2011年11月 アーカイブ

「走・攻・守」ってことだと・・・。

 野球部時代、気にしていたフレーズがふと頭に浮かんだ。「走・攻・守」バランスのいい選手になりたいなぁーとどうやらガチで願っていたことと、何かのDAY DREAMがリンクしたのだろう。しかし、早く走れても、バッティングが得意でも、こと「守り」には定評がなかった。なお且つ、なお且つって!野球のセンスがなかったものだから、陸上選手ならいいが(って、陸上競技をリスペクトしていないわけでは絶対ににない。)野球の場合、「走」の部分にもセンスが必要。「攻」の部分も投げられたボールをただバット打ち返せばいいだけではなく、チームでプレイする野球では個人の「攻撃」能力がかなずしもチーム全体の戦力にならない場合がある。

 で、「守」の面で言えば、ビックリするぐらい定評がなかったから、致命的なエラーをする選手なわけです。それが、試合の流れを変えたり、決定的なエラーになる場合が多かった。これは何故かというと、守備についている段階で「もし、今、僕のところにボールが飛んできて、エラーしたら試合に負けるぞ・・・」としか頭になく、すると、必ずボールはその選手目がけて飛んでくる。結果、エラーをして、チームが負けるのである。だから、形勢が不利な状態で自分自身のファインプレーで流れが変わってチームが勝利した、などという記憶は皆無。

 ずっと、何故こんなにも、守りの状態でのプレッシャーに弱いのかをかなり悩んだが、結論としては、考え過ぎなのである。単調単純な作業の積み重ねは好きなんだが、チームプレイとか、運動センスが必要な場面では、見事に逆目の裏目のネガティブシンキングになる。この適性に気が付いた時はもうすでに高校生活が終わっていた。つまり、野球的に「走・攻・守」揃った選手ではなかったことが、逆に、美術やデザインやクリエティブの適性に気づかしてくれた。

 まぁ、決して、僭越にも恐縮にも、「美術やデザイン」においてセンスがあるとは微塵も思っていないが、ただ、この世界で誰よりも諦めない能力やとことんのとんまで追求する能力はかなり自負としてある。結果、こだわり粘ることがこの世界で喰わせて貰っている理由のひとつかもしれない。どんくさいこともあるし、ボケボケな失敗は数限りないが、でも、まだ、この仕事をできているのは、ただただ、諦めていないからである。すると、必然的に高みを設定しているし、そんな試行錯誤を繰り返していると、ふと、立ち止まると自分が意外と想定以上に前に進んでいる場合もある。三歩歩いて二歩下がる、みたいな連続ですが、でも、少し前に出れて少し視界が変わっているのを実感すると、自分はチームプレイよりも個人プレイ思考なんだと、そこに適性を感じています。

 チームに属する安心感よりも、単独行動のリスクの方が生産的だと建設的だとどこか感じているのでしょう。だから、こんな人間だから、「守」が苦手だという今日の結論です。

突っ込むと出会える不思議。

 来るモノは拒まず、去るモノは追わず・・・などとカッコよくいきたいものですが、現実はそんなにドライに捉えることができない。来て欲しいのにグイグイ来ちゃうとそれなりにちょっと冷静になってしまいますし、決別する結果になったとしても、もし、どこか別のカタチで接点があれば、全力で猛進させていただく準備をしています。後悔というわけではないのですが、後悔がスッパリ・スッキリ忘れることができる対象ばかりだといいのですが、なかなかこれも現実的には・・・という感じです。

 でも、不思議と自ら捨て身で突っ込むと意外と活路が見出せて、へぇー、思い切って突進して良かった良かったという場面が最近多い(そういう歳になったのか?)。どうしても、突っ込むと細かい傷を受けたり、ドカーン!と高い壁にぶち当たったりしていたことが経験上、大人としてのリミッターが機能してしまい、道徳だとか倫理だとか自分に言い訳しながら尻込みしていたが、その箍を外すと以外とまだまだ自分の足腰って反応できてるじゃん!みたいなことがある。そこをそんな風に突っ込まれても以前だったら、ちょっと引き気味で、お茶を濁していた場面が、ここはもう半歩踏み出しておこうかなとちょっと勇気というか、ちょっと無茶をしてトライしていみようと思えるようになった。しかし、石橋を叩く前に渡る的なことではなく、最初からのこの橋は渡るつもりなので叩く必要がない・・・ではなく、ひととおり渡りたい橋があれば、ちょっと、渡る前に深呼吸をして数秒目視しながら自分の気持ちを再確認してGO!みたいな。

 すると、想定外の角度から素敵なサインを発見発見発見する。この不思議な感じは何か?何がこれをなせる技なのか、それもふくめて「たまたま」なのか、偶然なのか必然なのかとかじゃなくて、結果、「いい感じ」になる流れ。これをただの「不思議」と捉えることなく、ここからこれらを料理する技が求められているとか求められていないとか。ただ、47歳になり、いろいろな感覚が鈍くなり、ド忘れレベルの穴ばっかり掘っているが、突っ込む時の突っ込み方としては、まだまだ、というか、御歳なりにできているのかな・・・とも思う2011年の年末、あと1ヶ月まで数日である。

 しかし、モノワスレが激しい、仕事場はもうメモだらけ。そのメモが何だったかを忘れるこの状態にもうすでにイライラもしなくなってしまった。麻痺しているが麻痺も続くとスタイルになるって程度に開き直っているから始末がいいのか悪いのか。とは言え、ガチであと2011年もいろいろありましたが、ほんとに3.11から激動の日本でしが、まだまだ、1年を総括するにはちょっと早いが、来年は辰年ってことで、昭和39年生まれのガチの龍男として昇龍となる助走のための足場をこの年末は固めたいなどと頭デッカチになっています。意外とこの時代は、突っ込むと出会える時代なんですね。「犬も歩けばうんこをする」的なことかなと・・・。

これこれ!FUKUMOTOさん!

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 イタリア食堂FUKUMOTOというコンセプト。世の中多種多様な価値観が存在し多種多様な手法が存在します。しかし、結果、これらは一人の人間に起因していることが、お互いの相関性で社会構造になっている。美味しいスイーツを目の前にして、「お前は何をカタクルシイことを言っているんだ!」と言われても、それはそれでリアル。つまり、ひとりの人が何かをすることが社会を動かす原動力であることは間違いない。橋本さんが大勝したことが大阪にとってどういう意味があるのか、その2面性をテレビや新聞はテレビや新聞というスタンスで報道している。が、真実はひとつだなんて誰も考えていない。社会に対する期待も未来に対する願いや夢も人それぞれ。しかし、相関性で捉えるならば一人の人の存在価値が紡ぎ合って成立しているありきなんだから、コミュニケーションするのかしないのかとか、改革が推進されるかしないのかとかの白と黒ではなく、もっと、自由なモノサシが氾濫していることありきで、ひとつひとつの出会いやサインやキーワードを大切にしましょう、でいいのではないだろうか。個性はあるって。

 で、この思わずゲットしたスイーツ3種はまさにそれ。金看板のブランドゴリゴリのスイーツも付加価値込みで「美味しい」を演出するもよし、こうして、手作り感とオリジナル感が漂いながらも、「美味しく頂く」という背景に創った人の心が感じられる出会いはまさにイチゴイチエイ。それも含めて「満足満足」が私は全ての正解だと思います。出会ったことは偶然か必然かなど頭だけで考えていればいいこと。心はシンプルに純粋に「美味しい」を「美味しい」と感じるでいいんじゃないだろうか。

 これこれ、FUKUMOTOさん!

イタリア食堂FUKUMOTO公式WEBサイトはこちらです。

黒田征太郎さんから!

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 拝啓、黒田征太郎様、直接お会いしたのは後にも先にも季の雲さん以来でございますね。それもかれこれ10年以上前のお話です。それから、私が編集している情報紙S.O.S.などを一方的に送らせていただいたにつきるのですが、この度、東京で開催される個展とライブペイントのご案内が本日到着いたしました。これは1ヶ月早いサンタさんからのプレゼント!?中には直筆の原画が2点そしてメッセージも恐らく間違いなく直筆でしょう。このテンション、どこへ持っていけばよろしいのやら。

 アニメ「アキラ」で鉄雄がアキラに「月でもいかがでしょうか?」と問い、月を壊し始めた、アニメ「ナルト」のマダラが「月」を操ろうかという策略に匹敵するほどの力が内から湧き出てくる感覚でございます。DMを見れば、バタフライエフェクトの青木さんの会社のロゴマークも入っているぞ???これはどういうことだ。青木さんとは東京で通っていたイラストレーションの学校で1年間だけ教室を同じにしていた。バタフライエフェクトの青木さんと言えば、多分、現在国内のクリエイターBEST20には入っている人だろう。何故?がいっぱい目の前を飛び回っています。つまり、この期間中に東京に来い!ということなのか?この場所に行けばその何故の理由が分かるのかな?

