2011年12月 アーカイブ

ひとあしお先におめでとうございます!

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 2012年はこんな年賀状です。一足お先にブログで明けましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。龍からのトリケラトプスということで、2012年は「ガオッ!」という一年にしたいと思っております。スギノヨシカズ

変化する者。

 さてさて、そろそろ、時間的に2011年を包括するタイミングかもしれません。今年はどんな年だったか?なかなかこんなブログで全てを総括するこは難しいですが、「3.11」を抜きに2012年の日本を語ることはできないでしょう。もし、滋賀県がそのエリアだったら、福井に津波が押し寄せ原電の放射能が漏れてたら今頃こうしてブログで「総括」を書いている状態ではなかっただろう。東北の皆様は仮説住宅や避難先で実際のところどのような年末年始をお過ごしなんだろう。あれからというものの、「日本はひとつ」「頑張ろう東北!」的なノリのイベントや事業に出くわす度にそんな表面的なことでほんとうに東北の皆様は心が和むのか?そんな他人行儀なことで、こっちとあっちみたいな線を引き、「ひとつ」って言いながら、どこまで心で歩みよっているのか?と思ってしまうこともしばしば。しかし、自分自身が被災地に出向き支援活動をしたわけでもなし、巨額の支援金を提供したわけでもないので、実際は何もできていないがリアルなのです。だから、いくら「絆」は大切ってことでも物理的に何を持って「絆」とするのかは結局ふわふわしてしまうわわけで、現実は支援のお手伝いにも出向けない。ただただ、遠い琵琶湖の湖畔からこうして「頑張ってください。」と思い綴ることしかできない。

 また、原子力発電所や日本の政府の不透明さを綴る新聞記事やテレビ番組を観るが、まぁ、本当の悪人はいつの時代にもどんな組織にもいるでしょうが、それを煽るだけのメディアと同じ視点で同調・同期するのか反目するのかの違いで、本当にこの「3.11」をリアルな出来事として捉えているかという軸があるように思います。で、言うと、それを記事にして、それをテレビ番組にして何がどうなる?と思ってしまう。戦争の悲劇、激動の明治維新、戦国時代のリアル、どれもこれも、終わったこと。無理苦理、古いアルバムを引き出してきて、自分の消化不良度合いをそのアルバムにぶつけてもそれは何のため?もっと建設的に生産的な時間を送らないと、日本は世界は結構ギリギリの状態だと思うのです。古いアルバムはもう閉じて、新しい白い紙に自分達の手で新しい絵を描いていこう!みたいなノリがテンションがモチベーションがより大切な一年だったように感じました。

 で、2012年もよりサバイバルな時代になるでしょう。ダーウィンは言っています。サバイバルで生き残る者は「強い者」でも、「賢い者」でもない、「変化する者」だと。イグアナの爪が伸びたのも、海中の餌を捕獲できるようになったのも変化。今いる場所が危険ならば動くべき。今立っている場所が自分に合わないのなら移動するべき。今考えているパターンで答が出ないのならば結果が出ないのであれば、そのパターンを捨て新しいパターンにトライするべきだと思います。古い機能しない知識や知恵や技術に固執して時間を浪費するぐらいなら「変容」を受け入れて絶対に生き残りたいですね。というか、ちょっと伸びた爪をサボテンの幹にぐっさり差し込んで息絶える感じ。俺の進化はここまでだったが、皆さんはこれを見て、サボテンに登って生き残ってくださいね的な一匹目のドラゴン(イグアナ)になりたいかな。

FRINGEの3人。

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 2012年もいろいろDVDを観たが「フリンジ・セカンドシーズン」は秀逸でした。まぁ、テレビドラマとか日本の映画がアホアホ過ぎるからここが光るのでしょうが、それにしても、練り込まれている作品でした。気が付けばサードシーズンからすでにフォースシーズンに突入しているらしい。ちょっと漬け過ぎたセカンドシーズンだっただけに一気に全11巻は見ごたえがありました。

 結局、この3人が物語の中心なのだが、もし、仮にこのテイの物語を日本でリメイクしようとしたら(かなり年末なので緩い仮説ですが・・・)って考えても、この3名に値する俳優・女優は浮かばない。浮かばない上にこの物語の設定をやればやるほどボロボロになるでしょう。つまり、俳優・女優がこれほど魅力的なのは、製作母体がそれ相当だってこと。子タレや漫画のドラマ化やつまらない設定が視聴率を集めているわけだから、結果、「フリンジ」のような物語が創れなくなるのでしょうね。だって、この時代、莫大なコストをかけてそれを観て楽しむ人(ユーザー)が想定・設定できなければそんな作品は創りません。つまり、最悪の負のループがグルグル回っているのでしょうね。

EDIUS6というツール。

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 映像編集はアドビのソフトでいいかなと思っていたら、いろいろリサーチする中でこういうエンジンを発見した。エンジンっつーか、結局編集ソフトウエアなんですが、それはそれで、やはり専用の臭いがする。よくよく読んでみると、確かにアドビのソフトでできる部分とこの「EDIUS6」は根本的に違う。なんというか、アドビは「映像データ」を料理するための鍋やプライパンであり、「EDIUS6」は映像を調理するためのレンジとかガスコンロみたいな。料理するのは人なんだけど、鍋やフライパンがあっても薪の火や簡易的なコンロではちょっと・・・。で、料理は鍋やフライパンなどのツールも大切なんだけど、やっぱ、調理環境が大切みたいなことかなと。ちょっと高価なソフトなので購入前にリサーチということで購入した書籍です。まぁ、映像編集は新しい分野でもないのですが、ひとつひとつこうして最新の機能やノウハウを知ることで、逆に世の中の映像編集のリアルを知ることができる。知識として知れば次の段階として使いたくなるか否かが判断できるし、その段階での判断が大切。情報が知識になり知恵になり技術になるプロセスを反復しながら、次の判断力が鍛えられるわけで、そのプロセスでしか、リアルな判断力も創造力も養えないが正解。動きながら考えて、考えながら創るということを2012年も地道に展開していこうと思っております。ハズレも多いがハズレだと思っていたことが、実は裏にアタリって書いてるってこともよくあること。このサプライズ感はどれだけハズレを引いたかで確率が変わるし、逆にこれは完全にハズレだろうっていう場合でも引くことで次のアタリを引き寄せることになる場合もある。つまり、ハズレとアタリは表裏一体みたいなことも起こるからこのプロセルは止められません。って、ちょっとハズレジャンキーなコメントでした。失敗は成功の元、それが失敗か成功など自分自信のさじ加減ひとつだということで。失敗するなら豪快に!何事も「七転矢追」っていいますしね。これに喰いつける人かなり少なし。※矢追さんまだ釣りに行っておられるのかな・・・。

ゴールデンバットな気分。

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 2011年、輪をかけて喫煙者の肩身が狭くなっている。実際にテレビや書籍でも「禁煙モード」を書店で見かけたりテレビのネタになっているが、禁煙したいならそっと一人で禁煙すればいいじゃん!どんだけ「私は禁煙しています感」を誇示したいのか。って、自分も何かのタイミングで「禁煙します!」みたいなことになったら「禁煙3ヶ月目」を自慢するのかもしれないが、逆にそういう世の中の空気ってどうよ!?人間、そういうテイに弱いから意味のないこだわりなのでしょうが、身体が健康なうちは禁煙は絶対にしない。

NXCAM用の三脚到着!

