自由の制限について。

 日本の教育が日本国憲法をベースに、引いてはある国の主義や思考パターンを取り入れた時、その編成チームがどうやら「義務」と「権利」のバランスを間違えたらしい。何に対するバランスの崩れ方かと言うと「平和」や「自由」に対する価値観のとてもベーシックな部分。最初のボタンがこのかけ方だったことで現代のこれらの価値感が捻じれているというメッセージが書かれている書籍がある。どこに軸足を置くかは十人十色でいいが、このメッセージ、10年15年前ならば、ひとつの意見で済まされたとしても、そのことはその時の「平和」や「自由」の価値感に包括されてもいいぐらい平和で自由だった。つまり、最初のボタンが間違っていたとしても、経済的にという指針が実しやかに成立している体裁であれば、この問題点はリアリティーがないと黙殺もできただろう。しかし、時代は変わっている。経済も変わっている。つまり、人間が変わっているのであることは、戦後のボタンの掛け間違いが起因であると考えるとすべてのつじつまがあうという仮説。

 まぁ、こうして文字にしている段階で全てが仮説だから、取り立てて「平和」や「自由」のいろいろな側面にスポットを当てたところで何がどう変わるという訳ではないが、全体が器がシステムが変わらないのなら、もう、立っている場所を変えるしかない。場所が変われば見える風景も変わるし、流れている空気の成分も変わってくるはず。変えられないのか変えないのかはさて置き、感じているのに見えないケイジがあるのだろう。それを温室ビーニルハウス栽培と捉えるか、集中治療室と捉えるか、カウンセリングルームだと捉えるかは自由。

 で、この「自由」について。自由とは決して無法地帯のことでも放置されたスラムのことでもない。自由とは自由を維持するためのルールが徹底している空間・エリアのこと。しかし、ルールの定義でさえ、ボタンの掛け違いが起因しているからたちが悪い。本当の自由は法律でも条例でもない正しい規範とモラルの上に成立するもっとも人間的な場所であるべき。つまり、自由を維持するための規範を会得している必要がある。本当のFREEDOMはどこにある。本当のFREEDOMはひとりひとりの人間の心の中、頭の中にあるべき。それが統治や法治で実は捻じれている。だから、教育が捻じれ、人間が捻じれ、不思議な社会が成立する。「教育こそが自由を手に入れる唯一の方法」だとは思わないが、そのベクトルに向かっている海外の国では、何よりも教育に注視していることは間違いない。さて、「教育」と「平和」と「自由」の関係性について、自分自身のライフワークや仕事を通じて何か貢献できることはあるのだろうか?なんとなく、最近はそういうことをよく考えている。