 このDMの引力は凄いです。年末に向けて、行こうかな東京・・・。

中田ヤスタカ氏10のルール。

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 あるサイトで下記のような中田ヤスタカ氏のモノヅクリにおける10のルールが書かれていた。なかなか芯を喰っている。最先端の人のこういうこだわりというかスタイルには結果が伴っているだけに強いなぁ。素晴らしい。

 その一、曲のストックは作らない。その時面白そうなことをやろうと思うと、そのタイミングでまた一から作る方が楽しい。たとえば自分の趣味が全く変わらなくても、世の中が変わればその分だけ変わるし、世の中が全く変わらない、そんな事はないと思うんですけど、変わらなかった場合でも、自分が変われば変わるじゃないですか。いろんな要素があって、好きなものとか今やりたいものっていうのは変わるので。やっぱり一から作りたいんですよね。

 その二、レンタルはしない。プライベートスタジオっていうか、個人的に手の届く範囲の環境で作る。ここで出来ない事はあまりしていないみたいな感じですかね。レンタルって便利なんですけど、精神的に不自由じゃないですか。これは自分のものではなくて、いつか返さなきゃいけないって思っている物を使ったりとか、それを使って何かしたりとか。商業スタジオで、一日借りちゃったりすると、凄いでかいところだと何十万とかかかったりするじゃないですか。それを出してるのも自分じゃないし。それを借りてもらって曲を作るんだから、その時間内にそれなりの成果っていうか仕上げないといけないし、気分じゃないから今日はやめておこうと言えるような立場でもないし。だから、借りない。それよりも、例え劣ってた環境だとしても、僕にとっては自分の物っていう所が上な気がするんですよね。重要視する部分で言ったら、使わないって事も選べる。自分が所有できる範囲で頑張りたいっていうのもあるんですよ。

 その三、なるべく一人で全部やる。作曲と作詞とアレンジとレコーディングエンジニアっていうのを、同じ人が、自分がやってるじゃないですか。裏方として、ちゃんと全部を把握したいっていうんですか。世の中に出た時に、この曲いいねって言われても、悪いねって言われても、その方が納得いくっていうか。音に関しては、「俺別にそこの要素好きじゃねえし」っていう部分があっちゃいけないと思っているので、全部自分で監督したいっていうか、そういう部分はすごいあるんですよ。

 その四、クラブではビール。俺あんまり人と話すのが好きじゃないんですよ。好きじゃないっていうか苦手なんですよ。めちゃめちゃ真面目に話そうとすると、めちゃめちゃ真面目に話をしちゃうんですよ。だから、あまり真面目な話をしなくてもいいように、お酒を飲んでる感じなんですよ。飲まないと楽しくしゃべれない。人見知りなんですよ。足らないトーク力を補うツールみたいな。

 その五、携帯の着信音は無音。人から電話がかかってきたタイミングとかで音楽を聴きたくないっていうか。それは自分が聴きたいタイミングでならない音楽なんで、やっぱり音楽は自分の思ったタイミングで聴きたい。選べないですね。待ち受け画面に関してもそうだし、真っ黒なんですけど。ずっとです。持ち始めてから。

 その六、移動中は音楽を聴かない。聴いた事がないですね。移動中、新幹線とかでは。音楽をとりあえずつけながら、ご飯食べたりとか、つけながら掃除したりとか、多分みんなしてると思うんですけど。音楽のながら聴きをしないんですよ。逆に、何かしながら音楽を聴こうと思っても、音楽に集中しちゃってもう一個の方は止まっちゃうんで。音楽が、聴くものっていうよりかは作るものっていう方が僕の中ではスタンダードなものなので。スピーカーが二つあることが前提で作られている曲なので、右と左にちゃんとスピーカーがあって、どういう曲かなっていうのが細かいところが結構気になったりするんで。その場所の音を聴いてないと、不自然じゃないですか。場所が違うと鳴ってる音も違うんで、それ聴いてる方が楽しいです。

 その七、薬はギリギリまで飲まない。薬嫌いなんですよ。病院も動けなくなるまで行かないタイプ。飲まずして大丈夫っていう状況が大丈夫なうちは、飲まない方がいいかなって思ってるんで、今もう飲むと、飲まなきゃいけなくなったときに飲むものなくなっちゃうじゃんって思って。普通に風邪とか引いてても、別に自分が歌うわけでもないし、そんなに支障がないんですよ。

 その八、仕事の前に食事を決める。食べるの趣味なんですよ。仕事とかしてても、レコーディング中でも、何食べようかなって思いながらやってるんで。決めてからやったりするよね。今日はあそこ行こうって、終わったら。時間帯によって、開いてる店も違うので、終わる時間帯によって大体行く店も決まってるみたいな感じで。

 その九、未来のプロに刺激を受ける。みんな仕事で服を作ってるわけじゃない、でも好きで作ってるっていうのを見るのが、結構刺激になるんですよね。仕組みとかを色々知って、こうやらなきゃいけないとか、やってもいないのに多分こうなるからやめておこうみたいなのが、仕事レベルでやっていると結構増えてくると思うんですよ。そういうところがない物を見れるっていうんですかね。これ作ったら儲かるとか、これ作ったらウケるとか、そういうの考えて作るんじゃなくて、好きの塊じゃないですか。僕も初め曲作り始めたときは、「曲作るからお金頂戴」って始めたわけじゃなくて、作るのが楽しくて。自分が今好きなものですって言えるものを作ろうと思ってるんで、その気持ちを忘れないですむっていうか。めちゃめちゃ楽しそうじゃないですかみんな。すごく刺激になりますね。

 その十、自分が聴きたい音楽を作る。作っている時が一番楽しいですね。完成したものを「どうだ」って人前で披露するよりも、作ってる時に「これ人が聴いたらどういう顔するかな」みたいなこと考えてる時が一番興奮してるんで。だから作ってる時のほうが楽しいです。すごい好きだなって思ったアーティストがいたとしても、ライブ行った時三曲目くらいでもう飽きるんです。「ああ凄い」って思った瞬間に、もう頭の中は作曲したくなってるんで。音楽って無駄遣いって思ってるんですけど。無駄じゃないですか。お腹空くし、聴いてても。眠いのは眠いし、なんか変わるわけじゃないですけれど。凄い曲が作れるかもしれないって思う時があるんですよ。生活してて。凄いいい曲そろそろ作れる気がするって思い続けてもう10何年も曲作ってるみたいな感じですね。その繰り返しで。正直自分的にはそんなに売れる音楽じゃないと思うんです。だから、自分で言っちゃうのもなんですけど、そんなに売れていい音楽じゃないと思うし、売れすぎてると思うんですよね。人がいいと思ってくれても、自分がそれを好きじゃなかったら意味なんか無いと思っているので。まずは、自分が聴きたい音楽を作るところが原点で、自分が聴きたい音楽をどうやったらみんなが聴きたい音楽に思ってくれるかってことをやろうかなって思って。

 と、素晴らしい「10のルール」があるそうです。で、新譜が11月30日に出る「JPN」と。


SONYカムレコーダー到着!

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 本日、SONYのカメラ「NXCAM」と映像カメラ用の三脚が到着。結構、長期間検討しただけに、渾身の一台です。これで、まず、1920pxの映像が撮影できる。で、比率も16:9だし、ハードディスクレコードなので、メンドクサイDVテープのコストも必要なし。ってことはそのままPCへダイレクトにCOPYできるから、キャプチャー(スキャン)での劣化がなし。撮影したらHDにCOPYして、次の瞬間にA.EFFECTSへGO!ってことになりますね。これが理想の映像編集システムって感じですね。撮影したいモノは無限にあるし、このクオリティーの映像カメラがあれば、まず、当分は大丈夫。ブルーレイコンテンツにも対応しているのですから、このコンパクトなボディで最強と言えますね。

 まぁ、私はテレビ局の人ではないので、大袈裟なカメラは必要なし。とにかく機動力ありき。それに、このカメラのHDで最長9時間の映像が録画できるうえ、メディアを入れればさらにその3倍。外付けのHDさえ増やしていけば素敵な素敵な1920pxの映像ライブラリーができるってわけですね。まずは、大好きな琵琶湖の映像を蓄積していこうと思っております。時間を気にしてテープを用意する必要もないし、ぼぉーと四季折々の琵琶湖の映像を撮影して行こうと思っております。