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 やっと、10月にオンラインで注文していた三脚が到着。これで、どこでも気軽に撮影に行けます。まだまだ、このカメラは手に馴染むまでには至っていませんが、いろいろな条件でいろいろなモチーフを撮影なしがら、2012年はツールとして使いこなしていきたいといろいろ構想しています。いずれは大きな大作を完成させたいのですが、自分自身でなんでもやりたい人なのでまずは道具から。一人ができることって限界はやはりあるだろし、その限界の壁に何度となく打ちのめされてきたにも関わらず、なんでしょう、諦めないこの無謀な感じ。目標設定が身の丈にマッチしない無謀な高すぎる山だとしても、登れるところまでは実際踏み込んでみてダイブしてみてそこで自分の無謀さを痛感しながら変化していければと考えております。2012年はさらにそんな「無謀さ」に磨きをかけて守りに入らずに攻めていきたいと考えております。このカメラさえあれば、映像作品は元より「リアルインターネット放送」も相当の画質で送信できるはず。「映像コンテンツ」ってなかなか難しいノウハウやTIPSがあるようですが、まぁ、いつものように深く考えず創りたいモノを創りたいとメラメラしています。結果、それが、ビジネスモデルになればそれはそれでいいかなと。

穏やかな琵琶湖でした。

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 風は冷たかったですが、雲の切れ間から温かい太陽の光が琵琶湖に降り注ぐ感じ。年末の慌ただしい中、ちょっと、湖畔に降りて撮影していました。

ストレスの本質。

 原題「オプティミズム」という書籍がある。著者はフランチェスコ・アルベローニという人。その書籍に下記のような文脈がある。「人生はその本質において、その構造において、企画であり冒険である。ひたすら待ち、期待するほかない不確かなときが常にある。何千年このかた、民衆と文明の運命は、戦争に、しばしばたった一度の戦闘にゆだねられてきた。戦い争う双方ともが、資源、組織、勇気、象徴、歌、伝統の力をたったの1点に集中し、蓄えてきた。翌晩には、どちらかいっぽうが打ち破られ、永久に粉砕される運命である。我々もまた、個人の場合と同じように、どんなことをしようとも、この生存の法則を免れることはできない。私は学校から試験を排除しようとする教育学者たちを理解することができない。試験は教育の不可欠な一部である。このストレスを子どもたちから除いてやりたいとする親たちが、私にはわからない。生きるとは、予測し、算定し、ストレスを抑制することである。」と。正に。

 現代の抱えている「ストレスの本質」をこの文脈はしっかりと分解させる力があるように捉えた。結局、ストレスがいいか悪いか?って段階で、軸足がぶれているということ。すべては想定外であるという大前提のモト、思考や行動や論理は展開されているはずなのに、それを、テンプレート化しようとするのが文化や数多の学問であるという仮説とこの文脈はキレイに見事に均整化されている。振幅のある思考にマイルストーンを積み重ねることでしか軌跡は残らないのに、ビジョンなどという言葉を乱用しレールの上にすべてを積載することで「最も大きな失敗」を回避したいと考えているのだろう。さて、では、「最も大きな失敗」と「ストレスの本質」との相関関係では、予測する、算定するという思考・行為は具体的に何だろう?「子ども達に夢のある未来を!」などと言葉にする人、どこまでポテンシャルを含有しているのだろう?言葉にした段階でそれ相当の責任が発生することに対しては問題視せずに、都合のいいのびしろだけを期待している場合が多くないだろうか?それは、情報の本質に深くリンクしていると思う。

 で、言葉にすることが多面的ならばどういう形で具現化すればいいのか?その有効な手法として非言語的表現・アプローチが最適だと感じる。「色と形」「香り」「音や声」「触感」「味覚」これら五感からの非言語情報をアウトプットする際に言語化することで純粋な成分にノイズが混じる感覚。純粋なまま伝えたいなら文章化・論化する方法は適正ではないという仮説。これは永遠のテーマでしょうね。

 ガラパゴスのイグアナの爪が長くなったり泳げるようになった理由は生命維持なわけですからね。言わば、この地球全体がガラパゴスだっつーことで。

スティーブ・ジョブズとアップルのDNA

 『スティーブ・ジョブズとアップルのDNA』~Think different.なぜ彼らは成功したのか?~という書籍が出たらしい。「テクノロジーライターであり、私設アップルエバンジェリストでもある大谷和利氏による著書です。スティーブ・ジョブズの突然の訃報から3カ月が経とうとしていますが、未だに世界に影響を与えた革新者への追悼&賞賛は止みません。常識に"No"と言い続けた不世出の天才ジョブズと、時価総額"No.1"にまで登りつめたアップル。なぜ彼らは成功したのでしょうか? 本書はその核心(DNA)を、日本でもっともアップルを知り尽くす大谷氏が40の視点から解き明かします。副題の「Think different.」とは、アップルに復帰したジョブズがアップルの基本的価値」と信念を示すために制作した1997年のアップルのコーポレート・スローガンのことです。常識にとらわれず、何かを成し遂げた世界の偉人たちが広告に使われ、今となってはジョブズもその一人として讃えられています。ジョブズやアップルはまさに「Think different.」を地でいくものでしたが、私たちが彼らから学ぶことができるのは「Think different.=人と違う考え方をする」ということではなく、「考えて、考え抜いたとき、世界(常識)が違って見えてくる」ということです。本書を読み、ジョブズの言葉やアップルのビジネス基準を紐解き、私たちの人生や仕事の本質をつかみとってほしいと思います。」という紹介文のメルマガが到着した。

 確かに「Think different.」は鮮明過ぎる。違う世界が見えるという感覚を否定でも肯定でもなくサラリと実現しているDNAについては本能の部分と体系化された理論の側面があるだろうが、でも、ジョブスはそのシンボルとして長く伝承されていくでしょう。しかし、「人生や仕事の本質」という部分で言うならば、世の中の構造は想定外の連続であり多様な層にさらに多次元のベクトルが実際にガチで存在しているはず。一枚一枚スキャンするには人生は短いし、組織化させるにも時間とコストで非効率のドアを叩くところからが本丸なところでしょう。ひとつひとつを紡ぐにしてもやはり時間は短い。ビジョンだけを立ち上げ高みを投げかけ他界したジョブスが逆に最適なタイミングだったようにさえ思う。虫瞰的に捉えれば手繰寄せるロープからの吟味がリアルなところ。高く舞い上がろうにも意外なところに付着しているウエイトに気が付かず時間を浪費しているヒーローも多いはず。

 アップルのDNAとは?ジョブスの遺産とは?次世代への進化のチケットは?分子活動は今後も加速に加速しながら突き進むだろう。振り落とされぬように・・・ではなく、円盤の一番安定している部分を見つけることがそれに一番近道なのかもしれない。概念で終わることなく、リアルにリアルに叩かれながらパンチを貰いながら前に出ていく気持ちを失わず、みたいなことなのかもしれない。しかし、年齢を重ねるごとにけっこう細かいボディーブローを頂いているし、血も結構流しているはず。最後のラウンドまでリングに立っていたいが、頭と身体と心の老化は止められない。だから、DNAを語りたくなのかもしれない。

 アップルか・・・、1周回って、久々にMACを買ってみようかな・・・。

リズムとスピード感。

 何事にも最適な「リズムとスピード感」がある。それは、会話でも仕事でも趣味でも芸術でも人生観においても。基本的に生物としての人間の感覚や臓器や筋肉は動いている。分子レベル、原子レベルでなら結合と分離を繰り返しているという表現が正しい。睡眠中でさえ、身体は壊れた細胞を復活しているし、傷があれば治癒しているし、疲労している筋肉や神経系があればそれを自己治癒している。言わば、このリズムとスピード感が人間の筐体としての生物の最適なスピードである。しかも、地球の自転に伴う負荷と重力下にある場合の筋肉や骨格の負荷これらは意識しにくいが相当の負荷であるはず。しかし、誕生してこれらに慣れてしまっているから日常生活中に、今日はちょっと重力がきつい・・・とか、月の引力が今日は強いから気分が高まるなぁーということは日常レベルではない。しかし、相当の負荷がかかっていると分析するのが正しい。つまり、地球の上で生命を全うしている以上、これらの条件下で生物は進化してきたと捉え、身体はその負荷に対するベストマッチな(現段階では)仕組みを持って日々の生活が成立している。ということはつまり、1時間が3600秒なのも、1年が365日なこともリズム。しかも時間軸の上でそれらは成立しているからシンクロする最適なスピード感があるはず。しかし、あまり、進化とこられの身体的なリズムやスピード感に書かれた書籍にはあまり出会うことはない。というかそういう意識で書籍をリサーチしていないからに他ならないのだろうが、それでも、まだまだ、リサーチ不足なのだろう。そこを軸足に相対性や相関性をひも解けば、医学も科学も芸術もおそらく、宗教も包括できるだろう。かなりの仮説度であり暴論に近い切り口かもしれないが、そこが一番興味がある。「なぜ、リンゴは赤いのか?」「なぜ、カゲロウは孵化して数日で死ぬのか?」「ミトコンドリアは体内で何を司っているのか?」「なぜ、日本の政治はこうも空洞化したのか?」これらの答もすべて実はリズムとスピード感で捉えれば解決の糸口が見えてくるような気がします。他のモノサシはいろいろありますが、これらも結局どこかで誰かがチマチマと論化したテンプレートに過ぎないから、その場所のちょっと前にあった何かから紐解きましょうってことかもしれない。しかし、人間の意識はそこにフォーカスしにくい特性もある。意義とか意味とか価値で判断する機能が逆にリミッターになるのだろう。セオリーやタブーこそ文化であり、慣習のゴールは突然現れる。

 で、このブログ、書き出しからここまでで14分。これは短いか長いか?

