2012年09月 アーカイブ

毒か薬か!?

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 本日、アマゾンより到着。2012年9月6日第1版の書籍。さてさて、毒か薬かってことで、非常に楽しみな一冊です。

「ガオッ!」というテイで。

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 今年の年賀状に「ガオッ」というフレーズを使った。さてあと2015年も3ヶ月だ。「ガオッ!」になっているのかいないのか、まだ、微妙・・・。とにかく60ページのネームを仕上げた先に「ガオッ!」の真価が待っているような気がする。なかなかこの時代、この景気、この国で「ガオッ!」といくのは難しい側面も多々あるが、それでも、なんとか自分なりの精一杯の「ガオッ!」になればいいかな。

この逞しさ・・・。

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 この逞しさ…好きだ。植木鉢の奴らがデスクの上まで繁殖してきたので、のびしろを切ってガラスの器に差しただけなのに、もう、根が出て、新しい葉を用意している。この逞しい感じ、いろいろ観葉植物は育ててきたが、やっぱ、ポトスがチャンピオンである。

誇れる今であれ!

 「いつか来る未来のために 誇れる今であれ!」としほさんは歌っている。まぁ、これもテイによるのですが、すっと頭に入ってくるパターンはとても心地いい。これがどこかの政治家達がじゃんけん大会をしているテイでメディアにこぼそうものなら、失笑で終わる。この違いは言葉の内容ではなく、誰がどのように誰に対して送っている言葉なのかというTPOが重要なのである。つまり、言葉は同じでもディテールが異なるのである。だから、だからこそ、どういうポテンシャルかということが言葉のクオリティーを左右し浮沈させるということ。これがネットの世界に代用されると、豊富な分析と機智に富んだ洞察があったとしても、誰が何のためにが緩いと言葉がふわふわしてしまう。だから、常にリソースフルであるために、誰がの部分が重要なんだろう。ここにワーク・シフトが適用され、毒になるテクノロジーがシンクロしてくると、仮想空間の指針が壊れ、いつか、過去の遺物になる。すでに異物なんだからスルーしている人はアイソレートを楽しんでいる人か「いつか来る未来」が見えている人だろう。一生懸命型の努力を持ってしても、戦略過多な策士の妄想にしても、自分の誇りが本当に蛇なのか縄なのか?という綱渡りをもって「今」を模索・探究・試行錯誤するしかない。原因と結果の相関性のコントール方法のチュートリアルはない。失敗と多くの小さい傷を乗り越えて得たノウハウでしか相関性も均整のバランスも見えてこないような気がしますね。毒にも薬にもならない時間だけは「お疲れさん」したいものです。

かもめんたるが私の裏グランプリ!?

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 バイきんぐさんは確かにハネた。準優勝の「イタトン!」もフレーズ的にはハネた。しかし、キンコン2012から数日が経つがボディーブローのように心にズンズン来るのは間違いなく「かもめんたる」。笑いがどうのとかスピード感がとかリズムがとかではない、私が好きな笑いのツボがかなりの密度で積め込んであったように反芻している。どれだけことあるごとに、かもめんたるさんの2本のネタを頭の中で想い出し繰り返し反芻していることか・・・。その秀逸性たるや、決して907点ではない。確かに確かにバイきんぐさんの970点越えは凄まじいハネ方だったし、圧巻のグランプリであることは誰も認めるだろう。ダウンタウンの二人でさえ、その栄誉を「快進撃」と称えている。それは間違いのない事実。しかし、本当のツボはここにあったような気がする。

 最初からざっと並べるが、「ペッと貼る」「マーガリンを」「青春のワンデー」「オヤジがエロイ」「勿論」「目をつむりながら全力疾走」「サルの角膜」「ケチケケすんな!」「後の祭」「ハバネロ」そして、「笑顔の気絶」。さらに「お疲れ」「紐か蛇か?」「モンスター」などなど。このたったあの短いコント2本の中に、これだけのキーワードをマッチングさせるセンスは、あの松本人志さえ凌駕すると思います。笑いに勢いやスピード感は絶対大切だが、よく聞けばそれはオモロクナイ。ということもある。しかし、かもめんたるのお二人の「笑いのセンス」はこれまで観たどのコントよりもクオリティーがハネていた。キンコンさんやロバートさん、ロッチ、しずる、我が家、旬なコントエキスパートは多くいるこの現代の芸能界で、かもめんたるさんのクオリティーはトップクラスの光を放っていたように思えた。

 あの2本がへびだったのか?紐だったのか?他の作品も観てみたい。そして、できれば、簡単にテレビに出て欲しくない。テレビメディアの中でかもめんたるさんの知的なセンスが浪費されるは避けてほしい。ココイチで素敵なコントを捻じ込んでほしいものです。

やっぱ一台手元に・・・。

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 やっぱ、一台、手元に置いておきたいですので、只今、物色中。

世界を敵に・・・!?

 ふと、テレビを観ていると、どうしてもツッコみたくなるフレーズがいくつかある。それは、特にイマドキのJ-POPSというカテゴリーの中に目立つのですが、いわんや、AKBや韓国勢やジャニーズ系は最下層を浮遊していればいい程度で瞬殺にしてもう無感覚に近いのですが、人気デュオやちょっと雰囲気重視のふわっとしたタイプの歌手(決してアーティストは呼びたくない)が誰からか提供された楽曲を着飾って、ライトアップされて、マイクを握るというテイでのお話です。

 そんなクラスの人間が仮にも自作の歌詞だとしても、「世界を敵に回しても・・・」というフレーズは重すぎる。よくそんなことを思いつくな!という感覚。これもボキャブラリーの問題かもしれないし、間違いなくボキャブラリーの問題なのだが、聴き手も聴き手、「世界を敵に回しても君を・・・」みたいなフレーズが耳に引っかからないのか?よくよく考えたら、ええっ!どれぐらいの世界を敵に回すのか?とツッコみどころが巨大過ぎて麻痺してしまうぐらいのなんでやねん!というヤツである。高々誰かを好きになったぐらいのテイで、何も世界を敵にまわさなくてもいいだろう・・・みたいなことは、やはり、冷静に考えられなかったのだろうか。いや、それほど、熱くメッセージを綴りたかったのだろうが、もっと、他にそれならそれで適正なフレーズは無かったのだろうかと・・・。世界ですよ世界。サイバーテロやデモを先導しているアジテーションかい!って思ってしまった。し、それを聞き流せるってかなり神経系の麻痺がひどく蔓延していないかと。そりゃ、「毒になるテクノロジー」という書籍に反応してしまうわけ。

 で、他には「星に願いを・・・」とか「月に願いを・・・」というフレーズも気になる。冷静に捉えると、そもそも、その願い事とはどれぐらいの願い事?誰かが私を愛してくれるように願うのか?ドバイで自社ビルを建てたいと願うのか?宇宙飛行士に選ばれたいと願うのか?で、そのベクトルは変容する。まぁ、歌の世界レベルだから、「星」や「月」が分かりやすいのだろうが、そんな時、絶対に、「木星」に願うことはしないだろうし、「アンドロメダ星雲」に願うこともしないのであるから不思議。一般的な感覚として、何かそこそこの願いをする時に「星」とか「月」にしておけば、丸く収まるというセオリー的なことなのか。

 さらに、「永遠に・・・」というフレーズも使用活用頻度は意外と高い。しかし、日常会話ではあまり登場しないが、こと上記の緩い歌手達はこれを連発する。「永遠の世界」「永遠に君を想う」「永遠に続く道」って、そんなのは科学的にどこにもない。100億年が永遠と捉えるのか、100年を永遠と捉えるのか、適正値はその歌詞を創った人の感覚に依存するが、例えば、1000年を永遠と捉えている歌があったとして、歌詞の内容や状況や伝えたいメッセージがある設定で「永遠」は1000年なのか?と捉える。すると、それを聴いている人達(ファン)の中でいつしか永遠の尺が「1000年」になったとして、「永遠」の定義が1000年でいいのか?とならないのだろうか?

 「世界を敵をまわす」「星や月への願い」「永遠」、非常に魅力的なフレーズだが、よくよく考えると、やっぱ、なんでやねん!となる。ほらほら、SNSに日々呆けているH.N.さん、なんかツッコでみな!?