 で、このカメラの凄いところは、この機種初めての「防滴」「防塵」ボディだっつーこと。ちょっとの雨や雪、誇りや砂塵などで誤動作が発生しにくい構造になっているらしい。いやいや素敵じゃないですか!さてさて、このカメラでの一発目の映像作品は何にしようかな・・・。

「学問のすすめ」では。

 ユキチフクザワの「学問のすすめ」が刊行されたのは明治5年。新しい時代の幕開けに、明治人が持つべきメンタリティーを説いたこの本は当時300万部を超える日本最大のベストセラーだったらしい。今、平成の世にこそ、この時代に生きている若い世代にこそ、このユキチフクザワのメッセージは伝えていくべき芯を喰っているような気がするというテイがあるらしい。日本の歴史にあまり興味がない私はそのあたりがまったく暗く、どのような時代背景の中でどのようなメッセージが込められていたかについてのディテールが皆無。それがまさに現代に精通する実学のそれだと言われても・・・。それが示す方向性とは「自分にとって必要な学問とは何かを考え、探し、選び取る。そういった行為こそが、ベーシックなものとして根底に流れている必要がある。」と説いている。

 さてさて、いい大学を出て、いい企業に就職できれば、30代に課長になり、40代で部長になり、50代で・・・、そして、無事退職後は悠悠自適の年金生活が日本人のテンプレートだった。しかし、それは過去の話。もう、そのテンプレートが通用・適用できる企業が今いくつあるだろうか?みたいな現代。若者はこの社会のどこに期待をすればいいのか、依存する先はどこか?ということが現代の大学の講義の大きなテーマらしい。なるほどなるほど、そりゃそうでしょう。高校生・大学生の諸君、地頭はありますか?思考の自肩は強いですか?ポテンシャルの脚力はありますか?という警鐘。

 なぜ、今更「学問のすすめ」なのかということもあるが、一旦経済のピークが過ぎ、混沌としたカオスの時代だとか言われて何がどう変容したのか?それをどう受け止めてどう考えてどう動くか?それが、ひとりひとりに投げかけられてる。そのための教育期間であるとすれば、到底、ゲームやインターネットやデジタルデバイスに一喜一憂している場合ではない。一昔までのエキスパートが職を失い、その歳で何を言っているの?的な社会人1年生のような人と出会うと愕然と現代のリアリティーを体感する。さてさて、そこで自分自身はどうかと自問自答するが、またこれが、何年この世界で飯を食っているのか!とどやされることばかり。失敗に失敗を重ね、さらに、失敗の穴を掘っている状態。危機感はあるし、好奇心もあるし、試行錯誤も自己研鑽もしているつもりでも、振り返れば自分の歩んで来た道は大きな穴ばかり。よくその歩き方で崖に落ちなかったかものだとふらふらの綱渡りだった。これからも、恐らく、この綱渡りは続く。よく、ゴールを設定しなさい的な啓蒙書を読むがまったく無意味である。どんなに細かい分析をしてもこの世にゴールなどない。あの穴を飛び越えた時がゴールだったのか?とも振り返るがたぶんそれは違うだろう。

 「学問のすすめ」か・・・、ちょっとユキチフクザワの世界に興味が湧いてきている。

世界で一番稼ぐ女(ヒト)。

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 現在の映画出演料が一番高い女優がアンジーさんだそうです。凄いですね。一人の人の魅力が大きなお金や企業の意図を表現することでの代価がそれなんでしょうね。人間って素晴らしいです。美しいだけではない何か大きなチカラがあるのでしょうし、作品や監督に恵まれてあらゆるタイミングがベストマッチしたらこうなるのでしょうね。美しいだけではない何かって実は美しいより大切なのかもしれません。

婚活ビジネスと浮気ビジネス。

 ある企業の結婚活動会員内の成約率が22%だというメルマガが到着した。それがどれぐらい凄いことなのかリアリティーがないが、たぶん、その世界では素晴らしい数値なのだろう…程度の感覚で、100組のカップルがメンバーにいて、他の会員システム内だと10%なのが、この会員システムだと22%だという比較をしているとして、それは何のため?何故22%が凄いのか、といよりも、22%を凄いと感じる気持ちってちょっと本末転倒な感じがする。それは、自分自身が結婚しているから、そう感じるに他ならないのだろけれど、まだ、自分自身が20歳ぐらいでこの数値を見ると、この会員システムは凄いと感じてしまうことだろう。それほど、現在の日本の適齢期の人達にはスキがあると思われているのだろう。そもそも、このシステムや結婚活動を促進する手法や結婚までのスキームは恐らく既婚者が企画・構想しているはず。そして、企画・運営スタッフには若い男女がいて、ああだのこうだのと会議を繰り返して組織システムの活性率を上げて、「22%達成!」みたいなノリなんだろう。5組に1組がゴールできるなら、この会員システムの入会料金と年間会員料金は安い!と思わせたいだけ。まぁ、何事もニーズがあるからビジネスののびしろになるという構図。

 そして、「浮気」をする察知し離婚に至らない、もしくは、浮気をしたとして、和解できる自然な離婚。お互いの遺恨が残らない離婚に導くためのビジネスモデルがある。言わばコンサルティングのテイなんだろうが、男も女も浮気をする時の理由は大きく3パターンに分かれるらしい。って聞いただけで、あとは、ドミノのように緩くカタカタと崩れていく論理のオンパレードなのだが、そこでも、社会心理学や臨床心理のご意見番が登場して、人間の「浮気」に対する願望を克明に文章化している。

 さて、本来、「結婚活動」と「浮気」は紙一重である。条件として何が異なるかと言えば、そこに人間が作り上げた社会生活の規範と法律と道徳というテンプレートが存在し、それに適用すると、ある行為が「結婚活動」である側面が「浮気」となる。これを、どこの心理学者の権威が紐解こうかこのテンプレートは揺るがないはずである。何事も個体としての差異はあるだろうが、それでもテンプレートは同様に適用可能である。

 で、そのテンプレートとは何かと言うと「日本」なのである。世界中にこのテンプレートがある。それをまた束ねる規範や文化や慣習があるからオリンピックが成立するのである。だから、この世は面白い。最後の最後で人間は男と女。ビジネスにはニーズがあり論理がありテンプレートがある。だから、ゴールはないと考えるのが正解。

3%の真理。

 世の中には少数派がいて、昨晩読んだ本にはエキスパートではなくプロフェッショナルになれと書いてあった。これが京都大学の医学生に対して講義をしている方の言葉だからどこまでどうなのかという視点はさて置き、これからはリベラルアートの時代だということ。これまでの常識や伝承されてきたことがなかなか活用できない時代になりますぞというお話。そもそも教養とは古い奴隷制があった時代に、奴隷のような仕事を一生する身分から抜け出すために人々は語学を学び知識を獲得することに取り組んだと書いてあった。確かに、なぜ?教養が必要なのかという真理の根底にはそのような自分自身を高める要因があったはずだろう。教養を得るということは言葉もしゃべれない人にしてみればかなりハードルの高い作業だったことだろう。しかし、義務教育のある国では一般教養ということを経て社会に出る仕組みが確立されている。確立されているが・・・という部分だろう。これがパンキョーと学生の間で呼ばれている一般教養課程だそうである。

 そもそも京大の医学部が起業講座を何故受けるのか?という疑問が次に出てきたが、医学部に進んでおきながら40%の学生が「起業講座」を受けているらしい。つまり、医師免許を持っているだけではこれからの社会構造においてさほどアドバンテージがないと彼ら医大生は考えているらしい。逆に頭のいい学生達は医師として社会にでるメリットとデメリットをジャッジした結果、企業講座を受けているということらしい。なるほどなるほど、医学の現場も大変なのである。

 で、ある友人が「お前は少数派だな、たぶん、3%以内だな。」と私に言った。それは、タイプ的な部分や諸行の部分、そして、思考パターンの意味でか、とにかく、100人暫定的に人がいれば、お前は確実に3%以内の人間だという。たぶん、恐らく、間違いなく、学歴や公認的免許のお話ではない。学歴など無縁の人生だったし、免許と言えば、車の免許とロッククライミングの免許しか持っていない。なんとか師とか公認なんとかエキスパートとかというテイも興味はない。おそらく、一般ゴルファーの中でシングルさんは3%だという話からこの話になったような記憶があるが、「絵が上手い人」も恐らくこれぐらいの確立だろう。この話の流れを一旦総括すると、少数派と多数派のパワーバランスはどうやら、少数派の方が幸福げに思えるような気がした。つまり、新車を買っても、ホイルを履かせない、カーナビを装備しない、DVDも付いていない、オートエアコンも付いていな、自動ドア機能もない、バックモニターもない新車を乗っているという段階でどうやらこの3%に属しているようである。しかも、イマドキ健康ブームの風に乗り、マラソンを始めない。マラソンは究極のスポーツのように捉えているが、どうやら、始める人の声を聞くといつでもできるからとおっしゃる。そして、自分のペースで続けられるからという理由で、こぞってなんとかマラソン大会に老若男女でエントリーするらしい。確かに数時間完走する体力と持久力の向こうには大きな達成感があるだろう。しかし、自分自身はそこにあまり痺れないし魅力を感じることができない。まずここで少数派なのかもしれない。

