2012年07月 アーカイブ

日向徹という人物像。

 まず単純に「岳」から小栗旬君に興味あることからこの月9のドラマを観ている。一般的に月9だからトレンド色が強いことやひねりのある設定やキャストの工夫もこの枠の特長ではあるが、それにしても小栗旬君がどんな役柄をするのかを観てみたかった。月9のドラマを毎週観ているということはかなり久しいことですが、なかなか、ありと言えばありである。「ベンチャー企業」のテイであることが何かと興味の中心のように描かれてはいるが、物語の核は実はそこにはないような気がしている。現段階で第4話が終わっているがまだまだ変幻自在な展開はするだろうし、日向徹という人物像を中心にいろいろな人間模様が展開してくだろう。さらに、この話、一体どこに向かうのだろうか・・・という感じ、とても、優れた脚本家の方が携わっているクリエティビティーのようです。その物語観を理解して演じている小栗君はさすが旬な俳優さんである。

 さて、ドラマのキーになる場面場面で展開される日向徹の世界観であったりビジネスに対する洞察や判断力。人間関係のそれについてもなかなか極みなキャラクターを完璧に演じている。監督の世界観が製作の現場としっくりきているように見受けられるがそれでもそれにしてもネクストイノベーションとはかなりのひねり出しである。このまま期待を最後の最後まで引っ張っていって欲しい。他に特筆するドラマが他の日に少ないだけに今回の月9はなかなか素敵ですね。

 「今までに見たことのないインターフェイス」というフレーズが第4話では飛び交っていたが、さてさて、この「今までに見たことのない・・・」というフレーズの使い方はいかなものか?このフレーズを有効に機能させるためにはいろいろな大前提を間違えてはいけない。旧態以前の価値感とのぶつかり方や現代に潜む多様な市場観や人物像がしっくりきていない舞台でこの言葉は有効には機能しない。紙一重で野暮なフレーズになる場合が多いにも関わらず、しっかり、日向徹のセリフとして「今までに見たことのない・・・」を成立させているこのテレビドラマはとてもいい感じである。

 さてこのままこのテイで進みつつ、どこで盛り上げてどこで落とすのか?いやいや、あと7話が楽しみである。

暑中お見舞い。

 連日の猛暑、日本各地で「観測史上」という語彙が目につく。ほとんど体温にすれば微熱程度の気温ってどうよ。昨日は熱中症で200名近い人が病院に行かれたそうである。だから、この数十倍の人が暑さで体調を崩しているということになりそう。水分と塩分をしっかり摂取して身体をクールダウンしましょう的なアドバイスがニュースになるぐらい。いやいやガチで暑い夏です。しかし、節電モードはまだまだ有効でクーラーの設定温度や家電を使用しない暑さ対策がいろいろ注目されているようです。

 意外に身近なモノをちょっと工夫するだけで・・・とか、昔ながらのアイテムが適正に暑さを回避して体調を管理してくれるベターなアイテムになることなど、何も最先端の家電や電気製品を使用せずともこの酷暑さえしのぐことはできるのである。関西電力の3ヶ月の赤字が何百億あるのか知らないが、なんでもかんでも電気ありきではないということ。電力会社は文化や経済と密接な関連性や相関性があるのだから、もう、それなしに現代の暮らしは成立しない。今更、退化して質素な暮らしを・・・などとリバースはできないが現実。ネットやクラウドもしかりでもうあるチップスを便利で有益だと知覚してしまった人間はそれを簡単に手放す勇気がないということ。固執なのか依存なのか?

 また、ボランティアという思考にも実は中毒性が潜む。この魔法の言葉に弱い人達は自分自身がボランティア活動をしている。つまり、無償で何か自分の能力を社会に対して提供していることに泥酔している。これはとても気持ちのいいことのようだから中毒になるのだろう。ふと我に還って「なんで私、こんな一円一銭にもならないことを苦労して時間を捻出して取り組んでいるんだ!」となってももう遅い。そこから気持ちを切り替えてこの取り組みへの自分自身のモチベーションをシフトチェンジすることもリセットすることもできない。これがいわゆる「ボランティアのマジック」。ただただ、社会に対して自分自身に対しての「中途半端な大義名分」のために自分の時間を浪費する。つまり、ボランティアには大切な判断を誤らせ、自分自信の実は大切なモノやコトを削っていることでリアリティーを感じるドラッグなのである。共同活動、共有意識について「清く、正しく、美しく。」大好き日本人はこれのとりこ。気がつけば、無償奉仕の意義と履き違えホントの生産活動・創造活動ができなくなるのである。無償で拘束力のない団体は依存を義務を簡単に履き違える。見事に履き違えている事が逆に正論だと権利のように捉えてジレンマに陥り不協和音を創造性と勘違いしどこでも誰でもできることをいかにも独自の活動のように捉えているが、それは、視野や情報量が微弱なだけ。視野を広めれば、ちょっと冷静に捉えれば、そんな無駄なことは続かないと知るべき。いややい、無能な人ほど、自分自身の中にモチベーションを持たない人ほどこのマジックに依存してしまうんですね。怖い怖い。

 いやいや、暑い日が続きますので、心も身体も適正に健康にいたいもの。失っても補えるモノはいいが、失っても補えないモノもあるので、ここらへんを適正にジャッジしていきたいですね。「これはちょっとどこかおかしい?」と感じたら、一旦、クールダウンするべきですね、何事も。暑い暑い。

バスフィッシング最高!

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 いやいやここにやっと立てた。いやいや長い道のりでした。大野での初優勝がこれほど長くこれほどガチなのか・・・と。細かいことはまた冷静になって整理したいが、今週一杯はこの余韻に浸ろう。いやいやいやいや、バスフィッシング最高!

常識からはみ出す生き方。

 場所にも、時間にも、常識にも、とらわれない生き方とは?というテーマの書籍がある。講談社から出ている「常識からはみ出す生き方 ノマドワーカーが贈る「仕事と人生のルール」。クリス・ギレボー著 定価1,470円。広告にはこれだけの情報しかないから、逆に刺激的である。あとはイマジネーションを膨らませて捉えてみると、さて、この著者が定義している「常識」とはどのような設定だろう?とまずこれが最初のアプローチとなる。必要のない常識と必要な常識に分かれるはずだから、現代の常識がどのように規定されその部分に対する洞察や分析が著者自らの経験から紐解かれていると推察するのが正規のアプローチルートだろう。で、その著書を書籍として講談社が出版している事実がこの価値観にひとつ大きなリアリティーを与えている。それがこの書籍の価値の部分でもあるわけで、あとは、興味を持った人がこの内容について自分自身の価値観をどこまでリフレクトできるかでこの著書に対する価値が浮沈する。その対価としての1,470円が安か高いかはポテンシャル次第。これが書籍の価値の縮図。

 で、このアプローチは常識的か否か?何も核心の部分で非常識な人は書籍などにしないはずですし、講談社も非常識極まりない人の書籍を出版しようとはしないだろう。つまり、その範囲というかレンジの中での「常識論」がどこまで突っ込んでいるかがこの書籍を購入するかしないかの分岐点だろう。

 常識スレスレ、非常識スレスレをステルスするならば、その高度を正確に維持するための計器が必要であり、それ相当のスキルが必要なはず。読み手のポテンシャルを選ぶこのミサイル、さてさて、どこに何発着弾するのだろう。1,470円でちょっとたくましい生き方ができた気になれるならこの代価は適正ですね。

トライブ型社会!?