脳の進化とリスク。

 老化に伴い脳の認知機能が失われる症状は人間だけの特性らしい。同じ霊長類でもチンパンジーは長寿でアルツハイマーにかかってもおかしくないのだが、これまでに発症した例は見つかっていないらしい。人間と他の霊長類の脳にどのような違いあるのかという考察。アルツハイマーとは神経細胞が30%から70%死滅し脳が委縮するような現象を指すが、猿やチンパンジーはアルツハイマーまで進展しないのか?それはどうやら人間の進化と深い関連性があるらしい。それは逆に人間のように進化しなかったことで危険性を回避したとも考えられてるらしい。人間は他の霊長類と別の脳の仕組みをそなているのではないかという仮説とは何か?人間とチンパンジーの違いのひとつに血液中の尿酸値が高まり関節炎を起こす痛風がある。猿やチンパンジーは痛風にかからない。尿酸を効率よく分解する酵素を持っているからである。ところが人間は進化する中でこの酵素を無くし、尿酸を残す道を選んだ。尿酸は活性酸素と反応して毒性を弱める作用があるために寿命が延びる。それと引き換えに・・・みたいなことなんだそうです。人間意外の霊長類との比較研究から人らしさを突き止める多くのヒントが得られるのではないだろうかとこの記事は締めている。

 なんと、進化は時に何かを与え何かを奪っているという理論を科学的に捉えるならそれは白か黒。しかし、それは進化のある極わずかな部分だろうし、人間が人間の進化を捉えようとしているアプローチであることから、どこか道義的な作用もあるだろう。猿が人間のことを研究はしないだろうし、人間だから、人間ありきの進化論はさてどこまで進化の真髄にアプローチできているかということ。脳生理学についても、物理的に病理的に脳を解明しようとすると臓器としての脳細胞に研究者の意識が介入してくる。その道のプロではないし、別段どこかから研究予算の投資を受けているわけでもないので、そこに日々のエネルギーをフォーカスできない。恐らくそういう人がほとんどだろうから、結局、進化と時間軸についてあまりリアリティーを成さないが大多数の正論となる。でも、脳は好奇心を失わない。進化が具体的に日々の生活や個体個体の人生観にどのような影響を及ぼしているかを知りたい人は多いはず。そのニーズに答える数多の学術的な研究が大きな流れの中で分離してフラット化してトレンドやメディアやネットの世界に伝導しているはず。それらひとつひとつを精査して論化することは普段の暮らしの中では難しく意義を見つけにくい存在というか明確な意識下に置くことはできない。でも、恐らくこれらのエレメントはファッションの中にも工業の世界にも教育の世界にも宗教の世界にも介在しているだろうし、「進化」を人間という遠心分離機にかけた時、何と何に分離して有用なモノと無用なモノに分かれるような気がします。その段階で何を持ってリスクとするのか、何をもって進化とするのかを落としこまないと、必ず大切なサインを逃すような気がします。脳が示す感情や記憶を文章化・論化することと合わせて、これらのことを時にシリアルにパラレルにとらえながら、またある時流線的に考察する時間も必要だと思います。それが何か?具体的にどうすれば?で、それはどこに向かっている?となるが、そうではなく、今現在の感覚や感情をどこまで細かく分解できるのかみたいな。

 ふと、営業中に車中から見たある企業の看板にこう書かれていた。「「愛」それは心のタテ糸。」と。非常に緩い切り口であり、「ヨコ糸はなんやねん!?」とツッコンでおいたが、もし、これを考えた人の中に「進化」のそれがあり、脳がその信号をこの文脈に完結させる意図があったとしたら、意外と深いアプローチかなとも感じてしまった。恐らく、「ヨコ糸」のことは考えていないだろうが・・・。

 つまり、サインは人それぞれの条件下で異なるということだろう。それを同じしようとしている仕組みは多いが決して人間はそうならない「良さ」と「悪さ」を内在させていると思います。

まずはフレーム完成!

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 まずは、書斎にボルダリングの練習用のオリジナルウォールを設置するためのフレームが完成。まだ少し水平垂直が捻じれているので微調整をして、15mm厚のべニアを4枚買ってきてこのフレームに設置してからのボルダーの設置となる想定です。懸垂程度ではびくともしないこのフレーム、うんうん、最強です。高さは3mなり。この上に斜めに新しいパイプを通して角度のあるウォールも想定しています。これでこの冬はガチで練習して春には例の15mのウォールにリベンジ!

このケーキ絶品でした。

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 このケーキ絶品でした。ケーキが創れるってどんな感覚なんだろう・・・。「美味しい」を創れるって未知の領域です。まぁ、そんな人間はただただ美味しいモノを美味しいと食べていればいいポジションが正解。美味しいケーキを創ろうなどとこの人生で考えたことのない人間が美味しいケーキを頂くように、自分の資質が何なのか自分のポジションはどこで何をするのかが分かっていればいいかなと。そんなことを考えながら美味しく頂けた今年のクリスマスケーキでした。奥様、ありがとうございました!流石の流石です。またまた、誕生日ケーキ関係などもぜひお願いします!

人生は無意味ってことで。

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 デンマークの女性作家のフィクションの翻訳本です。人生が「無意味」か否か!?大きなテーマですが、まぁ、そこはさらりと右から左へ流し、何か芯が見えればいいかな・・・と。

十三にて。

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 なかなか素敵な風景でした。十三にて。

お仕事で淀川区へ。

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 昨日はお仕事で淀川区へ。阪急の十三駅から徒歩にて約25分。バス停の距離にしてほぼ3駅分でしたが、別段、歩いてちょうどいい距離でした。富士山登山の副産物は体調的にも気持ち的にもかなり大きい。歩くといろいろなモノが見える。歩くといろいろなことが考えられる。仕事も人生も何事も歩きながらが一番健全な状態なのかも。いつまでも歩ける身体でありたいものですね。足が健康な人は頭も健康な人って何かの本で読んだがその通り。

なかなか快適、スパイク君。

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 スパイクはことのほか満足している。対抗馬はトヨタのラクティスだったが、スパイクにして正解だったと思っています。やはり営業車なので、大型や長い車はダメ。小回りが利く感じが良かったし、のわりには車内は思った以上に広くたくさんの荷物を積み込むことができるし、ファンカーゴよりも20cmほど長いだけに安定している。結果、4DWにしなかったが何の問題もない。現在、雪が降ってはいるが、4本ともタイヤは雪用なので安心。トヨタからホンダに変えたこともなんとなく時代の流れだったのかなと納得しています。いやいや、いいですねスパイク君。

 って、自動車なんて走ればいいと思っている人間が新しい愛車の特徴を分析したところであまりリアリティーはない。結果、なんでしょう、「スパイク」という名前が一番気に入ってる程度かも・・・。

素敵なオフィス@京都四条。

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 快適な場所に素敵なデザインのオフィス。場所にはエネルギーがあると人間は考えている。様々な条件や求めているモノがそこにあるからだと。しかし、それは真逆で、その場所をチョイスしている人間が最も素敵なのである。人が生活をするための条件とはそもそも自然環境から生命を守ることや水脈がその根源であったはず。そこから帝国が起こり、文芸が復興し、産業が覚醒し、経済構造が確立した。そして、インターネットで地球は仮想的に安定している。人が考えて創り動く拠点の条件とはさてどのような条件が必要なのか?あらゆる分野のお客様からいろいろな案件を投げて頂き、そのひとつひとつを自分自身の仕事として捉える時、まず、座標や属性を規定するために収集する重要な条件のひとつは「場所」であり「空間」である。そこに行けば何か感じる?的なパワスポのテイはあまり興味がない。あとづけの結果all rightだから。過去の何かで今を規定する安定感に魅力はない。大切なのは今現在何を感じられるかであり、それを積み重ねることを怠り、終わった事に固執することは建設的ではないと考えている。だから、その場所で自分自身が何を感じて何を考えてどう動くかが全て。ここに軸足を置いておかなにと、軸をぶれさせる要素で現代は溢れている。

