2012年10月 アーカイブ

グーグルのヘッダーロゴ。

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 いつもいつも素敵ですね。グーグルのこのクリエティブスピリッツは。

 しかし、しばらくアップルから気持ちが離れていたのですが、最近、なんとなく2周ほど回ってMACが気になっている。タブレット戦線もようやく落ち着いた感じだし、スマホもどうやらこのあたりでしばらく停滞するだろう。飛び付く人は飛び付いた状態であとは機能の充実度と価格の下落合戦を傍観していればいいだけだろう。

 で、ここから登場するPCやノートPCの真価の進化に注目!という感じだろう。タブレットの便利はどうも手に馴染みそうで馴染まない。というか、創り手の「タッチタッチで人間に優しいでしょう!」というたぬき的な笑顔が嫌い。「人間に優しい」コンセプトの製品が「人間に優しい」と誰が決めたのか?

待つな!動け!

 あるテレビ番組である会社の社長が登場して、私の座右の銘です的な感じで大企業なのに質素な社長室にこのような文字が額に入れて飾ってあった。その言葉が「待つな!動け!」だった。なんともストレートで曲がりのないフレーズだこと。Don't think, just do it!ということだろう。この社長さんの笑顔の裏にはしっかりとこの軸が太く存在しているのだろう。その割には穏やかで寛容なその社長さんの表情をテレビで見るにつけ、いやいや、自分が何者か知っている人は笑顔も素敵だなぁ~と思います。ラーソンが愛した人生のパートナーが書いた手記を今読んでいるが、人生のパートナーについて彼女が語るひとつひとつの言葉にリズムがあることに気がつく。「ラーソンはひとりで死んだが、私も同時に死んだと言える。そして、私が生きている以上、ラーソンも生きている。」的な原文があったが、なんとも痺れた。

 ラーソンは、せっかちで心を言葉にするのが上手い男だった。弱い部分も多くあったが、強い部分も多くあったと。自分に正直で他人に寛容でモラル的な部分の芯が揺るがない人だったと。うんうん、そんな生き方に憧れます。

シアトルより到着!

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 なんとシアトルより直送だったとは・・・。S&W社のゴーグル到着。至近距離からの散弾銃の弾からも目を保護可能という専用ゴーグル。色はイエローです。紫外線を一番遮断する色は実はイエローらしいから、この商品コンセプトが正解なんですね。非常に軽いのでアウトドアやクライミングでも装着性は抜群とのこと・・・。

ミレニアムと私。

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 恐らくこれに手を出す人は「ミレニアム1・2・3」各上下を読んだ人だろうから、一体、日本国内には何人いるんだろう?ハルキムラカミが文学ノーベル賞を逃したらしいが、まぁ、そんなことはどうでもいい。ラーソンを1ミリでも近くに感じたいので・・・ということで購入。

その表現手法は・・・。

 何かを伝える時、必ず目的があるはず。そのテーマ、コンセプトを伝えるためにクリエイターは数多の表現手法から自分のスタイルをチョイスして何かを誰かに伝えようと試みる。その表現手法について仕事がらとても興味がある。この興味を失った段階でこの仕事の意味は消えると考えているので、非常に自分自身にとってどのように伝えるているか?はデリケートなゾーンである。だから、他の表現者が誰であれこの部分をまず何よりもしっかりと見極めるようにしている。

 他のクリエイターのそれはいつも刺激的で高ければ高いほど震えるし、低くいと感じても、新しさや試行錯誤的に研究・探究する心の密度が高ければ、それを認めて自分自身の糧にと考えている。だから、あらゆるものがその対象なのである。

 しかし、時に、その表現手法を安易に取り込んで「さも・・・」という作品に出会う時がある。しかも、その表現はある層にしっかりと浸透して共有され価値感さえ生み出してているから人の内側というのは本当に分からない。これが、何故、安易だと感じるかは個人差のあることだから、私自身、個人が何をどう思うかなどはさほど関係ないことだから、肯定も否定もしないが、ただ、そんな作品を見ているととことんまでストレスに襲われる。一般的なストレスと呼ばれる対象についてはあまり鈍感な私だが、ただただ、このデリケートゾーンのストレスはいたたまれない。出口のないその独房のような空間にいると、ただ、一秒でも早くその場所から離れたいと感じてしまうことが稀にある。

 その空間を離れ、外の空気を吸い込んで頭がリセットされる感覚。そんな時、必ず雨が降っていることが多いのですが、昨日もそんなストレスを感じた。自分自身がそれを「ストレス」だと認知しているから恐らくそれが「ストレス」になるのだろうが、これは偶然とは言い難い。表現のベースにそれを置くのは安易で捻じれていると心のどこかで私自身が考えているのだろう。肯定も否定もしないし、できるだけ距離を置きたい個人的な異物(違和感)のようです。

AタイプとBタイプ。

 例えば、一生懸命頑張っている努力型の人間をAタイプ、そして、天才型の努力せずともいい結果を導く能力がある感覚派の人間をBタイプと暫定的に分ける。さて、いい絵を描くことができるのはどちらかという考察。この場合の「いい絵」とは「いい仕事」「いい売り上げ」「いい製品」「いいサービス」にも適用されるだろうし引いては「いい人間」にもなりかねない。これらが結集されて結果「いい人生」に連動しているから、この考察に対するリフレクトは大切だなと思うのです。

 で、そもそも「いい絵」とは貨幣価値なのか個人の価値感なのかというテーマの書籍を読んだことがあるのですが、ぶ厚い書籍の割には結論はグレイだった。つまり、そこはグレイが正解なんだろうとまず結論から設定しての、努力型と天才型の違いについて。

 ある、お仕事で一生懸命にテキパキと段取りをして資料を用意してプロセスの効率を吟味している人がいた。彼は完全なAタイプのように感じた。Bタイプの人は相対的にクールな印象があるから、どこか先入観で「熱い人はAタイプ」「クールな人はBタイプ」としている感じも否めないが、相対的にそうなることが多い。しかし、多くの場合、努力型のアプローチをしている人は「間違い」や「ミステイク」や「誤差」や「摩擦」に弱い。慎重派であることはいいのだが、できるだけ完璧にモノゴトを進めたいと考えるばかりに、石橋を叩いて渡らない。これが、Aタイプの真骨頂なのである。しかし、Bタイプの人はこれらにあまり神経を使っていない場合が多い。そして、全体が見えているから、いろいろな過程の失敗やミステイクをいい意味で無視できる。自分の設定した目的のビジョンに集中できている場合が多い。これをある側面では「達観」と呼ぶのかもしれないが、全体が見えていると途中の小さな問題も簡単にクリアするし、根本的・本質的な大きなトラブルに出くわしてもそれを簡単に柔らかくいなす衝撃吸収力を持っているように思う。この違いが蓄積されるとやはり到達する標高が自然と結果異なってくる。最初は同じ頂を目指していたはずなのに、「クマが出るかもしれないから諦める」とジャッジするAタイプと「クマとの遭遇をシュミレーションしながら準備をしてアタックする」とジャッジするBタイプでは、結果、山頂に立てるのは後者なのである。しかし、クマに遭遇して殺される可能性があるのは確実にBタイプだが。

 だから、仕事もライフワークも同じで、山に行けば100%クマは生息しているし、飛行機に乗れば、墜落する可能性は0%ではない世界が活きている世界。努力は大切だが、時に、相対性と絶対性を感覚的に分類して、いい意味で「いい加減」に動くべき。「いい加減な人間」だなぁとよく言われるが、「いい加減」を私自身、曲解していて、「足らないダメなバランス」だとは捉えていない。「いい=good」と捉える節があり、そこはどこに光をあてるとどこに影ができるかだけ見えていればいいかなと思います。正解は想定以上に多く存在するのでるから。