毒になるテクノロジー。

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 「20秒おきにスマホを触ってしまう――。テクノロジーに毒される、脳と心。インターネット、スマートフォン、SNS、メール、ゲームが脳を狂わせ、心の病を引き起こす?フェイスブックで増長する自己愛、覗き見趣味、マルチタスクと躁うつの関係、スマートフォン中毒、幻想振動、セクスティング、感情染・・・・・・アメリカ766人への大規模調査で明らかになった、ソーシャルメディア、スマートフォン、マルチタスクなどのテクノロジー/メディアが脳や心に与える影響。

あなたも、こんなことありませんか?

◎電車に乗ったら、まずスマホ。むしろそうじゃない人がいるのか?
◎早く家に帰ってネットサーフィンがしたい。Youtubeが見たい。頭の中はそればかり
◎テレビを見ていると強迫観念的に湧いてくる。やせたいやせたいやせたいやせたい・・・・・・
◎ゲームやスマホに支配されている感じがある。いうならばiPhone中毒、iPhone奴隷
◎「いいね! 」がほしくて必死にネタ探ししている。

 テクノロジー/メディアの進化は止まらない、だからこそ知っておいてほしいことが本書にあります。専門家による危険度チェックと対処策つき。」ということですが、オモロそうな本があるある。

 なるほどなるほど、良薬口に苦し・・・と。逆にね・・・。

 追伸、しょうゆはコップに3センチほどの量を飲むと高熱が出るし、塩もおおさじいっぱいなら軽く体調不良になりひどい時は呼吸困難になる。頭痛などの錠剤も処方を誤れば命を脅かす。つまり、何事も適量がいいということ。便利な最新技術、楽しいオンラインシステムもいいけど、適度にやってこそ、というか、効果的に使うことが軸であるべき。そもそもSNSの中に何があるのか?ビジネスの核心に触れるような情報をSNSに書き込むわけがないし、それをほのめかすような戦略的な文章力があればそれでいいが、そんな人はSNSなどに決して依存はしない。これがあらゆるモノゴトの分岐点である。さてさて、美味しいおしょうゆの使い方をしていますか?年齢と共に醤油や塩加減がうす口になるわけですから、若いうちは肉派でも魚派になり、濃い味からうす味になる。これは、人間の個体が学習している証。ならば、このiPhoneブームは完全に若手向けの商品である。若手が敏感だということではなく、ただただ刺激を求めているだけ。で、その次にきんぎょの糞が連なるという仕組み。アップルもなかなか痺れる戦略を展開するものですねぇ。流石と言えば流石。毒と薬は紙一重。

アキヨノグチさん。

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 世界チャンプか・・・。優勝するよりも追求・探究することか・・・、優勝はただの過程なのか・・・、研ぎ澄まされた感覚と、ほわんとしたキャラ。どこまでもマイペース。そこには「自分と壁」があるだけなのですね。美しい以上に気高いですね。どこか、世界が見えている人はガツガツゴリゴリではないパターンの奴ですね。チー様(福島千里さん)もどこかこんなタイプですし、結局、決意とか覚悟とかモチベーションなんてのは表出しなモノ。無意味なパフォーマンスや雄弁な理論派がどこかカッコワルイ。というほどカッコイイみたいな。私もまずは「15mの壁」を制覇したい。

 野口さんのボルダリングの本とDVDはもう何回読んで観たことだろう。圧倒的な柔軟性と適正なバランス感覚と判断力と思い切り。あとは自重と重力のガチのバトルなんですね。このシンプルさ美し過ぎます。

バイきんぐさんオメデトウ!

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 いやいや、バイきんぐさんおめでとうございます!って感じ。苦節の末のチャンプ。昨日の涙はとても印象的でした。

 さて、決勝8組のコントネタをあれから何回も頭の中で検証している。何故ダメだったのか、何故、バイきんぐさんがハジけたのか?そこには時代性もあるしシナリオの秀逸さもある。そして何よりもこのご両名の渾身さのベクトルが「笑いの神様」を引き寄せたんだとざっくりですが、分析しています。しかし、何回その展開を想い出して頭の中で反芻してもこの2本のネタはハジケている。さすがチャンピンオンである。昨晩の結果が、バイきんぐさんの芸人生活を900度ぐらい変えるだろう。

 それにプロットがいい。「バイきんぐ」さんならではの朝までの「害虫駆除のアルバイト」か。苦節が結果を導いた瞬間、そのポテンシャルとモチベーションがあの高得点に置き換わったのかと・・・。

太公望は世界共通。

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 いろいろな人がいるもので、こんなタッチで釣りにダイブしている人がいる。「太公望」と検索すると、「中国、周代の政治家であった呂尚の別名。出典は「史記」。呂尚は大変な釣り好きで、渭水という川で釣りをしていたところ、周の文王に「我が大公(周の祖)が望んでいた賢人だ」と見だされたという故事から、呂尚の釣り好きにちなんで、釣り人や釣り好きな人を「太公望」と呼ぶようになった」とある。同時に、「妻に逃げられた男」という代名詞もあるぐらいだから、なんとも興味深い男である。では、そもそも「釣り」とは何か?を改めて最近考える機会があった。何故?人は魚を釣るのか?というテーマ。恐らく食うためが主因だろうが、そこから人間は「楽しむ」ことへシフトしていく。数多ある「快楽」の中で何故?「釣り」をチョイスするのか?そこで、太公望というキーワードが必然的にフォーカスしているわけですが、この故事の裏理解がどうなのかについて適切な論拠は発見していないが、恐らく、人生をエンジョイするために人は「釣り」をしているし、人がそう考える以上、この「釣り」に付加価値を装填することで、別のベクトルに覚醒しようとしている。すると、「釣り」再構築した賢人のベクトルが波及・伝導した時、新しい「釣り」が生まれた。ここが価値感の創出に相当するのだろう。で、私は釣りと言えば子どもの頃は、のべ竿にウキを付けて餌釣りだった。川でも湖でも海でも。しかし、ある時、「ルアーフィッシング」という付加価値を知る。そこから、針に餌を付けることはなくなった。というより卒業した感覚。もういいかなという感覚。これも明確に言葉で説明することは難しいが、なんとなくノンバーバルに「もうええかな・・・」という程度。で、「ルアーフィッシング」の醍醐味・魅力は何かを考えると、適当なフレーズはいくらでも出て来るが、単純に「餌釣りよりもなんとなく楽しい。」のである。疑似餌で魚にフェイクをかますのが楽しいのか、人間が創造したツールで自然と対峙するのが楽しいのか、その部分について永久に答は出てこないような気がするがとにかく楽しい。「釣った魚は食べる」という原理も正解だと思うし、ただ、「楽しい」ためだけに釣るという釣りも釣りなのである。まぁ、こんな風に「釣り」を深く考えたことがないし、考えても考えても答はないだろう、というより、人それぞれに答があるから楽しいのである。その答と答で共鳴できることが実は一番の「楽しさ」なのかもしれない。この人間の楽しさの代償に魚は水の中から抜き上げられる。しかし、それは魚が人間に負けたわけではなく、たまたまなのである。それをさらに競うという付加価値を創造した人間は道具を進化させてきた。優れた道具がよりたくさんのより大きな魚との出会いを与え給えると考えるのが人間の業だが、それが実は一番楽しいのである。

 食べることも本能であるのと同じぐらいに、その業に魂を委ねぬことが実は脳幹への刺激になっているような気がしていますね。これに付随する関連する枝葉は無数にあるだろうが、何故、「バスフィッシング」をしているのか?と聞かれれば、「食べることと同じで脳幹が刺激されるから。」という理由が今のところ自分自身の正解ですね。

 で、もう一人、ここにもその正解を見つけた人がいる。こちら、素敵なブログです。

杉井俊介BLOG http://www.hideup.jp/blog/sugii/2010/05/

大企業は20代でやめなさい!