 で、そういう意味で、この場所はなんとも素敵な印象でしたね。京都の四条でした。

すべらないパターン。

 昨晩の「すべらない話」は第10回目ということでメンバーがそろそろ固まってきた感じがある。常連さんから初登場の方も含めて、この場所に来て自分の話術を披露できる人は芸能界広しと言えどかなり限定されているような気がしてきました。そして、すべらない話に対するオーディエンスの構え方もレベルが上がっているというか、すでにこのお話が皆様から発信される前に相当、温まっている感じ。つまり期待度とこなれた感じが次のレベルになっているような。これを恐らく松本さんはイメージしていたのだろう。このテイの話術というか観察眼がなければ芸能人として物足りないですよ、テレビで芸能人としてのポテンシャルを示すならばこのレベルの才能と日々の努力が必要ですよと言っているような流れ。テレビの世界もメディアの世界も政治・経済の世界も同じ。作用と反作用だから、いくら高い次元の高尚な作品(コンテンツ)を世の中に送り出そうとしても、もしくは、根本的な理想のビジョンを政治家や思想家が世の中に認知させようと構想しても、それを受けるサイドの層が未熟だと本末転倒な「空回り」になる。しかし、それが成功・実現すれば、その下位のレベルの層は必然的に淘汰される。撹拌したいなら、センスと技術と知識を磨けよ!と松本さんはほのめかしているのだろう。それを「すべらない」というひとつのモノサシでバブリックに展開したのがこの「すべらない話」の仕組み。

 あの席でテーブルを囲みダイスの転がりを見つめながら、「自分の名前が出ろ!」と願うのか、着飾り適当なコメントで尺を繋ぐ一芸能人で終わるのか・・・、松本さんも分かりやすい仕組みを創ったもである。流石としか言いようがない。ある意味、彼らはグラディエイターなのかもしれない。

 に、比べてこの年末の特番音楽番組に登場するタレントのリストは何だ?アーティストの密度が低い。出ているのはいわゆるニギヤカシ面子ばかり。たぶん、単価が安いんだろう。ジャニーズか秋元組か韓国系かエグザ系みたいな・・・。どれも、当然「歌」ではあるが、ハリボテの付け焼き刃もはななはだしい。が、それが現在のテレビの背景だろうから、リアルの部分として仕方なし。しかし、モノホンのアーティストはこれらのハリボテ達と一緒に「音楽番組」のテイで登場することを根底から嫌っているんだろうなとさえ思ってしまう。あの人達といっしょにすべりたくないのだろう・・・。

 で、トータル的に「すべらないパターン」はどうすればいいのかが、2012年の大きな日本のテーマになるだろうなと思いながら、さっさとその音楽らしき番組を消して、「フリンジ・セカンドステージ」の最終巻(11巻)を観ました。こんなテレビドラマが流れる国ってそれを待っている人のレベルも高いんだろうなぁって感じです。さて、正月休みは「フリンジ・サードシーズン」へダイブ!

雪。

 本格的に本日から日本は冬型になり、いよいよ年も押し迫った感じ。さてさて、2012年はどうだったのだろうか?3.11から日本は変わったのか?世界は今ガチでどうなっているのか?情報は氾濫している飽和している交錯していると言われているが本当にどこまでどうなのか?何をもってコミュニケーションとするのか?今年のひと文字は「絆」ですが、誰がどのテイで厳選したのか知らないがまぁそれも大きな流れだから「絆」なんだろうし、改めて今年はいろいろな意味で「絆」にフォーカスする一年だったのかもしれない。

 そこを大前提にモノゴト万象への考察を展開するといくつかのキーワードがあったような気がする。これも今思いついたレベルのことなので、年末までにこれらを整理して思うところを書き降ろしたいものです。結局結論、インターネットはビジネスを人類をどこへ連れて行ってくれるのか?という質問に対してどれだけの答をどの程度のディテールで用意しているかいないかで一つの指標が見えてくる。5年前10年前にそれで飯を食っていた人がパートタイムな日々を送っていることや、就職活動や結婚活動などに翻弄されている人のそれは想定以上に長期戦のように感じる。頭でスマートに考えれば、いろいろ適正な答は出てくるだろうが、それは言わば「答のための答」。真理・真実とは遠い。それを感じながら日々の暮らしを維持していることが無意識下か意識下かは十人十色としても、消化不良な仮想現実に孤立することでよりインターネットに逃げ込みやすくなってしまっているとしたら、それは悲劇。

 今日は朝から雪が降っている。この4日間はどうも雪模様らしい。ある人が見ればそれは放射能の結晶だろうし、ある人が見れば飯のタネだろう。しかし、まぁ、雪は雪、人は人。お互いの相関性と距離感を維持しながら、冷静にモノゴトを捉えるための調律として、その落ちてくる様を眺めてみることで自分自身が見えてくるかも。

 ようやく、「フリンジ セカンドシーズン」の11巻目まで来た。ファーストシーズンから怒涛のような物語は一旦ファーストシーズンで完結して、これがセカンドシーズン。それがあと1巻で終わる。仮説として「向こうの世界とこちらの世界」に存在する二人の自分がそれぞの人生をどう紡ぎますか?的なアプローチをアインシュタインの目でダビンチの心で描いている。恐らく国内ではさほどレンタル数は伸びていないはず。すでに、「サードシーズン」が出ているので、この正月休みはサードシーズンへのダイブが楽しみ。

 しかし、映画の世界でこの年末は「ゴーストプロトコル」か?「リアルステール」か?というテイに、日本の映画は「山本五十六」って!?なんじゃそりゃ!「山本五十六」には悪いがそこに何があるのだろう?何かあるのだろうが、これはまずもって観る人がいると想定してい創っているということが不思議。やっぱり、歴史の歴史としての認識は時代を越えて老若男女興味があるということなのかもしれない。自分自身その魅力について微塵も感じられないってことは日本人として問題ありなのかもしれない。このDNAはどこから来ているのだろうか?が少し心配。

ズルい仕事術とな・・・。

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 勝間さんの新しい書籍である。そのタイトルは「ズルい仕事術」ときた。いいラインを出してくるなぁーという感じですね。まさにという部分とへぇーという部分がなんともズルい(ウマイ!)。「この本は、限られた時間と能力から最大限の付加価値を社会にもたらしたいと考える人のためのものです。「まじめ」な人は、なぜかそれを「ズルい」といいます。」と括っている。うんうん、ここが恐らく一番リアルで先っちょの切り口になるでしょうね。これは早速書店でチェックでしょう。

 なにをどう言われようが「ズル賢い」は論理的に「賢い」でいいだろうし、「まじめな人」って勝間さんがどこだと言っているかは未確認としても、まぁ、特筆するような芯は喰っていないだろうから、「そこそこ」レベルを指して「まじめ」としているはず。ああだのこうだの言う前に自分は「まじめ」だと思っている人がこの書籍を読んでどうなるか?私自身はどこをどう切り取っても「ズルい」属性だろうから、「まじめな人」は実は苦手。でも、私が苦手な人も恐らく「クソまじめな奴!」とか逆に「能天気な奴!」と賛否両論だろうから、つかみどころ感のある人よりも、いつまでも何歳になっても「あいつは一体何者?」感を漂わせていただいとは思っています。これが結果ズルいのかもしれない。

 で、そのあたりをこの書籍でチェックしたいかなと・・・。

グレイトフル・デッドというバンド。

 オバマ大統領もスティーブ・ジョブスもこのバンドから学んでいた!ということだが、いったい?その仕組みはというと、ライブは録音OK、音楽は無料で聴き放題。それなのに年間5000万ドルも稼ぐ。40年前から「フリー」も「シェア」も実践している。ビートルズよりもストーンズよりも儲けてしまったヒッピーバンドの秘密!となっている。これだけを読んで、さぁ、どう判断する。恐らくこの情報、芯を喰っているだろうが、バンドとしてのそれは普通な印象がある。仕組みだけが受け入れられて結果稼いでいるような。でも、5000万ドルは素晴らしいじゃん!時代のニーズ的な部分を先行させていたのか、その部分が狙ってか結果all rightなのか、たぶん、非常に複合的だろうと推察するが、結果、そうなるにはこのバンドの音楽に対する捉え方や個性的な部分が核にあり、既存の仕組みで自分達の表現が波及することに疑問を感じた何か「ひっかかり」があったはず。それを見逃さなかったのだろう。かなり気になる一冊ですね。