 なぜ、こんなことを考えたかと打ち明けると、最近ラーソンの「ミレニアム1・2・3」各上下6冊を読み終えてしまって、満足感と空虚感があるから、さて、この感覚は自分的に次の作品をどのように物色・リサーチしようか・・・と思ったから。頭か?心か?どちらで何をフォーカスしようか・・・と。まずは、お口直しに、「ミレニアムと私」を買おう。

いい工業デザインです。

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 いい工業デザインを自分の手の中で見ていると創った人の気持ちがひしひしと伝導してくる感覚です。美しいデザインは道具の機能性とはまた別のベクトルでそれ自体の価値を引き上げているのでしょう。色・フォルム・質感・重量・機能・完成度、創り手の本気が伝わる商品って素敵です。情報が氾濫して多種多様な商品が流通している時代ですが、モノホンは少ないような気がします。貨幣価値とはまた別のベクトルでモノホン度があるような気がします。やはり、基本はモニターの中ではなく、手の中に在るリアルが正解です。恐らくこの視点で私は「電子書籍」を読まないのだろうと思いますね。手の中にあるようで実はないんだと頭は騙せても心が感じているから。

光る琵琶湖。

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 ふと営業中に琵琶湖を見ると光っていた。ほんとにいろいろな表情がありますね。

ミニが出たが・・・。

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 例のiPadにミニが出た。で、このタブレット戦争はいったいどこでひと段落するのだろう?どこまでも行くのかどこかでまた別のテクノロジーが登場するのか?それとももうそれはいくつかプロトが用意されているのか?そして、市場に開示するタイミングだけを待っている???ノートブックスタイルで、画面が外れタッチパネルとキーボード仕様のPCもあるらしい・・・。さてさて、人間の欲とそれを創る人の探究心・研究心はどこまで変容するのだろう。これらを考察するとやはり売り手の市場なんだと思います。「スマホは便利で多機能」とインプリントされている人達は多いが、そもそも、便利を手にするとはどういうことか?有効に活用できているできていないではなく、コレクションとしてステイタスとして、または、参加チケットのテイでそれを持っているからの「安心」を「便利」と誤解している節があるように感じる。電話は電話でいいじゃん、アプリはあるから使うけど、それは「便利」とはちょっとニュアンスが違う。誰かが使っているから私もというベクトルが「便利」だと勘違いすると、使う人のポテンシャルはどうでもよくなることが恐ろしい。そもそも、便利とは使う人のポテンシャルにマッチすることが最大ののびしろ。簡単に操作できるツールを「使いこなす」「活用」「効果」とは言いにくい。つまり、全てが最新機器でフラット化しているから、いわゆる「頭ひとつ」が出にくい構造になっている。というか、売り手に操作されて、「頭ひとつ」飛びぬないように啓蒙・教育・洗脳されていると言う方が正しいニュアンスになってはいないか。そもそも、ツールを使う時は目的がある。しかし、その目的も用意されて、達成感の共有ありきでは、それを果たしてツールと呼べるのかという疑問のレイヤーが上に来ていると思う。

 ミニが出た。さて、これを買う人はどういう人だ?本当に便利だと感じる人か?仕事や趣味に活用したいとヨコナラビの価値感に浸りたい人か?いやいやガチで活用していると信じて病まない人か?いやいや、そうではないような気がする。それを購入する余裕があり、これを便利だと感じる時間があるコレクターが買うだけのような・・・。だから、デザイン性とアプリはフェイクでもうすでにツールではないのだろう。もしかすると、iPadが何かクリエイティブな作業をするリサーチをするエンタメをエンジョイする道具だと思い込んでいること自体、このスタートラインが先入観なのかもしれない。

ちょっと音楽が欲しい時。

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 ちょっと音楽素材が欲しい時は、このようなサイトでソースをダウンロードする。ひとつのテーマで100曲ぐらい入っているパッケージが5,000~10,000から購入できるから便利。そんな時、どのような検索をするかというと、ほぼ、音楽のジャンルで決めることが多く。あまり、楽器パーツや他のカテゴリーで決めることがない。音楽自体、聞くのは好きですが、創れないから、全くの受け身。結局、絵ほど音楽のイメージが湧いてこないと言いながらも、無音の状態で絵を見ていても何かしらの音の音楽のイメージが連動しているものだし、昨今の映像やWEBコンテンツは音楽効果や音楽表現がホントに素晴らしいから、やはり、いい音楽・音素材はしっかりと吟味しなければならない。マイクや録音機器の知識も暗いのでそこからサンプリングを加工編集するということも出来ず、ただただ、こういう音素材のWEBサイトに頼っている。

 しかし、そのほとんどが海外からの輸入が多いことに気が付く。うん?日本人の音楽性ってやっぱり海外と比較して貧弱なのか?とこの部分だけを捉えるとそう感じてしまう。世界的に有名なアーティストは日本にもいるだろうが、比較すると・・・である。比較するとやはり日本の音楽はある一方向に偏っているのだろうと思う。と、音楽関係者ではない人間が言うのだから、全く、背景も根拠も薄いコメントであり、ただのつぶやきなので音楽関係の方、ご了承いただきたい。でも、そう思ってます。だって、本格的にクラシック音楽をとなるとヨーロッパだし、ロックやヒップホップならロンドンやアメリカだろう。かりに、「J-POPS」という価値観でエンジョイするのもいいが、それは、村文化の極み、井戸端会議のつまみ程度。音楽の神髄や深く膨大な歴史の上で音楽を語るには、やはり、日本では(海外と比較すると)緩いとなる。

 と、自分を納得させて、このようなサイトで音楽素材を入手しているわけなのです。

わかりあえないことから。

 平田オリザという人の「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」という書籍があるらしい。「「子どもの気持ちが分からない」「近頃の若手社員は、何を考えているのかわからない。」それらは何が問題で、どうすればいいのか。コミュニケーションの本質を問い直す。」と。わかりあえないと感じる瞬間ってやっぱアドレナリンが出るし、ドキっとする瞬間です。わかりあえたと思っていても、こちらが妥協して歩み寄っている場合もあるし、どこか駆け引きように感じられると、寂しい気持ちになる場合もあると・・・、だから、これだという正解はないだろうが、わかりあえないことから考えようという視点はなんとなく興味ありますね。

 なにより、「オリザ」というカタカナの名前がカッコイイ。

日本をダメにした「B層」というのは?

 講談社から「日本をダメにしたB層の研究」という書籍が出ている。B層って何?とチェックしてみると、「グローバリズム、改革、維新といったキーワードに惹きつけられる層。あらゆることに「参加」したがり、「コストパフォーマンス」ということばを愛し、社会の「幼児化」を進めている人々。近代において発生した「大衆」の最終的な姿」と規定している。

 さらに、「なぜ日本人は「参加」したがるのか?」という問いかけをしている著者らしい。

 さてさて、この「参加したがる人々」というくだりがどうも印象的なフレーズだった。何故か?私自身はあまり会議とか集合とか大勢で何かを一緒にするのが根本的に嫌いだから。逆に「参加したがる人々」に対して心から(絶対に馬鹿にしているとかというニュアンスではなく)凄いと思ってきた。これは単に協調性がないだけであり、会議など全員でひとつの結論を出す空気が嫌いなのであるから、仕方ないのですが、とにかく、団体行動が嫌い。二人でも嫌。一人が一番いい。ふたりだけでいて最大限ゆるせる空気感がカミさんと愛犬ぐらいだろう。あとは全て多かれ少なかれメンドクサイ。

 外交的なのか内向的なのか?とも昔は考えていたが、そんなことすらどうでもいいぐらい団体行動が嫌い。よくこの本質で野球などいう競技をしていたものだと、学生の頃の未知数の度合いが振り切れている。