 少数派と多数派の違いが社会構造において何を意味して名に機能しているかは見当もつかないが、どうやら、自分自身が多数派ではないことに対して、複雑な気持になっている。いいこともあれば悪いこともあり、人生楽ありゃ苦もあるさと歌い飛ばすこともできるが、ほんと、いいことばかりではないのである。しかし、新車にカーナビをつけて休日マラソンをしてお酒とグルメを嗜み公認免許のテキストなどめくっていればこの危惧も納まるのか、そこに注視しなくてもいいのか。いろいろ考えてしまいます。

ポトス君増殖。

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 仕事場のポトス君。3鉢だったのが増えてきたので、7鉢に分けて植え替え完了。

 はじめは2鉢だったのが、数年でどんどん育って、伸びていく部分を30cmほど切ってガラスの花器に差しておくと根が出てくる。で、根が出てきたら植木鉢に土を入れて植える。そして、そのガラスの花器には伸びた部分をまた指しておく。するとまた根がで出て植木鉢に移動・・・これを繰り返してこうなりました。

 しかし、元気です。そんなに手入れとかしていないのに力強い茎と葉を増殖させるポトス君。こんな劣悪な環境で素晴らしい生命力ですな。なんか観葉植物はいろいろあれどやっぱこの力強さと葉っぱのフォルムは毎日鑑賞していて心地いい奴達ですね。

アフガンの男。

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 ひさびさのフレデリック・フォーサイスである。ぶらりと書店に行くとまだ読んでいなかったフォーサイスの小説を発見。アルカイダのお話。チラミすれば平成22年の書籍。比較的新しいということになりますね。いつものことながらのエンタメ系であることは間違いなし。世界情勢と言われてもニュースやインターネットで知ることができることがその全容であり、実際の実際、リアルのリアルで、現地ではどんなことが起こっているのかなど知る術はないが、フォーサイスの視点で少しでも世界の構造を感じることができれば、それはこの書籍に出会った意義のひとつ。自分自身の中のイマジネーションの世界がこの一冊でどう変容するかは未知数としてもフォーサイスの作品には「ジャッカルの日」からずっと魅かれているので、何故?とか、どうして?とか、だから?など考えずに、しばしこの中の描写に心を奪われてみる時間もまた楽しいひとときなのです。

武器としての決断思考。

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 「武器としての決断思考」という書籍。自分の人生は自分で決める!という極当たり前のテンションが下手をこくと依存だらけの緩い設定になっている場合がある。これは一重に人間の弱さの部分に他ならないがこれがとても心地いいことも人間は知っている。だから、なかなか、「自分の人生を自分で決めてますよ!」というテイにはなりにくい。そんな傲慢な考え方では社会性に欠けて、それで、全ての調和が整うならそれはそれで幸福じゃん!みたいな立ち位置になってしまうこともある。それが、この書籍の言うところの「武器としての決断思考」なのかどうか?が楽しみである。

 なんでもかんでも自分で決断することがベストではない。だから、人間社会は難しく人間社会は素敵なのである。さてさてこの著者はそのあたりについてはどう洞察しているのだろう?東大や京大の学生に対して頭の中だけでの授業・講義用の思考パターンをより刺激的に喰いつかせ方ありきでの文脈だとしたら、それは、机上の論理上の思考に終始するだろう。リアルがない。社会はもっと複雑だからそれも想定できていればいいが、書籍にするために、あるテイストのある一部分をチョイスしなければならないことはいたしかたなしとしても、さて、どこまでこの著者に共感できるだろうか?というちょっとトライ&エラー狙いで買ってみた書籍です。

親子ドッジボール大会

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 昨日は中学校で親子フォーラムのお手伝い。1学年の先生の皆様といっしょに「学年対抗ドッチボール大会」を開催しました。ご父兄のチームも子ども達のチームと真剣モードの対戦風景です。

 私はこの事業の司会進行ということで楽しく元気な子ども達と元気!?なご父兄の皆様の応援と撮影係でした。今年度は広報部長という役も頂いているので開会式の司会して広報用の写真撮影して閉会式の司会と楽しいひとときでした。元気があればなんでもできますね。

友達の定義。

 「そのことをあるライターさんに伝えたところ、「友達を探す登録しましょう!」といわれました。「友達を捜す」とはアップルのクラウドサービス「iCloud」一環のサービスで、アップル純正の「友達を捜す」アプリに知人のApple IDを登録しておくと、そのiPhoneが現在どこにあるか地図で示してくれます。つまり、知人がどこにいるかすぐにわかるというわけです。これがあれば、待ち合わせなどがとてもスムーズになります。なるんですが…。こちらの同意も待たずして登録を始めるライターさん。そこでふと不安が脳裏をよぎりました。今どこにいるかを把握されるということの恐ろしさを。「なんだよこの編集者、あれだけ原稿の催促をしといてこんなところで呑んでんじゃん」。これはマズイ。幸いなことに(当然ですが)「友達を捜す」は非公開にする機能がありますので、登録されたその場で公開設定をオフにしました(笑)。」というメルマガがある専門誌の出版社から到着していた。SNSにおける「友達」の定義について少し考えてしまう。インターネット上で簡単に「友達を探そう!」と言ってしまっているが、さてさて、その場合の「友達」はどういう語感として捉えたらいいのか?この場合の「友達」とはどこまでを規定しているという大前提なのか?どうも「友達が多い」ことが少ないことよりも優越感に浸れるという感覚を刺激しているだけの一手法に過ぎず、それは正確には「友達」じゃないんじゃない!?というテイ。

 インターネットでそんな簡単に「友達」が探せたら苦労はしない。ゲームの中のキャラクターに感情移入するのはプレイヤーの自由だし、偶像を崇拝するのも個人の自由。実際に友人と定義できる存在についても、さて、こちらは友達だと思っていても実は・・・みたいなことも現実社会ではあるわけで、「友達ルアー」にあまり反応しない方が正解のように思います。が、これは、天の邪鬼なひねくれた捉え方なのかな?一旦、そう感じてしまうとどうも「友達崇拝」の呪縛から逃れられないような気がする。「人という文字は支え合って・・・」みたないテッパンのアプローチはつまりは日本の慣習や文化が根底に息づいている。みんなで渡れば怖くない横断歩道も背丈比べ好きなどんぐり達も皆この社会心理の中でインプットとアウトプットを繰り返しているような気がする。

 この潮流に自分なりのモノサシで感情の感覚のディテールを計測しうようとすると、「友達モード」に視点をぶらされているような。モノサシはあるのか?それは何センチまで計測できるのか?計測した数値の単位はセンチでいいのか?みたいな。

曳山博物館伝承スタジオにて。

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 先日、NAGAHAMA JAZZ WALK!の第2弾ライブ「ゴンチチライブ」の会場である長浜曳山博物館伝承スタジオでの会場確認を行いました。チケット販売枚数120枚に対して、お陰様で現在138名の来場者数を想定しています。問題なく席数は余裕で確保できるのですが、ライブ専用の会場ではないために、会場の微妙な調整をする必要があります。それらを完璧にするために、こうして、実際に椅子を並べて確認しています。

 しかし、ステージから席まで近い!一番後方の席でさせ、ゴンチチのお二人がガチで体感できる距離ですね。これは、ちょっと、普通の大きなコンサートホールではありえないリアル。で、小さいライブハウスではスペースに余裕がなかったり天井が低く圧迫感があったりで、スピードやノリを優先するようなライブだとそんな小さいスペースもいいのでしょうが、ゴンチチのご両人ですから、近く、しかも、小さいなりに広がりのある空間での「ゴンチチライブ」ですから、これは、想定以上にグッとくるライブになりそうな予感です。ゴンチチさんのライブも自分自身初めての経験の上に、聞ける上に撮影できるという立場で、MAXゴンチチさんを体感できる素敵な素敵なライブになりそうです。いやぁ~楽しみ楽しみ。