 「東大卒業後、三井不動産を30歳で飛び出し、不動産業界に新たなビジネスモデルを確立した起業家が語る、自分の能力で稼ぐ力の身に付け方「大企業は20代でやめなさい」大企業からベンチャーへの逆ステップアップ論 君は安易に進むべき道を決めていないか?大企業にいることが最高のキャリアプランではない。名刺(肩書き)がなくても仕事ができる自身はありますか? このまま大企業に残りたい場合 誰がやっても同じ成果が出るような仕組みになっている プロジェクトの規模は大きいが、任せられる仕事の幅は狭い 対外的な仕事では自分の力が1割、名刺の力が9割 出世で重要なのは、仕事の成果よりも社内営業 実際にマネジメント経験を積めるのは限られた人だけ 一方、20代でベンチャー企業に転職した場合 自分のアイディアからビジネスが生まれ、その成果を実感できる 規模は小さいが業務の幅が広く、その分だけ力が身に付く 自分の力で組織をつくり、人を動かし、自己存在感が得られる 会社の仕組みづくりから参加でき、経営者としての視点も獲得できる 20代からマネジメント経験が積め、自身の市場価値も向上する」という大谷義武著の書籍がある。

 まぁ、「大企業」などとは無縁の私は上記のキーフレーズは全て大前提である。ただ、ベンチャー企業である必要もないし、「20代で大企業をやめなさい!」なら「独立しないさい!」ぐらいでちょうどいいとは思うが、ここはこの書籍の編集者が企画段階で保険を捻じ込んだのだろう。ま、そんなことはどうでもいいことであり、「自分の力が1割、名刺の力が9割」というのは悲しい。ただ、現代、そうそう名刺の力で仕事が回る時代でもないのだから、そこが目減りしたらたまったものじゃない。

 さて、「やめなさい!」ということはチュートリアル通りにこの書籍のターゲットは大企業にまずは入社できている状態が大前提。で、そこでポテンシャルはあるのだから、名刺で金看板の下で仕事をするよりも、自分の本当の達成感やリアルで社会と対峙してくださいというメッセージだろう。この著者がいかほどか不明だが、新しいビジネスモデル、新しいビジネスモデルと魔法の術式のように唱えても、決して、「新しい」にはならないということも第一歩の敷石の下にしのばせておく必要がある。ここの幻想を無意味に覚醒し過ぎると、覚醒し過ぎた触手が自分の首に巻きつくので。結局、迷っている人や停滞気味、失速気味の人達って、自分で自分の首を絞めていることが多いんじゃないかな。特に精神的に・・・とか仕事が辛くて・・・というつぶやきを正論化したい弱い・・・というか、モノゴトを曲解している人は、ここが緩い。非常に緩い。いくらチタニウムのボルトとナットで組み上げようとしてもそれが緩んでいたら、マジンガーZは絶対に動かないし戦えない。

 で、大企業にも高学歴にも高バックアップもない私はどう考えるか。恐らくこの書籍のこの著者とは根本の部分で気が合わないだろう。まぁ、どこかでこの著者とFACE TO FACEに意見交換する場はないだろうから、気楽にバッサリできるのですが、恐らく、この書籍自体がこの著者にとってのプロモートツールであるはずだから、たてまえは「共有」したいだろうが、ほんねは「得ありき」のはず。そこを黙殺してこの著者の文脈を掘る判断はしない。この人はこの人、私は私。「羨望」「嫉妬」は大罪!?だから、こうしてブログにして記録するが記憶することはしない。

なんだこれ!


 なんだなんだなんだ、これ!

これかな・・・。


 この女性、なかなか、モノホンですね。他にもいろいろあったけど、モデル系のスタイル優先みたいなイメージで全く「強そうオーラ」がなかった。基本的に武術なんだからフィットネス感覚ではちょっとテイストが違う(何基準!?)。ガチのやつを探していたらヒットしたのがこちらでした。強そう・・・です。そして、華麗ですね。

55歳、100m、12.6秒、全国3位。

 恐らく、根本的にマラソン(長距離)が好きではない。つまり、早くないからだけなのだが、それに呼応して長時間苦しいのが嫌い。登山なら何時間でも歩くのにマラソンも同じでしょう・・・と言われるが、私の中では違う。なんというかみんなでスタートラインに揃ってスタート合図で出発してみんなでひとつの流れになってゴール!みたいな一体感が嫌い。恐らく、昨今のマラソンブームの本丸はここにあるという説がある。なんとなくうなずけるような気がする。なんか嫌なのである。だから、マラソンの大会に出たいとは思わない。だって、絶対に確実に間違いなく1番にはなれないのだから。自分が絶対に優勝できる可能性が0%なのに一緒にスタートしてみんなでゴールというひとときに価値を感じない。マラソンブームは全国的に盛り上がっているのでこんなことを書いたらブログが炎上しそうだが、まぁ、いい。しかし、ぶっちゃけると長距離を走れる人の健康管理やその運動能力を心の底からリスペクトしているからの天の邪鬼論なだけなのです。自分の首と腰の椎間板ヘルニアは恐らくマラソンなどしたらこのヘルニア爆弾が爆発するだろう。

 で、ヘルニアに優しい体感と筋肉で疲労度の少ない競技しか自分自身はできないのである。そこで、あれやこれやとやっているのですが、ある時、年齢もそこそこの方がこんなことを言っておられた。「55歳で、100mを12.6で走れたら全国で第3位に入れるよ・・・」と。この数値はさてどこまで凄いのか?現在、私が48歳。陸上経験のあるオリンピックに出たような人だったら、いったい、48歳でどれぐらいのタイムを出すのだろう?恐らくそういう人が55歳になり50歳以上という枠の中でエントリーされて、はじき出したタイムが12.6秒なのだろう。これで全国3位だということは、優勝するには12.3か・・・。

 古い話だが、私が足を故障する前の中学3年生の時、非公式ではあるが、ただの校内の記録会で11.7秒だった。その頃の肉体を復活させることなど神様に100回お願いしても神様は恐らくドン引きだろうが、ネットで調べると40歳代の全国の大会の平均タイムは12秒台後半だった。でも、50歳になってもし13秒台で走れたら、滋賀県ぐらいだったら入賞できるかもしれないのかと浅はかな私は考える。

 最近、昔の太ももの故障箇所もなんともないし、登山すると股関節が痛むがしっかり走り込んで身体を作ればもしかして、いけるんじゃないか・・・とまたまた無謀なことを考え始めている。まぁ、それほど現在の体調がいいことも起因しているが、このまま身体をしっかり作り走り込めばここに手が届く?かも・・・、届かないかな・・・?

 しかし、現段階でそれなりに調整したら今何秒なんだろう???どっかの大会にエントリーしてみるか!?

55cmのお宝写真。

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 あるアングラーから送って頂いた55cmのバス君。これが・・・へぇー、あのポイントで、このルアーで、こんなTPOで出てくるんですか・・・。強烈です。私自身55は出したことがないので、この迫力をいつか手にしたいものですね。いやいや、この写真だけで迫力迫力。素晴らしいトロフィーサイズです。

棒術について。

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 やはり、根本的に武術と言えば、リー様である。他にいろいろおられるが、ストレートにりー様のイメージが一番戦慄で興奮した。強いイメージというよりも、とにかくインパクトが強かったからだろう。

 ヌンチャクも確かに印象的ではあったが、私自身は、このシンプルな「棒」という武器にどこかあこがれていたような記憶がある。道具はシンプルで手に馴染むがBEST。使いこなして道具はその道具以上の結果(効率や品質)を出すと思いたいから簡単に道具を変えることはしない。とにかく、顔がいい道具を直感で選び、とことんまで使い込むことが一番重要だと考えている。高価な道具をセオリー通りにコレクションしても手に馴染んだ道具には勝てないと信じている。というより、技術も戦略も精神力も中途半端だから道具に依存しているパータンが嫌い。という視点でこの「棒」という武具が絵的に好きです。

ひさびさに月9全11話を制覇。

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 何年ぶりにか月9のTVドラマ「リッチマン、プアウーマン」に集中できた。この前これほど興味を持てたドラマはさて何だったか?と忘れるぐらい今回はドストライクでしたね。まぁ、IT関連のお話だったことや、主役の二人がなんともはまっていたのがその大きな理由です。さらに、脇の皆様も金閣銀閣レベルのいわゆるメンドクサイ脇の人達ではなかったのがモノガタリのスマートさをより強調していたのだろう。メンドクサイ脇の人が一人いるだけで話のテイストが濁りますしね。

