「ずるさ」の構造。

 書店でふと目に止まった書籍のフレーズが頭に残っている。その書籍は人間の「ずるさ」について分析・洞察していた書籍だった。また、次、同じように引力を感じることができたら入手するだろう。まず、その書籍の表紙を見て思ったことは(正確にはその書籍のタイトルはもう忘れている。)「ずるさ」ってイコール「逞しさだろう!?」とツッコンでいる自分がいた。つまり、ってことは私はずるい人間なのかもしれない。しかし、ずるいっていろいろあるだろう?破壊的なネガティブな反社会的な「ずるさ」は法律やモラルに反しているから「悪い行為」となるが、必ずしも・・・である。では、創造的でポジティブで社会的なそして、法律に触れることなくモラルの分子であるならば「ずるさ」は権利かもしれないぞ。もしかすると、そういうアプローチを回している段階でそれは義務になるかもれいないぞ。

 と、ここまで考えた段階でその書籍を手に取る。すると、その書籍の冒頭には「ずるさは悪いことか?」という疑問が目に飛び込んできた。うんうん、なかなかリンクした感じで嬉しくなったが、購入には至らなかった。でも、リストには入っている一冊ですね。

 弁護士ではないので、法律のことなどなんの知識もないが、法律を守る人達にはこの書籍はどう映るのだろう?法律に反しているとかモラルに反しているいるようなタブーに対して黙認することも時にはあるだろうし、でも、法律のプロとして今この社会で起きていることをテンプレートに転写しながら判断をする仕事だろうから、人間的な葛藤やエゴを押し殺して法律を施工しているんだろう。他にも法律の元に様々な判断をして行動をする仕事があるが、それらの人の中には「ずるさ」はないのだろうか?弁護士なんだから、警察官なんだから、法律に触れるような悪行はNGだと口にするだろうし、ルールをトレスするエキスパートなんだから「ずるさ」は否定するだろう。しかし、現実は当然、ムラが蔓延っている。これが現実と理想の間に流れる谷。

 「言論の自由」という定説があるが、これについて、このネット時代、「言論」さえ定義が難しくなった時代にさて「自由」の定義はどこまで拡散していることか。人間がずるくなる時、それは破壊か創造かみたいなことでジョブスは苦悩しただろうが、結果、その苦悩は歴史を変えたように誰の目にも映っているだろう。今、彼が他界してその精神はしかるべき人材に継承されているだろうが、真実の側面にある人間の「ずるさ」をどこまで生産的な活動に転移できているか。多くの失敗を積み重ねて辿りつく一つの答。昨日、ワンピースの最新刊第64巻が出て早速楽しませてもらったが、尾田さんのクリエティビティーが目指している「ワンピース」もその苦悩の旅の中で向かうひとつの躯なのかもしれない。