もし、漫才コンビを結成するなら。

 今更ながらではあるが、もし、今、何かの都合で、何かの流れで漫才コンビを結成するならば、相方としてベストな存在は3名ほど頭に浮かぶ。なんで今更漫才やねん!という、極、極、一般常識的な見解はあるものの、これまでお笑の芸人さんがテレビを牽引しているメディアの今を見ると、やはり、ピンよりも、ふたりのコンビというスタイルが、何か雰囲気があり、伝えたいことネタやオチを一定の時間の枠の中で伝えようとした時にもっとも適正なスタイルのように捉えてしまう。セミナーとか講習とか60分や90分の枠の中で一方的に「偉い先生のお話を聞いてます」的なスタイルは我慢強い日本人だから成立しているが、セミナーにもあたりはずれがあり、「あれ?これ、この人?もしかして自慢話!?」みたいなツッコミ満載のセミナーもあるし、専門的な知識は網羅しているが、セミナー全体の展開というか起承転結がなく、「ええっ、そこでオチ!?」みたいな構成力だとこっちがひとりでオチを用意しなければいけないってことも多々ある。そのお話ならもっとこの話題を捻じ込んで、そこから入るんじゃなく、もっと、一般的な話題から入れば?みたいなことがよくある。だから、ならば、とりあえず「漫才コンビ」というスタイルを確定しておき、何も今からこの歳でダウンタウンに歩み寄ろうというお話ではないので、どこか、舞台を用意してもらえれば、時勢の話やトレンドのお話を面白おかしくネタにして、漫才スタイルで分かりやすくお話を展開して、ライブなら適当にお客様とキャッチボール的にいじらせていただければいい。そんなことをふと思いついたのも、上記の3名の中のひとりがいつものことながら、天然のボケをぶちかますからこんな突然のひらめきが降臨するという構図。

 で、ならば、コンビ名はどうする?べたべたではあるが、「ウサギとカメ」あたりでいいのではないだろうかと考えている。おそらく、多分、間違いなく、私はツッコミだし、その相方はボケだろう。相方本人は「なんで俺がボケやねん!」というだろうが、この時点でもう立派にボケが成立している。ネタはどうする?となるだろうが、そんなのどうでもなる。漫才など、長くて15分程度。スピード感やリズムは勿論必要だからネタ合わせは必要だけろうが、そんなことで漫才ができるものなのか?と疑問視するレベルでは、仮にも「漫才やろう」という発想にはならない。あなたが有田さんになってくれたら、私は上田さんをやるから・・・ぐらいの想定はできている。

 そうなると、どっかで、お題を頂ければ、ぜひ、足を運びたいと思う。このお話をオンライン上でつい数分前にその相方候補としたところだから、「ウサギとカメ」は結成30分の鮮度が高い日本で一番新しい漫才コンビとなる。そして、第1回目のステージを経て、即解散ということもありなので、どこかで何かネタを練り込んでステージに立ちたいような気がとてもしている。と、ウサギの私は常に先走る。そして、横着で楽天的。どこまでも自分のペースでまわりの人のことは気にしない。しかし、相方のカメ氏はそれの逆。逆のように見えて実はダブルツッコミかもしれないと思わせ~の、実は、ド天然のボケ純度120%という相方である。だから、けっこう「ウサギとカメ」は便利なツールになるような、想定外ののびしろがあるように捉えています。別に、ユーストでライブしてもいいし、チューブでネタを配信してもいい時代ですからね。

 にしても、相方は大切。さぁ、一発目のネタは何にしましょうか???カメさん。

愛煙家通信というマガジン。

 初めて「愛煙家通信」というマガジンがあることを新聞広告で知った。そ・そ・そんなアプローチが今この時代にありなんだとビックリ。何やら喫煙文化研究所というところの編集らしいぞ。スペシャルインタビュー企画で「人権侵害に等しい愛煙者への過剰な敵視 吸っている人間は犯罪者か 北方謙三(作家)」みたいなテイから、「受動喫煙より野菜不足の方が危険だ。肺癌の主原因はタバコにありに、科学的根拠はない!」という科学ジャーナリストの企画。そして、「美しい分煙社会の作り方」や、世の中の知識人・博学人を集めての喫煙談義。さらに、「煙草は私の6本目の指」などなど。確かに喫煙者は肩身の狭い重いを強いられている。

 でも、そんなに悪いことをしているわけではないので、こんな風に一生懸命にならなくてもいいのではないだろうか。喫煙者VS喫煙反対派っていう抗争をどうしてもどうしてもやりたいならすればいいが、別に反対派の意見もごもっともだし、自分自身は喫煙者だが、風邪をひいて喉が痛い時などは、近くでタバコを吸われるとイライラする。しかし、風邪が治って吸うタバコはまた各段に上手い。つまり、このような人間を無責任だと言いたいのなら、言えばいいが、その言葉は球種を変えて返球しますよ・・・というテイだろう。投げたら投げ返すのが人間社会の常だから・・・。

ゴンチチさんから映像メッセージ到着!

 こんなの素敵過ぎるでしょう!

 もう、本日で「ゴンチチさん」のライブチケットはSOLD OUTなのですが、このご両人のこの雰囲気を会場で楽しめるのですから、ワクワクドキドキですね。もう、かれこれ、10年以上のファンであり、ゴンチチさんの作品を聞かない日はないってぐらいの浸っている感じです。それがそれがそれが、ライブ・・・もう痺れますね。これは。

 の、ゴンチチさんからの映像メッセージが届いたってことは、つまり、このプロジェクトに参画させていただき正解だったということになりますね。必然的に。この余韻はしばらく2013年ぐらいまでひっぱれそうです。12月3日は楽しみ過ぎです。

スパイクの魅力、その一。

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 なんと言っても、まさに、テレビCMで言っているとおり!「ちょうどいいホンダ。」なのです。大きな車は嫌いだし、機をてらったタイプも嫌い。まして、あとから改造してどうのこうのなど問題外。とにかく、車は道具。シンプルで機能的で燃費が良くってスタイリッシュでいい。エンジンモノが好きな人は、あれやこれやと改造してご満悦みたいな人っていますが、「はい、そうですか。」みたいな感じ。本来販売している車って、構造もデザインも全てエキスパートが結集して製品化しているのだから、ドシが何を小細工しても、全体のクオリティーが向上する余地は0。悪くしてそれが個性だと思いたいなら、どうぞって感じ。だから、ドノーマールが一番素敵だと思います。っていう意味で、このスパイクはドストライクですね。この広い感じ、たくさんいろいろ積めそうです。

で、ホンダSPIKE。

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 ということで、新車はホンダのスパイク。5つのメーカー、12車種の中から厳選した1台です。とても満足しています。ちょっと納車が遅かったがいろいろあったので仕方なし。こちらも前任車同様に大切に乗りたいと思います。

お疲れ様20万4875km。

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 無事、小さな事故は2回ありましたが、愛車であるファンカーゴ君お疲れ様でした。雨の日も雪の日も酷暑の日も頑張っていただきまして、感謝感謝感謝。生涯4台目の車はしっかりガッツリ10年間おつきあいすることができた。交通安全の神様、ありがとうって感じ。

10チームの皆様へ。

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 先週の金曜日は「絵コンテとラフスケッチ」段階へ。講義の冒頭に「絵コンテ」と「ラフスケッチ」とは?という部分から実際、各10チームで考察・分析・論化していただいたコンセプトをどう表現するかの部分の設計図制作。それぞれに「30秒映像」と「B1ポスター」が成果物ですから、そこに創意工夫やアイディアをフォーカスしていただくための入口部分ですね。各チーム多様なポテンシャルをお持ちなことがようやく第5回目で少しづつ把握できてきましたから、楽しい感じです。それぞれのチーム名称がホワイトボードに書き出されると、改めて視覚化されたリアリティーが最終の作品づくりまで本格的な段階に入った感が漂いますね。10チームの皆様、頑張ってください。「30秒映像」「B1ポスター」って初めてのご経験だと思いますが、これが、皆様の今後の学業や社会に出られた時のひとつの重要なファクターになればこのプロジェクトの意義・価値はあるはずです。取り組むベクトルさえ的をはずしていなければ、それは、全て自分自身にフィードバックしてきます。この相対性が全てです。愚痴っている人は結果、自分に愚痴ることになり、人を非難する人は結果、自分を非難していることになります。脳は主語を理解していません。それをこのプロジェクトで体感してほしいと思います。頑張ってください。長浜バイオ大学の1回生のこのプロジェクトに参加された皆さん!