 という意味で、第1回目から通して第11話までなかかなのペース配分でした。後半3話ぐらがちょっと巻いていたような気がするが、それでも、それまでのアップダウンがしっかり効いていたように感じています。後味のいい最終回でした。しかし、テレビドラマの最終回を観たっていう記憶もここ5年程は数本だったので、改めて「テレビで毎週チェックする物語」の楽しさを堪能しましたね。

 とてもしっくりする話にテンポと主役の二人のノリがビシっとマッチしていました。良かった良かった。

 しかし、次の月9は、いわゆるメンドクサイ感じ。だから、間違いなく完璧にスルーですね。

ワーク・シフトが届いた。

 「孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」と。著者リンダ・グラットンはロンドンビシネススクールの教授。経営組織論の世界的権威で、英タイムス紙の選ぶ「世界トップビジネス思想家15人」のひとり。ファイナンシャルタイムズでは「今後10年まで未来に最もインパクトを与えるビジネス理論家」と賞され、英エコノミスト誌の「仕事の未来を予測する識者トップ200人」に名を連ねる。組織におけるイノベーションを促進するホットスポッツムーブメントの創始者。「Hot Spots」「Glow」「living Strategy」など7冊の著作は、計20ヶ国語以上に翻訳されている。人事、組織活性化のエキスパートとして欧米、アジアのグローバル企業に対してアドバイスを行う。現在、シンガポール政府のヒューマンキャピタルアドバイザりーボードメンバー。」と。まぁ、この経歴は書籍が到着して表3で確認した程度だが、この書籍「かなり」の価値がありそうです。この電子ブック時代に¥2,000のハードカバーで手元に置きたい書籍ってかなり限らてくるし、この書籍を電子ブックで読む自分自身はイメージできない。紙というディテールで書籍というテイでこそ、この中の活字が反芻できるというもの。

 書店に行けば数多のビジネス書が百花繚乱ではあるが、長浜の書店をチェックしたが、この書籍はどこにも積んでなかった。2012年8月5日が初版で、この手元の書籍が9月15日の第5版と。なぜ、この街にはこの書籍がないのか?もう先をこされてたのか、入って来るルートがないのか?後者が現実だったらちょっと寂しいな・・・。

 でも、こうして、出版されて1ヶ月以内に手元にあるってことで頭に刻むために細かく分析したい一冊ですね。

Right-ONやりよる。

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 なかなかいい感じ。やりよりますねRight-Onさん。これはストライクな戦略です。しかし、この存在感はなんだろう・・・?しかし、かわいいぞ。

たまには・・・。

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 たまには描いておかないと・・・。とは言え、あまり考える過ぎるのはしない。仕事じゃないんだから描きたいモノだけを描く・・・が一番楽しい。

WORK SHIFT

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 寸評にはこう書いてある。「下流民か、自由民か。地球規模で人生は二極分化する* 2025年、私たちはどんなふうに働いているだろうか?ロンドン・ビジネススクールを中心とした、「働き方コンソーシアム」による、世界規模の研究が生々しく描き出す2025年のに働く人の日常。「漫然と迎える未来」には孤独で貧困な人生が待ち受け、「主体的に築く未来」には自由で創造的な人生がある。どちらの人生になるかは、〈ワーク・シフト〉できるか否かにかかっている。

 働き方が変わる!〈5つのトレンド〉 ◎テクノロジーの発展 ◎グローバル化 ◎人口構成の変化と長寿化 ◎個人、家族、社会の変化 ◎エネルギーと環境問題

 働き方を変える! 〈3つのシフト〉 ◎ゼネラリスト→連続スペシャリスト ◎孤独な競争→みんなでイノベーション ◎金儲けと消費→価値ある経験

 食えるだけの仕事」から意味を感じる仕事へ、忙しいだけの仕事から価値ある経験としての仕事へ、勝つための仕事からともに生きるための仕事へ。覚悟を持って選べば、未来は変えられる。 」という書籍が満を持して登場した感じ。

 さらに、別のサイトの紹介文を読むと、「<第1のシフト>は、1つの企業内でしか通用しない知識ではなく、高度な専門技能を磨き、ほかの多くの人たちから自分を差別化すること。<第2のシフト>は、自分で意識して人的ネットワークを作り上げること。難しい課題に一緒に取り組む盟友や、イノベーションの源泉となるバラエティに富んだ大人数のネットワーク、そして日々の生活をともにし、ストレスを和らげる「自己再生コミュニティ」を積極的に作ること。<第3のシフト>は、大量消費主義を脱却し、モノより経験に価値を据えて価値観の転換をはかること。このシフトがうまくいけば、人は自らが主体的に選んだキャリアで、100歳近くまで充実した人生を送れます。でも、うまくいかなければ、孤独に追い込まれたり、新たな貧困層として世界から取り残されてしまいます。」よと・・・。

 どうやらキーワードは「差別化」と「人的ネットワーク」と「価値感の転換」なのである。

 うんうん、この本はかなりビンゴですね。つまり、動かず、創らず、考えていない人は失速するということ。さらに、動いているだけ、創っているだけ、考えているだけでも失速するから危機感は相当です。しかし、ワークシフトと言わず「パラいダムシフト」して、変容を受け入れる覚悟のある人、というよりも、自然にエンジョイしながら、ある側面でシリアスにある別の側面ではオプティミズムにバランスよく取り組める頭と身体があればあとはいい意味で「たまたま」がなんとかしてくれるということかな。

 まだ、書籍を入手していないので、なんとも言えないが、今、受験勉強をしている人、今、どこかの企業の内定取得の手に汗をかいている人、一旦、社会に出たがイマイチしっくりきていない人、長年務めた会社のほころびばかり見えているが身動きできない人、もうすぐ定年だけど自分が何者か不明な人、あらゆる人に均等に「ワークシフト」の津波は押し寄せてくるだろうと言いたいのかな?まぁ、いい。シフトチェンジを意識するほど安定した仕事はしていないし、シフトありきの仕事だからどうにでもできるだろう・・・という人間に対してはこの書籍、さてさて、「あり」か「なし」か。「なし」でもいいから「買い」だろう・・・。「シフト」って、そんなに力む必要もない。そもそも全てがシフトしながらフォルムを維持しているのだから。それがDANであれ、黄金比率であれ、法典であれ、必然も偶然も受け入れよう的なオチならこの書籍はかなりイケてるだろう。

 さてと、いつどのタイミングで購入するかが実は一番楽しみです。

終わらせる・・・。

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 「009」についてかなりの想い入れがある。昔の頃から時代が変わりテーマも同じでは完結しないだろう。新しい物語を少しサイトで拝見したが、サイボーグがその使命を担うにはちょっと壮大過ぎるような気がするが、そこはアニメーションの利点。テーマを見極めしっくり来ることを期待ししつ、この映画の公開を待ちたいですね。

海外での競争力。

 「国立社会保障・人口問題研究所の予測によると、日本の人口に占める65歳以上の割合は、2050年には35%超にも及ぶという。まさに世界でも類を見ない超高齢化社会の到来である。これから10年の間に就労者の25%が定年退職を迎えリタイアしていく計算だ。これはすなわちプロジェクト・マネジャーに関しても、いま現役で働いている彼らの4分の1を失うことを意味するわけであり、こうなると日本企業が国際市場で競争を繰り広げるための貴重な戦力の喪失になると危惧している。実は、米国からも2009年よりこうした状況を心配する声が再三にわたって寄せられているのだが、今のところ日本政府の反応はほとんど見られない。実際、日本でPMP(Project Management Professional)資格を有するプロジェクト・マネジャーは、2011年8月に31,000人弱に達したのをピークに、ついに減少へと転じ始めている。一方で世界には47万人ものPMPホルダーがいる。なかでも中国やサウジアラビア、アラブ首長国連邦、ナイジェリア、ブラジルなどでは、対前年比50%以上という猛烈な勢いで増えている。ナイジェリアに至っては国家政策としてプロジェクトマネジメント教育に取り組んでいるほどだ。多くの日本企業が中国をはじめとする海外市場に進出しようとしているが、そこで競合となる新興国の企業が急速に力をつけているわけである。日本企業は一刻も早くベテランのプロジェクト・マネジャーの経験やノウハウを若手のプロジェクト・マネジャーに伝承しなければならない。どうすればそれがうまくいくのかというのが目下のところ最大の課題である。」という情報がある。

