ストレスの本質。

 原題「オプティミズム」という書籍がある。著者はフランチェスコ・アルベローニという人。その書籍に下記のような文脈がある。「人生はその本質において、その構造において、企画であり冒険である。ひたすら待ち、期待するほかない不確かなときが常にある。何千年このかた、民衆と文明の運命は、戦争に、しばしばたった一度の戦闘にゆだねられてきた。戦い争う双方ともが、資源、組織、勇気、象徴、歌、伝統の力をたったの1点に集中し、蓄えてきた。翌晩には、どちらかいっぽうが打ち破られ、永久に粉砕される運命である。我々もまた、個人の場合と同じように、どんなことをしようとも、この生存の法則を免れることはできない。私は学校から試験を排除しようとする教育学者たちを理解することができない。試験は教育の不可欠な一部である。このストレスを子どもたちから除いてやりたいとする親たちが、私にはわからない。生きるとは、予測し、算定し、ストレスを抑制することである。」と。正に。

 現代の抱えている「ストレスの本質」をこの文脈はしっかりと分解させる力があるように捉えた。結局、ストレスがいいか悪いか?って段階で、軸足がぶれているということ。すべては想定外であるという大前提のモト、思考や行動や論理は展開されているはずなのに、それを、テンプレート化しようとするのが文化や数多の学問であるという仮説とこの文脈はキレイに見事に均整化されている。振幅のある思考にマイルストーンを積み重ねることでしか軌跡は残らないのに、ビジョンなどという言葉を乱用しレールの上にすべてを積載することで「最も大きな失敗」を回避したいと考えているのだろう。さて、では、「最も大きな失敗」と「ストレスの本質」との相関関係では、予測する、算定するという思考・行為は具体的に何だろう?「子ども達に夢のある未来を!」などと言葉にする人、どこまでポテンシャルを含有しているのだろう?言葉にした段階でそれ相当の責任が発生することに対しては問題視せずに、都合のいいのびしろだけを期待している場合が多くないだろうか?それは、情報の本質に深くリンクしていると思う。

 で、言葉にすることが多面的ならばどういう形で具現化すればいいのか?その有効な手法として非言語的表現・アプローチが最適だと感じる。「色と形」「香り」「音や声」「触感」「味覚」これら五感からの非言語情報をアウトプットする際に言語化することで純粋な成分にノイズが混じる感覚。純粋なまま伝えたいなら文章化・論化する方法は適正ではないという仮説。これは永遠のテーマでしょうね。

 ガラパゴスのイグアナの爪が長くなったり泳げるようになった理由は生命維持なわけですからね。言わば、この地球全体がガラパゴスだっつーことで。