 TRIBE「1[集合的に]a(同一の血統を持ち,上に族長をいただいて群居する)種族,部族,…族 《★【用法】 集合体と考える時には単数,構成要素を考える時には複数扱い》用例 the Hill Tribes of Bangladesh バングラデシュの高地部族 b(古代イスラエル人の)支族 《★【用法】 1a と同じ》 用例 the tribes of Israel イスラエルの 12 支族 《ヤコブの 12 人の子の子孫》 2[集合的に] 【動・生物】 族,類 《★【用法】 1a と同じ》 3[集合的に] 《軽蔑》 連中,手合い 〔of〕《★【用法】 1a と同じ》 用例 the scribbling tribe 文士連 the tribe of artists 芸術家連中 [ラテン語「(ローマの) 3 種族」の意; 【形容詞】 tribal]」という意味らしいが、時代はグループからトライブ型社会へ移行しているらしい。なんとなくそんな予感はするが、こうして海外の著者が紐解くってことはひとつ大きな転換の指標になるのかもしれない。ただ仮説は仮説だがどんな実証からこの仮説を組み立てているかについては知識として情報として知っておいてもリスクはないだろう。つまり、「組織」の定義さえ変革の趣なのである。

 ロンドンオリンピックが始まった。ある国では金メダルを獲得した選手に対して6,200万円が支払われるらしい。ある国では一生分の税金などの優遇がされる。一方、日本では金メダルに対しての評価が300万円らしい。この価値の違いは何?文化や慣習の違いか?おかしいだろうこの価値基準は。決して金メダルは貨幣価値で査定できないモノだとしても、0が二つ足りない。この足りない部分のお金が国民の意思に反してどこかに流れているだろうと考えると遺憾である。誠に残念極まりない。

ものづくりからその先へ。

 「戦争から帰ってきた男たちが鉄鋼や自動車などの工場で働き、家、車、家電を持ち中流生活を送る。そんな古き良き日々が過ぎ、新興勢力の追い上げでは難しくなってきた現代。まじめに働けば報われる、いわゆる「清く、正しく、美しく」だけでは成立しなくなった社会構造。教師は教育の現場に一定のマニュアルとチュートリアルを用意しそれを予習・復習していればよかった時代が変化している。それでも僕らはこの町でステレオタイプに生きるのか・・・」とよく古い歌のテーマになっていた。

 雇用の担い手として期待されているのは、ものづくり職人よりも、発想とセンスに頼る知識労働や、会話と気遣いがキモの接客・サービスといった分野。身だしなみに気を遣い、若者がお笑い番組を手本に場を和ませる技術を磨くのも変化の一片だろう。寡黙でまじめだが気配りや人づきあいが苦手な人には何とも馴染みにくい時代なのかもしれない。そうした雇用の側面が今後の日本経済や文化・教育の現場をどう変えていくのだろう。そして、ビジネスの形態は現実社会から仮想社会を交錯しながら、多様な価値が一進一退で加速し失速する。そのストレスを受け止めながら、逆にそれらを振り回すような室伏レベルの筋力と瞬発力が必要になってくるのだろう。知力という筋肉を持っているのか?と問われているような気がする。

 「ブレインワーク」という言葉もその構造を変えざるを得ないだろう。知識労働という言葉が闊歩し「考える」や「感じる」や「思う」ことがビジネスの鉱脈になる時代。ハード・ソフト論の究極の摩擦の末、最後に残るフォルムはどんなカタチだろう。そして、研磨された破片はどこに集まるのだろう。結局、人間は地球上のあらゆる鉱石を掘りだし、利用した後、それらが全て炭素に変えっているだけなのだ。炭素に戻らない化合物はどうするのか?という議論に帰着するような気がする。歴史から学ばない人間が枯れ木に花を咲かせることを夢見てただけ。さてさて、次、ポチはどこを掘れとワンと鳴く・・・みたいな。

 ものづくりからその先へ人間は進化しているのか退化しているのか?このテーマなら「宇宙兄弟」以上の「ナルト」以上の「ワンピース」以上の「銀魂」以上!?の物語が創れるかもしれないぞ。

もう、25歳か・・・。

 「2012年、Adobe Illustrator が誕生してから25回目の誕生日を迎えます。四半世紀もの間、プロフェッショナル・アマチュアを問わず、実に多くの方に愛用され続けてきたIllustratorには、アドビが目指してきた理念と基本技術のすべてが備わっています。25周年企画として、アドビが Illustrator とともに辿ってきた 25年の歳月と、進化の過程を振り返ります。」というメルマガが到着した。そうかそうか、もう、イラレさんも25歳か・・・。私は現在48歳ですが、イラレさんに始めて出会ったのが25歳のころだったなぁ~。場所は新宿だったなぁ・・・。その頃、イラレさんはまだ英語版でバージョンとかなかったなぁ~、マニュアルは英語で分厚かったなぁ~、モノクロの画面懐かしいなぁ~、あの頃からずいぶん色気がでてきたよなぁ~。確かにデザインの仕事=イレストレーターみたいな関係性があるから、長い付き合いになる。つまり、カミさんよりも長いつきあいなんだから、人生の半分以上、イラレさんにお世話なってきたってこと。うんうん、感慨深いですね。おめでとう!アドビさん!!!

上手くいかなかった・・・。

 「これまで英語を勉強してきたけど上手くいかなかった」という人向けの完全英語攻略プログラムだそうである。その実態を知らないが別段知りたくもない。そもそも「英語を勉強する」とは具体的にどういうことか?語学に堪能な人間では決してないので、英語の点数が高くなければ昇給できない会社に勤めているわけでもないし、来月から海外支社に転属するということでもないから、気楽に英語を捉えているのかもしれないが、英語に対してそれほど構える必要があるのか?ということ。「上手くいく」とは最終的にコミュニケーションをとることだから、英語が上手くてもコミュニケーション能力が低ければ、もっと言うと、ビジネスコンテンツを持っていない上、コミュニケーション能力も低い、しかし、英語を上手くなれば、なんとかなると思っているとしたらそれは間違い。だが、このような「これまで英語を勉強してきたけど上手くいかなかった」と痛感している人達の90%がこの手のタイプじゃないかな。そもそも、手に技術もセンスも経験値もモチベーションもポテンシャルがないのに、なんとかしたい!が「英語を上手くなる」だとしたら、英語が上手くなる前にもっと上手にならねば、非凡な何かが必要なんじゃないのか。SNSで無駄なコメントや「いいね!」を集めているだけのログや無料ゲームやオンラインの仮想空間に没頭できる時間とモチベーションを持っている人達って、リアルな現場でリアルなレスが少ないから呼応するだけで何か生産的な活動をしていると勘違いしている。仮想空間に一喜一憂していることなど本末転倒の「末」でもなければ、竜頭蛇尾の「蛇の尾」でさえもない。人の心の痛みが分かる人間に・・・と教育現場の人は連呼するが、杓子定規に「心の痛み」とはなんですか?すべて「上手くいかなかった」からと、これらの安全牌な仕組みで時間を浪費するよりも、ガチのコトでリアルをゲットしなきゃ!と常々自分自身に言い聞かせています。

 「いいね!」が多いと気持ちいいが人間の心の構造だが、実は、その先がとても白くぼやけている。恐らくこれを創った人間の心と同じように・・・。

この笑顔を・・・。

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 今回のロンドンオリンピック、いろいろな目玉があります。ほんとに金メダルの獲得が想定される選手がいろいろな競技にあり目が離せません。しかし、私は金メダルよりも、福島選手が100m女子の決勝のスタートラインに並ぶことの方が最も偉業だと捉えています。これこそが前代見本の快挙だと。だから、ボルトの世界新記録更新よりも室伏選手や内村選手の金メダルよりも、福島選手が100m女子の決勝を走り終えて、この笑顔を観たいと強く強く願っています。やはり、100m走は全ての競技の頂点だと思うのです。たかだか10秒前後の世界に世界のトップクラスがひしめき合う戦いは最高の見せ場です。楽しみ楽しみ。頑張れ!福島選手!!!

屋久島。

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 2週間後、富士山に3回目のアタックをするが、次の目標はこちら。アウトドアショップに行くと必ずここのパンフレットやチラシが置いてある。それで興味を持ったわけですが、やはり、ここはいいのだろうか?富士山とて最初はあまり興味があったというわけではない、なんとなくどうせ挑戦するなら「富士山」にしよう程度だったのがもう完全にダイブしている。で、今年は3回目となる。関東方面の登山道も魅力的だが、今年は第1回目コースにしようと思っている。理由は最短で傾斜が厳しいから。いつかもっとゆったり富士山を登りたいと感じた時に関東方面の2コースは温存したいと思っている。

 そして、来年あたりは屋久島にアタックしたいと考えている。走行距離は富士山より長いようだし、圧倒的な登山道の深さは恐らく富士山の比ではないような期待感があります。まずは、3本目をスカスカっと(なかなかそうは問屋が卸さないのだが・・・)登ってきて、屋久島のリサーチを具体的に始めたいなぁ~と思っております。ワイルドなんだろうな、屋久島のスギちゃんは・・・。

このオーラは何!?