 で、ならば、私は絶対に「B層」ではないのですが、ならば、「A層」か?となると、この書籍を読んでいないので、不明ですが、そんな「A」とか「B」とかすらもメンドクサイ。だから、「なぜ日本人は「参加」したがるのか?」ではなく、「なぜ日本人は「孤立」を嫌うのか?」というアプローチの方がいいな。ダメにしたって、なんで今の日本がダメだって簡単に結論を出すのか?この著者はいい視点を持っているのだろうし、読めば納得できる論法が展開され有益な情報も発見できそうですが、この本は買わない。

チョットワイルドなロン。

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 ちょっとワイルドなロンのイメージ画です。この物語のシリーズで今年は来年の卓上カレンダーを作成しようと思っています。

 キャラ的には12名は余裕でいるので、それぞれにもう少し仕上げ感を出して、いつもの卓上の12枚モノ+表紙で年末に本年お世話になった皆様に配布・発送しようと思っています。

ラプトル。

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 3番目に好きな恐竜、ヴェロキラプトル。

本日発売「SUN SHOWER」

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 本日発売、カエラママの「SUN SHOWER」と。これもチェック。

るろうに剣心。

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 さらに、これも結構原作は古いらしいが人気がありリメイクを重ねているらしい。最近は実写の映画にもなっているってことは・・・恐らく、原作はいいのだろう。こちらも20巻前後が発行されているらしい。うんうん、チェックチェック。

 何歳になってもいろいろな漫画やアニメに対して純粋に心が震える人間でありたいですね。結果、電子ブック形態の漫画もしかたないが、ページをめくる紙の質感情報は漫画文化の根底をささえているディテールだから、ここのリアリティーを大切にしたいし、仮のコレクターのベクトルが漫画コミックスを収集する行為に関係性が深いとしても、いつでも、どこでも、ページをめくれば物語の世界が、絵と言葉で飛び込んでくる「漫画」とくスタイルはとてもとても理にかなっていると考えるべきだろう。デジタルデバイスが便利だ進化だ改革だというベクトルも勿論大切だが、相対的にヨチヨチ歩きの人間ならそのような歩行器も補助車も必要だろうが、そのベクトルで一旦ポテンシャルを安定させている人ならば、補助車は必要なしろうし、より早く走るためにも自転車は2輪がBEST。だから、一周回って「漫画が熱い」となるのかもしれないですね。だから、どちらがどれだけ便利かなどの「便利合戦」をしても心が震えないんだから、「誰がか持っているから・・・」という理由を鼓舞させて売る仕組み、そろそろ無理があるような気がしますね。

ジャイアントキリング。

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 いやいや、漫画は熱いなぁ~いつの時代も。これはモチーフはサッカーですが、なんとなく気になっています。22巻まで出ているらしい・・・。

新しい市場のつくりかた。

 明日のための「余談の多い」経営学 新しい市場のつくりかた 三宅秀道著 ¥2,100 という書籍がある。発売5日で重版というからかなり現代のニーズにストライクなんだろう。「ヒト・モノ・カネがなくてもヒットを生み出すヒントが凝縮」「技術神話をぶっ壊せ!文化を開発せよ!」「ストーリーとして競争戦略に比肩する、一気に読める面白さ!」というフレーズがいずれもとても気になる。さらに、「この本は要注意だ。一見軽そうに見えて論理は重厚。類書がありそうでない。イノベーションの王道を行かんとの志を持つ人々に本書を勧める」と東大の教授も言っているほど。何はどうであれ、ここまで書かせているということは50%盛っていると想定しても相当期待値は高い。

 そんなテンションの高い質量の重い語彙で紹介されているのに、寸評の中に50歳の経営コンサルタントがこう言っている。これだけはちょっと採用失敗だったかもしれない。まぁ、ここらへんになるとコピーライターの匙加減ひとつだから信憑性については「お任せ」するとしても、技術神話をぶち壊す!と言っているのだから、これはない。

 それは、「こらからの日本企業の取るべき道のひとつが提言されている。」とのこと。「これからの日本」か・・・。違う意味で次の文明開化の音とは何だろう?

さて、プライスレスは・・・。

 昨晩からキムタクの「プライスレス」月9ドラマが始まった。基本テレビ人間なので、恐らく難しいだろうなぁ~と思いつつもチェックする。こんな時代になってテレビドラマづくりも大変だと聞くからどうも養護的な視点でテレビドラマを観てしまうので、それだけでハードルが下がっているのです。しかし、前回の「リッチマン、プアウーマン。」のような意外にも素晴らしい本に出会うとと、やっぱ、週刊のドラマっていいなぁ~と思うが、そのテンションで恐らく「プライスレス」でののびしろは期待できると高は括れない。

 いきなりの設定説明は詰め込み過ぎ走り気味だったが、ドラマやオープニングの冒頭で誰かが死ぬという設定や葬式ではじまるドラマが直感的にあまり好きではないので、そこでまずひとつひっかかり。突然の解雇がグレイなまま進むのはいいが、始まってそこの段階までの説明だけで銀行に30円は無理がある。しかも、マンションが爆発って!ファイトクラブか!?っていうほどダイナミックな爆発でもなければ、フィンチャーアプローチもない、あの爆発映像はかなり安く上がっているはず。だってだって、ワンカットですからね。まぁ、いい。そして、いきなり貧乏根性が芽生えているがあのタイムテーブルでいきなり人間の思考があのように変化するとは思えない。しかも、藤木さんの社長が弱い。さらに、子役の二人も弱い。それは、中井とカリナさんが弱いから。ここはあえてこの二人の存在感は抑えたのだろうが、それでも、全体的に弱い話になっている。さてさて、ここから、どう「プライスレス理論」「プライスレス節」を展開するのか、この脚本家の腕の見せ所・・・ですね。という感想でした。

 恐らく第1話の後半で「腹違い」というネタを言ってしまったので、ここからの展開はおおよそ3パターンぐらいだろう。逆にドラマの進行中にテンションが高くなるようなプロットが1本あれば及第点だろうなぁ~と想定している。このドラマで一番イキイキして印象的だったのが「空き缶を拾っていた人達」だから、第1話としてはギリギリ成立している。さて、第2話は観るか観ないか・・・?

このデッサンは上手い!

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 いろいろネットで調べ物&リサーチをしていてふと発見した「鉛筆デッサン画」。学生の頃は鉛筆デッサン=課題みたいなニュアンスだったので、あまり、好きなタイプの描画手段ではなかったが、いろいろな画材を使って絵を描く上でやはり、「鉛筆」はテッパンだと40歳を過ぎた頃から感じるようになった。別段、基本に還るみたいなテイの年齢でもないのだが、鉛筆と紙の関係が他の画材よりもしっくりくるような感覚。絵の技術を会得する手法として、水彩画でもアクリルでも油でもテンペラでも木炭でもなく、やはり、鉛筆という画材が一番技術を習得する上で適正な手法なんだと。学生の頃にある程度、デッサンはやりまくったので、社会に出てからしばらくは「鉛筆」という画材に注視することはなかった。シャープペンシルやマーカーなどもっとプロの臭いがする画材を仕事で使うことに浮かれていたのだろう。でも、鉛筆はやはり基本なんだと思います。デッサンが上手いから絵が上手いではないのですが、やはり、上手い強いいい絵を描くための三大要素の一つである画材を使いこなす技術を習得するには「鉛筆」に始まり「鉛筆」に終わるのかな・・・と思います。偉大な画家でも、人生の後半でタブローの原画が美術館の展覧会の後半に展示してあると、この画家も凄まじい大作の数々を描いた人生の後半で、シンプルなタブローも描き残したんだと思うと、画家の一生の凹凸が感じることができ感傷的になる。

