忘れてしまうモノ。

 ある、クリエテイティブデレクターの大御所(若手)が新聞でこのようなコメントを書いておられた。「僕は着想したアイディアやデザインの手法について毎日の仕事のルーティーンの中でメモを一切しない。」と、これは、「忘れてしあうモノなど自分にとってその程度の重要性だから、だから、メモをしても意味がない。」と。なかなか素晴らしい意見です。デザインの現場で本当に選りすぐりの最先端の仕事をしておられるからこそ、このような考えに終始徹底できるのでしょう。言われたり聞いたりしていることについて忘れてしまうモノとは忘れてもいいモノか・・・。なかなかの強気のご意見。

 確かにそういう部分もあるだろうし、実際、メモをしても日々忘れモノが絶えない自分自身にしてみれば、そんな強気な意見に同調したい気分もあるし、そんな忘れてしまうモノは自分にとって重要ではないなどと1秒でもいいから考えてみたいと憧れはある。しかし、現実はそれとは全く逆である。モノゴトの重要性を決めるのは自分自身ではなく、誰かとの関係性の中でその重要度は決められてるがまず最初にあり、それをひとつでも自分にとって意味のあることに変換するためにメモをとり、アイディアが着想したらラフスケッチをする。頭に入ったつもりでも、次へ転用・流用・活用できなければ、入れた意味がない。なのに、重要なことを次から次へと忘れていく残念な自分。確かに、重要性と記憶力は深く関係しているのだろうが、それでもそれでも、身の周りに起きていることはいいことも悪いことも自分に意味がある、全て重要なことだと思いたいから、メモをするのである。

 でも、それを繰り返して自分の器というかキャパを完全にオーバーした時、何かのルールで忘れてしまうモノゴトがある。全て重要だと頭で考えていてもどこかで優劣をつけているのかもれない。

 このデレクターのようにそれでも「しょうがない」と開き直れるならいいが、それでは全くダメだと思う。整理できているつもりでも整理できていない失望感は深い。そんなことに留意しながら仕事場はメモだらけ、「これいつのメモか?」「これは何を思いついた時のメモか?」というぐらい、煩雑にいろいろなメモが仕事場には氾濫している。仕事場はイコール自分の頭の中だと言われたことがある。本当にそうだと思うから、定期的に煩雑な資料やメモやノートや書籍や雑誌を整理しているが、それでも、何がなにやら限定できないモノが氾濫している。つまり、これが自分の頭の中なのかと思うとこれまた深く残念な気持ちになる。しかし、そんな日頃から失敗ばかりしているのですが、意外なことに、パソコンの中と絵を描くための画材だけはいつでも整理できている。どこにどのソフトがあり、どこにどの画材があるかは、的確に引き出せるようにしているのである。結局、そんなことを総合すると、自分自身は人とのコミュニケーションはあまり得意ではなく、自分がやりたい仕事(デザインや絵)に関する道具や画材や資料は整理しているということになる。これも、全く、おうちゃくな話である。が、なかなか、永年染みついたこの自分自身の構造を自分自身で改造するのは難しいということを、年齢を重ねると共に痛感する日々である。

 ただ、忘れてしまうことが忘れてもいいことだとは、絶対に捉えているつもりはない。