本気の失敗には価値がある。

 確かにそのニュアンスは芯を喰っていると思う。「本気の失敗」ということになると、実際、心理的にはかなり辛い状態ではあるが、何を持って「失敗」と感じるか判断するかは高い目標設定があり、相当の技術や感覚があるからであり、その上で、ぶつかった失敗にはいろいろな意味で価値があると思いますね。高い目標設定をする際に必ず想定されるmaxの失敗をイメージして臨んでいるにもかかわらず失敗をする場合が多い。それも比較的単純で客観的にはお粗末な失敗である。何故こんなことに配慮できなかったのか?そんな失敗をいつまでしているんだ!と情けなくなるような失敗を繰り返す。しかし、それを踏み台にして次はその失敗をしないための対策と能力がそこで確実に手に入れることができた感覚・実感もあるわけで、その瞬間はどん底な気分だが、一見俯瞰でそれを見れていれば、次の瞬間、その失望感は期待値に変化させることができる。つまり、落ち込むのは一瞬でいい。しかし、失敗に慣れていない人はその失敗を頭で考え過ぎていつまでも反省し検討し対策を列挙する。まるで日本の政治の世界の縮図。だから、次の問題に臨む時にその失敗を悪い意味で引きずり動きや着想や動機づけが鈍化する。そのループを繰り返していると、その鈍化が慢性化して動きの鈍い人間になる。そんな連中が集まっている日本の政治が「本当の意味で動くはずがない。」のである。陳謝と根回しだけが上手になり、本当の確実な堅実な純粋な最初の一歩が踏み出せないのである。「失敗は成功の・・・」的なことを頭で理解し資料化して視覚化しているだけでリアリティーとして会得・体得できていない構図。

 そして、本気については十人十色でいいが、それがどんなテイであれ「本気」とは「本気」であり、それ以上それ以下の何モノでもない。が、鈍化している人は自分自身の「本気」を疑問視する。そして、絆とか団結とかいいながらみんなで赤信号を渡る準備を始める。が、適正な準備ができないことも心で知っているから青信号でも渡らない。いつまでたっても目の前の歩道橋が渡れない。しかも、横断歩道が無理で歩道橋を作るがその階段を上る体力もない。地下道も降りれるが登れないみたいな。そんな、横断歩道など赤信号でも車が横行していなければ渡ればいい。そんな状況でも対面に人が赤信号で待っていたら渡らない社会規範や硬すぎるモラルが実は挑戦するエネルギーを浪費させているのだろう。自分で判断するということは失敗もリスクも危惧も全部背負って一歩を踏み出さねばならい。

 想定外の失敗は心の芯に大きなダメージを受けるが、それを一瞬でエネルギーに変換する炉があれば、原子力発電所は必要ないのである。かなり論理が光速でワープしが、時間の軸も時計に合わせるに必要も実はあまりない。人生は短い、余裕のある生き方をしたいとほざいているうちに矢のごとく飛び去っていく。失敗の数だけ自分の本気が確認できたと気持ちが整理できていれば、失敗は時に中毒になり心地良くなるケースもあるが、それはただのジャンキーだから、紙一重でその場所からワープできるような脚力と地頭が必要なのです。立ち止まり考えている人のIQは意外と低い。