 ちょっときなりのキメの細かい水彩用紙にFから2Bぐらいの鉛筆で描く絵はなんとなく心が落ち着く。硬いデッサン、強いデッサン、優しいデッサン、緻密なデッサン、デッサンも十人十色でいいのですが、その中でも、心地いデッサンを見ると心から上手いなぁ~と心が痺れます。うん、これは上手い。

そんなに本を読んでも・・・。

 たまにこういうタッチのアドバイスを頂く。「そんなに本を読んで何が楽しいのですか?」と。しばし思考がフリーズしつつも、まず頭に浮かぶのは「私はそんなに多くの書籍を読んではいませんよ。世の中の読書家の人達と比較したら恐らくその量は10%ぐらいでしょう・・・」と思うのだが、これは一旦思考から割愛して、「読書が楽しい」って誰が言ったのか?と考える。そして、この人の「楽しい」の定義とは一体なんなんだろうか?と推察を始める。恐らく、グルメや健康や一般教養あたりがこの人の「楽しいの基準」であり、たぶん「そつのない、お上手で、キレイな人生観」ベースに私に向かって放たれた言葉が「そんなに本を読んで何が楽しいのですか?」なんだろうとその背景を絞り込む。すると、こういう人に対いて瞬時に頭に並べた言葉の中でもセオリーが通用しない。逆に別に上からも下からもモノを申す必要がないのだから、どこ基準で何を言ってもいいかなと考え「楽しい本っていろいろいっぱいあるじゃないですか!」をチョイスするが、これもこのタイプの人にはヒットしない。改めて、会話のキャッチボールの的が小さいのであるから、もっともっと、絞り込んで・・・「じゃあ、最近何か本読みました?」と切り返すと、「最近は本を読んでないですね、あっ、そうそう、3年前に流行った、あのあの有名な・・・」とタイトルが出てこないし著者も出てこない。これでは本の意味がないなぁ~と思いつつも、「3年前」「流行った」「有名な」あたりのキーワードで私の中のDBに検索をかけて、これとこれとこれ?あたりをチョイスするが、その人の中の一冊にはヒットしない。「ほんまに3年前か?」「ほんまに有名か?」「ほんまに読んだのか???」あたりが渦を巻き、結果、このような質問をしたこの人には、今後、本の話題は一生しないでおこう・・・と結論が出る。つまり、これが一番価値がある結論。

 「本を読んで何が楽しい?」と聞いている段階で、この人の人生の中で「楽しい本」との出会いがあまりなかったのだからこれ以上イジってはダメだと瞬殺するべき話題だったのです。しかし、ネットの情報と書籍の情報の違いに付いて諸説があるが、ネットの中の情報って頭には入るが、心に入って来ません。見事に入ってこないのに何故これほどSNSが流行っているのか?答は単純で、人間の脳が主語をスルーしているからです。言葉には文法があり、世界中に言語は8000あたりで増減しているらしいが、これらに全て法則がある。しかし、恐らく人間の脳は1種類だろうからデフォルトの機能は同じはず。しかし、後天的な理由や教育環境で脳の発達が多様化する結果、宗教間や経済格差の中で、ドラマが起こっている。しかし、仮想空間の中でのジョークで「今晩の夕食は美味しかったというつぶやきが誰かの飼い犬でない証拠はない。」と言われるぐらい、実態が見えていない。写真のリアリティーでさえ、誰も実は信頼していないというデータがあるのだから。結局、人間の脳はパソコンやインターネットというツールの中に真実があるとは思っていないのである。脳幹がそう判断している以上、面と向かって、「楽しい本」についてお互いの分析を対峙しても「ワン」と「ニャン」の議論になるだけ。

 で、逆のお話。読書量が多い人、つまり、見聞が広く既知に富み向学心と探究心を備えている人は同じ言葉でもそのデブスが違う。ひとことふたこと会話するだけでこれは不思議と分かる。また、話が逸れてしまいそうですが、昨今の「絆」「団結」「信頼」の大安売りには思わず目(心)を逸らしてしまう。言葉で「絆」の語感に五感が依存しているから、「絆」がチープに思えるほど。だから、言の葉の使い方は大切です。「僕は信頼できる人間です。」って平気で口にする勇気のある人は逆に幸福な人である。そんな会話をするだけで通じ合える人との「楽しさ」こそが「本を読む楽しさ」なのです。だから、逆の逆でどのような場面でも言葉にする時はしっかり反芻したいものです。「災いの元」とも言われていますから、黒い羽を広げて「カァ~」と鳴くレベルの会話なら、そのまま、どこかへ飛んでいってしまった方が、後が汚れないというもの。

 同様にこれらのことは、「本」に限ったことではないから、そこがまた、楽しい。

この絵必要ですよね。

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 何かショーと言えば・・・みたいな定番の絵ですが、これってやはり強いな。大きなイベント空間に装ったキレイドコロが整列すると、うん、なんかその気になるのは何故だろう?この組み合わせを最初に考えた人はほんとエライ。車でもバイクでもボートでもウエアは勿論のこと、想定外の商品の展示会でも彼女達の存在感は圧倒的です。このニーズって盛れば盛るほど摩訶不思議感が出るから凄い。あまりイベント会場ってゴミゴミとした情報が多くって精査されているようで意外とパイロットパターンが多い。コミュニケーションをしてみようかとチャンネルを切り替えても思いの他、時間の無駄が多く、現場にいる人達のポテンシャルは低い。わざとが技なのか!?と思えるぐらいに低い。恐らく、イベント担当として前日ぐらいに配置された人が多いんじゃないかな。まして、この女子に何を聞いても徒労に終わること間違いないとなるから、結局、「体感しろ!」という結論が多い。ま、こちらの見る力も試されている空間なだろうけれど、わざわざ、ディテールが欲しくって出向くがさほど・・・という結果が多いから、ほんとにいい情報に出会えるタイミングって演出とは別のベクトルなんだろう。ただただ、メンタル的に目の保養にはなるが、そこから先が見事に断崖マジック。でもでも、少なくとも何かを感じる必要がある場合は、このようなイベント会場で臭いというか感覚的に体感することも大切ですね。何事も頭で考え過ぎはNG。

作り込んでらっしゃる。

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 いやいや楽しげなサイトですね。スタイリッシュというか遊び心というかキュートというかインパクトがあるというかなかなかの作り込みが楽しさに突き抜けているからカッコイイ。いいモデルといい商品といいデザインが組み合わさるとこうなるというパターンですね。スッキリ系よりもゴチャっと盛っている方が好きだし、どこか至高を目指してますってテイよりも本能に正直な方がカッコイイと思います。しかしどこかで「品格」も漂いつつ手を抜かない・・・みたいな心意気は充分に感じられますね。さりとて自身商品には興味がないのでリンクページには入っていますが、ストライクゾーンの方なら最後まで堪能できそな情報がありげ・・・なサイトのような印象を受けました。ほんと、エンジンやブログやSNSの恩恵でどのページでもデザインを完結させよう的なノリもあるようですが、やはり、顔はトップページ。例えリンクページでヒットしたとしても、「ホームボタン」を押した瞬間に気持ちをグイっとこちらに引き付けるトップページがやっぱ強い。スマホやタブレットを意識していろいろなインターフェイスが存在していますし、試行錯誤も極限状態だろう。でも、デザイナーはクリエイターはそれでも追求・探究を止めない。だから、クリエーターなんだろうしそれが言わば条件なのかもしれないですね。いろいろいいイメージを広げてくださった刺激的なトップページデザインでした。