感覚とは推し量れないモノ。

 今、福島千里選手を育てた北海道の中村氏というコーチの書籍を読んでいる。北海道という環境で何故日本を代表するような選手が次々に生まれてきたかのか?いったいどのようなトレーニングをして福島選手は世界のひのき舞台に立ったのか?それを支えていたコーチの方の想いは?これらがこの書籍を買う動機である。自分自身も過去に100mと200mと400リレーをやっていたことで短距離という競技の入口の部分は体感しているつもり。

 学生の頃、記録会や大会に向けてパンパンの足や身体にムチを入れていろいろなトレーニングをしていたことが、この書籍を読みながら蘇る。もっともっと、本格的な陸上の練習をしたかったと遠い過去に後悔の念を漂わせても仕方ないが、少しばかりでも関わってきた人間としてこのコーチの書籍の中に散りばめられた言葉は重い。

 さらに、今後の、福島選手の晴れ姿に注目である。

 季節は冬、福島選手は今日も北海道で汗を流しておられるんだろう。

 本文のことをここであまり詳しくお話することはしないが、中村コーチのたくさんの言葉の中に、「感覚とは推し量れないモノです。それを、技術論や方法論で噛み砕いているように思えても、選手には伝わらない。たった10数秒の世界を選手は競い合っている。そこに、他人の理論や技術が介入する余地は限りなく小さい。」と。つまり、いかに足が早く動かせるかを感覚的に本能的に高める工夫やアイディアを考えることがコーチの仕事ですというニュアンスの言葉があった。まさにである。

 さて、定説や理論や技術論を振りかざしている人、この言葉をどう受け止めますか?それらは、モノゴトを収束させないのですね。言わば、ポイントマーカーでありノートに貼られた付箋のようなモノでしかないということ。本丸はそこにはなく、実際レースのコースに立つ人をどのように高めるかをもっともっと本能や感覚の部分で試行錯誤しなければいけないということ。

 デザインやアートの分野も同期であり、セオリーや先入観や経験値は時に大切なモノを見失わせる場合がある。言語にならない大切なモノ。最後の最後でそれは「見えているのか?見えていないか?」が分岐点となる。

BBCさんにて事前の打ち合わせ風景です。

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 昨日は地元テレビのBBCさんにお邪魔して、NAGAHAMA JAZZ WALK!の広報活動として時間枠を頂き代表である高木Pと会場設営上羽Dに彦根スタジオまで来ていただきました。本番までの打ち合わせ風景。読み合わせで生放送の準備をしておられます。いやいや、お二人の中でのJAZZへの想いやNAGAHAMA JAZZ WALK!へのビジョンはとても5分程度では語りつくせませんが、そこを、きっちりと質量のある時間に変えて頂き、お二人の中からの言葉としてお話頂きました。これが12月のライブの成功に繋がり、2012年からのNAGAHAMA JAZZ WALK!の覚醒への礎になれば、最高です。

TNJW!@BBC

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 TEAM NAGAHAMA JAZZ WALK!の高木Pと上羽さんがびわ湖放送さんの夕方の番組「キラりん滋賀」にご登場。いやいや、非常に内容のある6分間でした。びわ湖放送さんの担当の方にもMCのひまりさんにも、そして、本局の編成の人にも、いろいろとご尽力を賜りまして、心から感謝しております。これはあくまでもVOL.02です。NAGAHAMA JAZZ WALK!はまだスタート地点。この「ゴンチチライブ」をスタートの合図に一気に2012年は加速していきたいと考えております。地元テレビ局BBC様ともいろいろなスタイルでコラボれたら嬉しいです。本当に、BBC彦根支社の皆様ありがとうございました!

長浜をJAZZの町に!

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 この一本のテープが伝説の始まりであって欲しい・・・などと妄想しながら拝見しておりました。いやいや、高木さん上羽さんパーフェクトです。お二人が登場する前のお二人のトークと比較すれば、同じ、テレビに登場している人でも明らかに明らかにポテンシャルが違うことが誰の目にも映ったはず。いい悪いではなく、ポテンシャルがあるのかないのか?これが、言わば、公と民の格差でしょうね。原稿読んでちゃいくらテレビでも伝わる温度は低い。メディアの価値が失墜したというかフラットになっていく理由はそこの仕組みに本来の価値がないことを、ポテンシャルの低い人達が乱用し過ぎたせいだろう。それを、高木さんと上羽さんはこの映像の中で証明している。それが、伝説にならず、何が伝説かというお話ですね。いやいや宝物がひとつ増えました。

山口絵理子さんのチカラ。

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 昨日、長浜バイオ大学様で長浜青年会議所様の公開例会が開催されました。そのゲスト講師として登場されたのが山口絵理子さん。その小さいお身体と30歳という若さからは到底想像できないぐらいの「挑戦力」「行動力」「コミュニケーション能力」「人間力」「バイタリティー」「ボキャブラリー」「研究心・探究心」が発散されていました。何をどうすればこのような人になれるのか???そんな小さい疑念さえも一括してしまうな絵理子さんの言葉言葉言葉。いやいや、素晴らしいひと時でした。

 その絵里子さんが企画・運営しているブランドサイトがこちら。まぁ、素晴らし過ぎます。

マザーハウス公式WEBサイトはこちらです。http://www.mother-house.jp/

クライミングホールド到着!

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 ついに手を出してしまった。これがボルダリング用のクライミングホールドパーツです。とりあえず、とっかかりとして7個のガバを購入。ということは自宅にボルダリングウォールを必然的に設置するということとなり、その設計図もすでに完成しております。書斎の1/3がどうやら、「サスケ状態」になり、オリジナルのウォールを制作することが確定しました。カミさんについてはもう黙殺状態です。「好きにしたら・・・」的なタッチです。これを機に少しづつ少しづつカラフルなホールドを増やしていこうと思っております。結局、ボルダリンジムが長浜から遠く、いずれも(草津市・福井市・岐阜市)車で2時間以上かかるのだから、仕方ないですよね・・・。

Z-TVさんの取材を受けました。

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 昨日は長浜市内の曳山博物館にて地元のCATVさんであるZ-TVさんの取材を受けました。短い尺でしたが、NAGAHAMA JAZZ WALK!代表である高木Pさんの傍らでそっと第2回目の「ゴンチチ」ライブのポスターを温めていました。ゆっくりとですがジワリジワリとNAGAHAMA JAZZ WALK!の波動が長浜から県内にそして県外に広がっていく実感があり、このプロジェクトに参画させていただき、ついに、テレビカメラの前に立ってしまったという始末。本来、テレビカメラの前に立つべき存在ではないので、なんとも、摩訶不思議な体験でした。撮影する制作する側の人間がこうしてカメラの前に立つ、しかも、特にべしゃりなしという過酷な状況は、誠に稀有な体験で、終始ふわふわしていました。

 カミさん曰く、「テレビの取材を受けるんだから、いつもの服装ではなく、高木さんみたいに、お洒落にできないかなぁーーーーー!」と一言バッサリと一刀両断。返す言葉はなし。でも、これも広報部長としての仕事とあきらめ、カメラの前にしげしげと立っておりました。

 ライブチケットも順調に販売が進み、なんとか第2回目のライブもSOLD OUTが見てきました。これも、一重に「ゴンチチパワー」のなせる技。そして、スタッフのご尽力と地元から他府県までライブチケットを予約いただいた皆様のお陰お陰お陰。「音楽で長浜の街を艶やかに、そして、魅力的に!」という高木Pの願いがリアルにジワリジワリと拡散していく実感があります。

 ライブチケットもあと少しです。ご興味のある方はお早目に!そして、ご予約いただいた皆様、存分にゴンチチワールドをお楽しみください!

長浜ジャズウォークの公式WEBサイトはこちらです。http://www.nagahama-jazz.com/index.htm

コンテイジョン(contagion)

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 この映画のタイトルの意味は接触伝染病。ウイルスよりも早く恐怖が世界を震撼させるというタッチ。それは恐らくこのネット時代、一瞬だろうから、実は、ウイルス本体よりも情報の交錯が恐怖を煽るのだろうというメッセージのリアルだろう。とてつもない俳優と女優が結集しているこの深いシリアスなテーマ。さらに、マット・デイモンも出ているとなると、これはチェックである。しかし、ヒアアフター(hereafter)良かったな・・・。

ワイン電車へ。

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 近江鉄道さんの企画電車で美味しいワインとお弁当を頂きました。ヒトミワイナリーさんのオススメワインが4点登場しました。スパークリングからにごり白ワイン、そして、甘口と辛口の赤と4種を頂きました。ワインには全く精通していないので、最初に頂いた白のスパークリングが美味しかったという記憶が一番鮮明でした。あとは、赤を2種と白を1種、うーん、なんの蘊蓄でも出てこない。と電車に揺られながら、いろいろ考えていたら、気持ちが良くなってしまって、まぁ、いいか!状態で楽しいひとときでした。ほんとにほんとにお酒に対する趣向の深さがない。お腹が膨れて気持ちがふわふわしたらそれでいいかな・・・という程度の人間でも、このワイン電車とても楽しかったです。