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 琵琶湖でブラックバスを探すプロの背中。このオーラはいったい・・・。職人は言葉少なに背中で語るというがまさにこれがそれ。プロフェッショナルになればなるほど雄弁はない。必要なコミュニケーション能力は潤滑に適正に会得しながらのこの不動のオーラ。これが強い人の背中なのかなと思います。しかし、このオーラが見える人は少ないことも事実。つまり、求める人と求められた人との間だけにこの強い関係は築かれるものであり、ノーカンな人には決して見えない糸、ということになるのでしょうね。いやいや、強い人は論理や理屈ではなく強い。

批判的思考。

 批判的思考を「クリティカルシンキング」というらしい。この言葉が現代、教育現場で注目を集めている。この取り組みを授業に取り入れている学校では、これまでと違う学力、これからの社会で生きていく力を育てようという意気込みが伝わってくる。日本の子どもは論理的に考え、根拠を示して伝えるのが苦手だそうで、以前からこの指摘はあったそうですが、社会のグローバル化が進むなかで教育関係者の危機感は高まっているらしい。つまり、「そう考えた根拠は何か?」的な思考能力が大切ですよという警告。ということは根拠はスルーしていたのかな???

 正解を暗記してきた先生達がどの面を下げて「批判的思考」を子どもに伝えるというのか?伝えられる人なら危機感だとは思っていないから、そんな空気が教育の現場で盛り上がれば盛り上がるほど、子ども達は迷惑!?そもそも教育がステレオタイプな規範とルールをごり押ししてきた側面があるから、そうなっていて、それが現在の先生方の規範でありモラルであり方手式でしょうし、それを覆すことが、リセットすることは至難の業ですよね。そもそも・・・なんだから。またまた、教育の変革だなどと無意味なハチマキを皆でしめて、「団結」「絆」ってやりたいだけの人間には無理。教育の現場とは関係のない人がその責務を担う仕組みを作らないとたぶんダメ。

 極論として子どもから「先生は何故先生になったの?」という質問が来たらさてどうする?その場面で批判的思考を紐解けるのか?それともいくつか答のパターンを用意する?その人生観でひとりひとりの子どもに適正なシンクロを得ることができるのか?100人いれば100人無理でしょうね。つまり、それが戦後の教育現場の実態だから。自分で考えて生徒ひとりひとりに対峙できるポテンシャルを持っている人がひとりでもいたら大津のようなことにはなってないだろう。そもそも、いじめっこもいじめられっこもどちらの経験のない人間が「いじめ問題」に対峙できるわけがない。そんなの頭で理解できても、心で感じられるはずがない。教え育む人がガチになれば、必然的に批判的になるはずだから、何もとりたててこのことで盛り上がる必要もないはずなのに・・・。

遊ぶ、食べる、寝る。

 勤勉な日本人のリスクは遊ぶことに不器用で、食べる欲求に対しても摂生ありきで、寝る間も惜しまず勤労勤勉・・・みたいな価値感というか社会規範に支配されてはいないだろうか。よく遊んで、よく食べて、よく寝ることで「やらなければならないモード」にスイッチングがスムースなことをまるで悪行三昧のように捉えてしまうような意識がないだろうか。その規範というかモラルというか倫理がいい意味でいい側面が活性化している時はそれでも経済や精神世界は安定するのだろうが、ひとつ箍が外れるとその弊害が津波のように押し寄せている。それが現代の日本の悲鳴に繋がってはいないだろうか。呑気で気楽な印象のある国民性に対して、日本人の勤勉な特長は優位だぞ・・・みたいな自負が実は痛い側面が同居していたんだろう。政治、メディア、教育、経済、かなり現代の日本は「痛い」状態だが、この「痛み」の末には完全治癒が成し得られるのだろうか。治癒しているつもりがお互いに傷口に塩をすり込んではいないだろうか。まぁまぁ、そんなに神経質にならず、もっともっと、たくさん遊んで、たくさん食べて、いつでも寝れる人間が規範を牽引すれば新しいニーズや新しい才能が開花するしろを創っていくのじゃないだろうか。神経質に教育も政治も経済もIT・クラウド・ロジカルシンキングで何かを創造しているようで、実は隣人と同じことをして満足しているだけ。いや、SNSなど隣人と同じことをしなければ「いいね!」に繋がらないからせっせせっせと餌を巣に持ちかえっているループ。働きアリにはSNSはなんとも心地良いプログラム。その規範から倫理からモラルから飛び出すこともせず、日陰でギターを弾いているキリギリスを黙認してはいないだろうか。実は飛び出したいのに・・・。

 で、遊ぶとは?食べるとは?寝るとは?どういうことなのか。これも設計図を間違えると蟻になるし、独自の世界観や感覚があればキリギリスになれる。「遊び方、食べ方、寝むり方」の書籍でも書こうかな。限りなくネタはありそうだし、エリートには書けないだろうし、意外とのびしろあるかもね・・・。

なんか落ち着きます。

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 卒業してあまり訪れていない大阪芸大。久々にここに座ってみた。なんだろう?この落ち着く感じ。頭の中のいろいろなリミッターが解除されて昇華する感じ。落ち着くというか自分の場所に来た感覚。もう卒業して26年が経つがここの空気は昔のまま・・・みたいな。故郷とはまた違うこの場所の安心感はやっぱいい。

鉛筆デッサン。

 娘が受験のために鉛筆デッサンの教室に通うことになった。ここで基本を学び受験の実技の対策とするべく。さてさて、この「鉛筆デッサン」の極意ですが、古今東西、芸術・デザインを志す全ての人にこの能力・技術は必要不可欠。しかし、そもそもデッサンを教えるということは難しいのがホンマル。しかし、受験というタイミングでデッサン力を上げたいと考える受験生というニーズに対して、果たしてその教室の先生はデッサンをどのように紐解くのか?それが一番興味がある。大阪芸大には大阪芸大のデッサンの方程式があり、東京芸大、多摩、武蔵美、京都・・・それぞれにデッサンのニュアンスが違う。デザインや建築の分野でもデッサン力は必要である。空間認知能力として動的なレスポンスを返す運動に対して、2次元か3次元にその見える情報を複製するのがデッサン。その技術の習得にはいくつかのポイントがある。さてさて、どこまでダイブしてくれるか楽しみである。

 頭のデッサン力が上がれば私はそれでいいと思っているから、技術的なことは何も言うつもりはないが、一人のクリエーター・アーティストとして対峙するならいろいろ言ってしまうかもしれない。まぁ、それはその時考えればいいかな・・・と。そのあたりを理解している先生あることを願うばかり。口だけのヘタクソなら言うべきことを言わねばならないし・・・。ってなんでそんなに臨戦態勢なのかと自分にツッコンでいるが、いやいや、それが「絵を描く」という本質の部分。御曹司の息子で口の達者なヘタクソがいたが彼は今何をしているのだろう?一周回ってヘタクソをエンジョイしていればいいのだが。

本気の失敗には価値がある。

 確かにそのニュアンスは芯を喰っていると思う。「本気の失敗」ということになると、実際、心理的にはかなり辛い状態ではあるが、何を持って「失敗」と感じるか判断するかは高い目標設定があり、相当の技術や感覚があるからであり、その上で、ぶつかった失敗にはいろいろな意味で価値があると思いますね。高い目標設定をする際に必ず想定されるmaxの失敗をイメージして臨んでいるにもかかわらず失敗をする場合が多い。それも比較的単純で客観的にはお粗末な失敗である。何故こんなことに配慮できなかったのか?そんな失敗をいつまでしているんだ!と情けなくなるような失敗を繰り返す。しかし、それを踏み台にして次はその失敗をしないための対策と能力がそこで確実に手に入れることができた感覚・実感もあるわけで、その瞬間はどん底な気分だが、一見俯瞰でそれを見れていれば、次の瞬間、その失望感は期待値に変化させることができる。つまり、落ち込むのは一瞬でいい。しかし、失敗に慣れていない人はその失敗を頭で考え過ぎていつまでも反省し検討し対策を列挙する。まるで日本の政治の世界の縮図。だから、次の問題に臨む時にその失敗を悪い意味で引きずり動きや着想や動機づけが鈍化する。そのループを繰り返していると、その鈍化が慢性化して動きの鈍い人間になる。そんな連中が集まっている日本の政治が「本当の意味で動くはずがない。」のである。陳謝と根回しだけが上手になり、本当の確実な堅実な純粋な最初の一歩が踏み出せないのである。「失敗は成功の・・・」的なことを頭で理解し資料化して視覚化しているだけでリアリティーとして会得・体得できていない構図。

 そして、本気については十人十色でいいが、それがどんなテイであれ「本気」とは「本気」であり、それ以上それ以下の何モノでもない。が、鈍化している人は自分自身の「本気」を疑問視する。そして、絆とか団結とかいいながらみんなで赤信号を渡る準備を始める。が、適正な準備ができないことも心で知っているから青信号でも渡らない。いつまでたっても目の前の歩道橋が渡れない。しかも、横断歩道が無理で歩道橋を作るがその階段を上る体力もない。地下道も降りれるが登れないみたいな。そんな、横断歩道など赤信号でも車が横行していなければ渡ればいい。そんな状況でも対面に人が赤信号で待っていたら渡らない社会規範や硬すぎるモラルが実は挑戦するエネルギーを浪費させているのだろう。自分で判断するということは失敗もリスクも危惧も全部背負って一歩を踏み出さねばならい。

 想定外の失敗は心の芯に大きなダメージを受けるが、それを一瞬でエネルギーに変換する炉があれば、原子力発電所は必要ないのである。かなり論理が光速でワープしが、時間の軸も時計に合わせるに必要も実はあまりない。人生は短い、余裕のある生き方をしたいとほざいているうちに矢のごとく飛び去っていく。失敗の数だけ自分の本気が確認できたと気持ちが整理できていれば、失敗は時に中毒になり心地良くなるケースもあるが、それはただのジャンキーだから、紙一重でその場所からワープできるような脚力と地頭が必要なのです。立ち止まり考えている人のIQは意外と低い。

あなたの心が冷めているから!?

