漫画の作り方#001

 最初の出会いはなんだっただろうか・・・。恐らく「野球」か「仮面ライダー」だろう。いきなり「アトム」とかではなかったような記憶がある。テレビアニメと記憶が混在してしまうが、恐らく漫画というスタイルの初めての出会いは野球関連で「巨人の星」あたりではないだろうかと記憶している。同じ野球でも、実際に野球をし始めると「侍ジャイアンツ」や「ドカベン」や「野球狂の詩」などがあるし、アニメなら「アパッチ」がとても鮮明に覚えている。つまり、モノゴコロとパラレルに「野球」が心の割合を占めていたことは確か。だから、シンプルにスポーツをするなら野球であり、将来の夢は的な部分では、野球選手という夢が描きやすい構造にシステムになっていた。それほど漫画の影響は子どもの心にダイレクトに訴求した。平行してギャグやSFテイストなどもあったし、正義のヒーローモノについては真髄までダイブしていたような。つまり、子ども頃、人格形成までとは言わないが世の中の価値感を推量するモノサシとして漫画という情報がかなりの割合で心に影響を及ぼしていることは事実。その中の後半で「釣りキチ三平」に出会うがここはまた「野球」とは異なる別の世界が展開されまたそのベクトルで子どもなりに試行錯誤し右往左往する。それが楽しいとなり、どこか心の充実度に繋がって、そこから新しい価値観がいくつも芽生えたのだろう。

 大人になるとそんな子どもの頃の感覚から漫画に対する軸足が少しづつ変化する。しかし、なんでしょう、漫画の不動の存在感は自分の中の「子どもの心」のかなり中心部分をそのモードで突き動かされている感覚がある。これは一生この感じなのかなと。

 で、漫画から絵の魅力を知った人間は一枚の絵に対して、物語を持つ。大学の頃、「あなたの絵は時間の切り取りや心象風景が多いですね。」と言われた。平面に作品を描く時、イマジネーションの源泉は自分の中にある。それを絵画・イラストレーションとして切り抜く場合、全体の物語の中のココイチを切り抜くのですが、これが自分自身では完結しているが、第3者にはピンとこない。この絵作りのアプローチでかなり悩んだ。それは漫画という絵の連続性を大前提にイメージを膨らませてきた結果、一枚の絵に切り抜くプロセスで前後のイメージも含めてしまう変な癖が機能していたのである。

 だから、一枚の絵にすることよりも、自分自身は物語を絵にすることの方が好きなんだ。という今現在の結論なのです。これが、詰まっていた血管が通る感じ。堰き止めていた異物がなくなり流れが一気に動き出した感覚。淀んでいた渕に新しい水が流れ込む感覚なのである。いやいや子どもの頃の記憶や経験って恐ろしい。

 ということで、基本の基本に立ち返り、漫画を描くための「ネーム」を時間があれば、スケッチブックに、メモに、チラシの裏に、ミスプリの裏にと描いている。また、これが心地いい。心地いい気持ちで描いた絵は必ずその「心地良さ」が伝わる絵になる。だから、このループはかなり本丸に来ています。

 で、ネーム(設計図)が完成したら・・・、完成したら・・・、そこから先は私の本丸中の本丸。ペンで絵の完成度を上げる作業になる。ここまで来たらもうホーム中のホーム。牙城の天守閣状態である。そこに行くためにも、ネームでとことんまで粘ろう。この作業、見事に見事に、PCではできない。ネームを描くソフトウエアなども存在しない。ここは正にアナログの紙と鉛筆の聖域なのである。パソコンやソフトウエアの描く絵が嫌いだと何回もこのブログで書いているが、やはり、それは、大前提は別として、「伝わってこない」のである。技術的にがどうであれ、PCで描いた絵は死んでいる。ただ、ビジネスとして美しい屍が欲しいというニーズもあるから、そこはそこで別ベクトル。しかし、数百年前の油絵や壁画に人の心が動く理由は「手が描いている。」「手が創っている。」からである。それをキモに銘じて鉛筆を動かしたい。