福島千里さんのアメンボ走法。

 福島千里さんのあの世界陸上での雄姿はそう簡単に忘れることができない。彼女を育てたスポーツクラブのコーチの書籍にはこう書かれている。「福島千里選手の最大の武器は「脚のスイングスピードの早さ」。脚の回転数が早く、上下運動も少なく音もたてずにスーッっと進む走りは、まさにアメンボ走法ともいえる。この脚のスイングスピードにこそ、圧倒的な筋パワーをもつ黒人選手を相手に、日本人が互角に戦うための活路があるのかもしれない。」と。また、その著者の言葉の中に、「私がこういったユニークな練習方法をいくつも考え出せたのは、「陸上の練習とはこういうものだ」といった固定観念を持たず、常に、「何かいい方法はないか」を、シンプルに考え続けてきた40年ともいえる。本書は、私のそういった40年間の挑戦の記録である。日本人がいままでに見たことのない「最速の世界」とはどういうものかだろうか。そのほんの一瞬の世界にこれまで私は懸けてきた。そしていま、福島の登場とともに、この「最速の世界」の扉に日本人の手が届きつつあると感じている。圧倒的な筋力に勝る黒人選手たちを相手にした場合、日本人が同じようにパワーで勝負しても歯がたたないのが現実だ。だから、これまで世界のトップから、大きく水をあけられていたのだろう。しかし、日本人には日本人の戦い方があるのではないだろうか。それを体現しつつあるのが福島だと思うのだ。陸上の短距離種目、それも100mは民族の可能性への挑戦でもある。私たち日本人はどこまで速くなることができるのだろうか。その限界への挑戦が100mなのだろう。私はいま、その可能性を福島に見ている。その最終目標は、五輪での決勝進出だ。いつの日か日本人が、五輪100mのファイナリストになる日がくるだろう。決勝のスタートラインに立つ8人の中に、黒人選手にまじって、一人だけ日本人が立っている。(ただ書籍をコピーしているだけですが、何回読んでもこのあたりでどうしてもどうしても涙が出てくる。khuz)そんなシーンを思い浮かべるだけでワクワクしてこないだろうか。そんな夢に懸けた私のこれまでの取り組みを、本書では初めて明かした。選手たちの能力を引き出すための指導法や、多くのスプリンターを育てたさまざまな中村流の練習方法とともに、陸上競技短距離種目の奥深い世界が少しでもみなさんに伝われば幸いだ。北海道ハイテクAC監督 中村宏之」とこの書籍の序文は締めくくっている。

 今更この歳で100m競争に対する熱意について自分に置き換えることは不可能ですが、この監督が取り組んでこられた努力のお話やそれを受けてスタートラインに立った福島千里選手の思いや能力は知れば知るほど身体の真ん中が熱くなる。いろいろなスポーツをやってきたが、私自信は100m走が一番好きである。大した記録もないし本格的に陸上の指導など受けたこともない中途半端な短距離走経験者ですが、どのスポーツ・競技よりも「100m走」に心を奪われている。もし、機会があるなら、90歳で、エントリーしてあの直線を走れればゴールで倒れてそのまま他界しても本望である。

 もし、福島選手が五輪で決勝のスタートラインに立ったら日本人のどの金メダルよりも価値があると思っている。それは、つまり、他の競技性にケチをつける気持ちはないのですが、何よりも、どんな競技よりも、100m走というのはガチだからである。

DANリーディングというアプローチ。

 あまり本の読み方はこれだ!みたいなセオリー通りに何かをすることは好きではないが、あらためてそういうタッチの文脈を知った時、同じような思考で書籍や情報をインプットしているんだなぁと感じる時、ひねくれた捉え方ばかりしているわりには、素直に「ああこれってひとつの正攻法なんだ。」と安心することがある。書籍はこう読むべきだなどと他人に言われて天の邪鬼にその反対ばかりしていても結果、それは一周回って同じことみたいなことだから仕方ない。結局、何かひとつのモノゴトに精通して突き詰めようとしている人は回っているということなのかもしれない。それが、ある瞬間は対極にいても時間の経過と共に同じ場所に戻ってくる感じ。アナログ時計の針のように、短針と長針が重なったり離れたりのように。

 そんななか「DNAリーディング」という手法があることを最近知った。それは、好きな作家や著者を読んで、その著者が自分自信のルーツと捉えている人の書籍にアプローチするという手法。そして、そのルーツの書籍のまたルーツ、そのまたルーツと一つのDNAチェーンをひも解くという書籍の選び方である。これは、ネット社会の情報構造にも同じことが言えるだろうし、書籍とは違うが、人との出会いも同じことが言えるように思えた。結局、何かを求めた時、そのルーツを知ることで、自分が得た情報の深さや広さや相関性がより鮮明に理解できるというアプローチだろう。

 ちょっと、タッチが違うかなと思えたのは、そんなDNAリーディングをしていると、人は必ず、「孔子」に辿り着くらしい。私自身、あまり「孔子」に興味はないのだが、そう言われると、「論語」とは、あらゆる分野においてのバイブルだとその構造・仕組みは理解できるような気がする。ただ、だからと言って、今から「孔子」に精通したいとは思えない。確かにそれほどの存在であり不動の価値があるのだろうけれど。それに似た感覚で「聖書」という書籍がある。これは恐らくこれまでの人類の歴史で最高の発行部数を誇る書籍だろう。だから、人間と聖書の関係をあらためてゴタクを並べる必要はないが、書という存在はこうして人間に過大なる影響を与えているということになり、そのアプローチとしての王道が「DNAリーディング」ということなりそうである。DNAが繋いできたことって個人的にああだこうだと深く分析することは不可能だとしても、自分自身が精通してきた分野に限ってのみ少しづつそのルーツをたどることで何か意味のある「ひらめき」や「核心」に辿りつけたらいいなぁという感じで正解。

 で、改めて、その分野って何だろうということで個人のIDが形成されるんでしょうね。

忘れてしまうモノ。

 ある、クリエテイティブデレクターの大御所(若手)が新聞でこのようなコメントを書いておられた。「僕は着想したアイディアやデザインの手法について毎日の仕事のルーティーンの中でメモを一切しない。」と、これは、「忘れてしあうモノなど自分にとってその程度の重要性だから、だから、メモをしても意味がない。」と。なかなか素晴らしい意見です。デザインの現場で本当に選りすぐりの最先端の仕事をしておられるからこそ、このような考えに終始徹底できるのでしょう。言われたり聞いたりしていることについて忘れてしまうモノとは忘れてもいいモノか・・・。なかなかの強気のご意見。

 確かにそういう部分もあるだろうし、実際、メモをしても日々忘れモノが絶えない自分自身にしてみれば、そんな強気な意見に同調したい気分もあるし、そんな忘れてしまうモノは自分にとって重要ではないなどと1秒でもいいから考えてみたいと憧れはある。しかし、現実はそれとは全く逆である。モノゴトの重要性を決めるのは自分自身ではなく、誰かとの関係性の中でその重要度は決められてるがまず最初にあり、それをひとつでも自分にとって意味のあることに変換するためにメモをとり、アイディアが着想したらラフスケッチをする。頭に入ったつもりでも、次へ転用・流用・活用できなければ、入れた意味がない。なのに、重要なことを次から次へと忘れていく残念な自分。確かに、重要性と記憶力は深く関係しているのだろうが、それでもそれでも、身の周りに起きていることはいいことも悪いことも自分に意味がある、全て重要なことだと思いたいから、メモをするのである。

 でも、それを繰り返して自分の器というかキャパを完全にオーバーした時、何かのルールで忘れてしまうモノゴトがある。全て重要だと頭で考えていてもどこかで優劣をつけているのかもれない。

 このデレクターのようにそれでも「しょうがない」と開き直れるならいいが、それでは全くダメだと思う。整理できているつもりでも整理できていない失望感は深い。そんなことに留意しながら仕事場はメモだらけ、「これいつのメモか?」「これは何を思いついた時のメモか?」というぐらい、煩雑にいろいろなメモが仕事場には氾濫している。仕事場はイコール自分の頭の中だと言われたことがある。本当にそうだと思うから、定期的に煩雑な資料やメモやノートや書籍や雑誌を整理しているが、それでも、何がなにやら限定できないモノが氾濫している。つまり、これが自分の頭の中なのかと思うとこれまた深く残念な気持ちになる。しかし、そんな日頃から失敗ばかりしているのですが、意外なことに、パソコンの中と絵を描くための画材だけはいつでも整理できている。どこにどのソフトがあり、どこにどの画材があるかは、的確に引き出せるようにしているのである。結局、そんなことを総合すると、自分自身は人とのコミュニケーションはあまり得意ではなく、自分がやりたい仕事(デザインや絵)に関する道具や画材や資料は整理しているということになる。これも、全く、おうちゃくな話である。が、なかなか、永年染みついたこの自分自身の構造を自分自身で改造するのは難しいということを、年齢を重ねると共に痛感する日々である。

