論点のズレ。

 英語のプレゼンテーションは構成がストレートでストロングである。何故だろう?言語として完成度が高いのか無駄な要素と骨子の部分が明確になる言語なのだろか?英語のプレゼンテーションを聞いていいると体温が自然と上がる。に比べ、日本語の構成はどこかもどかしい。無駄な言葉が多いのか根本的に伝えるための言語ではないような。感じてください的なニュアンスが言葉に組み込まれ過ぎ、本来の伝えたいことがボケる。つまり、論点のズレが発生しやすい言語なのだろうか。ノンバーバルコミュニケーションが叫ばれてさらに日本語の論理的な構成力が現代のような事態を招き寄せているとも考察できる。が、これは根本の部分だから、そうなるべくして・・・みたいなことも否めない。

 で、論点がズレた時、修復微調整するのか放置するかで迷う時があるが、日本語ではそれも適正に切り込むことが難しいコミュニケーションを呈している。会話の途中でそれに気が付いているのに、最後の最後まで修復できない言語とでもいうのか。論点が定まっていない人はよく文法がよじれる。明確に伝えることをどこかわざと控えているのか?とさえ思えるぐらい。なぜこうもよじれるのかと考えながら話を最後まで聴くがあきらかに二転三転している。その上、会話の流れがよどむ。しかし、論点がぶれずにこちらの言葉の理解力もウイットの部分も的確にレスを返してこられる人との会話はなんとも心地いい。尊敬してしまうし、頭がクリアになっていく実感がある。私もなかなか、会話の中に「神」の存在を引用することは稀であるが、クレバーな方との話の流れでは、「神」の存在さえもしっかり規定できているから、論点が見事にぶれない。マッチし合致するこのコミュニケーションはホントに心地いい。

 が、そうでないことが多いので、いちいちそれらを悪いストレスに保存するほど私の頭の容量は大きくないので、すぐに忘れるようにしている。忘れるという能力(能力なのか?)が板についてくると、会話している途中でこのルートはないなとゴミ箱に入れてしまう。しかし、意外な展開になったとき、どれが今捨てたものか不明になる。強いては事をし損ずるなぁ~という瞬間。

 でもでも、論点のズレが自分自身の中でも起きないように注意するのもまた大変。でも、これは最低限のマナーですしね。