置かれた場所が必然なのか!?

 「境遇を選ぶことはできないが、生き方は選ぶことができる。「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子著。苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる 置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。」とこの書籍の広告文は締めている。この「置かれた場所」の定義は難しい。境遇という言葉をどう理解すればいいのか?生き方を選ぶということは具体的にどういうことなのか?概念の中で仮説と仮定を組み上げて崩すトライは何パターンもできそうだが、さて、人間は生命を維持するために飯を喰わねばならないし、家族がいれば養うために稼ぐ必要がある。消費税が10%になったからと言って、次次に原子力発電所が再起動するからと言って、机の上でおままごとをしているハリボテ野郎達が国を仮に動かしているとしても、さて、その上で、自分自身の生き方とは?みたいな真理。この書籍がバイブルテイストなのはこの著者のポテンシャルを鑑みれば分からなくないが、こんな時代だからこそ心の拠り所としての宗教というアプローチはきな臭い臭くないではなく、絶対数が求めている限り真理に近いと捉えて間違いではないように思えた。

 さて、「置かれた場所」か?現在の持ち駒は何だろう?自分の引き出しとは何だろう?この書籍を読んだ人達は皆そのことを考え、現在の立ち位置を再確認するのだろうか。結果、この出版社は書籍が売れればいいのだろうし、この書籍の価格が1,000円だから、このテイの内容だったら、50万部のニーズがあったということがリアルな部分。では、この5億の市場のネクスト・イノベーションは何だろう?現在進行形で捉えるならこの書籍・コンテンツで現在の立ち位置が見えたまではいいが、次に自分自身を鼓舞して奮い立たせるためのモチベーションはどこにある?つまり、そこのループが滞っているから、5億のニーズが設定できるのだろう。さてさて、この5億のニーズは大きいのか小さいのか。この著者はこのコンテンツで何を失って何を得たのか?そして、「置かれた場所」が見えた人達は今?何事も悲観的に捉えればキリがないし、楽観的に捉えることもままならない。ちょうどいいフィーリングは重心が緩い。止まっていると筋肉は乳酸を生むが適度な運動は筋肉を活性化させる。つまり、ブレインワークも同じことが言えるのだろう。「動き続けること」これが実のところ「置かれた場所」の真骨頂(必然)のような気がする。