 発売1ヶ月で3万部突破!というクロスメディア・パブからの書籍がある。そのタイトルは「特定の人としかうまく付き合えないのは、結局、あたなの心が冷えているからだ」。仕事、家族、友人、ご近所さんまで、あらゆる人間関係の課題を解決してくれる本。と。なかなか大袈裟な挑戦的な書籍である。つまり、この反響の裏付けとして、世の中的には特定の人としかうまく付き合えない人が多いですよ、それは、あなた自身の問題であり、その問題をこの書籍を読むことで少しでも改善してください!ぐらいのテイなのだろう。¥1,344とのことでちょっといい値段だから、新書のノリから少しは踏み込んでいるのかな?とも感じている。

 で、レビューらしき文脈には「面白さトップクラス。心理学についても多く学べました。」「他人も実は自分と同じ人間だと気づかされた。」「自分を変えてくれるような力を持った本でした。」「ユーモアに富んだ著者の人柄が感じられ、心が温まった。」と綴られている。そして、文末には「日本をもう一度温め直そう!」としている。そうかそうか、日本はいろいろあり諸問題進行注の折り、総じて「冷えているのか!」と。そこであなたの心は冷えているからもっとホットに!ということなんでしょうが、さてさて、この書籍は「買い」か否か。

 これはつまりネット社会における対人能力が問われて久しい折りに、ネットでのコミュニケーションと対人能力的な部分との細かいディテールの違いやニュアンスの違い、引いては機能的な違いについてこの著者がユーモアを交えて語っているのだろう・・・と推察する。

 さて、「特定の人意外にうまく付き合いたい。」と考える状況ってどのような状態か?それが、人生観やビジネスモデルと比較した場合、お互いのポテンシャルの問題なのか、そもそもの関係性における大前提の設定の違いなのかという多種多様な条件下でこの方程式がどこま通用するか?ということになるだろう。多かれ少なかれ人との関係で「うまく付き合いたい。」と考えない人はないはずだから、この「特定」というカテゴも緩い設定でアリ。そこで結局あたなの心が冷えているということは一体どのような仮説から紐解けばいいのだろう?となりますね。

 まぁ、気になるレベルでは10段階で6ぐらいかな。最近、書店にいくとマジでガチでこのテイの書籍が氾濫している。それほどこの現代混沌としているというひとつの指標になるというものの、この路線が海外で一部、反響を呼んでいるというのもなんとなく頭では理解できる。これがひとことで慣習だと言ってしまうには短絡的であるものの、どこまでの特定想定外の人とどこまでつきあいたいと願っているのかについてこの書籍の紐解き方が変わってくるだろうし、ネットで繋がっている人と全て潤滑なコミュニケーションをとりたいとは考えていないが、どこで境界線を引くか!?とか、どのようなニュアンスで「特定の人」という属性にするのか?という目安を確認することができればこの書籍の意義・価値は大きい。しかし、概論的なことをいくらユーモアを添えて語ってもポイントがズレてたら「なし」だし・・・。ここはしばらくこの書籍に対するフィーリングが熟成するまで保留かなと・・・。

 「特定の人とうまく付き合えているのは、あたなの心がホットだからだ」というタイトルの書籍なら気になるレベルは8ぐらいになるのだが・・・。いやはや、否定から入るのが最近のノリなのだろう。日本人はなんともはや「肯定」からダイブすることをしない特性がある・・・あたりを上手く演出・利用・適用しているしている。

身体が壊れる人、心が壊れる人。

 いやいや暑くなってきました。しかし、大雨からの猛暑と日本もなかなか激しい激しい。すでに熱中症で一人死んでいるし、病院に搬送された人もうなぎのぼりだそうである。私も日差しの中、汗をかくことは嫌いではないし、汗が噴き出る肝心はどちらかと言えば好き。体力的にも、クライミングや富士山登山の練習をしているので、この程度の暑さで心は折れない。

 しかし、心が強い人は恐らく何事も身体が壊れるまで突き進んでしまうタイプだろうし、心が壊れやすい人は身体が強いと言える。しかし、どちらも弱い人やどちらも強い人は何がどう違うのか?精神を病んでいる人は結局心に余裕があるのだろう。身体にサインが出ているが、言わば、そんなのサイン程度。そりゃ生きていればいろいろなサインが出る。それに一喜一憂して精神の病だと言及できるほど、実は、心には余裕があり、自分で考えるよりも身体が弱い人なんだろう。何事もバランスだから何を基準に壊れやすい丈夫だとは出来ないが、どちらかが弱いと認識できるなら、どちらかが強いとなる。

 私自身の場合、どちらかと言うと心は簡単に壊れない。それほど能天気で無神経だと言われればそれまでだが、簡単に外部的な要因で心は壊れない。しかし、それだけに身体がいろいろ壊れてきた。両足も爆弾があり、首も腰もヘルニアがある。喉も扁桃腺が弱いし最近老眼も激しい。さらに、いぼ痔があるし、雨の降る前は1日中、偏頭痛が止まらない。しかし、昨日の一年に一回の健康診断で視力は両目とも1.5以上と計測不可能だったし、ウエストは69cmで、心臓も血液も五感も理想的な数値だった。これはどう受けて止めればいいのかと・・・さほど真剣に考えていない。なるようにしかならないと。ヘルニアもいぼ痔もたまたま。小さいことを悩んで精神が壊れている人が、語弊のある乱暴な言い方だが、うらやましい。そんなこと気にしているぐらいなら身体を動かして頭を動かして汗をかけってこと。

 自分自身が身体が壊れやすいのか、心が壊れやすいのか、どちらのタイプなのかをしっかり認識して、壊れないようにトレーニングすることが、言わば生きているということでいい。「私、心が壊れて、辛いんです。」という人、それを聞いてるこっちが辛いわ!そんなこと自分の中で解決すればいい。他言する段階で、先生に治療というテイで依存している段階で、適当な薬を飲んで心を治癒できていると誤解している段階で、その心、かなり微弱ですね。そのつぶやきは棺桶まで持っていくべきである。

 もっともっと、日本人は「反骨」であるべきだ。ビニールハウスの外は暑く寒いんです。

「やらない」が「できない」になる恐ろしさ。

 何事も変革の時代、何事も挑戦の時代と言うがそれは今も昔も同じだろう。個人が企業が国が進化するためには諦めず貪欲に挑戦し続けることが必須条件だと頭で理解していても常にどんな場合でもリスクに対する警戒心を振りほどくことはできない。その代表例が日本のプレゼンテーションシステム。企業は新しい挑戦をするために自社にはない取り組みを他社に依頼する場合、その分野に特化したビジネスモデルを営業アイテムにしている個人・企業に自社の販売促進方法を依頼する。公的な機関でもこれらのことは杓子定規に行われる通例があるが、まず、まともな審査がそこで行われることはない。つまり、大前提が緩いことを棚に上げ、なんでもいいからプレゼンテーションのテイをなせば適正な結論がお茶を濁さず結論づけられると思い込んでいるからである。しかし、企画や戦略を提案するサイドの内容とそれを厳正に審査するサイドの関係が成立しにくい側面がある。というか本質的にプレゼンテーションを誤解している場合が多く、そのほとんどが形式的に提案に対して議論する協議するというスタイルにそもそも問題の核が存在する。企業としての意思決定をするプロセスが「協議」や「会議」で適正に確定することがそもそもナンセンスなのである。それを時間だけ費やして到達した結論が最適だと思い込んでいる自分自身の判断に自身のない審査員は予定調和で結論を出す。そして、結果、挑戦しない。つまり、プレゼンテーションが「挑戦をしない」という結論に導きたいたいためだけの時間の浪費になっている場合が否めない。これにつきあわされる提案側はたまったものではない。しかし、これが経済の仕組みだから否定しても始まらないという構造パターン。これに長年携わっているといろいろな審査側の特長が見えて来る。つまり、結論、企業の組織の内部におぼろげでも結論があるとそれに呼応する提案を方向性とすることでマッチングは行われるが、いい企画があれば挑戦したいが・・・という勇気も元気も判断力もポテンシャルもない企業は辛い。それは何が辛いのか?審査を担当する人は全力で提案を吟味して展開をイメージして挑戦する価値のある内容を危機感を持って判断すしている。また、それを受ける現場の社員レベルでも実際に自分自身の取り組みとしてそのプランが「あり」なのか「なし」なのかを判断しているはず。しかし、もっともダメパターンはトップの人間に挑戦する意欲が欠落してることである。こんな状態を繰り返していると、いつしか、自信を持って会議で「やらない」と決めていることが、企業として「できない」に変わることになる。これが実は一番恐ろしい。