 最近、JAZZについて考えることが多く、どうも、「JAZZとは何か?」を頭で考え過ぎている帰来がある。これではまったくJAZZに一歩も歩み寄ることはできないと知っていても、何もすることができないがリアル。何かする必要があるのかとも開き直るが、そりゃ、向こうからJAZZはやってこないから、こちらが動く必要がある。でも、JAZZって何だろう?何をどうすれば、JAZZが体感できるのだろう。本格的な上質なライブに足を運び、五感でJAZZを感じることが唯一の近道のように思えるが、そんなことはできない。そんな時間があれば仕事をしたい。つまり、こういう人間にJAZZは降りてこないってことかな?ということは、JAZZが降臨してきた人って逆にどういう人なのか?「僕はJAZZを長く聴いて、レコードもたくさんあるんです。東京ではあれもこれもいろいろなライブを観ましたね。」という人は、JAZZな人なのか?十数年前からライブハウスに入り浸り酒とタバコとJAZZな生活をしていたから、JAZZな人なのか?いやいや、それはちょっと違うでしょう。私は、JAZZを語れる人っていう条件は、何か楽器ができて、なんでもいいからJAZZのナンバーを演奏できる人だと思う。プレイヤーしかJAZZを語れないような気がする。つまり、いくら収集してもライブに足を運んでもたくさんのスタンダードなナンバーを聴いてきたとしても、それは、そっち側の人。JAZZを共有するには、JAZZにダイブしなければ始まらないような気がするのです。そこらか全ては始まるような気がします。

 絵を描かない人が絵を語るようなことにならぬよう、ならぬよう。恐らくJAZZはそこにあるはず。

このペア、最強!

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 最近、よく思うことがある。それは、奥様が素敵なお店・会社・組織は元気がよく魅力的だという法則。まぁ、ウチ(アクト)のことはさて置いて、奥様がテキパキと仕事の流れやお客様の流れを見ながら仕事が回っているところは軸がぶれていないし、フワフワとしていない。逆にのペアが緩いとけっこう脆いことになるような気がする上に、その会社の商品やサービスの本質、業務体系の本質までも緩くなっていくような気がする。結局、仕事上、商品やサービスを創るのは人。それをトップが組織化して効率化することが会社やお店の本来のスタイル。そこに、雇われ社長や「俺はワンマンだ!」みたいな古い小さいぶれているトップの会社って結果、時代的に愚鈍さを感じてしまう。バランスがいいと言ういうことは恐らく企業やお店の顔であるトップの方とその一番近くにいる相棒(奥様)との関係性に全て起因しているように思う。

 イマドキ奥様は専業主婦で仕事のことは主人まかせっていうテイは明らかにポテンシャルが低くのびしろに問題あり。女性の仕事観などについても、この時代はとやかくいろいろ言われているが、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきなんてこと言っている段階でもうナンセンス。ペアに出会っていない人はやはり、最後の最後で弱い。結果弱いとなるのか、弱いから結果ペア不在なのか。仮に存在感はあってもお互いの存在感に呼応している感じがなければそれはひとりと同じ。さて、今、あなたに最強のペアはいますか?もしかしたら一人でなんでもできるなどと勘違いをしていませんか?漫才も一人ではできません。タレントもマネージャーがいますし、有名な芸術家・音楽家にも裏に必ずそれをマネージメントする敏腕がいます。そして、メディアの世界も、実は、最終決定権を持っているPは常に組織にはツインらしい。何か事を成す時、人間はひとりでは微力だということ。最強のペアを見つけてこそ事が成せるということ。これは、脳科学的にも心理学の世界でもペアニューロンの存在が実証されている。人間の細胞はペアに対して最強のレスポンスを発揮する構造らしい。

 まぁ、そこまで話を広げなくてもいいかもしれないが、とにかく、このペアも最強である。

オリジナルパン登場!

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 ちゃんと何が練り込んであるか、その素材は季節的にどうで、どのような味になるのを想定して創って、実際完成したらそのマッチングがどうだった。まで、ガチで説明していただいたのに、その素材名称さえもう覚えていない。また、福本さんの公式ブログでそのあたりはチェックしていただきたいのですが、それにしても、なんだこのパン。初めての味にこの食感は!世に言うグルメレポーターだったら何と表現するのだろう???と食べながら考えていたがそのことももう忘れてしまった。ただ、このパンを食べながら頭の中で連呼されていたのは「春日のウマシ!」というフレーズだった。ガチで美味し!

イタリア食堂FUKUMOTO WEBサイト http://www.fukumoto77.com/

パスタ@I.S.FUKUMOTO

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 で、これが福本さんのパスタ。バーやカフェやカラオケスタジオ、料理を出すビジネスは腐るほどあるが、レンジでチンではこの時代、子どもも騙せません。創れないなら出すなぐらいの時代。しかし、これは、すぐそこで創られたミラクルでありリアル。食べていることまでがミラクルになるお味だから、次も欲しくなるが正解。物流で流れてくるどこにでもある料理(既成品)につまらない時間を過ごすくらいなら、このような店で過ごすべし。胃袋は正直です。

イタリア食堂FUKUMOTO WEBサイト http://www.fukumoto77.com/

イタリア食堂FUKUTOMO解禁!

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 お店のコンセプトを拝聴したのが夏頃でした。そこから、オーナーである福本さんにいろいろ核の部分をお聞きしてお店はオープン。看板やWEBサイト関係をやらせていただきながら、さて、いつ?いつ福本さんのお料理を頂こうか・・・、いつでもいいと言えばいいのですが、ここまで半年以上お世話になって、ブラリとランチでサクサクっと、という訳にはいかない。美味しいのは頭で充分に分かっているが、フォーカスしたいのはその先にある「フクモトテイスト」。それがこれか・・・と。うーん、私はグルメではないし、料理に対して大それた蘊蓄もこだわりもない人間。頭で考えず味覚が反応するって感じはここ最近、あまりなかった。それがこの前菜で背負い投げ一本!この味、芯を喰う感じ、表現の向こう側にあるこの感覚は「美味しい」という言葉だけではとても表現できない。

 決してグルメではない人間が、このお料理に対して言える感想は「とにかく、一回、福本さんの料理を食べて欲しい!」ということ。そこにしかない料理とはそこでそのタイミングでしか存在しない料理の運命のようなもの。それは、料理人がその場所にいてこだわりとセンスと熱意で創った料理であり、それを食べるというイチゴイチエイにこそ本当の「美味しい」の本質があるような気がする。

 大袈裟!?いやいや、これを食べていただければ、この表現がチープに感じられること間違いなし。腕のある料理人の料理のチカラはこれほど凄まじいのか・・・と。ぜひ一度どうぞ。

イタリア食堂FUKUMOTO WEBサイト http://www.fukumoto77.com/

プロは・・・。

 「プロフェッショナルサラリーマン」という方の書籍のお話。22歳で一部上場の会社に入社。30歳でリストラ候補になって、33歳で社内で新しい部門を起業する。39歳で年商14億のビジネスに育てて、40才で上級顧問に就任したという経歴の方が言うには、「プロは仕事をつくって・回して・稼ぐ」ということらしい。これが私の仕事術だ!みたいなことが書いてある。ふーん、これで書籍として完結するんだ・・・みたいな印象ですね。実際、その細かいディテールを読み解きひも解けばそのリアルは流石級なのかもしれないが、ここまでの情報を判断するにそれらは「あたりまえ」のこと。改めて!?みたいな温故知新!?古きを訪ねて!?ならばチェックもしないのですが、唯一、この書籍の広告文の中にある言葉が気になった。それは「プロは群れることに不安を、孤独に安心を求める。」というフレーズ。結局、上級顧問という存在が何者か私は知る由もないが、企業の中で孤独とは???の部分を、さて置き、群れることと孤独の相関関係が「プロ」であることとどのように連動しているのだろうか?という好奇心が湧いた。

 で、大した「群れ」でも、大した「孤独」でもない可能性がむんむんなので、この書籍は買わないが、書店で見かけたらちょっとチラミしてみようと思っている。っても、たぶん、書店で見かけても覚えていないだろうから、こうしてブログに記述して自分の頭に入れようと思っております。

 最近、ブログはメモになっている。誰が読んで誰がアクセスしてくれてを全然意識しなくなってきた。これが悪い傾向なのかいい傾向なのかは神のみぞ知るでいいと思っている。だから、ブログはこれでいいかなと。しかし、どうせブログのプロならもっと孤独感を漂わせて孤高に・・・などとも考えてしまいますね。つまり、最近のマスメディアやインターネット内の情報とは書き手との共有性ではなく、孤独性にあり・・・なのかなと。っても、全てを網羅もできないので、「メモ」のテイでいいかなと思っています。