 つまり、全て老朽化しているのである。そして、いつまでもご老体の声が通りやすい社会構造になっているのだろう。それは慣習なのか経済のシステムなのか、はたまた、教育的な側面からなのか。いずれにしても、老朽化と空洞化が起こっていることに対して、政治が国が動かないのは当然。国単位でも企業単位でも上部の人間が動かなから会社が活性化しないとうそぶいている若者から中堅選手が一番タチが悪いというか非生産的。上記の脈からも経験のあるエキスパートから何かを伝えてもらることを待っているから層が厚くならない。国や政治の政策をいい意味でも悪い意味でも「待ち」の状態だから、現状があると捉えない中堅選手が多いのではないかな。文句だけは一人前、行動力はなし。資本もなし。ブレインもなしと。会社のシステムの中で考えてきたからそうなったとは考えず、氾濫する情報の中から自分に都合のいい情報だけをチョイスしてコレクションしているだけ。しかし、そこに自分自身の実態をリフレクトできていないから、フレミングの法則が崩れる。

 教育の現場でもメディアの現場でも見えている人は「見えていない人」とのネットワークをそっと切ることが多い。どうでもいい井戸端会議的な情報につきあっているほど、実は暇ではないのである。そんなネットの世界に血迷ったり、SNSの仕組みに呆けているぐらいなら、自分自身の眼力を鍛え、知力を高め、手足を動かして、努力をしなければ・・・ですね。基本全て「P.M.S.」なのですよね。

なんかカワイイ・・・。

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 あるWEBサイトのプレゼント企画商品。なんかカワイイですね。WEBキャンペーンだったのですが、メンドクサイのでエントリーはしない。3名様の確率に期待するほど暇でもないし・・・。ただ、なんかカワイイ。

漫画の作り方#001

 最初の出会いはなんだっただろうか・・・。恐らく「野球」か「仮面ライダー」だろう。いきなり「アトム」とかではなかったような記憶がある。テレビアニメと記憶が混在してしまうが、恐らく漫画というスタイルの初めての出会いは野球関連で「巨人の星」あたりではないだろうかと記憶している。同じ野球でも、実際に野球をし始めると「侍ジャイアンツ」や「ドカベン」や「野球狂の詩」などがあるし、アニメなら「アパッチ」がとても鮮明に覚えている。つまり、モノゴコロとパラレルに「野球」が心の割合を占めていたことは確か。だから、シンプルにスポーツをするなら野球であり、将来の夢は的な部分では、野球選手という夢が描きやすい構造にシステムになっていた。それほど漫画の影響は子どもの心にダイレクトに訴求した。平行してギャグやSFテイストなどもあったし、正義のヒーローモノについては真髄までダイブしていたような。つまり、子ども頃、人格形成までとは言わないが世の中の価値感を推量するモノサシとして漫画という情報がかなりの割合で心に影響を及ぼしていることは事実。その中の後半で「釣りキチ三平」に出会うがここはまた「野球」とは異なる別の世界が展開されまたそのベクトルで子どもなりに試行錯誤し右往左往する。それが楽しいとなり、どこか心の充実度に繋がって、そこから新しい価値観がいくつも芽生えたのだろう。

 大人になるとそんな子どもの頃の感覚から漫画に対する軸足が少しづつ変化する。しかし、なんでしょう、漫画の不動の存在感は自分の中の「子どもの心」のかなり中心部分をそのモードで突き動かされている感覚がある。これは一生この感じなのかなと。

 で、漫画から絵の魅力を知った人間は一枚の絵に対して、物語を持つ。大学の頃、「あなたの絵は時間の切り取りや心象風景が多いですね。」と言われた。平面に作品を描く時、イマジネーションの源泉は自分の中にある。それを絵画・イラストレーションとして切り抜く場合、全体の物語の中のココイチを切り抜くのですが、これが自分自身では完結しているが、第3者にはピンとこない。この絵作りのアプローチでかなり悩んだ。それは漫画という絵の連続性を大前提にイメージを膨らませてきた結果、一枚の絵に切り抜くプロセスで前後のイメージも含めてしまう変な癖が機能していたのである。

 だから、一枚の絵にすることよりも、自分自身は物語を絵にすることの方が好きなんだ。という今現在の結論なのです。これが、詰まっていた血管が通る感じ。堰き止めていた異物がなくなり流れが一気に動き出した感覚。淀んでいた渕に新しい水が流れ込む感覚なのである。いやいや子どもの頃の記憶や経験って恐ろしい。

 ということで、基本の基本に立ち返り、漫画を描くための「ネーム」を時間があれば、スケッチブックに、メモに、チラシの裏に、ミスプリの裏にと描いている。また、これが心地いい。心地いい気持ちで描いた絵は必ずその「心地良さ」が伝わる絵になる。だから、このループはかなり本丸に来ています。

 で、ネーム(設計図)が完成したら・・・、完成したら・・・、そこから先は私の本丸中の本丸。ペンで絵の完成度を上げる作業になる。ここまで来たらもうホーム中のホーム。牙城の天守閣状態である。そこに行くためにも、ネームでとことんまで粘ろう。この作業、見事に見事に、PCではできない。ネームを描くソフトウエアなども存在しない。ここは正にアナログの紙と鉛筆の聖域なのである。パソコンやソフトウエアの描く絵が嫌いだと何回もこのブログで書いているが、やはり、それは、大前提は別として、「伝わってこない」のである。技術的にがどうであれ、PCで描いた絵は死んでいる。ただ、ビジネスとして美しい屍が欲しいというニーズもあるから、そこはそこで別ベクトル。しかし、数百年前の油絵や壁画に人の心が動く理由は「手が描いている。」「手が創っている。」からである。それをキモに銘じて鉛筆を動かしたい。

ぜひ、次も。

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 いろいろ噂が飛び交っているが、ぜひぜひ、次回「火と戯れる女」も、サリーはルーニー・マーラでお願いしたいですね。ラーソンは第四部も仕上げ段階に入っていたらしいし、準備段階として第五部も想定されていたとかいないとか。まぁ、話が支離滅裂な海の猿や陸の猿(踊る猿)のようにファイナルぶっぱなして、すぐに次回作的なふざけているノリはナンセンスのキワミとして、ボーンに続く三部作として心から心から期待値を上げています。「眠れる~」が読み終わったら、一旦、「ミレニアムと私」を読もうと思っているので、なんとかなんとか、「火と戯れる女」もルーニーさんでお願いしたいですね。

三平女子とな・・・。

 未婚の女性の一番人気は「三平」らしい。決して釣りキチ~のことではない。年収もルックスも性格も「平均値」が理想らしい。昔なら、高学歴でルックスイケメンで性格はエトセトラだったのがどういう変化だろう?現実を知ったのか、相対的に物事を捉えるように自嘲しているのか、そういうリミッターが本末の正解だとその経験から学んだのか?まぁ、高学歴で高収入っていってもどこから?となるわけで基準はふわふわしていたのと同様に「平均値」といっても多種多様。「私、三平女子です!」と言い切っている人が未婚の中に50%いるということを世情的にどう捉えればいいのだろう。結婚していない男性にしてみればハードルが下がったと捉えるのか?それでも、高学歴高収入のトラウマを引きずるのかみたいな。いやいや、種の存続の本能を適正にコントロールするのは難しい難しい。っても、これが人間の存在価値としての本丸ですから、人生のパートナーを見つけていない人はいつの時代も同じ。霞を喰って精神世界で昇天したいならそれもいいが、そこにリアルはない。そこに価値を発見しようとコロンブスも頑張ったが、結局、その結果、無意味な血が流れたわけだし、亜種が規定された土地の上で種を存続させるという欲に慣習や文化を混在させて「人生の意味」なる幻想に依存することは簡単。しかし、ネットの世界同様、そこの情報の薄さ軽さが残念!と見えている人は五感を奮い起すべきだろう。戦略も空想・妄想・迷走のうち。自然との関わりにリアリティーを得たいのなら、絶対ではなく相対であるべき。