 これを自分自身に置き換えて考えると、「挑戦するために必要な視野」を常に持ち続け、いろいろな意味で常に「見える人間」でありたいと鼓舞している。無意味な破天荒な挑戦は無謀だが、勇気ある挑戦は必ず芽が出る。というか、そういう挑戦でしか芽は出ないことをいろいろなプレゼンテーションをしてきて逆に強く感じる。反面なんとかである。便宜上、「やらない」というのは簡単ですが、「できない」と人はなかなか口にしない。Yes, We can! と言葉にできる国民性がどこか羨ましくもある。

乖離の理由(わけ)。

 日本企業のポテンシャルとは品質の高い商品を開発・製造する「ものづくり」。得意とするか否かは絶対的な要因と相対的な要因がある。売れもしないのにニーズも発掘できないのに古い価値判断で「品質が高い商品」だと思い込み失速するパターンが加速していないかという疑問。消費者にとって比較対象になる機能やデザインが同じであればどこで創られたかは関係ない。強い強いと言われていたものづくりを活かせない市場条件が在る以上、それに固執するばかりに最悪のシナリオを黙認することになることだけは避けたい。避けたいがルートがなければそこへ一筆書きのように落ちることなる。こんな状況下なんだからものづくりにこだわらず、スタンダードなデバイスやソフトに注力しながら、古き良き経験値とノウハウを商品創りに注げばいい。このシフトチェンジがなかなか。つまり、優れたものづくりが価値づくりに結びつかず、乖離しているのである。

 その場合の乖離の理由は二つあるらしい。まぁ、一橋大学の教授の意見だから、そこは呑み込んでみたい。第一にどんなに優れた商品や技術でも独自性がなければ、過当競争になり価格が下がる。この法則こそが現代を支配しているわけ。極端な話、薄型テレビの価格の下落はまさにリアルタイムにその下落曲線を描いた。商品の存在価値の低下のスピードに制作現場が正しいタイミングを見誤る傾向にあるのだろう。第二に日本企業が創る新機能や高品質加減に顧客が市場が反応しなくなったということ。高い価格を支払っても欲しいという真の顧客価値になっていないということ。これら二つの理由はけっこう芯を喰っているから怖い怖い。

 さて、この場合の独自性とは何か?この一橋大学の教授は例のごとく「アップル」から学べと言っているが、これもいかなものか。で、日本企業の活路はとなると、真の顧客価値を創出できる技術経営への変革。特に単純機能を超えた意味的価値を提案できる人材とそれを評価できる経営プロセスが必要不可欠とのこと。日本企業はリスクを恐れ横並びになる傾向にあるらしいから、今はそれこそが最大のリスクだと捉えるべきなんだろう。どこでもやっていることを焼き直すことを見切り、独自の何かを創り出す工夫が勝負を決めるのだろうって、別に勝負勝負で白と黒でもないという大前提も忘れてはならない。

 ここまで分かったような分からないような現状の分析を経て、本当に変革を待つ人間が選別されたとして、そのエネルギーが空回りしない市場がこのまま日本であって欲しいと願うが、それもカオス。とにかく乖離してしまっているなら、何かで接合させねば。

ゴジラVSヘドラ

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 ふと原発問題・放射能問題・原爆問題を考えていたら、「ゴジラVSヘドラ」のことが頭を過った。何故この最新の問題と「ゴジラVSヘドラ」が繋がったのか不思議なのですが、そう言えばゴジラが口から吐いていたのは放射能だったぞ!ヘドラは公害でオタマジャクシ系の生物が汚染されて巨大化したっていう設定だったぞ・・・と。うんうん、そう言えばそんなテーマの怪獣映画が最近なくなったぞ!ガメラも実は原子爆弾の放射能の実験で巨大化した亀だった。空も飛ぶし宇宙にも行ってしまう・・・うううう、よくもこんな破天荒なことを設定できたものだと子ども心にちょっと背伸びをして感じていたものの、いやいや、現代の放射能問題に照らし合わせると・・・うん、恐ろしや恐ろしや。八百万の神も三種の神器で怒り心頭じゃない!?

 でも、放射能の影響で大きくなったイグアナ!?と公害のヘドロで汚染された突然変異の巨大生物の対決。ゴジラは自分の身を削り両手が骨になってもヘドラの目の玉をくりぬいた。捨て身のヒールヒーローなのである。決して、スマートな対決ではなかったが、放射能を振りまく怪獣にどこか共感を覚えた記憶。

 さてさて、二つの原発が落とされた本当の理由という書籍があるらしいが、これがまた、著者が「日本のジャーナリストである。アメリカ合衆国在住。ハドソン研究所(ワシントンD.C.)首席研究員、全米商工会議所会長首席顧問、ケネディスクール(ハーバード大学大学院)タウブマンセンター諮問委員。」と来た。さてさて、封印されたこの国の歴史に対して、捨て身で目玉をくりぬくガッツのある奴はいるのかいないのか?平安・戦国・江戸時代の夢物語に浮かれている暇があるならば、今、本当に知る必要のあるこの国の歴史を確認することの方が大切じゃやないだろうか。

売上を伸ばすためには?

 新聞にこんなフレーズがあった。やはり、この切り口を出されると気になってしまって、その広告をチェックしてしまうが、やはり、いつもの感じで緩い結末。

 そのフレーズとは「売り上げを伸ばすには、何を改善すれば良い?」となっていて、「月間抱えられる顧客の数」「商談にかかる総時間」「商談回数」「商品毎の成約率」という項目が列挙されている。一人の能力の限界をいわゆるクラウドやアプリがサポートすることで、これらを活用することで、一人の限界点を飛躍的に向上してくれるというオチ。そんなどんなソフトでどんなデバイスでどんな仕組みで数を稼いでも果たして果たして「売り上げは伸びる」のか?と疑問。本末転倒ではないが、そもそも売り上げを伸ばすためのポテンシャルというか中核競争能力をド返しして、アプリやソフトやクラウドサービスに依存するだけで数を稼いで果たして質が向上するのか?恐らくこの理想形について一見、スマートな仕組みを頭で考えると導入すれば目標値を簡単に引き上げられると考えるのが人間の浅さ。そんなことで売り上げが延びたら誰も苦労はしないしない。

 で、「何を改善すれば良い?」という正解は質を上げるために、「顧客の数」「商談の時間」「回数」「成約率」の適正値を見極めることでしょうね。安易なシステムやその場しのぎの皮算用に幻想を抱かず、自分の足で手で五感で自分自身の効率(技術や経験値や引き出しの数など)を見極めるしかない。道具は道具、戦略は戦略、売り上げは売上。何がなんでも「改善」することだけが改善ではない。「改善している。」が保険にならぬよう、そのテイに依存せぬよう、時には、設定値を下げることも必要でしょうね。実はこれが一番勇気のいる決断なのですが・・・。

スマホ依存って!?

 携帯電話から乗り換え組の急増で、スマホにハマる人たちが増えている。いつでもどこでも暇さえあればスマホの操作、いや暇がなくても操作したいといった中毒気味の人も少なくない。便利な道具に魅入られた行く末は・・・って、結果、暇なんだからいいじゃん!