 あの、ウィキでさえ、公的な資料にはならない。結構、荒い情報らしいですしね。ってことは、GもYもさほどなんでしょう。つまり、誰でも公開できる情報にあまり質量を求めちゃダメってこと。資料づくりは自分の体温を使いましょうってことでしょうね。それが結局、プロの価値かなと思います。最後の最後で。

SOCIAL QUOTIENTか。

 「かかわり」の知能指数を「SOCIAL QUOTIENT」と言うらしい。いわゆる、「IQ」から「EQ」からの、「SQ」ということ。「なぜ、若者たちはお金より人の役に立つ仕事を望むのか?」「なぜ、女性たちは高級外車よりエコカーをカッコイイと思うのか?」「なぜ、父親たちは郊外のマイホームより職場の近くに住むことを望むのか?」などなど、ちょっと気なるキーワード・フレーズがある。そういう時代なんだろうと、そこを軸足に考えを広げるといろいろなリアルが見えてくるような気がします。

 例えば・・・、なにかにつけ「SOCIAL」は今後のキーワードだろうと思うが、そもそも?というニュアンスもある。日本語にすると「かかわり」となり2011年のひと文字!っていうことで「絆」みたいな便利な言葉があるが、「絆」と「かかわり」というニュアンスは深いはず。親子の、社会の、日本の、みたいなことでこれらのニュアンスが3.11後よりリアルになっている。それはそうであり時勢の潮流的にも、スタンダードに人間の社会性や経済の仕組みを分析してもそこに「絆」は必要だろうということになる。しかし、ここでも、そもそも、では、「かかわり」とか「絆」にわざわざフォーカスせざるを得ない状況だということ自体が問題視されるのかな?そこを特筆するようなことって逆に・・・とならないかと思うのです。

 なにごとも「作用と反作用」なんだから、SQ値が高い人が社会的に求められていますということで、その高さの基準値をどこに設定して、どうならどうで、どうならどうなの?といういわば、水掛け論に陥るような気がしなくもない。そこに一緒にフォーカスしましょうよ!こんな時代ですから絆は大切。人と人のかかわりが希薄になった希薄になったと煽っておけば、絆がビジネスになり、かかわりが利益になる仕組みを創りたい、これが、最終目的だとしたら、そもそも、かかわりのあった人に対してもあらためてあなたとの「かかわり」を・・・とか、あなたとの「絆」を改めて鑑みますところ・・・みたいな、ギクシャクな感じにならないかな?もう、「かかわり」も「絆」もありきの大前提でナチュラルに力まずに考える自然体な人間になるための(というか自然体であることを)無意識と意識の中間のような場所を共有しましょう!でいいのではないだろうか。

 猫も杓子も右向け右がどうも、どうも、メンドクサイ。

 って、やっぱ、一番大切なのは基本的に今も昔も「IQ」でしょうみたいな。

これいいなぁ。

なかなか、いい感じですね。こんなタッチのコンテンツがあるサイトを早く創らねばだ。

演繹・帰納・因果関係。

 古代ギリシャの哲学者・アリストテレスによって体系化されていると言われているのでまぁ硬いネタですね(ネタ!?)。

 演繹とは前提1「ナイフで人を切るのは犯罪だ。」、前提2「彼は毎日のようにナイフで人を切っている。」、結論「よって、彼は犯罪者である。」しかし、彼の職業は外科医みたいな。

 帰納とは「アホ犬01がカラスに馬鹿にされている。」「アホ犬02がカラスに馬鹿にされている。」「アホ犬03がカラスに馬鹿にされている。」「よって、犬はカラスに馬鹿にされるものだと言える。」みたない。でも、アホ犬は馬鹿にされているとは決して思っていないみたいな。

 で、因果関係とは「英語ができる人ほど年収が高くなる。」という関係性をどう分解しますか?ということになる。上記の三大推論を踏襲すると「英語ができる人は年収が高い。」となるが、「年収が低い英語ができる人」はどうする?「英語ができないが年収が高い人」はどうなる。を比較検討して結論に導く推論方法のことなんでしょうね。

 では、「マスメディアやインターネットの情報を鵜呑みにしない。」という行為に対する、推論はどうなるのでしょう?うーん、ちょっと怖くてそんなことをブログが炎上しそうで書けない書けない。日本人のコミュニケーションは尾を引くからねぇ。傷つきやすい国民、100個の失敗よりも1個の成功を求める美学、しかし、横断歩道はみんなで手をついで渡りましょうタイプが織りなす摩訶不思議な人間模様はある意味、「平和」そのものでいいじゃん!たぶん、インターネットが世界の隅々までに普及して、今、こうして、日本人が日々綴っているブログとか読んだら「あら!まぁ、なんて幼稚で純粋で素敵な大人達でしょう!放射能ボケですか!?」とリツートされるんだろうな。

 3大推論「演繹」「帰納」「因果関係」でいろいろ切り込むと、意外とぞぞっとしますね。

JAZZの本体。

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 軽率にもJAZZで何かを包括しようとはしていないだろうか?便利な語感を利用して「JAZZって言っておけば、カッコいいじゃん!」とか「JAZZが好きって言っておけばとりあえず本物感が漂うから・・・」とか。そう考える人は多いはず。では、「私のJAZZ好きなその程度ではないです。自分でもプレイするし、海外のアーティストともセッションをしたJAZZプレイヤーの仲間が一杯いるんですよ。」っていう人はホントにJAZZを語る価値のある本物の人?いやいやモノゴトはそんなに単純ではないだろう。仮に仮に、ヨウスケヤマシタならなんと言うだろう。どう言葉にするだろう。絶対に言わないだろうなそんなこと。ナベサダさんが「僕がJAZZだから僕の言葉が僕のプレイがJAZZそのものなんだ!」などとは絶対に口にしないだろう。そこまでのトップレベルの人になればなるほど恐らくJAZZに対してとても謙虚であるはず。突き詰めた人、追求し続けている人は絶対に鼓舞はしないし、言葉も少ないはず。それは、何もJAZZに関連する分野のお話ではない。あらゆる分野のプロは多かれ少なかれ言葉は少ない。言葉にしなくとも行動やプレイや作品でそれを示すからである。ならば、「JAZZ」を語るということはどういうことか?分野は異なるが、「街づくり」という言葉があるが、これも同位だろうし、「ビジネス」についても同じだろう。

 何事も「語り過ぎはボロが露呈する」ように思える。ならば、何をどうすればJAZZっぽくなるのか?それは空気というか偏在する価値観のようなモノだから、CDを何枚持っているとか、有名なステージで誰とプレイしたかなんてあまり関係ないことで、まして、自分にとってJAZZがどうなんだとたどたどしい言葉を並べられてもピンともスンとも来ない来ない。だから、音楽は楽しく怖い。聴けば分かるからである。

 同様に「絵」も同じである。よく、若い方の作品を評価しなければいけないような場面に出くわすのですが、私が他人の絵など評価できるわけはなく、感想や印象なら言葉にできるが、評価など自分でするべきこと。それを「私の絵を見てください!」ってキラキラされても・・・。そもそもそういう人は「絵」のことをしっかりと理解していない人。「絵」は宝石ではないし、勲章でもないし、印籠でもない。「絵」は「絵」なんですから、もっと、自分の絵を大切にとしか正確には言えないが正解。

 同様に「JAZZ」もそうなんだろう。ただ、いろいろな人がいていろいろな価値観があるから、蘊蓄が必要になるのだろう。私は間違いなく「JAZZ」のことは分からない。分かろうとするものではないことぐらいは分かっているので、感じようとフォーカスするが、おそらくこのベクトルの瞬間、JAZZの本質は絶対に感じることができないだろう。瞬殺でJAZZの本質が逃げていく瞬間だろう。に対して、いつまでも、自分のJAZZ好きを語る人がいる。ちょっと疲れる。音楽は楽しいはずなのに・・・。適度に無知が一番心地いいような気がするのですが、うーん、JAZZはやっぱちょっとメンドクサイ。しかし、実はここが楽しいのだろうと思えてきた。ここに本丸があるのかもしれないのかなと・・・。

REAL STEEL.

