ケータイ化!?

 「ケータイ化する日本語」という書籍がある。佐藤健二著。その広告文には「本書のタイトルから連想されるような「ケータイのせいで最近の若者の言葉づかいが乱れている」などというお説教を垂れる本ではない。そもそもケータイの話は後半で出ていくるのだが、それまでは「ことばとは何か」「電話で話すとはどういうことか」といった原理的な話題が、生理学や哲学、歴史学の知見を参照しながら述べられている。なぜそのような回りくどい説明をしなければならないか。人によってはもう意識すらしないのかもしれないが、実はメディアを通して人と話すという行為は、非常に不自然なものだ。例えば留守番電話で「メッセージを残してください」と言われても何を話していいかとっさには分からずまごまごした経験が、誰でもあるのではないか。あるいは、親元を離れて一人で暮らしはじめた時、ずっと一緒で暮らしていた親からの電話に、なぜか戸惑いを覚えた経験はないだろうか。著者は「ことば」と「ケータイ」の間のぎこちない関係の先に見出すのは、私達は、そのようなことばを用いて公共的な社会を築くことができるのだろうか、という問いだ。確かに、今では高齢者でもケータイのメール機能を使いこなしている人は珍しくないし、スカイプのビデオチャットで孫の顔を見るのが楽しみという人もいる。だが一方で、ケータイの画面の向こうに広がるネットの「ことば」によって傷つけられたり、デマに踊らされたりする人がいるのも事実だ。ことばの重みは、目の前にいる人の発したものであるかないかということは、無関係のものになりつつある。」と綴っている。

 う~ん、ケータイと言葉の関係か。その前に、もっと、つきつめなければいけない問題点があるように思えるが、ケータイの問題はその葉の部分だろう。幹や根の方が、いや、大地に目を向けると、もっともっと、深刻な問題があるはず。しかし、それを適正に隠ぺいすることも大切。実はそれをメディアと呼んでいるとかいないとか・・・の部分が一番興味がある。