太公望は世界共通。

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 いろいろな人がいるもので、こんなタッチで釣りにダイブしている人がいる。「太公望」と検索すると、「中国、周代の政治家であった呂尚の別名。出典は「史記」。呂尚は大変な釣り好きで、渭水という川で釣りをしていたところ、周の文王に「我が大公(周の祖)が望んでいた賢人だ」と見だされたという故事から、呂尚の釣り好きにちなんで、釣り人や釣り好きな人を「太公望」と呼ぶようになった」とある。同時に、「妻に逃げられた男」という代名詞もあるぐらいだから、なんとも興味深い男である。では、そもそも「釣り」とは何か?を改めて最近考える機会があった。何故?人は魚を釣るのか?というテーマ。恐らく食うためが主因だろうが、そこから人間は「楽しむ」ことへシフトしていく。数多ある「快楽」の中で何故?「釣り」をチョイスするのか?そこで、太公望というキーワードが必然的にフォーカスしているわけですが、この故事の裏理解がどうなのかについて適切な論拠は発見していないが、恐らく、人生をエンジョイするために人は「釣り」をしているし、人がそう考える以上、この「釣り」に付加価値を装填することで、別のベクトルに覚醒しようとしている。すると、「釣り」再構築した賢人のベクトルが波及・伝導した時、新しい「釣り」が生まれた。ここが価値感の創出に相当するのだろう。で、私は釣りと言えば子どもの頃は、のべ竿にウキを付けて餌釣りだった。川でも湖でも海でも。しかし、ある時、「ルアーフィッシング」という付加価値を知る。そこから、針に餌を付けることはなくなった。というより卒業した感覚。もういいかなという感覚。これも明確に言葉で説明することは難しいが、なんとなくノンバーバルに「もうええかな・・・」という程度。で、「ルアーフィッシング」の醍醐味・魅力は何かを考えると、適当なフレーズはいくらでも出て来るが、単純に「餌釣りよりもなんとなく楽しい。」のである。疑似餌で魚にフェイクをかますのが楽しいのか、人間が創造したツールで自然と対峙するのが楽しいのか、その部分について永久に答は出てこないような気がするがとにかく楽しい。「釣った魚は食べる」という原理も正解だと思うし、ただ、「楽しい」ためだけに釣るという釣りも釣りなのである。まぁ、こんな風に「釣り」を深く考えたことがないし、考えても考えても答はないだろう、というより、人それぞれに答があるから楽しいのである。その答と答で共鳴できることが実は一番の「楽しさ」なのかもしれない。この人間の楽しさの代償に魚は水の中から抜き上げられる。しかし、それは魚が人間に負けたわけではなく、たまたまなのである。それをさらに競うという付加価値を創造した人間は道具を進化させてきた。優れた道具がよりたくさんのより大きな魚との出会いを与え給えると考えるのが人間の業だが、それが実は一番楽しいのである。

 食べることも本能であるのと同じぐらいに、その業に魂を委ねぬことが実は脳幹への刺激になっているような気がしていますね。これに付随する関連する枝葉は無数にあるだろうが、何故、「バスフィッシング」をしているのか?と聞かれれば、「食べることと同じで脳幹が刺激されるから。」という理由が今のところ自分自身の正解ですね。

 で、もう一人、ここにもその正解を見つけた人がいる。こちら、素敵なブログです。

杉井俊介BLOG http://www.hideup.jp/blog/sugii/2010/05/