アニメ文化。

 こんな洞察があるブログで展開されていた。

 「ディズニー帝国の衰退 ウォルト・ディズニーは、アメリカの現在のアニメーションの基盤を作った人物である。(日本で言えば漫画の神様、手塚治虫というところだろうか)実際は、ウォルト・ディズニー自体は、ミッキーマウスの絵も満足に描けなかったそうで、その仕事ぶりはいわばプロデュースや総監督という役割に近かったのかもしれないが、生前・死後もディズニースタジオのアニメ作品が、長い間一貫して同じ思想のもと黙々と職人たちによる「ミュージカル寓話」が作られ続けてきたのは、彼の功績と威光に他ならない。自分は日本人として、アメリカのアニメーターには想像力が欠如しているなどと思い込んでいた(実際には違う)。「技術的には芸術性は極めて高いのに、肝心のお話が頭から終わりまで常に一本調子」ということや「キャラクターにリアリティを感じないため」ということが原因である。日本のアニメが好きな人はそう思う人も多いかもしれない。だからこそ、日本人は自国のクオリティの高いアニメーションを見て現在のアニメ文化ができるまでになった。
 なぜ、アメリカのアニメ文化が停滞してしまったか? アメリカのアニメーション全体が、長い間ウォルトディズニー調になってしまった原因としては独占的にディズニーがアニメ映画を制作してきた事がまずある。そして、アメリカのアニメーションとは、所謂カートゥーン(子供が見るためのアニメ)のことだったので表現を限定されてしまった。(「バイオレンス表現を禁ず」など、伝統の方針があったりする)そして、90年代初頭ごろにはディズニーのアニメーションは、目の肥えた人にとって「相変わらずクオリティの高いなめらかな動き」という1点のみでしか評価を保てなくなったように思う。」非常に素晴らしい分析である。これら分析の中にアニメ文化の真価が見て取れるような気がする。

 つまり、「求めている人と創っている人の距離の違い」なのだろう。一世を風靡するとネームバリューが自然発生してそれが逆に谷を作る結果になる。初めは一つの山の出来事だったのに、いつか別の高い山になる。そして、二つの山の間に深い谷ができる。創っている人と描いている人が、「アニメ作品本来のドキドキワクワク」を優先しなくなったことで、谷ができるのだろう。

 いつまでも、創る人であり描く人であるなら、頭で正解を考えながらも、ドキドキワクワクする心を失ってはいけませんよという基礎の鉄板ルールなのだろう。それが今、日本の作品群が世界に波及している理由なのだろう。うん、これほど強いコンテンツはないわけである。ワクワクドキドキは万国共通の言語なのである。言葉の壁を超えるために最も失ってはいけないモノが「ワクワク」と「ドキドキ」なのだろう。