 ただ、忘れてしまうことが忘れてもいいことだとは、絶対に捉えているつもりはない。

「ずるさ」の構造。

 書店でふと目に止まった書籍のフレーズが頭に残っている。その書籍は人間の「ずるさ」について分析・洞察していた書籍だった。また、次、同じように引力を感じることができたら入手するだろう。まず、その書籍の表紙を見て思ったことは(正確にはその書籍のタイトルはもう忘れている。)「ずるさ」ってイコール「逞しさだろう!?」とツッコンでいる自分がいた。つまり、ってことは私はずるい人間なのかもしれない。しかし、ずるいっていろいろあるだろう?破壊的なネガティブな反社会的な「ずるさ」は法律やモラルに反しているから「悪い行為」となるが、必ずしも・・・である。では、創造的でポジティブで社会的なそして、法律に触れることなくモラルの分子であるならば「ずるさ」は権利かもしれないぞ。もしかすると、そういうアプローチを回している段階でそれは義務になるかもれいないぞ。

 と、ここまで考えた段階でその書籍を手に取る。すると、その書籍の冒頭には「ずるさは悪いことか?」という疑問が目に飛び込んできた。うんうん、なかなかリンクした感じで嬉しくなったが、購入には至らなかった。でも、リストには入っている一冊ですね。

 弁護士ではないので、法律のことなどなんの知識もないが、法律を守る人達にはこの書籍はどう映るのだろう?法律に反しているとかモラルに反しているいるようなタブーに対して黙認することも時にはあるだろうし、でも、法律のプロとして今この社会で起きていることをテンプレートに転写しながら判断をする仕事だろうから、人間的な葛藤やエゴを押し殺して法律を施工しているんだろう。他にも法律の元に様々な判断をして行動をする仕事があるが、それらの人の中には「ずるさ」はないのだろうか?弁護士なんだから、警察官なんだから、法律に触れるような悪行はNGだと口にするだろうし、ルールをトレスするエキスパートなんだから「ずるさ」は否定するだろう。しかし、現実は当然、ムラが蔓延っている。これが現実と理想の間に流れる谷。

 「言論の自由」という定説があるが、これについて、このネット時代、「言論」さえ定義が難しくなった時代にさて「自由」の定義はどこまで拡散していることか。人間がずるくなる時、それは破壊か創造かみたいなことでジョブスは苦悩しただろうが、結果、その苦悩は歴史を変えたように誰の目にも映っているだろう。今、彼が他界してその精神はしかるべき人材に継承されているだろうが、真実の側面にある人間の「ずるさ」をどこまで生産的な活動に転移できているか。多くの失敗を積み重ねて辿りつく一つの答。昨日、ワンピースの最新刊第64巻が出て早速楽しませてもらったが、尾田さんのクリエティビティーが目指している「ワンピース」もその苦悩の旅の中で向かうひとつの躯なのかもしれない。

「好き」と「上手」の関係。

 「好きこそモノの上手なれ。」という言葉がある。この「好き」の構造はいったい何だろう?個性を大切に、個性的で創造的で革新的であることで下手をこくと孤立してしまう世界がある。しかし、モノゴトのルーツを辿れば必ずその始点は1点に絞られているはず。情報が氾濫している時代、知識が飽和してフラット化された世界で、さてこの「個性」はどこにある?どこにあるべき?ある書籍では世界はシェアにむかって均一化された情報こそが真理であるという指針がある。社会性や客観性が紡ぐ価値観こそが・・・みたいな潮流にどう対峙するかが本来個人の仕事。そこに協調性や連帯感がなければこの機能は低下するという啓蒙である。ネットワークの中に複雑怪奇に流れるsomethingを自分なりの引き寄せる力で手元に手繰り寄せるから受信と発信が成立している。さて、その構造でさえひとつの仮説としても「好き」とはどういう感覚であるべきなのか?

 そこには、ビジネススタイルやライフスタイルやスピリチュアルなどの様々な世界があり、それぞれの分野で然るべき趣味趣向が能力や経験値がこの「好き」のベクトルをレベルをチャンネルを規定している。自分自身が好きな何かを自分にとっての価値として推し量ることとは、考える事よりも、行動が先であるべき。動くから感じることができる。感じたことだけが考えるための材料になるんだから、考えている時点で感じるは終わっている。こんな単純なことを、スタートだのゴールだのと言っているのは本末転倒どころか、そもそもの構造を理解していないってことにならないか。そのジレンマが正しいはずなのに、それが飽和して情報過多になるバランスでは、簡単に手法が目的に置き換わる。だから、「何故好きなのか?」と考える前の感覚を改めて再確認すると「何故?」という思考パターンこそが空回りであることを知る。

 そして、「上手」であるためには、何が必要か?「下手でもいいから好きでいい。」と言うが、これは正確には「上手」となる仕組み。つまり、上手って何基準ってことで、知識がある技術がある判断力があることが必ずしも「上手」ではないという仕組みが見えてくる。この相関性を「好き」と組み合わせれば、何を背負っているかでそれとそれを繋ぐパイプが自由自在に変容する。

 で、これって、実は、脳細胞が行っている構造であり、そこに全ては起因していると言える。人間が人間の脳を研究する過程でいろいろなモノが生まれた。カタチあるモノ、カタチのない文化や歴史や産業や学問などなど。それをインプットする手法にこそ価値がある。米を作る、ゴハンを炊く、食べる、血になり肉になる、排泄物が地球に還る。このループをいろいろなアプローチ・アクションに代入すれば必然的にそこに入れる変数が個体観となる。そこにIDを発見できた人がつまり、「好き」と「上手」を「らしく」コントロールできている人が強い。まぁ、この程度の分析ではこの洞察に対して思考のドアのノブを握っているに過ぎない。回すならもっともっとエネルギーが必要でしょう。

 「好きこそモノの上手なれ。」改めて大きな疑問を解く重要なカギなのかもしれない。

自分のアタマで考えよう。

 知識にだまされない思考の技術か・・・。月刊100万PVを誇る超人気ブロガー「ちきりん」さんという方の本。ダイヤモンド社から¥1,470。「会議で結論を出すには?」「就職活動で失敗しない方法とは?」「お得な電気代の払い方は?」「自殺の最大の原因は?」などの疑問が投げられた場合、あなたならどう答に導きますか?というテイ。10万人の読者を「なるほど」とうならせる ちきりんさんならではの、こう考えて、こう答えますという書籍だそうである。

 確かに、「情報」と「知識」の分岐点はどこか?という視点は常に持っているつもりですし、「情報」が氾濫している飽和しているって言われてもさほど実感はなく、結局、マスメディアや大手のライターの意識が見え隠れする情報と実際の出来事に対する分析を比較すれば、何故そういう視点で、何故そこに喰いつくのか?みたいなことは多々ある。あまりにもそれが多すぎて、「もうどうでもいいや!」となっているのがマスメディア。で、あまりにも情報がプライベイト(ソーシャル)過ぎて「だから、何が言いたいの?」とか「そこを掘っても何もでないでしょう?」というのがSNSのような気がする。最大のポイントはこのちりきんさんもたぶん指摘しているだろう「自分のあたまで考えたことなのか?」という差別化。

 例えば、どこかで初雪が降る。「今日は例年よりも1週間早く雪が降りました。」はリアルな情報であり鮮度は高い。が、その鉱脈を掘っているわけではない。「1週間も早い初雪ですから、車のタイヤは交換しましょう?」がマスメディア的見解であり、「初雪で小さい雪だるまを作りました。」がSNS。これがツイッターなら「今、雪が降り始めました。」になるのだろう。

 で、自分のアタマで考えようとは、どういうことか。「昨晩から降った初雪。私はびわ湖に降る雪がすきだから早速カメラを持ってびわ湖へ。これがその写真です。」ぐらいになるのだろうか。アタマで考える前に感じることが大切だと思っているので、考える前に行動したい。そう言えば、雪が首筋に入って「冷たい」ではない。まず、雪が首すじに入り冷たさを感じてから、アタマが「冷たい」と思考している。だから、考えるよりも感覚が先が正解である。つまり、考えるという行為は常に行動とリンクしている。しかし、情報過多になると行動が沈滞する。その上、「考えて考えて!」と言われても、行動しないのに、人間の頭は身体は「考え」に導けない、連動しない、そんな気がします。