「やらない」が「できない」になる恐ろしさ。

 何事も変革の時代、何事も挑戦の時代と言うがそれは今も昔も同じだろう。個人が企業が国が進化するためには諦めず貪欲に挑戦し続けることが必須条件だと頭で理解していても常にどんな場合でもリスクに対する警戒心を振りほどくことはできない。その代表例が日本のプレゼンテーションシステム。企業は新しい挑戦をするために自社にはない取り組みを他社に依頼する場合、その分野に特化したビジネスモデルを営業アイテムにしている個人・企業に自社の販売促進方法を依頼する。公的な機関でもこれらのことは杓子定規に行われる通例があるが、まず、まともな審査がそこで行われることはない。つまり、大前提が緩いことを棚に上げ、なんでもいいからプレゼンテーションのテイをなせば適正な結論がお茶を濁さず結論づけられると思い込んでいるからである。しかし、企画や戦略を提案するサイドの内容とそれを厳正に審査するサイドの関係が成立しにくい側面がある。というか本質的にプレゼンテーションを誤解している場合が多く、そのほとんどが形式的に提案に対して議論する協議するというスタイルにそもそも問題の核が存在する。企業としての意思決定をするプロセスが「協議」や「会議」で適正に確定することがそもそもナンセンスなのである。それを時間だけ費やして到達した結論が最適だと思い込んでいる自分自身の判断に自身のない審査員は予定調和で結論を出す。そして、結果、挑戦しない。つまり、プレゼンテーションが「挑戦をしない」という結論に導きたいたいためだけの時間の浪費になっている場合が否めない。これにつきあわされる提案側はたまったものではない。しかし、これが経済の仕組みだから否定しても始まらないという構造パターン。これに長年携わっているといろいろな審査側の特長が見えて来る。つまり、結論、企業の組織の内部におぼろげでも結論があるとそれに呼応する提案を方向性とすることでマッチングは行われるが、いい企画があれば挑戦したいが・・・という勇気も元気も判断力もポテンシャルもない企業は辛い。それは何が辛いのか?審査を担当する人は全力で提案を吟味して展開をイメージして挑戦する価値のある内容を危機感を持って判断すしている。また、それを受ける現場の社員レベルでも実際に自分自身の取り組みとしてそのプランが「あり」なのか「なし」なのかを判断しているはず。しかし、もっともダメパターンはトップの人間に挑戦する意欲が欠落してることである。こんな状態を繰り返していると、いつしか、自信を持って会議で「やらない」と決めていることが、企業として「できない」に変わることになる。これが実は一番恐ろしい。

 これを自分自身に置き換えて考えると、「挑戦するために必要な視野」を常に持ち続け、いろいろな意味で常に「見える人間」でありたいと鼓舞している。無意味な破天荒な挑戦は無謀だが、勇気ある挑戦は必ず芽が出る。というか、そういう挑戦でしか芽は出ないことをいろいろなプレゼンテーションをしてきて逆に強く感じる。反面なんとかである。便宜上、「やらない」というのは簡単ですが、「できない」と人はなかなか口にしない。Yes, We can! と言葉にできる国民性がどこか羨ましくもある。