 世の中の「三平女子」が実は一番本能に忠実なのかもしれない。で、「三平男子」はどこにいる?ミラーニューロンをフル稼働してリアリティーを得たいものです。既婚者でさえ、実は一夫多妻の幻想に本能の矛先を迷っているはずだから。まぁ、慣習が二股三股のリミッターになっているうちは文化も歴史も安泰だろうが、これが崩れると、日本人は新しい変容を受けれなければいけないだろうな。本能に正直にありたいが、郷に従うのもまたオツなものであることも人間は知っている。

美しい雲だった。

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 まだまだ、夏の雲。伊吹山も涼しそうだった・・・。

生真面目の落とし穴。

 心の健康法というテイで。私自身、まじめな人間だとは思っているが、さりとてとことんまでまじめな人間でありたいとは考えていない。これはどの段階からそうなったかというと、高校時代の部活あたりから。いわゆる高校野球の練習は半端ではない。早朝から深夜まで平気で練習をする。一般の高校生が電車で通学している時間よりも早くグランドに付いて朝練習。授業を受けてからライトの中、もしくは体育館で練習練習。普通、軍隊でもなければこんな経験はまずないだろう。他のスポーツの自由な練習風景を羨ましい気持ちで見ていた記憶があるが、さて、そのような状況になった場合、生真面目な人間はとことんまでやる。ケガをするまでダウンするまで病院に行くまで。これがエンド。しかし、上手くこなす人間はどこかずるい。一生懸命汗を流していますっていうテイで実は80%ぐらいのテンションを維持する。のこり20%は他のことを考えているし、自分自身の体力や気力の限界には行かない。これは中学生の頃の陸上の練習でとことんまで行ってしまった反省を踏まえている。なにも県大会や国体に出場できるような選手ではないのに、自分の限界を目指す必要はなかったが限界地点まで行くことが多々あった。結果、両足はどうにもならなくなり、大会に温情で出場させていただき、惨憺たる結果。涙が出るという騒ぎレベルではない。想定内のなさけなさmaxで、「一生懸命とことんのとんまで練習したのに、なんでこんなことになるんだ・・・」と出口が見つからない閉塞感に見舞われた。それで学習して「とことんモード」は簡単に出さないようになった。そこには「生真面目の落とし穴」があることを知ったからである。

 そして、仕事ではこの「とことんモード」はどう機能するか?緊張と緩和のバランスこそが継続性のある能力であり、注視することと俯瞰で捉えるパラレルな見方で臨むようになる。しかし、デザインの仕事を始めた新宿の頃の2~3年は完全に「とことんモード」全開だった。すると、いつしか、自分の状況を俯瞰で見ていたことで確実にいろいろな能力を会得している自分が見えた。すると、突き進むだけが能力ではないことを知る。これが「チャンネル5」の真理である。

 生真面目で素直で純粋な人は意外と「限界点」が低い。それを知っているから自分の限界点を常に模索して探究して時間を浪費する。時にはやみくもに突き進む基礎体力が必要だが、それで絶対に走り続けることはできない。「つぶれる」までやる真理の裏には「自分は努力していますポーズ」が介在している。それが自分自身で判断つかなくなると軸足を失う。自分はどういう人間なのかが見えているようで見えていない。すると、必然的に結果が伴わない。モノゴトは陰と陽。光と影なのである。

 余談になるが、過去の戦争の歴史で日本人の戦い方はまさにこれだったそうだ。国のために自分の命を投げ出す覚悟を簡単にしてしまうポテンシャルの低さ。これを海外の戦争相手はとても警戒したそうである。生真面目な愛国心とは実は慣習だったのだ。そして、皆がそのテイだから疑問視はしない、できないが常。だから、片道の燃料で爆弾といっしょにテイクオフするのである。これは武勇伝としては美しいが真理としては見苦しい。

 人生にも仕事にも生命にもゴールはない。「死」はゴールではないし、ビジネスの成功も失敗もゴールではない。そもそも、人生のゴールを設定しましょう的な書籍は見苦しい。あなたのゴール設定はあなたのモノ。それを詳しく紐解いてはいるが、真理は恐らく対極にある。本を出したことをゴールです。年商が何億ってことがゴールですとテキストにしただけで小さいゴールの定義のパッケージ。職を失ってもアイデンティティは失わないと思いたいが、この両者、実はかなりの密度で相関性が高い。これも実は生真面目の落とし穴。だから、ふまじめに適当に何事も置きにいきましょう!と言っているのではなく、適正な自分らしい軸足と社会規範とモラルに順応した能力がなければ、有意義な人生が成立できないのでは?という危機感のお話。さりとて、私自身はどうか?この方程式を生真面目に実践しているのですか?となるとそうではない。だけど、肝に銘じているのは「チャンネル5」。ずっとここに固定ているわけではなく、いつでも誰よりも早くチャンネルmaxの10にできる、そして、いつでもリセット可能なチャンネル0に瞬時に切り替えられる「チャンネル5」でありたいと願っている。

 そのために、絶対に貪欲さとずる賢さは失わない。真面目な人はそれを「悪いこと」と捉えて自分の立場を誇示・固執するが、それは不器用・器用で言えば、不器用になる。しかし、器用な人間は奢りを纏ってしまいがち。時には不器用な方が有利な接点を獲得するチャンスが多いこともある。だから、そのサインを誰よりも早く見つけるためにも、チャンネルは5である必要がある。と、言い切ってしまうこと自体、落とし穴かもしれないが・・・。例え地中に埋められても、煙草のケースで土をかきながら地表を目指せばいいじゃん!サリーのように。

鉛筆と消しゴムでアナログモード、スイッチオン!

 どうも仕事がPC中心だから、仕事場で心や頭のスイッチと同期してしまっていたようだ。本来なら仕事のことを考える時って機器のスイッチとは無関係なのに、仕事がPC中心だから、頭の中もパソコンのスイッチで実際リアルにオンになるという仕組み。しかし、本当の仕事のモードっていうのは、PCのONとOFFとは関係ないはずなのに・・・。でも、実際、メールを確認して返信してネットを検索して、ソフトを起動して文字を打って図形を描いてイラストを描くことこれが全て電子機器のスイッチとシンクロし過ぎるとデジタルツールにできないことやアナログ作業に特化した技術力が衰える。

 長年のルーティーンがあるから、引き出しの中からデザインのネタを出すのが最も効率的なのだが、新しい創造的な作業はやはり、PCには不可能なんだと、改めて最近再確認。

 で、いろいろ冷静に考えるとあまりパソコンってできることが意外と限られているぞ・・・と。ネットで調べ物!?豊富で便利で早いがレンジが浅いぞ。プログラム・・・素直・純粋・シンプル過ぎてオモロクナイ。やっぱ、オモロイ人間とオモロイ会話しながら、楽しい空間で楽しいことをやらないと頭も心もオンにならないんだ。キーボードを打つ、マウスを動かす、画面にタッチする、これはなんかのリハビリか?これが進化か?これのどこが便利なのか?先入観とメディアコントールはほんとに怖い怖い。仮想空間のドツボの底なし沼なんてのは、たまのリフレッシュの時だけでいい。

 幻術を解除するには他人に触れてもらうことだとチヨバアが言っていたな。まさに!!!

