補欠の哲学。

 子ども頃、「万年補欠」という言葉でかなり傷ついた記憶があるが、今思えば、それもいい経験だった。誰もベンチで応援はしたくない。選手に選ばれて試合に出たい。しかし、現実には選手と補欠の関係はいろいろな条件やルールがあるから仕方ない。陸上の選手として選ばれる事や野球の試合にレギュラーで出場するということは、実力があったり結果を出している選手なら当然のように選ばれるわけだが、ボーダーラインすれすれの人間にしてみれば、いろいろなプレッシャーがあった。これは中学・高校になるとかなり精神的にキツイ。同じ練習をして同じ苦労をしてもセンスや技術や信頼性のある選手は試合に出て、そうではない人はベンチ。ケガなどするとベンチにさえ入れない。スポーツや競技の世界はタイムとか技術のモノサシで1年生・2年生・3年生は関係ない。もうすぐ引退だから、この試合は出してやろうなどという温情は一切介在しないシビアな世界だった。

 私自身も万年補欠ということではなかったが、試合に出たり、ケガをしたりと、浮き沈みの激しいタイプだったので、かなり精神的には鍛えられた。センスがあり信頼度が高い、キャプテンのような存在にあこがれてはいたが、キャプテンはキャプテンで想像以上のプレッシャーがあったのだろうが。試合に出るために記録を維持する。それには他の選手以上に練習をするしかない。練習が終わって学校から帰ってきても気になるから走ったりトレーニングをする。若い身体だとはいえ過度の練習は筋肉や腱を痛める。練習、ケガ、練習、ケガの記憶しかない。それでも、補欠にもなれず、ベンチにも入れない3年生の頃、「あれ?僕は2年生にも1年生にも抜かれて何をしているのだろう?」と客観的に自分を捉えてなさけなささを一周回って冷静な気持ちなれた。足をひきずりながら、後輩達が練習するグランドに水を巻くことは辛かったが、そこで、自分の実力と現状を理解できたような記憶。一生懸命練習して、ケガをして、ココイチの勝負どころで結果を出さないとこうなると高校生なりに理解した経験。

 さて、社会に出ると誰もその経験を引きずっている。レギュラーもあったし、正選手で100mやリレーに出たりもしたが、思い返すと50%選手、50%補欠以下だった。しかし、学ぶことは補欠以下の時の方が多かった。というより、全体を俯瞰で(自分自身も含めて)見れたのは補欠だったからのような気がしている。社会には正選手も補欠もない。まぁ、正社員とパートさんのような関係は現実にはあるが、これは条件の違いだから、能力の違いではないと思う。

 で、この補欠という能力は実は社会に出ると正選手よりも重要な場合が多い。とういうか活躍するためのモチベーションは正選手以上の場合もあることに気がつく。いやいや、原因と結果だから、能力や結果を残せかなったから「補欠」なんだとシリアルには考えがちだが、もっと、俯瞰でパラレルに捉えると、チームが組織がひとつの方向に向かって動的な活動(経済活動など)をする場合、正選手だけでは戦えない場合が多いような気がする。意外とだが、私の妬みかもしれないが、「正選手のエゴ」や「正選手のプライド」という部分を社会に出ても引きずっている人がいる。これはスポーツに限らず。学生の頃に成績の良かった人はこの傾向がある。スポーツの実力があり、学校の成績が優秀であることは個人のポテンシャルだし努力の賜物であることは理解しているが、たまたま、あるパイの中で上位に属してきた人間独特の視野の狭さと打たれ弱さは社会に出ると露呈することが多いような気がする。まぁ、私はそれらの対極にいたから、かなりの度合いで妬みがあり反骨精神が錠剤のように凝り固まったいるのだが。でも、この錠剤を自分の中で精製できる人間は見事に「ストレスフリー」であり「ストレスジャンキー(中毒)」の傾向がある。SかMかというチョイスもあるが、そんなことはどうでもいい、そのベクトルのタッチではなく、スポーツも勉強も優秀な人は「ストレス」というテンプレートを鵜呑みにする傾向があり、無意味に協調性があるから、他人と調和する能力にも長けている。というか、上だという意識から、下の属性に対して素直に受け入れる能力というかニューロンが発達しているのだろう。だから、チュートリアルどおりに「ストレス」を受け入れる。しかし、ホームワークではないので、社会で発生するストレスは「正解」がない。全てを白紙に戻してリセットする決断力もなく、前述の「エゴ」や「プライド」に固執する。この体質や精神構造だと、かなり辛いことになる。それが現在、日本の経済や文化を空洞化していると洞察するきっかけになるのだろう。しかし、メディアが放出している論理には裏がある。スマホ教団から「便利」と「進化」を啓蒙されれば、購買意欲を掻き立てられる便利な市場となる。原発も同様の仕組みだが、これはもっと根が深い。

 で、「補欠魂」を好むと好まざると会得させられた人間はどうか?当然・必然、対極に存在しようとする至高がまず起動するから、「耐える」「諦めない」「他人と同じことが嫌い」「天の邪鬼」「協調性よりも主体性」「相対よりも絶対」「客観よりも俯瞰」なのある。ここまで成熟するには相当捻じれた生き方とアンフェアな経験がないとなれない(別になりたくない・・・!?)が、そうなってしまえば、また、別の日本が見えて来る。

 私は人生において、最高最強の補欠になりたいと思っているし、優勝者よりも強い銀メダリスト(2番手)になりたいと考えるようになって、いろいろなストレスから解放された。これは解放されたと勘違いしている部分が実は多いのだが、それでも、頭の活性は高いと自覚できているし、何より身体の健康をキープできている。これが最大のリアルでいいと思える根拠がある。ただ、2番もビリも悔しい。が、実はこの「悔しい」を反芻することで、本来の身体に有効なアミノ酸がより多く摂取できるような気がします。

 長~~~い、つぶやきでした。