キレイならいいのか!?か・・・。

 「アメリカで足の手術を受ける人の80%は女性、その大半はハイヒールが原因だそうである。」という書き出しでデボラ・L・ロード著の「キレイならいいのか」という書籍がある。

 「健康を害してまで、ハイヒールを履く必要はない?そう思った読者の考えは、きわめて合理的だが、合理的に解決できないのが女性の美の問題である。本書では、これら女性の心身の健康を蝕む「美の弊害」が列挙されている。例えば、豊胸手術を受けた人の40%は3年以内に合併症を発症する。思春期の女性の60%がダイエット中だが、摂食障害の問題も深刻であり、とりわけ無食欲症は、精神疾患の中でも死亡率が1~2割と最も高い。女性は美のためなら死んでもいいのか?」と警告している。「若い女性の半数は肥満になるよりトラックに轢かれるほうがましという」暴論にも達する。美を維持することが、実際、結婚や所得などあらゆる側面で容姿による不公平が存在する社会への問題提起でもあると著者は語っている。「美しい女性」はメディアで映えるし、主張もコミュニケーションも有利だと捉えてほぼ間違いない。そんな「容貌管理力」こそが投資の対象であり、社会生活における根底に脈々と流れている以上、女性は永遠に「美」を求め続けるという構造なのだろう。心の美しさや目に見えない人間の魅力よりも、人間は五感に特に視覚に支配されているからだろう。しゃべらなければ・・・という下りがあるように、「賢い感じの美人」は逆にサイレントがいいのだろう。

 しかし、まれに、容姿端麗でクレバーな女性に出会うことがある。上記のような投資もせずに(水面下では分からないが・・・)、淡々と端正な存在感を示す女性には正直魅かれる。つまり、「キレイならいいのか?」という2極論ではなく、「キレイ」の語感の中に潜む観察力や洞察力が男性に求められているということに他ならない。答は「キレイだけではダメ。」だからである。しかし、「キレイな女性」が持つ、プライドや自己管理力は時にキレイ以外の女性を大きく凌駕する。太っている女性はやはり言葉の印の部分にコンプレックスを社会背景に投影した話し方の立ち位置であることが多い。そんなに男性はふくよかな女性のこと(極端な場合は厳しいが・・・)を気にしているわけではなのに・・・である。それが、逆にシャープな容姿でシャープな存在感で光っている女性には、本能として多分魅かれるのだろう。これは脳幹からの信号だから仕方ない。人間であることをやめればこのパスルを無視することもできるのだろうが、そんなことをしてしまえば、人間である楽しみが、男性である楽しみがなくなってしまうじゃないか!!!ということ。

 で、そもそも「キレイ」ということは具体的にどうあることなのか?に辿り着く。さてさて、このあたりからが実はホンマル。胸が大きい、目が二重、お尻が下がっていない、美脚であるなどなど。これらはすべて先入観。人間が何かをスムーズにさせるために構築した歴史とも言える。そのことをメディアの人間はよく理解して化粧品や整形手術を「マジック」に変換、すまり、貨幣価値に置き換えているだけなのである。男性にしても同じ。私は頭の毛が薄くなったし白髪が多いので丸坊主にしているが、無頓着にも、育毛剤や黒く染めたいと思ったことはない(逆に真っ白に染めたことはあるが・・・)。かつらや植毛ビジネスはそれはそれでいいが、これらの大前提には必ず「キレイという価値観」「カッコイイという価値観」があり、それは、実はふわふわした存在なのに、水分を求めゼブラ達はその水脈を本能で目指すのである。