栄光の架け橋論。

 確かにある側面では「栄光の架け橋」は素晴らしい完成度がある。それは、創造物としてではなく、コンテンツビジネスとしての戦略性の非常に高い作品と言う意味での完成度である。まず、「栄光」と「架け橋」をタイトルとして組み合わせた段階でこの作品の完成度というかひらめきレベルは60%完成している。恐らく恐らく、ただの二人の歌い手がどんな心境からかは未定として、この歌詞を自分自身の心や魂の中から純粋に創出してきたとは考えにくいし、この歌の壮大なスケール感はどちらかがイマジネーションをMAXにしたとしても見える世界観ではないように感じる。しかも、あらゆるこの時代のこの市場のニーズに対しベストマッチさせてしまった不思議な磁力は大きな戦略が背景にあったと考えてほぼ間違いないだろう。全ての世の中に出ている楽曲や作品がこの戦略のひと槍だとは考えたくないが、明らかに狙いが明確過ぎて「日本帝国万歳!」モードのようで、疑心暗鬼の賜物として捉えてしまう。

 さて、今、この時代、そもそも「栄光」とは何だ?「架け橋」という語感から何を連想する?パブリックの人達ならば、教科書通りの答をいっぱい持っているだろうが、この時代冷静に考えて、これほど「栄光」という言葉のニュアンスから遠い文化もないだろうし、「架け橋」については、理想郷・桃源郷・パラダイスの域である。それを組み合わせ、これまた得意の2人組のデュオスタイルでアナログテイストで熱唱するみたいなテイ。これは、ある意味オウムもビックリ。韓国のCGタレントのステレオタイプな演出も、胡散臭さを通り越して、芸術の域である。う~ん、モノホンはどこへ行った。恐らく、どこかの片田舎か地方都市で次のタイミングを虎視眈々を待っているような気がします。この不思議な不思議な「津波」が「竜巻」が「氷河時代」が、元の地球に変わるまで・・・。