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 男が惚れるとなるとちょっと語感とニュアンスが難しいが、でも、カッコイとはちょっと違う、艶っぽい俳優というか体温があり(全員あるのだが・・・)、どこか憂いがあるってことでは、年齢のこともあるのですが、ヒュー・ジャックマンはストライク。M.デイモンはカッコイイがまだ10年先・・・みたいな感じ。それでそれで、この年末の期待したい1本は「ゴースト・プロトコル」ではなく、この1本だろうな。映画館に行きたいな、でも、年末はそんな時間がない場合多い(ってほぼ毎年このまま年が明けている。)ので、おそらく、DVD待ちだろう。お話的にも温かくどこまでも感動モードになれる一作だと思うので、余計な疑念や無駄な蘊蓄は捨てて素直な心で鑑賞に浸りたい、浸れる一本かなと思っております。

 もうすぐ、「SUPER8」のDVDが出るので、間違いなくDVDを購入してゆったりともう一度鑑賞したいです。年末の唯一の贅沢はDVD鑑賞かなという感じになってきましたね。皆様、年末の感じはいかがでしょう?

淀川の朝。

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 何度来てもこの場所は落ち着く。ゴルフを始めた場所だから落ち着くという理由以上にここが最初のゴルフの入口で良かったと思える。「おっさんのスポーツ」「金持ちの娯楽」「エグゼクティブのステイタス」みたいなくだらない比喩を一括するようなゴルフがある。しかも、リーズナブルなfeeで余計な空気はなし。そこにはただ淀川からの風がいつも吹いてるみたいな・・・。いやいや、気持ちのいい2ラウンドでした。メンバーにも恵まれて一人旅でした。しかし、ラストホールで1オン5パットって!!!

 いやいや、ゴルフは楽しい。ゴルフを楽しくできる健康な身体に感謝感謝感謝。素敵なゴルフ仲間に感謝感謝感謝。そして、241ヤードのpar4。3鉄での180ヤードからの第2打をPWでピンにガツン!結果2パットでPARだったけど、ゴルフはこれこれ。

彦根村の村長さんへ。

 村長様へ。お預かりしたCDは問題なく、3分30秒で私のPCの中へ。明日、必ずこのCDはポストへ。だけど、彦根村の未来はどこへ?みたいな韻でよろしいでしょうか?

 いやいや、いろいろこの国の仕組みは摩訶不思議です。日本人が不思議なのか不思議だから日本なのか?みたいなにわとりと卵論になるかと思いきや、いきなりバブルのお姉さんに切り込むスタンダードなアプローチは彦根村の村民にどう聞こえてくるのかなという感じですね。村民と言えば、東近江村の村民や長浜村の村民もこの12月は勝負でしょうね。伝えると伝わるの大きな違いは「伝わっているか?」なんでしょうし、いいか悪いかの違いは「違い」の価値観。まして、誰かのためなんて頭で考えた段階でそれは「うそ」。非言語がいつまでも美しいのは正確には伝わっていないからでしょうね。

 また、今後とも、よろしくお願いいたします。

グーグルのミラクル。

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 常に平均していい感じのグーグル。力んでいないし、追求していませんってわけでもない。アナログに特化せずにデジタルに固執せず、どこまでもグーグルらしさを追求しているように感じられる。実際はいろいろなところと比較するとニュアンス的に違うとろろはあるだろうが、それでも、「いい感じ」という印象がある。これってやはり、凄いこと。逆にそれの方が凄くて、言っていることとやっていることがねらっていることと逸れているのに「私達はこの業界のオピニオンリーダーです!」ってのはちょっとメンドクサイ。いくらカリスマなトップが牽引していたとしても・・・である。企業とは人だけど、「企業は人です!」って熱意は逆にメンドクサイ。人が集まって企業なのは誰でも分かってるって、だから、そこからが大切なんですね。で、力んでいないのに「らしい」ってなかなかミラクル。

ジュエリーブランドって・・・。

 振り返れば、全く、貴金属系やジュエリー系に縁がない。見事にない。石は好きだが、宝石となると分野が違う。まして、ジュエリーデザイナーさんとの交流などあるはずもなく、ましてまして、その手の何かお仕事などの経験はない。結構いろいろな仕事をやってきたつもりでも、意外とエアポケである。それがもしかしたら何か仕事が発生するかも!?という段階なのですが、こういうことは自然とテンションが上がる。上がるというか好奇心が全開になる。やりたいやりたいだけでは失礼だから、それ相当のリサーチをする必要があるだろうし、宝石について基本的な石の種類などは頭の中にぶち込んでおかなければいけないと思っております。転ばぬ先の・・・ではなく、飛び立つ先の踏み台である。

BOX!

 亀田三兄弟はいろいろな意味で注目を受け続けて来たが、昨晩の3試合は素晴らしい展開でした。改めてボクシングという競技のリアルさがこの仮想現実時代にリアリティーを鼓舞させくれるようなテレビからの映像の迫力だった。世界陸上もそうですし、女子バレーもそうですし、プロスポーツだから勝つことが使命ではあるのでしょうが、「勝ち」も「負け」も含めて勝負に挑むことであり、結果、「いい試合だった。」とか「頑張った。」とか「勝者を讃えましょう。」的なことは第三者がコメントするようなことではなく、お互いに拳と拳を合わせたモノ同士の心の中にあればいいこと。リングにも立ったことのない、フィールドに立ったこともなさげな人がサラリと言えるセリフではないような印象を受けた。だから、テレビプログラムにするにあたりプロデューサーは演出だとか構成だとかいろいろ考えて、アナのセリフ構成を考えていることだろうし、MCはMCで自らのポテンシャルで精一杯コメントを絞り出しているんだろうけど、適正でないボキャブラリーは控えてほしいといつもプロ競技を観ていて感じる。蛇足が多い。実際、歴代チャンピオンやその世界の顔と言われている人達が現役の後輩達にエールを送る。技術的なことや試合運びの流れなどについてコメントされていることは聴いていてテンションが上がるが、MCはもっと黙っているべき。司会者がプロ競技に口を挟まないほうがベター。

 で、ダイキ君の試合。1Rからチャンプのジャブは的確にダイキ君の顔面をヒット。鼻血が出る。しかし、その後中盤戦まで足を止めて頭を合わせての激しい打ち合い。明らかにタフげなチャンプのパンチは巧みでパワフル。しかし、ダイキ君は前に出る。飛び込んでパンチを受けながら、チャンプのボディにブローを入れる。しかし、判定は3対0で敗北。しかし、最後の最後、勝者を見つめるダイキ君の目は敗者のそれではなかった。「なんならまだラウンドを続けようか!」「競技上のルールだから仕方ないけど、これで決着がついたとは思ってへんで!」と言っているような目だった。あれだけのチャンプのパンチを顔面に受け続け、的確にボディーに受けての、さらに、前にでるダイキ君。いやはやこの3兄弟はなんなんだい。

 さて、その熱戦の合間に流れるカプコムのCM。エグザの二人がハリボテの鎧を着て「伝説」だとか「騎士の魂」とか「本当の勝負」とか言っているぞ。カッコワル!

 いい勝負を観てなんか心が健康に元気になったような気がする。だから、どんな時も「BOX!」でいい。

 ダイキ君、YOUR GONNA BE FINE.

先生の依存症論。

 あるテレビプログラムで「依存症」がテーマになった。適当な芸能人とどこかの権威としての先生が登場するおきまりのテイ。なんとか研究所のなんとか大学のなんとか先生がベラベラと現代の「依存症の傾向」について少し語る。本来この尺はもっと必要だと思うが・・・。で、適当に天然キャラやインテリキャラや場の空気をつくるお笑いタレントと番宣のイケメンが適当に並ぶ。で、先生の「依存症診断」に一喜一憂するというタイプのテンプレート。

 現代人は便利なツールにあふれているから中毒が加速しているとのこと。特にゲームやパソコンやインターネットなどへの依存度は重症だと言う。で、ゲストのイケメンが「お菓子」って書いたら「重症」と診断され、「食べ物」と書いたら食べ物に依存していると診断されていた。これは診断かい?先生大丈夫?先生ご自身は「依存症」という言葉に依存していませんか?

