銅版画の魅力。

 何故か芸大2回生の後半でゼミを選択する時、自分は美術表現の中で何をやりたいか少し迷った時期があった。今思うとそれはとても必然であり、一本の太いレールの上にあったのだと回想することができるが、それは、47歳になりあしあとをただ辿っているだけで、どれだけ太いレールかなど便宜上のことなのだが・・・。でも、その時、3回生と4回生のゼミの選択で自分は油絵や日本画や彫刻や造形ではなく、何故か「銅版画」をやりたいと感じた。特に芸術大学にいると選択肢が広いようで狭い。狭いようで広いと自分の方向性やいろいろな要素に「これだ!」という結論が出ない場合が多いように振り返る。それは、ゼミの選択だけに限らず、卒業して社会人になる時、働き出して自分の進むべきなんていうテイで改めて自分の将来を考える場合など特に一般的に「迷う」という壁にぶち当たるのが常。しかし、今思うとその部分で迷ったことは一度もない。小さいサイクルでは無数に弱気になって怖気づいたりテンションを下げたりというループはあるものの、マイペースが基本スタイル。誰だって今現在を振り返るとそうかもしれないし、自分のスタイルに疑問を感じては決して自分の進むべきルートに集中できない。しかし、自分の中からも外因的な要素でもそれを阻む要素は無数に存在しているので、そんな中、自分自身の基本スタイルをキープしながら、今後もそのルートで行こう!と考えられているということは、これ何よりも幸福者(しあわせもの)だと感じます。

 で、銅版画からのグラフィックデザインの世界というのがこれまた自分の中で密接にリンクしているし、銅板にニードルで絵を描くということが、描く行為と版を作成するという微妙な関係がドローイングであり設計者であるというバランスの中で、ただ画面に絵具で描くという感覚の他に、版を設計するというフィーリングに魅かれたのかなと思っています。つまり、自分自身の中の「描く人」と銅板を「制作する人」とのバランスに魅かれたとでも言うのか・・・。

 結果、ニードルのラインが用紙に転写された瞬間がたまらない。まるで、心の中のイメージや言葉にならない感覚が一枚の用紙に一気に飛び出す感覚がある。プレス機から滑り出てくる銅板と用紙を確認しがら、版と用紙を剥がす瞬間。これがやめられない。シンナーの臭いや硝酸の臭いが充満する教室で朝から夜まで一日中、ニードル一本で描画しているような、ちょっと非健康的な空間もパラダイスだった。

 芸大を卒業して銅版画は作成していないが、あれから25年、また、銅版画をやりたくなっている。これは非常にいい状態だと捉えながらも、これが自分のルート上だと思える満足感。はやり、エッチングは皮膚感覚的にも自分自身にマッチしているのだろう。プレス機や腐食装備がないから、ペン画を描くが、やはり気持ち的には銅板にニードルがベスト。その方法論こそが銅版画の魅力ですね。