 携帯電話でもインターネットはつながるし、写真は撮れる、音楽も聴けた。だがスマホの便利さはそれをはるかに超えると・・・、完全にこのライターも「便利」という言葉のチョイスを間違っている。というほど麻痺しているんだから仕方ないが。「フェイスブックが利用しやすいので、コメントのやり取りが増え、無駄な時間を費やしたと反省してしまう。無料通話ができるアプリで無駄話が増えた。」という主婦の人。まぁまぁ、主婦だからいいじゃん!それで、「スマホで最も大きな問題は時間の浪費」と指摘するのは、メンタルヘルス支援ピースマインド・イーブ国際EAP研究センター副センター長さんのコメント。それで睡眠時間が減少し仕事などの支障を来すと・・・。だから???この副センター長さんも睡眠時間が減少し仕事に支障を着たさないアプリを開発したらいいじゃん!

 ある主婦は「夫がフェイスブックのとりこ。家族で出かけても読み手に「いいね!」ボタンを押してもらえそうな材料を探して撮影、ネット掲載と、全く落ち着きがない。小学生の娘に「パパと出かけてもつまんない」と言われる羽目に。」と愚痴っているが、そもそもつまんない人間だからフェイスブックにはまるんですからこれも仕方なし。

 なぜ、SNSにそれほど夢中になれるのか?理由は明確。暇を誤認できるから。ただ、スマホやSNSを創って財を成した人達をこの誤認している人達は根底から支えているわけだから、これも経済の仕組みの一旦を担っているのだから、いいじゃん。そういう世の中なんだから、つまらないパパでも温かく見守ってあげてくださいね・・・という感じ。

 で、私は無駄な時間も暇もなく、誰かの記事も特に「いいね!」に値するとは思わないし、誰かの「いいね!」が欲しいからネットにダイブしているわけではないので、完全にスルーさせてもらっています。まぁ、何においても平和な証拠。アキリもたぶんどこかで失笑しているでしょうね。これもカオスなのかなとか、これも動的平衡なのかなとか、これも必然必然、そりゃシロもつぶやくはず・・・安心安心。

情報スーパーハイウエー構想

 「Bill Clinton元大統領とAl Gore元副大統領が1992年の大統領選を戦っていたとき、「情報スーパーハイウェイ」という当時はまだ漠然とした概念について盛んに主張していたことを覚えているだろうか。 情報スーパーハイウェイ」という言葉は何やら華やかに聞こえたが、当時はまだ、それが何を意味するのか正確に把握していない人たちもいた。あれから15年。インターネットは、現代の生活に欠かせないあらゆる重要な部分に浸透したといってよいだろう。今や、インターネットについて知らない人などいない。Pew Internet & American Life Projectが行った最近の調査によると、米国の成人人口の何と73%がインターネットユーザーであり、その数字は増え続けているという。インターネットのおかげで仕事の生産性が大幅に向上したと感じている米国人は、2001年3月の時点で全体の24%だったが、今では35%に増えている。同じ期間で、インターネットのおかげで医療関連の情報を入手しやすくなったと答えた人の割合も、17%から20%に増加した。また、インターネットのおかげで買い物が大変楽になったと答えた人は、2001年3月時点では16%だったのが、現在では32%に増えている。さらには、同じ期間で、インターネットによって趣味や興味を深めることができるようになったと答えた人は22%から33%に増えている。米国のインターネット利用者数はまさに驚愕に値する。インタ―ネットを使用している米国成人は、昨年で1億3300万人、今年は約1億4700万人に達する。さらには、そのうちの8400万人が自宅にブロードバンド接続環境があると答えている。これは昨年の5900万人からの大幅増加だ。もちろん、インターネットの普及率は、年齢層と学歴によって異なる。年代別では、18〜29歳で88%、30〜49歳で84%、50〜64歳で71%、65歳以上で32%と、若い年代ほどインターネットの普及率が高くなっている。つまり、これから若い世代が年を重ねるにつれて、インターネットはすべての年代に渡って広く普及することになる。また、学歴が高いほど、インターネットの普及率も高い。大学の学位保有者では91%がインターネットユーザーだが、カレッジ卒では84%、高卒では64%、高卒未満の学歴しか持たない場合は40%にまで低下する。したがって、学歴の低い人たちは、インターネットを使えないために、仕事、医療サービス、趣味、ショッピングなどでも、大きな不利益を被っていることになる。これからは、すべての意欲のある人たちに教育を受ける機会が与えられるようになってほしいものだ。そうすれば、学歴の違いによるインターネット・デバイドは是正されるだろう。この調査は、インターネットが、電話やテレビと同じように、米国人の生活に欠かせない存在になりつつあることを明確に示している。かつては「情報スーパーハイウェイ」という言葉の意味も明確ではなかった。それが、今や、インターネットのない生活を想像するほうが難しくなっている。」とこれがインターネットの根源と現実。こんな情報は数秒でヒットする情報だが、ここまで詳細を知ったところで何かリアリティーが在るかと言えば、別段、「へぇ~、ITリテラシーが学歴と相関性があるのか・・・」程度である。またまた、「スーパーハイウエー」などと古典のような五感もたかがだ20数年の歴史を感じさせる。

 で、これはアメリカのお話。さぁさぁ、インターネットを活用できるかできないかで利益が異なる。自分自身もこれほど仕事に活用させていただき、仕事としてWEBサイトを創っているという立場を踏まえると、このスーパーハイウエー構想の恩恵を受けている実感があるのと同時に、様々な警告や不協和音に対しても敏感になっておかなければならいと思うわけ。なんでも両刃なんですね。

せりかさん役、ピッタンコカン!

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 ムッタとヒビトはさることながら、なぜ、こうもう配役がイメージとマッチするのか?これもいい作品の条件。で、せりかさんが麻生久美子さんって!これ以上ない配役。恐らく他の登場人物も唸ることになるだろう。DVDのレンタルが待ち遠しい限り。で、ブライアンは誰だろう?私のイメージではあの人なんだが、あの人が「宇宙兄弟」に登場しているとは思えないし、そんなのネットを検索すれば、分かることだが、それは検索しない。なんでもかんでもイメージすることを楽しまずネットに依存するのは全くもって嫌いであり浅はかなる行為。逆にネットでキーワードを打ち込んで検索結果を分析するに、ほんとにこれだけ?確かにそれがヒットするのは理解できるけど、ちょっと、グーグルのデータアーカイブ偏ってないか!?とさえ感じている。グーグルや検索エンジンに依存して検索結果が情報の全てだと誤認するとそれこそ、均一な市場ができてしまうだろうし、必然的に均一なニーズに変化しないか?それがこのインターネットの最終的な目的ならば、SNSはその核弾頭だろう。スマホが手放せない人がいるってことですが、まぁ、これは末期ですね。余命で言うならバッテリーと同じかな。

 話は逸れたが、宇宙兄弟の捻じ込み方にはいろいろな戦略を感じる。しかし、それらの便宜的な部分よりも、やはり、軸に魅力があることが何より。このバランスが崩れると宇宙戦艦ヤマトになってしまう。まぁ、原作のポテンシャルは同じだと思うが映画としての成果物がああなると、なんでしょう、これ一重に集約のポテンシャルが影響大なのかな・・・。

 しかし、ブライアンは誰だろう???

素敵なアイコン。

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 なんて素敵なアイコンでしょう。最近、特に思うことは、「デザイン」=「イメージ」みたいな構図で抽象的な概念でふわふわした空想と仮想だと間違っている感じを結構なところで信頼してきた。さらに、「デザインを良くしたい。」とか「もっとイメージアップを!」って言葉にする人、特に「高感度」とか「センスあふれる」とか「感性豊かな表現を」などと分かったような分かっていない言葉を口にする人、これが非常に多いのは自然だし、分からない人が多いほどこの仕事はやりやすいからいいのですが、この人達は思うに「デザイン」に飲み込まれている人達。で、逆に強く感じるのは「デザイン」=「どこまでも現実的なリアリティーの追求」ぐらいの感じでちょうどいいのかなと思っている。きれいな絵本がきれいだと感じる前にもっと実証的な見方・捉え方をしなければいけないのかなと。一般人なら飲み込まれ方だけを気にすればいいが、それを仕事にしている以上、たまに飲みこまれてもいいが、すぐに外に出てこれる破壊力というかチャンネルの切替が必要だと思いますね。飲み込まれる瞬間って気持ちいいですしね・・・。市場心理に操られやすく、社会規範やパブリックなモラルに無抵抗な正義感はまさにこのタイプ。何かを購入する時に自分の趣味趣向だと脳が本体を騙しているのに気がつかず日本の経済活動の活性化だけをしている人。パチンコに興じている人などまさにそういう意味では総理大臣より偉い。