補欠の哲学。

 子ども頃、「万年補欠」という言葉でかなり傷ついた記憶があるが、今思えば、それもいい経験だった。誰もベンチで応援はしたくない。選手に選ばれて試合に出たい。しかし、現実には選手と補欠の関係はいろいろな条件やルールがあるから仕方ない。陸上の選手として選ばれる事や野球の試合にレギュラーで出場するということは、実力があったり結果を出している選手なら当然のように選ばれるわけだが、ボーダーラインすれすれの人間にしてみれば、いろいろなプレッシャーがあった。これは中学・高校になるとかなり精神的にキツイ。同じ練習をして同じ苦労をしてもセンスや技術や信頼性のある選手は試合に出て、そうではない人はベンチ。ケガなどするとベンチにさえ入れない。スポーツや競技の世界はタイムとか技術のモノサシで1年生・2年生・3年生は関係ない。もうすぐ引退だから、この試合は出してやろうなどという温情は一切介在しないシビアな世界だった。

 私自身も万年補欠ということではなかったが、試合に出たり、ケガをしたりと、浮き沈みの激しいタイプだったので、かなり精神的には鍛えられた。センスがあり信頼度が高い、キャプテンのような存在にあこがれてはいたが、キャプテンはキャプテンで想像以上のプレッシャーがあったのだろうが。試合に出るために記録を維持する。それには他の選手以上に練習をするしかない。練習が終わって学校から帰ってきても気になるから走ったりトレーニングをする。若い身体だとはいえ過度の練習は筋肉や腱を痛める。練習、ケガ、練習、ケガの記憶しかない。それでも、補欠にもなれず、ベンチにも入れない3年生の頃、「あれ?僕は2年生にも1年生にも抜かれて何をしているのだろう?」と客観的に自分を捉えてなさけなささを一周回って冷静な気持ちなれた。足をひきずりながら、後輩達が練習するグランドに水を巻くことは辛かったが、そこで、自分の実力と現状を理解できたような記憶。一生懸命練習して、ケガをして、ココイチの勝負どころで結果を出さないとこうなると高校生なりに理解した経験。

 さて、社会に出ると誰もその経験を引きずっている。レギュラーもあったし、正選手で100mやリレーに出たりもしたが、思い返すと50%選手、50%補欠以下だった。しかし、学ぶことは補欠以下の時の方が多かった。というより、全体を俯瞰で(自分自身も含めて)見れたのは補欠だったからのような気がしている。社会には正選手も補欠もない。まぁ、正社員とパートさんのような関係は現実にはあるが、これは条件の違いだから、能力の違いではないと思う。

 で、この補欠という能力は実は社会に出ると正選手よりも重要な場合が多い。とういうか活躍するためのモチベーションは正選手以上の場合もあることに気がつく。いやいや、原因と結果だから、能力や結果を残せかなったから「補欠」なんだとシリアルには考えがちだが、もっと、俯瞰でパラレルに捉えると、チームが組織がひとつの方向に向かって動的な活動(経済活動など)をする場合、正選手だけでは戦えない場合が多いような気がする。意外とだが、私の妬みかもしれないが、「正選手のエゴ」や「正選手のプライド」という部分を社会に出ても引きずっている人がいる。これはスポーツに限らず。学生の頃に成績の良かった人はこの傾向がある。スポーツの実力があり、学校の成績が優秀であることは個人のポテンシャルだし努力の賜物であることは理解しているが、たまたま、あるパイの中で上位に属してきた人間独特の視野の狭さと打たれ弱さは社会に出ると露呈することが多いような気がする。まぁ、私はそれらの対極にいたから、かなりの度合いで妬みがあり反骨精神が錠剤のように凝り固まったいるのだが。でも、この錠剤を自分の中で精製できる人間は見事に「ストレスフリー」であり「ストレスジャンキー(中毒)」の傾向がある。SかMかというチョイスもあるが、そんなことはどうでもいい、そのベクトルのタッチではなく、スポーツも勉強も優秀な人は「ストレス」というテンプレートを鵜呑みにする傾向があり、無意味に協調性があるから、他人と調和する能力にも長けている。というか、上だという意識から、下の属性に対して素直に受け入れる能力というかニューロンが発達しているのだろう。だから、チュートリアルどおりに「ストレス」を受け入れる。しかし、ホームワークではないので、社会で発生するストレスは「正解」がない。全てを白紙に戻してリセットする決断力もなく、前述の「エゴ」や「プライド」に固執する。この体質や精神構造だと、かなり辛いことになる。それが現在、日本の経済や文化を空洞化していると洞察するきっかけになるのだろう。しかし、メディアが放出している論理には裏がある。スマホ教団から「便利」と「進化」を啓蒙されれば、購買意欲を掻き立てられる便利な市場となる。原発も同様の仕組みだが、これはもっと根が深い。

 で、「補欠魂」を好むと好まざると会得させられた人間はどうか?当然・必然、対極に存在しようとする至高がまず起動するから、「耐える」「諦めない」「他人と同じことが嫌い」「天の邪鬼」「協調性よりも主体性」「相対よりも絶対」「客観よりも俯瞰」なのある。ここまで成熟するには相当捻じれた生き方とアンフェアな経験がないとなれない(別になりたくない・・・!?)が、そうなってしまえば、また、別の日本が見えて来る。

 私は人生において、最高最強の補欠になりたいと思っているし、優勝者よりも強い銀メダリスト(2番手)になりたいと考えるようになって、いろいろなストレスから解放された。これは解放されたと勘違いしている部分が実は多いのだが、それでも、頭の活性は高いと自覚できているし、何より身体の健康をキープできている。これが最大のリアルでいいと思える根拠がある。ただ、2番もビリも悔しい。が、実はこの「悔しい」を反芻することで、本来の身体に有効なアミノ酸がより多く摂取できるような気がします。

 長~~~い、つぶやきでした。

大志を抱け!

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 「少年を大志を抱け!」とこの方は言った時代、「大志」とは何を指していたのか?そして、時を経て現代、少年少女が抱く大志は何を指すのか?時代が変化しおそらく「大志」も変化しだろう。しかし、変化してはいけないモノもあるわけですから、水平線か地平線を指して何かにその人生をかけてみないかと聞かれれば、現代の若者は何を応えるのだろう。さまざまな情報の根源にさまざまな理由があるが、放たれた矢の行方を誰が知るとは雄弁の極みだが、弓は引けば引くほど・・・的な引用・比喩がこの時代の中、ピースを探すことは想定以上に難しい。難しくしているいくつかの原因に「多様性」という言葉が適用されているが、「多様化した大志」に脈略はあるのだろうか?

 さて、北海道という地に行ったことがないので、実際、この像の前に立った時、自分自身が何を思うのかと考えてみる。少年の頃、「大志」の意味は理解できなかった。だが、「大志を抱け!」と言われたことは記憶している。大志を抱いた結果、いろいろな場所でいろいろな人と出会った結果、いろいろな「大志」があることを知ることになるが、さて、自分自身の「大志」は何だろうと、あまり、少年時代と変わっていないことに気がつく。いつまでも子どもような男に魅力がるのかないのかという論理について、ショーウィンドウの前で77円のプリンを物色している大人はそれに該当するのか?ちょっとしたことを自分勝手に解釈して結論を急ぎ、見切り発射型のかぶせ気味の人間はネットと呼応しにくい気がする。あるジョークで「大型旅客船が沈没しようとしています。さて、その船の船長が乗客を海に飛び込ませるために発した言葉とは?」というテイのジョーク。アメリカ人なら「今、ここで飛び込めばあなたはヒーローです。」と言うだろうし、イタリア人なら「今、ここで海に飛び込めば女性にもてるぞ!」と説得するらしい。さて、日本人は?というヤツ。つまり、「他のみなさんも飛び込んでいますから・・・」という言葉に反応する国民が「大志」をどう捉えていたのだろうかと・・・。

 個性よりも和、独創性よりも協調性、突き抜けることよりも団結に重きを置くとは言われているが、さて、ほんとにそれは誠か?ネット時代、価値感が交錯し、時間軸上の情報の受け止め方に、「他の皆さんも・・・」が適用されているのだろうと思うと、また、FACEBOOKにログインする楽しみが増える。ツーったーのつぶやきもこの方程式のフィルターを介して閲覧していると、摩訶不思議な法則性をエンジョイできる。ネットとデジタルパルスが可聴域を超えて地球を飲み込む前にもっともっと、筋肉の軋みや吹き出す汗の感触をトリガーに本能のスイッチを入れなければ。五感を研ぎ澄ますためにも、自分なりのサインは多ければ多いほどいい。だが、間違いなく、ネットの中にそのサインはない。必然的に「大志」もない。これはアンロジカルな言い草かもしれないが、IQが145程度あれば反応はできるのかもしれないぞ。

 言葉が頭の中から漏れた時、空気に触れると化学反応をおこす物質のように、それは、真理から対極の存在になる。だから、こだまが心地いい。鏡を発明した人間は、初めて水面に自分の姿を発見した人類は、もしかしたら、「大志」とは何かを知っていたかもしれない。

バスハンター渡!

