友達の定義。

 「そのことをあるライターさんに伝えたところ、「友達を探す登録しましょう!」といわれました。「友達を捜す」とはアップルのクラウドサービス「iCloud」一環のサービスで、アップル純正の「友達を捜す」アプリに知人のApple IDを登録しておくと、そのiPhoneが現在どこにあるか地図で示してくれます。つまり、知人がどこにいるかすぐにわかるというわけです。これがあれば、待ち合わせなどがとてもスムーズになります。なるんですが…。こちらの同意も待たずして登録を始めるライターさん。そこでふと不安が脳裏をよぎりました。今どこにいるかを把握されるということの恐ろしさを。「なんだよこの編集者、あれだけ原稿の催促をしといてこんなところで呑んでんじゃん」。これはマズイ。幸いなことに(当然ですが)「友達を捜す」は非公開にする機能がありますので、登録されたその場で公開設定をオフにしました(笑)。」というメルマガがある専門誌の出版社から到着していた。SNSにおける「友達」の定義について少し考えてしまう。インターネット上で簡単に「友達を探そう!」と言ってしまっているが、さてさて、その場合の「友達」はどういう語感として捉えたらいいのか?この場合の「友達」とはどこまでを規定しているという大前提なのか?どうも「友達が多い」ことが少ないことよりも優越感に浸れるという感覚を刺激しているだけの一手法に過ぎず、それは正確には「友達」じゃないんじゃない!?というテイ。

 インターネットでそんな簡単に「友達」が探せたら苦労はしない。ゲームの中のキャラクターに感情移入するのはプレイヤーの自由だし、偶像を崇拝するのも個人の自由。実際に友人と定義できる存在についても、さて、こちらは友達だと思っていても実は・・・みたいなことも現実社会ではあるわけで、「友達ルアー」にあまり反応しない方が正解のように思います。が、これは、天の邪鬼なひねくれた捉え方なのかな?一旦、そう感じてしまうとどうも「友達崇拝」の呪縛から逃れられないような気がする。「人という文字は支え合って・・・」みたないテッパンのアプローチはつまりは日本の慣習や文化が根底に息づいている。みんなで渡れば怖くない横断歩道も背丈比べ好きなどんぐり達も皆この社会心理の中でインプットとアウトプットを繰り返しているような気がする。

 この潮流に自分なりのモノサシで感情の感覚のディテールを計測しうようとすると、「友達モード」に視点をぶらされているような。モノサシはあるのか?それは何センチまで計測できるのか?計測した数値の単位はセンチでいいのか?みたいな。