3%の真理。

 世の中には少数派がいて、昨晩読んだ本にはエキスパートではなくプロフェッショナルになれと書いてあった。これが京都大学の医学生に対して講義をしている方の言葉だからどこまでどうなのかという視点はさて置き、これからはリベラルアートの時代だということ。これまでの常識や伝承されてきたことがなかなか活用できない時代になりますぞというお話。そもそも教養とは古い奴隷制があった時代に、奴隷のような仕事を一生する身分から抜け出すために人々は語学を学び知識を獲得することに取り組んだと書いてあった。確かに、なぜ?教養が必要なのかという真理の根底にはそのような自分自身を高める要因があったはずだろう。教養を得るということは言葉もしゃべれない人にしてみればかなりハードルの高い作業だったことだろう。しかし、義務教育のある国では一般教養ということを経て社会に出る仕組みが確立されている。確立されているが・・・という部分だろう。これがパンキョーと学生の間で呼ばれている一般教養課程だそうである。

 そもそも京大の医学部が起業講座を何故受けるのか?という疑問が次に出てきたが、医学部に進んでおきながら40%の学生が「起業講座」を受けているらしい。つまり、医師免許を持っているだけではこれからの社会構造においてさほどアドバンテージがないと彼ら医大生は考えているらしい。逆に頭のいい学生達は医師として社会にでるメリットとデメリットをジャッジした結果、企業講座を受けているということらしい。なるほどなるほど、医学の現場も大変なのである。

 で、ある友人が「お前は少数派だな、たぶん、3%以内だな。」と私に言った。それは、タイプ的な部分や諸行の部分、そして、思考パターンの意味でか、とにかく、100人暫定的に人がいれば、お前は確実に3%以内の人間だという。たぶん、恐らく、間違いなく、学歴や公認的免許のお話ではない。学歴など無縁の人生だったし、免許と言えば、車の免許とロッククライミングの免許しか持っていない。なんとか師とか公認なんとかエキスパートとかというテイも興味はない。おそらく、一般ゴルファーの中でシングルさんは3%だという話からこの話になったような記憶があるが、「絵が上手い人」も恐らくこれぐらいの確立だろう。この話の流れを一旦総括すると、少数派と多数派のパワーバランスはどうやら、少数派の方が幸福げに思えるような気がした。つまり、新車を買っても、ホイルを履かせない、カーナビを装備しない、DVDも付いていない、オートエアコンも付いていな、自動ドア機能もない、バックモニターもない新車を乗っているという段階でどうやらこの3%に属しているようである。しかも、イマドキ健康ブームの風に乗り、マラソンを始めない。マラソンは究極のスポーツのように捉えているが、どうやら、始める人の声を聞くといつでもできるからとおっしゃる。そして、自分のペースで続けられるからという理由で、こぞってなんとかマラソン大会に老若男女でエントリーするらしい。確かに数時間完走する体力と持久力の向こうには大きな達成感があるだろう。しかし、自分自身はそこにあまり痺れないし魅力を感じることができない。まずここで少数派なのかもしれない。

 少数派と多数派の違いが社会構造において何を意味して名に機能しているかは見当もつかないが、どうやら、自分自身が多数派ではないことに対して、複雑な気持になっている。いいこともあれば悪いこともあり、人生楽ありゃ苦もあるさと歌い飛ばすこともできるが、ほんと、いいことばかりではないのである。しかし、新車にカーナビをつけて休日マラソンをしてお酒とグルメを嗜み公認免許のテキストなどめくっていればこの危惧も納まるのか、そこに注視しなくてもいいのか。いろいろ考えてしまいます。