量か質か?

 記念すべき3000本目の「スギノのノギス」ブログ記事は何にしようかなと考えていて、あまり、捻じ込む感じよりも・・・とか、仕事仕事するよりも・・・とか、プライベイト過ぎるのもどうか・・・とか、いろいろ考えたのですが、まぁ、3000ということなので、ずっと5年間続けてきたテイで楽な感じで気負わずに書いてみたいと思っております。

 で、よく「量より質」という言葉がありますが、この大前提は中途半端な商品や人や組織がただ数の多さを推し進めるよりも、少数精鋭で絶対数が少なくとも質の高い商品や人や組織の方が重宝だという論理が根底にあるだろう。それは日本という国のパイを考えた時の価値感で大量消費時代の到来から多種多様時代に変容し価値感が解されたこの時代にこの価値感を改めて考えると、全てに置いてこの「量よりも質だ。」という大前提で押しきれない場合が増えているように感じます。

 ただ、この場合の「量」って非常にざっくりした量であり、漠然とした「大量」という価値に対して、これまた、「質」という漠然としたクオリティーを比較しているが、そういう価値感も成立するケースはあっただろうし、今後もそのテイで考察できるケースもあるだろが、どうも本来の部分では「量」でも「質」でもどちらでもいいんじゃない?という考察もできなくない。

 つまり、「量」が必要な場合は、相対的な「量」で攻めればいいし、このケースは「質」で攻める必要があると判断した場合は、それがどの程度の「質」で目的を達成できるのかをクリアしていれば、「質」で押し切ればいい。だから、この時代、「量」でも、「質」でも、どちらがどうだとは言えない時代のような気がします。5年で3000個のブログ記事が多いか少ないか、質的に高いか低いかではなく、一人のクリエイターが仕事の合間に楽しく書き綴ったウエブログなんだから、何か別のブログと比較する必要もないし、比較されても・・・みたいな気持ち。誰かれよりも中身を練り上げようとか、誰の意見よりも深い考察をしようかとか、誰のブログの写真よりもキレイな感動的な写真を掲載しようとは全く考えていない。

 しかるに、ツイッターやFACEBOOKってどうなんだろうか?ということで言うと、世の中でもてはやされているほどこれらの機能や特長に対してあまり魅力は感じていないし、そもそも、これらのシステムというか機能というかサービスは無料なんだから、無料ツールをどう活用するかであまり無理苦理に伸び代を期待しない方がいい。無料アプリ合戦もまだまだ続くだろうし、課金システムも今後ますます規制されれば、ネットの中に存在する価値感もまだまだ多角的にそのベクトルをそれぞれの方向性で極めることだろう。で、当のそれらを活用している人間が表面的な飽和した氾濫している情報に依存して右往左往するよりも、しっかりと軸足を決めて本来のスタンスと体重の配分を確認しながら、このインターネットというモンスター(もはやモンスターでもないが、言わば、窒素みたいなもの!?)を自分に使いやすいツールにチューニングしたいものですね。肺呼吸のように。

 今朝の新聞で、某総理が「大飯原発の再稼働」に対して「私の責任で判断する。」と言っていたそうだが、誰かの責任で判断できるという問題では既にないことは日本人も世界の誰もが理解している。なのに、「私の」のこの「私」とは誰のことか?これがいつもの便宜上の比喩の引用なら新聞の活字の力はもう地に落ちているし、このフレーズの旗の元、さらに日本人が経済の活性化や将来的に安全な国を創るための必要なリスクだというメッセージだと仮にしても、それで何が現状のこの沈滞感が払拭され覚醒のベクトルが目覚めるのか?と疑問視の向こうを予感させるにしても、しても、この言葉は無力以下。

 大飯原発は私の故郷。高浜原発の恩恵も受けてきた。無碍に再稼働を否定も肯定もできないだけに、この某総理のあまりにもチープでナンセンスな言葉のチョイスに茫然である。

 エネルギー問題について本当に日本の変革を唱えるならば、本社の社員の削減数だけの「量」で偏在する価値感に訴えるより、コンビニや高速道路を走るトラックの「量と質」を日本サイズに調整してエネルギー問題と連動させることが可能な立場の人に適正にチューニングしてほしいと思います。某総理のハリボテ感はまぁ仕方ないとしても、「量」でも「質」でもどちらでもいいので、「日本」を再確認できる人にリーダーシップを発揮してほしいし、そんな自肩の強い人はすでに考え動き創造しているはず。だから、ネットワーク時代にこれらの「見えている人」に対してしっかりコミュニケーションできる「視力」を鍛えておきたいものです。その場合、「量」でも、「質」でも、どちらでもいいのかな・・・と。