感した法則である。しかし、社会で生活しているということは、無人島でサバイバルってるわけではないので、相互にリスペクトしながら、価値観を共有して生きるが社会構造における正解。しかし、世の中の仕組みは共有だけではジレンマが発生する。ジレンマと言ってしまうと語弊がありニュアンスが違ってくるのだが、それでも、社会性に欠け鬱になり自殺者が増え続ける社会を鑑みると、人間が永年培ってきた社会性の構造やシステムが綻び始めているとも捉えられなくない。ソーシャルネットワークなるものが現れ、ネット社会に蔓延しメディア文化が崩落し価値観とニーズが混沌としている・・・となっているが、そもそも、それは本末転倒で本来の姿・システム・組織・構造に回帰していると捉える、もしくは、なんだかんだとガヤ程度だったと捉えて、実はフィールド(別の場所)ではちゃんとたプレイヤーが球を打ち追いかけゲームが成立している。スプリンターはスタートラインにしっかりならび号砲一発でスタートを切っているのかもしれなぞ。結局、なんだかんだの部分は観客席のお話で実はなんだかんだ言ってるだけの人ってプレイヤーではないのかもしれない。映画「グラディエーター」で言えばまぬけな国王とマキシマスの関係のあれ。

 で、まず、一人ではできないこととは、そんな客観の世界を恙無く航海するための術。そして、一人でやるべきこととは、航海したいなら自分の手でオールを握って、自分の手でバットでボールを打ち、自分の足と自分の身体でテープを切れということ。昨日テレビでサークKの会長が自社のおでんをよく噛んで食べていたなぁー、まぁ、あれもテレビ的な演出戦略だろうが、掴みたいモノがあれば、自分の手を汚して掴もうみたいなことで、社会性の客観と個人としてのライフスタイルの主観のバランスが調和されるような気がします。

悪意のあるソフトウエア!?

 パソコンで仕事をしていると、よく、セキュリティーソフトがオートで何かを勝手にやっている。まぁ、いちいちその作業全てを把握するまでもなく、大きな問題でなければ勝手やっておいて的に特に気にしてない。忙しい時はスキップしているし、時間がある時はまとめて更新用のプログラムをダウンロードしている程度。何がどう更新されているのかはほとんど無関心ですが、まぁ、これも適当に言われるがままで対応している程度。もっと、PCのセキュリティー面や作業の効率を吟味して最適な環境で仕事をできるようにパソコンの中を整理することも大切なんだろうけど、あまり、それは気が進まない。たぶん、PCそのものが好きなわけではなく、PCやソフトウエアを道具として使っているという意識がそうさせているのだと思う。

 これと同じで車などもう10年以上乗った自家用車兼営業者があるが、まともに洗ったことはないし、ワックスなどかけたことも一回もない。車内も一年に数回掃除機を入れる程度で今月いっぱいで他界される。次もホンダの車がやってくるがたぶん同じ境遇・環境下で走ることになるだろう。生涯、5台目の車であるが、今後も自分でワックスを買う予定はない。つまり、車は移動するための道具だと思っているので、そんなに毎週毎週キレイにしてどうするのよ!ぐらい開き直っている(カミさんは否定的だが・・・)。でも、そういうタイプの方は車が好きなので肯定も否定もするつもりはない。ただ、向こうから否定される筋合いもない。

 話が逸れたが、そんな感じで道具に対して必要以上の愛着がない。というか道具は道具として愛着を持っているし丁寧に神経質にメンテナンスをしているし、ツールの健康管理も自分の身体と同じぐらい留意している。そんな道具としてのソフトウエアであるが、そのセキュリテーソフトが仕事をする際にこんな表示が出ていた。改めて見るとどういうこと?となる。

 その表示は「悪意のあるソフトウエアを検出中です。」となっている。「悪意のあるソフトウエア」?それはどんな悪意だろう?ソフトウエアは道具だと思っているのに、それに「悪意がある」とは具体的にどんなこと?マイクロソフトかセキュリティー会社のソフトがそう定義しているだろうから、世の中には「悪意のあるソフトウエア」が存在するということ。でも、ソフトのデベロッパーが「よし、このソフトウエアは悪意をコンセプトに開発しよう!」と取り組んだ結果の成果物なのか?そのデベロッパーが悪意のカタマリで結果その成果物に「悪意」が注入されたのか???

 逆に、そのソフトウエアが具体的に分かれば使ってみたい気になる。なりませんかね???