内向性と外交性。


 確かに「外交的な能力向けの社会」はそこかしこに用意されているが、一転して「内向的」な人間をどこか下に見るフィーリングはある。それを隠して外交的にふるまうことが善作のような風潮はおかしい。おかしいと捉えるよりも、相互のバランスと相関性が必要だとのこと。本当にその通り。

棒術。

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 何故?棒術の書籍をこのタイミングで購入したのかについてはいろいろな理由があるのですが、武術については全般的に広く浅くではあるが興味がある。何故、武術に興味があるのかについては、決して「強くなりたいから」という理由ではないし、今更、武術・体術を会得して全身傷だらけになって新境地にダイブしたいなどと迷走している時間はない。しかし、武術の歴史やその技術的な論理や精神的なアプローチについては、なんとなく、あくまでも、なんとなく突っ込みたい人間なのだろう。特にいろいろな武術が存在するようだし、中国武術をルーツにするマーシャルアーツ全般以外にも、地球上にはいろいろな武術の歴史がある。日本はどちらかと言えば、お家芸的な部分で武術が盛んな国のように捉えている。しかし、他の国のそれを全て掌握しているわけではないから、短絡的に「お家芸」視できているだけ、もしくは、他の「お家芸」を知らないだけなのであることは充分否めない。つまり、この地球上で戦うにせよ、護身にせよ、様々な体術が開発されある場面では重要人物を保護するため、ある場面では競技会としてその技を競う手法に活用され、そして、ある場面では、個人的な目的で使用されているはずである。古典から最新の体術まで人は自らの四肢と感覚で武具と呼ばれる木や鉄などの素材で製造された武器を使い使用している。最終的兵器がプロトニウム239だとしても、全てはある人間がある目的のために製造した武器なのである。

 さて、そんな武器の歴史は言わば人類の歴史そのものだとも言える・・・という側面で、単純な武器と高度に進化した武器。武器の性能が勝負を決定するというテイでのお話ではなく、同等の武器をお互いに持った術者が対峙する時、どのような武器がスマート(武器を表現するのには適正な言葉のチョイスでないかもしれないが・・・)なのだろうと一旦考えた。基本は中国やモンゴルあたりのアジア圏がルーツでとなると、体術の他に一番イメージしたのが木の武器だった。より体術の割合が多く、絵になる武器。それは直感的に「棒術」だった。いろいろリサーチすれば、その歴史はかなり古い。そして、様々な経路があり現代に至っているようである。この書籍は日本の術者の著書ですが、その歴史はやはり中国であり、さらに言うとやはりの部分でアフリカにルーツをもっているようです。

 なんの背景も脈略もなく直感で「棒術がカッコイイ」と決め打ち(悪い癖)してしまったから、このファーストインスピレーションにこだわって最後までキャラ創りに取り組みたいと思っているのですが、それでも、この武器に無理があるならばリセットするのはこのリサーチの段階だと思っています。が、やはり、この書籍の冒頭の部分を読んで、これで「アタリ」だったと思っています。

 さてさて、「棒術」とは何か?これを読んでイメージが固まったら、やはり、そのモノを手元に持っていたい派なので、棒術専用の「六尺棒」を購入しようと思っています。なかなか、楽しそうで絵になる、しかも、奥が深い体術・武具のようです。

考えないという発想法。

 「バカの考え休むに似たり」これを検索すると、「下手の考え休むに似たり」という優しいニュアンスが一般的でその意味は「下手の考え休むに似たりとは、よい考えも浮かばないのに長く考え込むのは何の役にも立たず、時間の無駄だということ。」ということになっている。さてこの場合の「考え」とは何だろうか?まぁ、一般的に「考える」だからいろいろ頭の中でモノゴトを整理したり準備をしたり構想したりすることがこの作業に該当するのだろうが、それにしても多岐であり多様である。では、「考える」とは一体どこからどこまでのことを指しているのだろうか。「考える」を考えるとまず「脳」とは?みたいなことになり、「精神」というキーワードが登場する。すると、必然的にテッパンで「心」というワードに辿り着くことになるが、これはどの軽い書籍から重い書籍までをひも解いても同系列。が、「休む」に似ているということは「考える=休む」とそもそも似ているということになる。「休む」ってそもそも考えないことではないから、この語源というかルールをどう辿ればいいのだろうか・・・と迷宮に入り込んでしまう。

 で、結果、「無我」「無心」「ニュートラル」という価値観に辿り着く。かなり、速足で辿り着いてしまったが、この論法はかなり強引だし割愛しまくり論法なのでツッコミどころは満載のはず~を前提の仮説です。座禅とかチャンネルとかモードとかいろいろその呼び名はあるが、その状態を日常的にどう取り込んで「考えている頭」を休ませて「考え」を生産的な創造的な活動へ結び付けるのか・・・これが、デザインのお仕事。ということは、「アイディア」が欲しいからと言って、考えていてもいいアイディアが確実に降臨するということはありえないのである。引き出しや資料は長年やっているから相当蓄積されているが、それでも、引き出しの数と資料の絶対量だけでデザインの仕事は不可能である。昨今で言えば、サーバにデータ情報を蓄積してクラウドのビックデータを解析・活用してノウハウを構築しましょう的な業務や戦略が実しやかに語られているが、恐らくそれらは「馬鹿対象」のチリや誇りや窒素に近い。それをアミノ酸に変換してエネルギーになることを仮想空間のピエロ達は知るべきである。氷室さんが「もつれた糸を断ち切って自分のために踊りな!」と歌っていた頃が懐かしい。

 だから、時にアイディアが欲しい場合、無心の向こうにある、「考えない発想法」というアプローチをいろいろ試しています。その一番身近な手法の一つが私の場合「絵を描く」という行為なのです。絵を描く時こそが実は「考えていない状態」なのですから、こんなに都合のいい状態はないのです。もっと言うと、デザインの仕事をしている状態では短いワーキングメモリーは使用するが、ほぼ、「考えない状態」ですから、これも都合がいい。このあたりのテンションと組み合わせを何周も回ってきて「天職」と呼べるのでしょうね。「天賦の才能」って言わばこういうことでしょうね。努力努力努力の積み重ねでそこに辿りつけると思いたい考えたいが、そこにはただ疲労困憊栄枯盛衰があるだけだと思います。リアリティーが本当に欲しいのならまず考えないことのようです。

 吹田のおじさん、分かります???

赤いドレスか・・・。

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 なるほどね、これがハリウッドの映画ポスターのテッパンのひとつ「赤いドレス」か。そう言えば的なパターンですね。「赤いドレス」アイテムか、これでいっちょキャラを描いてみよう。

ハロウィン。

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 オレンジ色のかぼちゃ君がチラホラと目に止まる季節。10月31日が正確にはその日なのですが、に日本ではクリスマス同様にただのイベントになっている。そもそも秋の収穫祭と絡めてのカボチャのお化けは魔よけだとか・・・。つまり、カボチャの美味しい季節になったということ。天高く馬肥えるとも言われるこの季節にカボチャをくりぬいて顔にする。できれば中にろうそくの火を入れる。どこまで本格的にするかは個人差あれど、秋の収穫に対するリスペクトと海外の風習・慣習をお菓子で子どもたちが繋がれば、このイベントもありなのかなと思います。個人的にオレンジ色もカボチャも好きだし、家庭菜園で何度かカボチャづくりにトライしているが、成功した経験なし。う~ん、カボチャって意外と接点があるものです。お化けか・・・。

ビックデータの活用術!?

