千尋の成長。

 最近、親しい友人といろいろなお話をする機会があった。忌憚のないところでのぶっちゃけありきのテイではあるが、お互いに少しづつ社会規範にのっとり、普遍のモラルをトレスしながらのコミュニケーション論。お互いにお互いの「分からない」をぶっちゃけ合うが、まぁ、当然のごとく平行線。だが、このある一定の平行線感が有意義気な感じ。結論を出さない努力とでもいうのか、お互いに結論は棚にあげ、ボキャブラリーと自分自身の方程式だけを机上に上げ楽しく過ごすみたいな。これは、ネットではできない楽しいひととき。お酒のチカラで潤滑に雄弁に流れ出る言葉もどこかの時間帯からループが始まる。でもいい。何故かというと古い友人だから。以前にお互いのココイチの書籍を3冊づつ交換しようという案件で、彼からも3冊到着したが私の琴線に触れることのない文字列だった。その書籍で初めてそのジャンルのテイが盛り上がっていることを知るが、さて、だから?みたいな。つまり、これも前述の通りで、本人が目の前にいて、ご本人と親しい関係ならまた何か創造的な会話もできたろうが、書籍レベルの体感温度ではクソに近い価値だった。合わせて、私が送った書籍の感想を聞くがこれまた見事にノーリアクション。つまり、全てはそんなものなのである。自分のフェイバリットな何かと誰かのファイバリットにはいろいろな想定外の深い谷があるということ。これがまず大前提。で、昨今のツイッターやF.B.のそれがはなはだ疑問に思える。世の中がWEB1.0からブログモードになり、SNSが世界を席巻し、タブレットやスマホが浸透中。次は次は?と求め過ぎるイグアナ。さりとてこの短期間に進化できるはずもなく、爪も伸びなければ、水かきが指の間に出て来るわけでもない。だから、サボテンの花も水中の海藻も遠い。しかし、ネットの中を回遊する人達はサボテンの花を海藻を食べたような気になり空腹を満たしているみたいな。だから、何が「いいね」なのか・・・と。

 さて、昨晩、「千と千尋の神隠し」をテレビで放映していた。この映画何回観たことだろう。恐らく30回以上は観ている。が、ラストシーンまで釘付けになる感じは何故だ?ジブリの映画に言えることだが、宮崎さんが作成した以外のアニメ映画は見事にノーカンなのに対して、なぜ、宮崎さんの作品にはあれだけのいろいろな何かが潜んでいるのか?映画を観るたびにその潜んでいるモンスターが画面の中に現れてくる。それは、言わば、観ている人を映しているとでもいう表現の感覚。あの頃、世の中のジブリ作品のファンが騒いでいた頃に観た感覚と、こうして時を経て観る時、同じ作品なのですが、何か新しい印象がそこかしこに散りばめられていることに気がつく。それは、宮崎さんの映画は観ている人に何か小さいジャブを打ちこんでくるからかもしれない。映画作品を創る段階で、創り手は観ている人に対して受け身が基本姿勢なのだが、あまりにも膨大で感覚的な魂が込められた作品というのはその作った人と観ている人を繋げる仕組みが内在しているような。これを「感動」「絆」「学び」だと便宜上の語彙で処理することは簡単だが、非言語に対して言語や論理はナンセンス。非言語なら非言語で受け取らなければ。それを受け取ることができる人だけ用に実はトラップがあるのだと思った。何回観てもいいという言葉の裏に実はその作用が機能している。

 で、友人の言葉の中にある何かと、宮崎さんの作品の中にある何か。恐らく、私個人に対して捉えるならその構図は同等であったはず。だって、友人も一人の人間だし、宮崎さんも一人の人間。それを目の前で語るか映画作品で語るかの違いだけですから。しかし、映画の中での千尋の成長は、少女が大人に・・・などとクソみたいな表現方法では何千通りパターンにも及ばない非言語なリアリティーがあった。もし、私が、何か絵を描き、友人が何かイラストを描き、それを交換したなら、無反応は回避できたかもしれない。千尋の成長をあの物語のテイで描くためのエネルギーって、原子力発電所に例えたら何基分のエネルギー創出量?って原子力発電所の発電能力と宮崎さんの創作意欲のエネルギーは人間社会に対して前者がマイナスで後者がプラスなのだから比較にならないが、それにしても、「伝える」ことは難しい。だから伝わった時の喜びがモノホンなのである。これを繰り返し、サボテンの花を、海中の海藻を食べれるようにダイブしなければならないのだろうと。すれば、豚になった父と母が還ってくるのだ。あの豚、あの奇妙なキャラ、顔なし、そして、後半に登場したシルエットの人達。あの世界観がいったい何からどこから生まれたのかそのことだけに気持ちを集中できたことだけでも、千尋の成長はドラマチックですよね。もっともっと人の心は複雑怪奇ですが・・・。