「好き」と「上手」の関係。

 「好きこそモノの上手なれ。」という言葉がある。この「好き」の構造はいったい何だろう?個性を大切に、個性的で創造的で革新的であることで下手をこくと孤立してしまう世界がある。しかし、モノゴトのルーツを辿れば必ずその始点は1点に絞られているはず。情報が氾濫している時代、知識が飽和してフラット化された世界で、さてこの「個性」はどこにある?どこにあるべき?ある書籍では世界はシェアにむかって均一化された情報こそが真理であるという指針がある。社会性や客観性が紡ぐ価値観こそが・・・みたいな潮流にどう対峙するかが本来個人の仕事。そこに協調性や連帯感がなければこの機能は低下するという啓蒙である。ネットワークの中に複雑怪奇に流れるsomethingを自分なりの引き寄せる力で手元に手繰り寄せるから受信と発信が成立している。さて、その構造でさえひとつの仮説としても「好き」とはどういう感覚であるべきなのか?

 そこには、ビジネススタイルやライフスタイルやスピリチュアルなどの様々な世界があり、それぞれの分野で然るべき趣味趣向が能力や経験値がこの「好き」のベクトルをレベルをチャンネルを規定している。自分自身が好きな何かを自分にとっての価値として推し量ることとは、考える事よりも、行動が先であるべき。動くから感じることができる。感じたことだけが考えるための材料になるんだから、考えている時点で感じるは終わっている。こんな単純なことを、スタートだのゴールだのと言っているのは本末転倒どころか、そもそもの構造を理解していないってことにならないか。そのジレンマが正しいはずなのに、それが飽和して情報過多になるバランスでは、簡単に手法が目的に置き換わる。だから、「何故好きなのか?」と考える前の感覚を改めて再確認すると「何故?」という思考パターンこそが空回りであることを知る。

 そして、「上手」であるためには、何が必要か?「下手でもいいから好きでいい。」と言うが、これは正確には「上手」となる仕組み。つまり、上手って何基準ってことで、知識がある技術がある判断力があることが必ずしも「上手」ではないという仕組みが見えてくる。この相関性を「好き」と組み合わせれば、何を背負っているかでそれとそれを繋ぐパイプが自由自在に変容する。

 で、これって、実は、脳細胞が行っている構造であり、そこに全ては起因していると言える。人間が人間の脳を研究する過程でいろいろなモノが生まれた。カタチあるモノ、カタチのない文化や歴史や産業や学問などなど。それをインプットする手法にこそ価値がある。米を作る、ゴハンを炊く、食べる、血になり肉になる、排泄物が地球に還る。このループをいろいろなアプローチ・アクションに代入すれば必然的にそこに入れる変数が個体観となる。そこにIDを発見できた人がつまり、「好き」と「上手」を「らしく」コントロールできている人が強い。まぁ、この程度の分析ではこの洞察に対して思考のドアのノブを握っているに過ぎない。回すならもっともっとエネルギーが必要でしょう。

 「好きこそモノの上手なれ。」改めて大きな疑問を解く重要なカギなのかもしれない。