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 こんなコミックスがあったそうだ。少しあらすじを読めば時代を感じさせる良作のようですが、テーマがテーマだけにちょっと気になる。しかし、この表紙のブラックバスが怖いぞ。これ関連のサイトをリサーチすると、この漫画家はバス釣りをしない・・・と。バスプロ監修というテイで全10巻!さてさて、その真実を見極める勇気があるのかないのか?これを読んだ方は感想をぜひ!

月9「リッチマン、プアウーマン」の原作。

 この月9の物語はある脚本家のオリジナル書き下ろしだったのですね。素晴らしいなぁ。昨今、小説や漫画からのオマージュが多い中、このお話は秀逸。お話が秀逸だから役者もイキイキ。よって、観ている人がワクワクドキドキしてくるという方程式なんですね。これまでいくつか月9ドラマは伝説があったが、ここ最近は話題性だけで失速している印象がありましたが、この「リッチマン、プアウーマン」はなかなかのモノですね。全11話ってことですから、最終回は9月17日だそうですが、さてさて、どのような展開になるのか楽しみ楽しみ。IT関連がメタファだけにいろいろリアリティーが多く、それも楽しい理由かもしれないですね。それに、小栗君とさとみちゃんがいい。全ていいのですが、やはり、脚本原作が根本的にいいのでしょうね。ディテールも大切だが、やはり、本は大切。

 「今まで誰も見たことのない・・・」というフレーズ。下手こくとドン引きになるところを繊細さと大胆な物語でディテールを起こし感情移入の手法が秀逸。まぁ、基本的に「好き」になるとなんでもよく見えるそれだからこそ、「好き」にさせる理由があるのでしょう。これが意外と言語理解ではなく、空気感や展開の中にそのマジックが潜んでいるので、部分的に「これだ!」と切り取ることはナンセンス。これがモノヅクリの醍醐味であり難しいところ。想定外ののびしろもどこを軸にスパイラルを起こすかにかかっているから、やはり、本が大切なんですね。つうか原作者の中にある何かが一番のハリケーンの目なんでしょうね。いやいや、なかなか。

イモトさんが又・・・。

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 「イッテQ」の登山部がまたまた始動した。アタックする山は「マッター・ホルン」とのこと。これは、冒険バラエティーの枠を大きく超えていないだろうか。これは完全にアルピニストの特別番組である。で、マッター・ホルンにアタックするために剣岳で1週間の合宿って・・・。なんとも本格的過ぎるぞ。イモトさん目線で国内屈指のクライマーがとてもつないことを語っているが、これは、かなりガチ。で、そのクライマーの人達に太鼓判を押してもらえているイモトさんってナニモノって感じ。

 しかし、剣岳だけでもプロの山なのに、それを簡単に成功させて、次はスイスに行くという。そこで最終的な技術・テクニックの試験をパスして初めてマッター・ホルンへのアタックの権利が取得できると・・・。なんともなんとも。もう、完全にイモトさんはプロのそれも世界レベルのアルピニストですね。

ミレニアム第3部作!

 「さて、この映画の原作となるのが、スティーグ・ラーソン著『ミレニアム』三部作。なので映画も三部作全てを映画化する予定らしいです。しかもその三部作全てで主役のミカエル・ブルムクヴィストをダニエル・クレイグが演じる契約が既に結ばれているのだとか。という事は現段階ではルーニー・マーラやデヴィッド・フィンチャー監督の続投は正式には決まっていないのかな。まあ、連続モノでも監督を交代しながら作るのは、よくある事。でもリスベット・サランデル役でアカデミーにまでノミネートされたルーニー・マーラも、こうなっては絶対に外せないキャストになりますよね。よほどギャラが高額に跳ね上がらない限りは、制作サイドは続投を願うはず。しかしどうだろう、ルーニー・マーラはデヴィッド・フィンチャー監督が抜擢した感もあるし(彼が監督した映画『ソーシャルネットワーク』に出演していた)、監督が代わると離れてしまう危険性もあるかな。いや、きっと大丈夫でしょう、彼女はきっとこの役を手放さない筈。」という嬉しいブログ記事を発見。その真実はどう転ぶかは未知数としてもこれは嬉しいぞ。

 絶対に、この3人で第3部まで走ってほしいものです。

あなたの腰痛が治りにくい本当の理由。

 「科学的根拠に基づく最前線の治療と予防 あなたの腰痛が治りにくい本当の理由」という紺野愼一著の書籍がある。整形外科医であり医学博士である方の書籍。「名医が明かす腰痛の真実!」「あなたの腰痛がなぜ治らないのか、どうすれば治るのかがはっきりわかる本」「腰痛の治療法は100種類以上。しかし、その大部分に科学的根拠がない。腰痛に関する正しい知識を持ち、信頼できる医療者から科学的根拠に基づく適切な治療を受ければ、あなたの腰痛は必ず改善に向かう!」と言い切っている。また、「腰痛の85%は重篤な病気ではない。椎間板ヘルニアの90%は治療しなくても自然に治る。骨や筋肉、椎間板などの異常が腰痛の原因とは限らない。体の問題に心理的な要因が加わると腰痛がおきやすくなる」という気になるフレーズがこの書籍の広告文には記載されている。なかなかここまで言い切っている文脈は心地いい。

 で、科学的根拠についてですが、科学的根拠のメリットは明確であり判明している事実と実績だけを組み上げているだろうから安心感がある。占いとか気功だとかパワーなんとかに心を動かされてメンタル的に活性化することは心で生きている人間だから時に有効であるとは思うが、心と体の相関性をそんなにゆるい言葉や哲学や論理でリンクするとは考えにくい。しかし、世の中「信じる者が救われていると誤解」は慣習として文化としてもしくはビジネスとして成立しているから、そこを掘り起こすつもりはないし、自分自身の精神的な活性化が身体と深い相関性があることもなんとなく理解しているつもりだから、ここの全否定はナンセンス。だからこそ、「科学的根拠」という哲学に人は安心感を覚えるのかもしれないと思っています。

 さて、「椎間板ヘルニア」が頸椎と骨盤の上にある診断された私にしてみれば、この「90%は自然に治る」という文脈はリアリティーが高く重い言葉である。実際、40歳頃から2~3年、ヘルニアにかなり時間と労力を浪費した。飲み薬、漢方、注射、日々のケア。首のヘルニアは左手を痺れさせ、骨盤の上のヘルニアは左足を痺れさせた。ほとんど毎日杖をつき、階段もひと苦労。寝る時もどの体制でも腰が痛い。朝起きる時、目が覚めてから15分ぐらいは起き上がれない。こんな2~3年間は確かに精神的に辛かった。しかし、体育会系の私は野球や陸上の練習でいろいろな部位のケガや故障に見舞われてきた。おっさんになってもまたか・・・と辛い状態もあったが、最初は簡単なストレッチから懸垂とねじらないタテの体幹のトレーニングを始めた。歩くことさえ腰のヘルニアには負担になるから、ジョギングもできない。腰と首に負担のないように、腹と背筋、両手と両足の筋肉をインナーから鍛える方法をネットや書籍で調べまくった。そして、毎日、コツコツと実践していた。結果、3年連続富士山にアタックできたし、懸垂の効果で、ロッククライミングやボルダリングを少しかじれるようになった。しかも、41歳の時に「ゴゴルフ禁止令」が出されたが、なんとか以前の90台でスコアはまとまっている。楽しい釣りもできるし、勿論、仕事に対しても持久力と集中力がおっさんレベルではあるが、維持できている。

 そこで、この書籍が目に止まったということ。そういえば、ヘルニアは治ったのか?基本的に楽観的な考え方の判明、びびりの私は自分自身がこの90%だとは考えない。10%のひとりだと考えているので、今までと同じく日々のトレーニングをするだろう。ただ、自分自身が実践してきた考えとこの著者が言う、科学的根拠の相関性には興味がある。どうしようかな?ちょっとチェックな一冊ですね。

 ヘルニア、完全に治っていたらいいのになぁ・・・。

やったじゃん!

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 迫力満点のランカーですな!素晴らしい素晴らしい!狙い通りのアプローチで捻り出したバスなんですね。いい絵です。いいなぁ~いいなぁ~。やっぱ、ランカーはいいなぁ~。お疲れ様です!