 「欧州最大規模のゲーム企業の1社である英国King.comは、「Cloudera's Distribution including Apache Hadoop(CDH)」を導入した。オンラインでゲームをするユーザーに対する理解を深めて、売り上げを伸ばすことを目的としている。

 4,000万人以上の登録プレーヤーを擁するKing.comは、オンラインとモバイル・デバイス経由でゲームを提供しており、トラフィックの半分以上をFacebook経由で獲得している。

 同社のデータ・ウェアハウジング担当ディレクターであるマッツ-マッツ・エリクソン(Mats-Mats Eriksson)氏はComputerworld英国版に対して、オンラインでの成功にはアナリティクスが極めて重要だと述べた。

 エリクソン氏は、「アナリティクスはKing.comが今日の規模に成長できた要因の1つである。われわれが事業を展開する空間、つまりオンラインゲームの世界では、プレーヤーについてできる限り多くのことを知り、すべてを最適化することが極めて重要だ」と述べる。

 「ユーザーの行動を見るだけでも、非常に多くの情報を得ることができる。その後、そうした情報を利用して、より良いゲームやさらに収益化に優れた機能を開発することが可能だ。われわれは最終的にはこれを利益につなげたいと考えている」...」というオンラインの記事から、ビックデータに関するひとつの極一部の側面が見えてくる。

 膨大な国家・企業・個人の情報がデジタルデータの状態で加速度的に蓄積している状態からのそのデータの活用術は?ということだが、そもそも、蓄積したことそれだけで、満足している場合もあるだろうし、活用術って実際???みたいな。

 あと100年ほどすれば、サーバの下層に埋もれた化石のような情報がダイヤモンドのような価値を放つとか放たないとか・・・。電気がなくなり・・・みたいなSFチックな未来とこのまま可もなく不可もなくで進化すれば、いつか、ビックデータは酸素に近い存在になるんじゃないかな。しかし、ゲームのパワーユーザーとビックデータの関係を繋ぐデバイスは形態的には次はどんな形状になるのでしょう?フォルム的にはまだまだぎこちないはず。人間工学的なアプローチがバーチャルな世界とどのように融合し、融合した上で、本能はそれらをどう捉えるのか?知覚とバーチャルの定義が変わるかも・・・。

危機一髪の夜景撮影。

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 なかなか山頂の駅舎の上って!?下手すると下手してましたが、キレイな夜景が撮影できました。さてさて、どこでしょう???

ポットちゃん良かったですな・・・。

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 凶暴なホットと別れてなんとかしっぽも治って元気になってきましね。良かった良かった。

マスタースイッチ。

 「インターネットを支配しようとしいるのは誰か?ネットの自由を守ろうという議論が米国で話題となった。いわゆる「ネットワークの中立性」の問題だ。本書はそのきっかけをつくった米コロンビア大教授が書いた米情報通信企業の栄枯盛衰物語である。米国は情報通信分野における「正しい独裁者(マスタースイッチ)」の姿を模索してきた。電信時代のウエスタンユニオン、電話時代のAT&A、映画時代のハリウッド、パソコン時代のマイクロソフト、ネット時代のアップルやグーグルなどだ。情報通信産業が他産業と異なるのは「ネットワーク外部性」が働く点だ。すなわち利用者が多いほど価値が高まり、独占状態を生みやすい。そうした独占企業が自分の地位を守ろうと新技術や新興勢力を退ける傾向があるという。これに対し著者が提案するのが「分離の法則」と呼ぶある種の規制だ。本来であればイノベーションが独占状態を崩すはずだが、現実はなかなかそうはならない。だとすれば、新陳代謝を促すためのルールづくりが必要だと説く。台湾生まれの日本人を父に持つ著者は日本にも関心が強く、イノベーションが起きにくいのは独占を容認する風土があるからだと指摘する。日本復活のヒントを探るには、米国企業の栄枯盛衰を学ぶことも重要というわけである。飛鳥新社より2,500円」という書籍があるらしい。なかなか逞しい著者である。そこは確かにデリケートでありストロングな部分ですから、ここでも放つ人と受ける人の構図上、「風土」や「慣習」が深く関係しているし、「学ぶ」ことが「受け身」なのか「能動」なのかという国民性でインターネットの自由性はどちらにでも転ぶはず。

 また、栄枯盛衰の物語タッチで言うならば、混沌とし過ぎて現在はフレームが崩れはじめているような印象があり、その歪みや捻じれや解れている部分に上手くインターネットのピースがはまったと捉えがちだが、実は、そのスイッチは誰かが持っているということ。そのスイッチをたぶん恐らく日本人やアジアの人が持つことはないような気がする。これも、「風土と慣習の歴史」で答は導けるだろう。

 とにかく、人間はモノリスが好きだ。やもするとキリストよりも信じている人が多いはず。それを現在のマスタースイッチの保有者は熟知してモノリスのコピーを分け与え給わっているのだろう。石の矢で立ち向かうのか業火で立ち向かうのか勇気と知恵で立ち向かうのか時代時代の栄枯盛衰物語の主人公は勝負の時を待っている・・・みたいなことなのかな。恐らくラーソンはリスベットでそれを描きたかったのかもしれない。

例えばこういうキャラを・・・。

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 例えばこういうキャラを描いた場合、頭でイメージしていたように描ける場合と、そうでない場合がある。それが跳ねる場合と跳ねない場合がある。この作品の場合、それが微妙で、イメージは描けたが、まだ、跳ねてはいない。解決策としては、しっくりとくるまで描くしかない・・・。

頑張りましょう!

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 とある某日の講義・実習風景。70名の皆様、あと13回、頑張りましょう!

ちなみにちなみさん。

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 ちなみにですが、この写真もなんかいい。この「なんか」がWEBサイトや広告物・販促物の写真力を左右するように感じています。知名度があるなしや創り込みのあるなしに全く関係なく、「なんかいい」写真は明確な理由が限定できない。しかし、いいのである。デザインの仕事を長く続けているとセオリーや先入観や中途半端な方程式で「写真はこうあるべき」を狭く限定してしまう癖がある。それをいつでもどの段階でもリセットできる決断力がとても素敵だと思っている。情報として背景が明確であり、整理されている写真も必要不可欠ではるが、一枚の写真をより語らせようとする時、やはり、人知では理解できない重力のような力を感じる写真やアートやデザインに心が震えますね。なんでしょうこの感覚。

FLASH DANCE

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 ずっと欲しかったDVDを最近買った。数十年降りに観る「FLASH DANCE」。そういえば、最近はこのタッチのこの質感の映画が皆無だなぁ~と。時代の流れなんだろうし、技術が進化するとどうしてもそれを誇示したくなるのかな。最近、仕事で海外のサイトをいろいろチェックしていたら、基本的なFLASHの技術で、複雑な仕掛けやプログラムライブラリーなど活用せずに、シンプルに読ませて魅せる楽しいFLASHサイトがあった。ゴリゴリのプログラムフリークが洗練さのチュートリアル通りに作成した「洗練」と紙一重のWEBサイトよりも、私はこの「楽しんでいる感」がとても魅力的に感じた。英語版だったが、文字量は多いが文字のフェードイン・フェードアウトや写真やイラストとの組み合わせが完全に楽しんでいた。これは英語のユーモアや異文化・異慣習のテイストは100%感じれないにしても、「ああ、基本的に制作者がその会社のトップやスタッフの皆様が楽しんでいないサイトは魅力的ではない。」と思えた。

 BTW, 楽しめばいいのか?という側面があるが、いやいや、楽しめている段階で、恐らく、全ての技術的な背景やコンセプト的な問題は完全にクリアしているからの「楽しい」なのである。化学薬品で感覚を増幅させて「楽しい」と誤解することも、左脳に有益で刺激的な情報を送り「楽しさ」の0と1を羅列することも、恐らく絶対的な意味での「楽しさ」から離れている。