黒いボアの女

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 これはロートレックの「黒いボアの女」。ロートレックと言えば・・・のように代表作はたくさんあるが、いつだったか東京で展覧会に行った時の記憶で言えば、これが私の中の一番でした。ロートレックは今でいう広告デザイン的な絵画も手掛けていたので、画面構成を意識する作品や配色をクライアントに対して適正にしようとする傾向のある作品がどこかロートレックの代名詞になっているように思う。が、しかし、その根底にあった、リアリティーはもっともっと、深くスマートさとは無縁の世界の中で生きていた人なんじゃないかと勝手に妄想を膨らませることが、ロートレックの作品に対峙する時の気分である。

 で、この「黒いボアの女」はそのリアルがこれでもかというぐらい紙面に刻印されてる。その場所で筆を持つロートレックの魂がこのおよそ数時間の描画時間の中にしっかり刻まれた、そんな作品のように捉えています。これは、個人的な妄想の中でのお話なので、向学で由緒のある然るべき評論家とすれば、乱筆・乱文に他ならないが、ロートレックという画家の目ヂカラを強く感じる作品としてこの「黒いボアの女」が一番好き。

書くことが思いつかない・・・。

 幻冬舎の新書。「書くことが思いつかない人のための文章教室 もうネタには困らない!」というタイトルで毎日新聞専門編集委員コラムニストの近藤勝重さんという人の本。「「文章を書く」とは、記憶から体験を引き出して描写するということだ。自分にはそんな特別な経験はない、と思う人でも、うまい引き出し方さえわかれば書ける。くどくどと説明せず細部に目を凝らして書けば、真に迫る。たとえばさびしい気持ちなら、「さびしい」と書くな。さびしいを表す「物」を描写せよ すぐ使えるコツが満載。」となっている。¥819ですから何かヒントを探している人には適正な書籍かもしれない。

 しかし、記憶から体験を引き出して描写するとあるが、これでは書くことが思いつくだけで、言わば、描写についてはサポートされていない。まぁ、これは例えでしょうが「さびしい物」ってなんだ?それにこれは「コツ」かな?つまり、書くことが思いつかないと悩んでいる人はネタはあるが、描写の段階でフリーズしていることが多いのでは?文章が苦手っていう人でも書くネタは持っておられる場合が多い。でも、書けないのは描写する方法が分からないが正解。学生の頃の作文や論文を書いていた頃の体験の記憶を想い出し描写する前にフリーズしている。だから、この文章教室はネタを探すというアプローチとネタが絞れたらそれを文章化する教室である必要がある。

 書くことに対するモチベーションのレベルにはいろいろあるし、日常生活の中でのメモ、ツイッターレベルのつぶやきからブログレベルの文章量、そして、仕事における資料づくりの際の文章化、そして、論文としての文章化。どれも実は書くことが目的ではなく、伝えることが目的であるはず。無人島で砂浜に何かを書くわけじゃないのだから、伝えたいという気持ちがまず発生しているかを確認して、どのようなテンションで伝えるのか?提案なのか意見なのか激励なのか感想なのか自問自答なのか、ここを明確にしておかないと、例えネタを見つけて書いたとしてもほとんどやまびこレベルに等しい。

レスポンスの鮮度。

 ネット内のコミュニケーション、デジタルツールを活用したコミュニケーションの利点は「早さ」と「保管性」である。保管性とは時系列にもカテゴリー別にでも瞬時に膨大なデータを精査確認でき視覚化することができる。全てデータがテキスト言語で制御されているからだろうし、言語と非言語のコミュニケーションに置いて言語化された情報の認知性こそが本丸。ニーズに伴って保管性は2乗にも3乗にもまして比例し進化・拡張しているのだから。たかが16ケタのIDで管理できる個体数レベルからアウトプットされるテキストデータなどどうにでもなる。クラウドは実際雲ではないが、それこそ、宇宙空間に巨大なサーバが浮遊しそこを介してコミュニケーションするようになれば、時代性さえ仮想の中で成立するのではないか。そこに記録されたデータのみがリアリティーの代償となり、それありきになると、時間の経過を何で知ればいいのかとなる。

 では、「早さ」というう点ではどうだろう?つまり、質問に対する答を返す早さである。上記のように、サーバに一旦記録が保持された時、その時間が一見刻印されているように思えるし、サーバだからタイマーが付いているがこれは言わば絶対時間ではない。相対の時間経過であり、人間が本来の自転や公転の影響やDNAで維持管理してきた体内の時間とは少し異なる。衛星からの信号で絶対に狂わないデジタル時計とかあるが、あれは、狂わないではなく、狂えないのである。しかし、人間の感覚の中にある時間の経過に対する意識・感覚とは数値ではない。ハエにはハエの時間があるように、ゾウにはゾウの時間があるように人間には人間本来の時間の感覚がある。だから、質問に対しての答を出す時間がとても重要なのである。だから、疑似的にそれを体感できるツイッターに人の感覚が反応していると思う。言語なのに非言語タイプのような。

 「レスポンスの鮮度」という意味でこの答を出すタイミングが非常に難しい。やみくもに早ければいいとうものではないし、時間の経過が論理を純化する場合もあることを、コミュニケーション能力の一部と捉えて相違ないはずである。鮮度鮮度と言っても獲れたてが美味い食材と、芳醇な一定期間温存したほうが美味しい食材もある。これらは、決して、CPUでは演算できない人間独自の能力なんです。人間だってケイ素ですから、炭素に還る前に雲に証を刻印しておくことも悪くない。と考えたら、ブログも楽しくなりますね。