 まぁ、そんなことはどうでもいいのですが、しかし、このイマジネーションって、とことんアカデミック。

千尋の成長。

 最近、親しい友人といろいろなお話をする機会があった。忌憚のないところでのぶっちゃけありきのテイではあるが、お互いに少しづつ社会規範にのっとり、普遍のモラルをトレスしながらのコミュニケーション論。お互いにお互いの「分からない」をぶっちゃけ合うが、まぁ、当然のごとく平行線。だが、このある一定の平行線感が有意義気な感じ。結論を出さない努力とでもいうのか、お互いに結論は棚にあげ、ボキャブラリーと自分自身の方程式だけを机上に上げ楽しく過ごすみたいな。これは、ネットではできない楽しいひととき。お酒のチカラで潤滑に雄弁に流れ出る言葉もどこかの時間帯からループが始まる。でもいい。何故かというと古い友人だから。以前にお互いのココイチの書籍を3冊づつ交換しようという案件で、彼からも3冊到着したが私の琴線に触れることのない文字列だった。その書籍で初めてそのジャンルのテイが盛り上がっていることを知るが、さて、だから?みたいな。つまり、これも前述の通りで、本人が目の前にいて、ご本人と親しい関係ならまた何か創造的な会話もできたろうが、書籍レベルの体感温度ではクソに近い価値だった。合わせて、私が送った書籍の感想を聞くがこれまた見事にノーリアクション。つまり、全てはそんなものなのである。自分のフェイバリットな何かと誰かのファイバリットにはいろいろな想定外の深い谷があるということ。これがまず大前提。で、昨今のツイッターやF.B.のそれがはなはだ疑問に思える。世の中がWEB1.0からブログモードになり、SNSが世界を席巻し、タブレットやスマホが浸透中。次は次は?と求め過ぎるイグアナ。さりとてこの短期間に進化できるはずもなく、爪も伸びなければ、水かきが指の間に出て来るわけでもない。だから、サボテンの花も水中の海藻も遠い。しかし、ネットの中を回遊する人達はサボテンの花を海藻を食べたような気になり空腹を満たしているみたいな。だから、何が「いいね」なのか・・・と。

 さて、昨晩、「千と千尋の神隠し」をテレビで放映していた。この映画何回観たことだろう。恐らく30回以上は観ている。が、ラストシーンまで釘付けになる感じは何故だ?ジブリの映画に言えることだが、宮崎さんが作成した以外のアニメ映画は見事にノーカンなのに対して、なぜ、宮崎さんの作品にはあれだけのいろいろな何かが潜んでいるのか?映画を観るたびにその潜んでいるモンスターが画面の中に現れてくる。それは、言わば、観ている人を映しているとでもいう表現の感覚。あの頃、世の中のジブリ作品のファンが騒いでいた頃に観た感覚と、こうして時を経て観る時、同じ作品なのですが、何か新しい印象がそこかしこに散りばめられていることに気がつく。それは、宮崎さんの映画は観ている人に何か小さいジャブを打ちこんでくるからかもしれない。映画作品を創る段階で、創り手は観ている人に対して受け身が基本姿勢なのだが、あまりにも膨大で感覚的な魂が込められた作品というのはその作った人と観ている人を繋げる仕組みが内在しているような。これを「感動」「絆」「学び」だと便宜上の語彙で処理することは簡単だが、非言語に対して言語や論理はナンセンス。非言語なら非言語で受け取らなければ。それを受け取ることができる人だけ用に実はトラップがあるのだと思った。何回観てもいいという言葉の裏に実はその作用が機能している。

 で、友人の言葉の中にある何かと、宮崎さんの作品の中にある何か。恐らく、私個人に対して捉えるならその構図は同等であったはず。だって、友人も一人の人間だし、宮崎さんも一人の人間。それを目の前で語るか映画作品で語るかの違いだけですから。しかし、映画の中での千尋の成長は、少女が大人に・・・などとクソみたいな表現方法では何千通りパターンにも及ばない非言語なリアリティーがあった。もし、私が、何か絵を描き、友人が何かイラストを描き、それを交換したなら、無反応は回避できたかもしれない。千尋の成長をあの物語のテイで描くためのエネルギーって、原子力発電所に例えたら何基分のエネルギー創出量?って原子力発電所の発電能力と宮崎さんの創作意欲のエネルギーは人間社会に対して前者がマイナスで後者がプラスなのだから比較にならないが、それにしても、「伝える」ことは難しい。だから伝わった時の喜びがモノホンなのである。これを繰り返し、サボテンの花を、海中の海藻を食べれるようにダイブしなければならないのだろうと。すれば、豚になった父と母が還ってくるのだ。あの豚、あの奇妙なキャラ、顔なし、そして、後半に登場したシルエットの人達。あの世界観がいったい何からどこから生まれたのかそのことだけに気持ちを集中できたことだけでも、千尋の成長はドラマチックですよね。もっともっと人の心は複雑怪奇ですが・・・。

マッキンゼーの人。

 マッキンゼーとは「マッキンゼー・アンド・カンパニー (McKinsey & Company.) は、1926年にシカゴ大学経営学部教授のジェームズ・O・マッキンゼーにより設立されたアメリカ合衆国に本社を置くコンサルティング会社。社名の「カンパニー」は「仲間達」の意味。関係者は単に"The Firm"と呼ぶことでも知られる。1926年、カーニー&マッキンゼーという一つのファームから、マッキンゼ-&カンパニーとA.T. カーニーの2つに分かれて、米国にオフィスを開設。米国、欧州、アジア、南米、東欧など世界44カ国に80以上の支社を持つグローバルな戦略系コンサルティングファームとして知られる。全世界の主要企業を対象に、年間1,600件以上のコンサルティング・プロジェクトを手掛ける。出版事業として、『マッキンゼー・クオータリー』の発行を手がける。1971年、東京に日本支社を開設。現在は六本木ファーストビルにオフィスを構える。日本支社の出身者としては、大前研一が有名。現在の日本支社長はジョルジュ・デヴォー。」と普通に検索すればヒットするが、そのマッキンゼーの人はなぜ年俸1億円でもその会社を辞めるのか?という書籍がある。

 で、「インパクト志向」というキーワードがあるのですが、さてさて、この刺激の鉱脈からは何が出てくるのだろう?ほんとに書店にいくと「年俸」とか「~歳からの仕事術」とか「~の間違い」あたりのキーワードのオンパレード。これを頭にすることで購買を仰ぐのが主な目的だとしてもこれで仮に自分自身が鼓舞できたとして何なる?それで人生が変わるとでも?自分自身の本質が根本的に変わるとでも?書籍は書籍である。人生を変えた一冊など夢物語でしかないのに、俺はこの書籍に出会えなかったら・・・みたいなテイは全くもってメンドクサイ。一冊の書籍で人生を変える前に一冊分の人生の蓄積があるのか?という疑問と不思議な構図。書籍の一文をシンクロさせて瞬間風速を上げている人、次の思考で辛い気持ちなった経験はないでしょうか?その場の瞬間風速にはあまり価値がないし、読んで知った情報が自分のスキルになったという勘違い系はネットの横行でより深刻になっているような気がする。これからの時代はF.B.でっせ!みたいな人達、いつまでそのテイが続くかな?もっと、地頭や地肩を鍛えなきゃ。年俸1億円を捨てる捨てないの話ではなく、「一億円」という貨幣価値に振り回されるか振り回すか!?みたい部分が実は軸。

 マッキンゼーという会社に全く興味はないが、1億円の年俸を捨てた人には興味がある。

7月4日。

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 18年前の写真。ちょうど、18年前の昨日(7月4日)にアメリカに着いた(奇しくも独立記念日)。その3ヶ月の滞在期間中のどこかで撮影してもらった一枚。場所はN.Y.からバスで1時間ぐらい走った海浜地区。この日は留学していた大学の課外授業でローカルのテーマパークと歴史博物館へのミニツアーだった。その休憩時間にルームメイトが撮影てくれた一枚。うん、若い。30歳だったのかぁ・・・。この時の心象は今でもかなりリアルに蘇る。懐かしいという感覚よりも、ここに立ち、いろいろ考えていたことが、今現在の考えと軸が同じであることがなんとも心地いい。しかし、写真(印画紙)っていいですね(これは向こうで焼いてもった一枚。ちょっとサイズが大きい。)。デジタルフォトフレームではこうはならないな。WEBのフォトギャラリーでもこの心の動きはない。何故だろう?

 また、行きたいな、N.Y. 絶対に行くぞ、N.Y. 冬のN.Y.に行くぞ!

COOL!