 そういう意味で、ひさびさの「FLASH DANCE」は楽しかった×10。

美容と健康というテーマ。

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 動いていない人よりも動いている人がカッコイイと思う。さらに、動くならゆったりよりも素早い方がカッコイイ。さらに、素早いなら自己完結よりも対峙して何かのチャンネルで秀逸な方がカッコイイ。ではどのジャンルでどのチャンネルがカッコイイと感じるか?は個々に個性があっていいと思います。で、武術と言えば、中国という安直な発想から、その歴史や歴戦のマスターをネットでリサーチしているのですが、意外とネットの中の情報は野暮い。あまりこの「カッコイイ」というスマートなニュアンスとは程遠く、どちらかと言えば、頭で考え過ぎて「私は強い。」「私は一番です。」「彼は彼女こそがマスターだ。」的な情報のディテールが多い。これでどのよに強い強かったは理解できるが、印象としてニュアンスとして「強い」が伝わってこない。さらに、「カッコイイ強さ」となると、皆無である。これは、ネットで検索しているから結果、ディテールが希薄になっているのだろうか。テレビがネットに勝ったの負けたのというテーマが氾濫しているが、デバイスの情報のディテールの味気なさをリアリティーの臨界点だと誤解しないように、常に情報のニュアンスやディテールやマテリアルを分析しながらインプットとアウトプットをしたいものです。

 で、「強い女性が美しい」のか「女性だから強いことが美しい」となるのか「美しいから強さがひきたつ」のかなどと論法をいろいろ組み替えてみるが、なかなかこのループは掴みどころがなく、帰着点が見つからないが正しい。と同時に、ネットの情報であれ、SNSの口コミネタであれ、リアル井戸端会議のTIPSであれ、自分の中にある情報を他に伝える場合、素がいいのか?脚色が必要か?という判断はどんな分野のビジネスにおける販売促進にも見られる側面である。世の中の女性は「美」に対する代価は惜しまないというテッパンのセオリーがあったとしても、「美」を追求している生物は選択肢も多いだろうし、見極める視力も眼力も高いはず。そこへ情報を投入する場合は下手な脚色よりも素がいい場合もある。これがベタな話、「美」以外のカテゴリーでも同じ。料理を訴求する、家を訴求する、サービスを訴求する時にその商品の特長をどのように伝えるかで伝わりののびしろが大きく異なる。この「素と脚色」の部分で言うと「脚色」の部分が「デザイン」となるから、これらのことをしっかり理解して「素(素材・魅力・ポテンシャル)」を「脚色(調理・加工・クリエイト)」しなければ、「食えない一品」になるのでしょうね。美味しい魅力的な料理をするためには、やはり、「美味しい料理」を自分のモノサシ(味覚)でより多く得ている必要がある。

 で、その先に「強い」の方程式があるように思います。

テレビで拝見するに・・・。

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 なんかのレポート番組のテイで初めて知ったタレント&モデルの鈴木ちなみさん。さすがのモデル経歴ですから、スタイルもグンバツですし、ルックスも魅力的です。モデル業とタレント業と女優業も最近は・・・とご活躍の女性です。そのレポート番組ではどこか天然であまりクレバーな印象は受けなかったのですが、コメントのひとつひとつが生きているように感じた。いやいや、他の女子アナのコメントがリミッターをかけ過ぎて放送作家のオンラインだから、小柄で少しキャラがたちルックスよしという路線を逸脱しないつまらなさと比較すると、テレビの中という枠でいうとこの鈴木ちなみさんはどこか自由な印象を受けた。同じ、テレビの中なのに、女子アナやアイドル出のちょっとしゃべれるタレントさんと比較して、どこか何か違うような印象。まして、48人の刺客達は言語道断ですし、誰ひとりカメラの前で自分の言葉を出すことができない。タメでノリでイキオイでテレビに出れているうちは何もかもアンダーザスポットライトですが、意外と意外とスタジオのスポットライトが照らす面積は小さい。

 で、このちなみさん、スタイルもいいんですが、ロケの映像など動きもいい。「アルピニストイモト」と比較したら誰しも動きは悪いとなるが、それでも、海外のロケ映像の中でちなみさんは個性とキャラを発揮している。このルックスからくる表情なのか、声なのか、なんだろう・・・。

 世の中にはそれぞれの分野での「可愛い」「美しい」「魅力的」のモノサシがある。男性は女性が好きで、女性は男性が好きという基本構図の他にも、最近は男性が男性を女性が女性を、もしくは、男性からの女性が女性からの男性を・・・みたいな構図もあるらしいから、男と女の間には深い谷がある。恐らく、鈴木ちなみさんは一般的に「可愛い」「健康美」「スタイル抜群」「明るくドライ」ぐらいがモノサシに適用されるのでしょうが、それでも、個々にこれらの要因で言えば、他に多くのタレントがいるわけで、そんな中、独特の雰囲気を出せるというのは、見た目意外のポテンシャルが機能しているような気がします。これが最終的に「人間力」となり、人と繋がる時のその繋がり方の綾を織りなすのだろう。

 それに、海外の絵にもよくマッチしているから、中身のベクトルも外を向いておられるのだろう。今後も、引き続き、注目の女性タレントさんです。

なかなか。

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 素敵なイマジネーションですね。「人間と機械の融合」技術が先か倫理が先か、一番先端の人達の中では答は出ているのでしょうか?そう考えるといかに「ブレラン」が偉大だということ。

フランソワーズ。

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 こちらはアニメーション映画ようのモデリングサンプルのようですが、なかなか。子どもの頃にワクワクしてみていいた2Dのアニメが物語設定も現代にリデザインして3DCGで再構築されている。ここだけでかなりお腹いっぱいなのですが、さらに、すこしあらすじを読めば、なかなかのなかなか。楽しみです「009」。

3Dキャラのディテール。

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 ゲームキャラはあまりゲーム自体をやらないので知らないが、メディアに流通するレベルでPR用のビジュアルとして採用されている3DCGはいろいろ気になっている。ゲームが嫌いというわけではないが、あまり、やっていて楽しそうではないのでスルーしている状態。大それた言い方をすると、誰かが創ったプログラムをトレスするのが好きではないという観点でです。

 で、いろいろビジュアルとして気になっているのキャラが多いのですが、中でもこの最新のキャラは素敵です。どんな設定かあまり知りたいとは思いませんが、ただただ3DCGとしてこの完成度は素晴らしいですね。でも、動くとなんかぎこちないのが現代のテクノロジーの限界なのか、それとも永遠のテーマなのか・・・。

エンプロイアビリティとは?