 緩い番組の緩い登場人物が繰り広げる緩い寸劇である。そこに何もリアルがない。工夫がない。モチベーションがない。かなりこの番組のPは迷っているぞ。地方の博覧会企画の公務員さんと同じぐらい迷っているぞ。地方を活性化させたいモチベーションは理解できるが、理解させて解決できる問題ならあなたでなくとも誰かがやっているし、あなたが仮に必然としても、権威ではないから、メディアをコントロールはできないはず。そもそも、広告代理店に牛耳られている地方の優等生達の寸劇には市場は飽きてきているぞ。もっと、ベタでガチでリアルな何かをねじ込まないと。もっと、自分自身の資質をしっかり再確認して、ADに徹した方がモノゴトが潤滑にスパイラルするでしょうね。つまり、ギアは小さいほどよく回るんですね。

 世の中の大きな歯車の油は切れかけているぞ・・・。

5/100という実数。

 これは決して消費税の率ではない。仮にあるところに1億円があったとする。それが、いくつかの過程を経て最終的に500万円になっているという仕組みのお話はあまり世の中に流れ出していない。このリアルは放射能よりも流れ出していない。この構図というか仕組みは言わば言わば「日本の仕組み」に深く関係しているからである。文化・歴史・経済・流通・教育・宗教すべてに。

 ある意味この数値は緩い設定値だとも言えるし、ある意味において厳しい数値だとも言える。単位がリアルに「円」だけに、誰も感覚的には理解できるだろうが、そんなことが本当に起こっているなどとは100%誰も知る余地はない。こっち側の人間ならば。

 しかし、これがただマスメディアのお話でなくとも、多かれ少なかれ同じようなことが社会構造として起きてきた。というよりもこれが日本経済の根幹を支えてきたとしたらそれはそれは崩壊して当然。何も日本が崩壊することは誰しも望んでいないだろうが、崩れるべき城はエゴと欲のシンボルかもれいない。昔から。人間の歴史は破壊と想像。それを繰り返しているだけならば、築くのは誰で、崩すのは誰だ?

 5/100という実数はとても身近にある数値である。

芯を喰うという感覚。

 いろいろなボールが投げられる。中学生の頃ならば、軟球だったからどんなバットでもボールははじかれる。高校生の頃ならば、硬式球でも金属バットならマシンが広いからそこそこ打ち返せる。しかし、本当に硬式球を遠くに飛ばすなら木製バット。プロはそのあたりの芯を捉えるために最高のセンスと技術と鍛錬された目を持っている。ホームラーンってああだのこうだの考えていたら絶対に打てないし。芯を喰っていてもボールは失速する。何も考えずにナチュラルに反応し振り切った時だけいい感触を残してボールはスタンドに飛び込む。さてさて、いろいろなボールを投げられるが自分自身はどのレベル?硬式球をスタンドまで運びたいのなら木製バットでしっかりスイングしろってこと。芯をはずせば手がしびれる。下手をすると指を折る。それを繰り返していると正しい反応ができなくなる。だから、選ばれた人達はどんなボールでも芯を喰う。努力や鍛錬や積み重ねではこのレベルには行けないと知った高校時代。野球のボールは難しかったが、アートやデザインならなんとか金属バットで打ち返してきた。が、たまにはホームランを欲しくなる。さて、木製バットに持ち替えて、足場を固めて、投手に対峙することについては大丈夫か?迷いがあればバットは出ない。無理苦理バットを振ってもホームランにはならない。芯を喰う感覚っていいんですよね・・・。

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GOOD JOB!

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 昨日のライブで仕様した機材関係です。いやいや、これといったトラブルなしに皆様、非常にいい仕事をしてくださいました。ありがとうありがとう。何分、技とかセンスがないものだから、機材に負担がかかるわけですが、まぁ、ツールとしてギアとして引き出しが多いということも、また、一つのアドバンテージかなと思います。機材や道具が仕事をするのだから、技術や経験をどこまで突き詰めるかって、古い日本の美意識みたいですが、それはあまりピンとこない。ってのも、私が基本的にこの機材で何か至高を目指している人間ではないからだろう。道具はどこまでのただの道具。インスピレーションがほんとに高まればこんなデジタル機器で人間の中から出てくるモノは表現できない。だから、楽器とか絵筆とかリアル書籍とか美味しい「近江牛!?」に呼応するのですね。そこの欠落している人が結局、仮想空間でジタバタしても飛べませんよ。「非言語の」「感覚の」「本能の」世界にダイブしないと・・・ね。

ゴンチチライブ12.3#005

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 すると、こうなるのですね。

 で、ブルーレイ仕様映像とラインと高感度マイクでインプットした音声を捻じ込んだフルハイHD画質の映像データで、ライブのリハから本番とサプライズサイン&握手会映像が手元にあります。これが今回の本丸なわけで、さてさて、この貴重な食材をどのように調理しようか・・・という感じですね。

 いやいや、奇跡のメンバーで奇跡のライブが長浜市内で実現できたという訳。これって、かなり伝説じゃないかなと思うのです。素敵な素敵なTEAM NAGAHAMA JAZZ WALK!のメンバーの皆様とそして、ゴンチチのご両名様、そして、PAの皆様、お疲れ様でした!

 そうだそうだ、ゴンチチさんの昨日のMCだけを集めたレアなDVDができるかもしれないぞ・・・。「ミカミサンノカフェ構想」はいかに!乞う!ご期待!でいいのかな?

ゴンチチライブ12.3#004

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 で、それを心から聴きたい上質の音楽を愛する皆様が集まる。

ゴンチチライブ12.3#003

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 音創り職人さん達のプロフェッショナルな技とセンスと熱意が仕込まれる・・・。

ゴンチチライブ12.3#002

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 ゴンチチさんの愛機が到着して・・・。

ゴンチチライブ12.3#001

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 まず、ステージができて・・・。

いよいよ本日!

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 いよいよ、ゴンチチライブは本日です。準備万端、あとは、プロの皆様の最高の仕事をご来場される皆様お楽しみに!という感じですね、高木P。

照明マジック、一柳さん。

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 あれをこうしてこうすればこうなるって、経験とアイディアとセンスが三位一体でないと絶対に実現しない素敵。エキパなプロフェッショナルな職人技ともいうべき照明デザイン。数々のモノホンの現場に携わってこられたからこそのこの仕上がり。いやいや、奇跡が奇跡を生むからこの仕事は止められませんね、って、止める気など毛頭ないのですが、それでも、圧巻です。この空気が現場仕事のリアル。こんな人達と一緒にチームで仕事をできることは最高です。

 もう、コストや予算面で大きな仕事だからいい仕事っていうわけではないのです。大きい仕事はやりたいが身の丈よりちょっと背伸びをする程度がちょうどいい。意識が高く、熱意のあるプロとの仕事は改めて自分自身の仕事を見つめ直すとてもいいチャンス。決して、ビジネスタイルに優劣をつけている訳ではないが、属性で言えば、テンションの上下は何かこのあたりのリアルと微妙に連動している感覚がある。資質が呼応するのか、たまたまが偶然を呼び時間の流れの中で自分自身のリアルになる瞬間。それを繰り返していれば少しづつ前進できるんだという実感。こんな仕事をいっぱいやりたい、そして、いつまでも、こんな現場に関われる人間でありたいと思いますね。

プロの仕事、モリイさん。

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 プロの仕事は見ているだけで頭の中が活性化されます。刺激もあるし、リスペクトなリアルを目の当たりにするととても心地いい。私が作ったロゴマークがこうしてメインステージにリアルに存在している感激感とそれを最適なカタチになる瞬間。これはこの仕事の醍醐味。いやいや、ありがとうございます!

あの!ヤナギマンさん!!!

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 しかし、ネットワークというのはありがたい。前日にお誘い電話を頂いたのですが、それが、あのヤナギマンさんが長浜にこられ、座談会をされるから、来ませんか?という連絡。どこでどうつながってこうなるのかという出来事に正直驚いています。では、充分にヤナギマンさんを知っていたかとなると、そうではない。全く情報はゼロ状態で会場に向かう。で、ヤナギマンさんと名刺交換。で、音楽業界のお話、滋賀県で何をヤナギマンさんが展開したいかのお話などなど。投げればおどろくような答が自然と返ってくる。うーん、最前線の人とのキャッチボールは楽しい。楽し過ぎる。で、明日は長浜の藤井市長と対談らしいがこれはどうなったのかな?市長のポテンシャルがヤナギマンさんとシンクロするとは思えないから、多分、恐らく、間違いなく、予定調和を終了して東京に帰られたことだろう。いやいや、とんだサプライズでした。素敵なボールは想定外の角度から飛び込んでくるものです。