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 そう言えば、最近このクールさがどこにもなかった。なかなかこうはいかないいかない。クールというのは絶対的に本能的に真価としてのクールでなければならない。が、それがこの存在感には充分に封印・内在・含有している不思議。ぜひぜひ、「火と戯れる女」も引き続きよろしくお願いしたい。この二人でなければならないんです。他のテイもあるようですが、それはそれ、これはこれ。ぜひぜひ、このリスベットでお願いしたい。

お仕事の後。

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 仕事で水彩画(カラーインク)を描いたのですが、いつもその後にはこのようなafter worksが残る。これは、どこかで見た用紙。決して、イラスト用の専用の用紙ではなく、マクドナルドに行けばいつも5枚ぐらい商品といっしょに入っている紙。水彩画を描く時、いろいろな絵具(アクリルやガッシュやポスカラなど)を使うが、特に透明水彩を描く場合は染料系なので、ちょっとでも筆や筆洗の水に濁りがあると、色の発色(彩度)に影響を及ぼすので、さぁっと筆の水分を適正に取ってくれる用紙がベスト。布などもいろいろな種類をを試したが、吸い取る側の色の汚れが蓄積するとどの色が吸い取られたか判断できない。つまり、現在、筆についている色がどの程度の色なのか、どの程度の水分なのかをしっかり確認する必要がある。だから、布の使いまわしはNG。また、ティシュなどの紙も使ったがこれもダメ。絵具を吸い取り過ぎる。しかも、目が粗いので筆に入れた色のトーンが分からない。他にもいろいろこの用紙を試したのですが、このマクドナルドの手拭きがベストアイテム。だから、私の仕事場にはこのマクドナルドのティッシュがひと箱ふた箱ストックしてある。一回の仕事でこれぐらいの頻度になるから、仕事が終わればポイ。描画するボードの白度にもよるが、この白さなら筆に入っている絵具の色確認もできるし、水分を吸いこみ過ぎないので非常に有効なのです。

 ペン先も用紙の繊維がしっかりしているのでとても有効です。このマクドナルドのナプキンは、なかなかのスグレモノなんですね、実は。

不発弾!?

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 これが何に使われていたか不明ですが、決して、不発弾の弾頭ではありません。なんかのパンチか、重機のヘッドに装填して石やコンクリートを粉砕していたヘッドかな?仕事中に拾ったのですが、なんとなくこのさびた感じが気になりました。たくさんの仕事をいっぱいしました!みたいなリアルがありました。結構この部品はいい仕事をしたのだろう。

火と戯れる女。

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 ここでこれ。楽しみ楽しみ。で、ついでに宇宙兄弟第9巻。こちらも楽しみ楽しみ。

菅浦の漁港。

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 菅浦の漁港にて。昨日は夏日のような午後、船の影に溜まっている何かの稚魚。この配列のパターン、なんとも美しいですね。しかし、何の稚魚???

たかが英語!

 「僕は確信した。これはかつて日本で行われたことのない実験になる。英語公用化で日本は復活する。楽天2年間の実験で確信した成功のマニフェスト。TOEIC750点ないと部長にしません。会議や議事録はすべて英語。約1年半で会社員のTOEICの平均点は161点アップ。スコアのベスト5部署、ワースト5部署を発表。英語で仕事ができれば、必ず日本は浮上する。英語習得には1000時間の仮説・・・ほか」と続くこの書籍「たかが英語!」となっている。三木谷社長のこの取り組みは実に芯を喰った取り組みだと思う。なぜ楽天は社内公用語を英語に変えたのか。その理由をひことで言えば、世界企業は英語を話すからだ。僕は、これからの日本企業は世界企業にならない限り生き残れないし、逆に、日本企業が世界企業への脱皮に成功すれば、日本はもう一度、繁栄できると考えている。日本の復活、繁栄のため、楽天の試みが役に立つと、僕は信じている。と言い切っている。素晴らしい、本当に素晴らしい。

 たかが英語、されど英語なのである。

 これの取り組みを政治の空間や原発関連の企業さんで取り入れれば、もっと、いろいろなことが明確にクリアになるような気がする。つまり、ボトルネックが実は「日本語」だったという暴論に帰着することだけは結果的に避けたいが、どうも、真髄はそこにあるような気がする。この不思議な不思議なコミュニケーション形態は恐らく文化や歴史が礎となった社会規範やモラル的なエレメントが言語として再構築・アウトプットされる時に発生する歪んだ信号なのだろう。論理的が論理的でなくなり、文章化することが逆に芯を外してしまうような言語として発達・進化してきたことが、実は劣化であり退化だったと三木谷氏は言いたいのではないだろうか。

 この書籍はチェックだし、楽天で働いている人達がある意味、羨ましい限りである。先を走る時、身体で感じる風の心地良さみたいなものを苦しさと同時に楽天の社員さんはリアルに感じておられるのでしょうね。日本の復活がなされるか否かは別段どうでもいいが、この時期にこの書籍を世に送り出せる三木谷氏はさすが一歩も二歩も、もしかすると、百歩ぐらい先を快走しておられるのだろう。

 うんうん、素敵な書籍ですね。

「雨」。

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 「日本画モダン」というスタイルなのだそうだが、それはまぁ、どうでもいい。しかし、この絵、最初に見た時からインパクトは小さいが記憶に残っている。日本の慣習というか文化というか生活様式の一部分を見事に切り取っているというスタンスに置いていつも事ある毎にこの絵が頭に浮かぶ。それが何故だか理由は明確ではないが、瓦の上に降り始めた雨というこの切り取り方のセンスが心に残っているフィーリングである。細かく文章化すると画面の校正や彩色の巧みさなどが上げられ批評されているが、その文章化されたこの絵の分析の向こう側にこの絵の真価みたいなものがあるように感じらる。それは何だろう・・・?と。センスとひとことで言ってしまえばそれまでなのですが、つまり、これは、福田平八郎さんの時間とでもいうのだろうか、それがこのシンプルで明確な「モダンさ」に完璧に封印・刻印されている絵なんだろう。これが作家・画家としての究極の至高のような気がする。

 うんうん、こんな1枚の絵を残せたら最高だろう。

5698件。

 クラウドに穴が開いた。大手サーバ会社のクラウドデータの完全消失。その被害件数が5698件。この数字は多いのか少ないのか。その被害額をこのサーバ会社は保証できるのか?この不徳の事態にそなえた保険はあったのか?いやはや恐ろしい世界です。サーバがどうなってこうなるのかは知らないが、経理上のデータや顧客データだけではなかったはず。全てをクラウドに依存したばかりにこうなってしまった時に「想定外」だったと諦めることに人間は慣れていない。しかし、クラウドとは両刃でこのような不徳の事態に備えるというのもノウハウとして学ばなければならないのか。これが便利を手にする側面なのかもしれない。

 同様に、もうすぐ大飯原発が再稼働を始める。自分自身が生まれ育った地元がこんなことでホットになるとは想定外である。橋本知事は関西電力のことを精一杯のその立場で言及しようとしているが、最近は予定調和として次の段階にシフトしているように見える。つまり、この再稼働を決定した世代を見切るという判断。もう、この国は大飯原発の再稼働を決定し決定を促した世代に翻弄され続けている。この世代は恐らくこの日本の経済の大多数を管理して最終決定権を持っている世代。その世代が正しい判断をできないのなら、次の世代がもっとしっかりしよう!というスローガンである。しかし、どの時代にも「正しい」はなく、「しっかりしよう!」レベルの抽象的なモチベーションでは、どこかこの本土内に膨大なレアソースか燃料ガスが噴出しない限りこのままプレートを残したまま沈没するだろう。

 教育の現場でもこれらは同様にその世代が戦後の価値感とシステムをコピーペーストしている。それが、継承だと誤認しているのをどこかでリセットさせるタイミングが必要。必要だった。3.11はその絶妙なタイミングだったとも言えなくないが、それでも、フラット化のシステムはまだまだ健在だったということ。それが、原発再稼働であり、5698件のデータ消失とどこかがバタフライエフォクトのような気がする。

 で、本日、富士山開山。今年も充分にトレーニングはできていないから苦しい登山になるだろうが、それでも、あの場所に立ちたいと考えている。富士山山頂には何もなかったが、また、そこに行きたくなる気持ちは確実に心に刻印されている感覚。つまり、動いて、考えて、創るという、体、心、技術のバランスを崩させる情報を排除しスルーし、いいサインを自分の手に馴染ませることがもっとも価値があるということ。逆にそれ以外に翻弄されぬよう迷いながらでも前に進みたい。

 5698件の皆様、この度はご愁傷様でした。クラウドの神様はいたずら者ですよね。ウチも気をつけよう、バックアップバックアップ。