 「個人の“雇用され得る能力”のことで、Employ(雇用する)とAbility(能力)を組み合わせた言葉。一般に転職できるための能力を示すが、現在勤務している企業内において継続的に雇用されうる能力という側面ももつ。つまり企業内外を越えた労働市場におけるビジネスパーソンとしての価値と言い換えることができる。その内容は、知識・技能にとどまらず行動特性や思考特性、価値観といった個人の内面的属性までを含めたものとしてとらえられている。エンプロイアビリティという概念が生まれた背景は1980年代以降のアメリカの社会情勢にある。当時、技術環境や産業構造の変化に適応するために企業のダウンサイジングやリストラクチャリングが進められた。これにより企業は労働者の長期的雇用を保障できなくなった。しかし、企業内の固有業務に長年携わってきた人にとっては別の職務に異動することは難しく、まして他企業に転職することは至難である。そこで、長期雇用に代わる発展的な労使関係を構築するためにエンプロイアビリティという概念が登場した。つまり、企業が長期雇用を保障する代わりに他社でも通用する能力(エンプロイアビリティ)を開発するための機会を提供する、というものである。企業にとって、個人のエンプロイアビリティの向上に努めることは、優秀な人材が流出する可能性を高めることにもなる。しかし労働市場全体の質を高め、人材の適切な流動化をうながすためにも、社会的責任として受け止められてきている。一方、個人の側としては、自らが雇用され続けるためには自己責任においてエンプロイアビリティを高めていく必要があるという認識が高まっている。」という時代だそうである。なんでもかんでもアメリカアメリカもダサイ話だが、一つの時代を創った価値感だから仕方なし。いったいいつまで「フンOF金魚」なのか誰もその未来像は知る由なしだろうが、雇用される能力って!いったい、どんな能力だ?いわゆる「世渡り上手」のこと?マルチなスキルの保有者?個みゅにーケーション能力がずば抜けの人?それとも誰かのご子息?雇用される能力って聞いて何が思い浮かぶだろうか?私自身、正社員だった期間は計8年間。その頃は何をどう考えて「雇用されています!」って考えていたのだろうか。そんなことは考えていなかったに等しい。前と前の社長がこのブログを読んだら、あっ!前の社長はもういないか・・・。前の前の社長さんからパンチが飛んできそうですが、いや、前の社長もあの世からゴツン!と飛んでくるかも・・・、ぐらい「雇用されるためには?」など考えていなかった。常に頭のど真ん中にあったのは、次へのキャリアをどこまで突っ込むか?そして、独立した時に自分自身に何が備わっているか?それをサラリーをもらいながら、実験・経験・体験させてもらった8年だった。雇用される状態では自分の好きなことができないから、早く、自分で・・・という意識の塊だった。だから、今があるし、それを自分自身に誇れるようにするために「今」があると考えている。だから、お金など5の次だし、休みなどいらない。なぜなら、「今」を全力で生きていない人間に自分自身が誇れると思える未来など来るはずがないからである。つまり、全ては自分自身のために決まっている!いないのか!?古今東西、誰が雇用主のために自分自身があると思っているのだろうか?「エンプロイアビリティ」とは全くふざけた造語である。まぁ、そういう時代なんでしょう。

集中力とは?

 最近、自分自身の「集中力」ってどうなんだろうと考えてみる。子どもの頃の集中力、学生の頃の集中力、社会に出た時の集中力、そして、現在からの今後。子どもの頃は自分自身が好きなことには集中力があったが、勉強は?という程度だったような記憶があるし。とはいえ、「勉強は?宿題は?」という言葉に反応してやらなければいけないことという認識の元、勉強に集中をしていた記憶もある。遊びとなると、野球や釣りがそれなりに。しかし、集中力とその成果・結果の相関性は一貫して変わっていなような気がする。自分の中にあるテーマと集中するターゲットの相性次第でこのレベルは上がりも下がりもし、結果、その成果は比例している。学生になると「勉強」というテーマで結果を求められるし、自分自身でも目標設定をするから、その結果に向かって集中する経験の中で、自分自身のIDを確かめる。そこには失敗も挫折も成功も達成感もあるからこれらを総じて「学び」と称する。しかし、社会に出ると社会からの期待、会社からの期待、同僚からの期待の中で、このIDのベクトルを模索することになり、それまでは、自分自身のためだけ、親や学校の先生の鼓舞からの目標設定だった集中力のターゲットが社会という大きな括りになる。この時、恐らく、迷ったはずであり、社会に出て仕事をするということは、いろいろな期待に応えることであり、総じて引いてはそれが自分自身にフィードバックするというルーティーンで子どもの頃、学生の頃にはないIDを得る。

 さて、社会に出てこのIDはどのように変容するのか?現代は複雑多様になったと誰かが言っているし、メディアの源流の人間はその声を誰から聞いて言葉にしているはずだから、恐らくそれはループしてきた社会の声だという仮説が成立する。しかし、そもそもそれらは単純ではなかったはずだし、社会の規範が回り回って自分に還ってくるという仕組みもさほどのリアルさはない。誰のためにという価値観が失われた時、人間は指針を失う。仮想現実という価値観の中で電子コミュニケーションの是非が深刻化しているようにも見受けられるからこんなことを必然的に考えてしまうんだろうが、これらの現代社会の構造は人間の集中力を分散させようとしているのかなと、ふと、考えてみた。なぜ?何かから?どのようにして?は限定できないが、過去の歴史から人間のIDが確立されて、集中力が高まり過ぎると、都合の悪いループが潮流が起きやすくなるからかな?とさえ思う。このループが生産的なら、仮想空間にこのベクトルを分散させずとも、進化のスタイルはあったはず。購買が生まれるパンドラの箱的にその価値感を賞賛し過ぎるあまりの現代の精神疾患と、まぁ、こんなテイの記事を読んだ。文脈はこんなに歪んではいなかったが、独自の曲解をするとこうオチる。

 WHOが発表した世界の精神疾患「鬱」は全世界に3.5億人いるらしい。何をどう調査して3.5億人と言っているのかは読みとれなかったが、70億人中の3.5億人が「鬱」なのである。「鬱」を集中力というベクトルで分析すると恐らく低いはずであり、分散しているはずである。一つの価値感、一つのIDに辿りつけず、ループする社会構造の中で自分の立ち位置が見つからないのである。だから指針を失い、ベクトルが下がるのだろう。ある企業では従業員の中の35%は「鬱」もしくは「予備軍」だと規定されているというリアルな話も聞いた。とここまで洞察すると、決して「鬱」も悪くないのかもしれない。自殺するほどヘビーでなければ、どこか感覚が一部麻痺している状態は、ある意味、ある側面でフラットな均衡を維持できているとも捉えられなくない。

 人間の歴史で「集中力」が高まり、結束力が生まれ、団結力が高まるとき、必ず、大きな歴史的な「争い」が起きているという事実もある。それを「学んだ」人間がそうならないために国民の「集中力」を分散しているという仮説、なかなか、的を得ているような気がする。これが錬金術ならば、メディアはそれを適用するだろうし、それで、個人の利益が保護できれば、資産家もYESとなる。この構造が半永久的に「幸福論」と賞賛されるならそれもまたひとつの正解、だと考える人が多いのだろう。

 で、自分自身の今の集中力はどんな感じなのか?高まっているのか、分散させられているのか?淀んでいるのか、至高が見えているのか?エースの言葉重い。「海賊の高みへ・・・」と。イタチも重い言葉を残して昇天した。もうすぐ009のリメイクも公開される。たかが漫画、されど漫画。ふと、気がついたら、漫画のことばかり考えている自分がいた。このベクトルがモチベーションがノウハウがテンションが仕事とシンクロした時に自分自身の集中力がMAXになることを知っているから、仕事に集中し始めると、頭がたぶん、「漫画脳」にリンクするのだろう。ドキドキワクワクを学んだことを目の前の仕事に適用することが、一番いい状態なのかもしれないですね。どうですか?山梨の相棒様?

三歩さんが残したモノ。

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 ある意味、「岳」という漫画は衝撃的だった。モノゴコロのトリガーが漫画だったぐらいの記憶がある私にしてみれば、漫画と共に生きてきたような気がする。テレビのアニメや実写のキャラクターなどもダイブしてきたし、映画のヒーローやヒロインに一喜一憂してきた人間です。だから、アニメオタクという言葉が登場・浸透する前にこのエリアにどっぷり浸ってきたから、GやDやEがどんだけアニメブームを牽引しているとしてもその程度でこの漫画オタクはぶれない。なんで漫画なんだろう?などと考える隙間もなく、最初に好奇心や興味のベクトルが漫画の中から始まっている感覚だから、まさにボーンTOなのである。頭で考えて、誰かと共有・シェアしたいからそのヒーロー・ヒロインに傾聴したかという感覚も記憶もなく、そんなことは全く無価値だと思っている。そこにあるのは、自分の興味とコミックス、ただそれだけでいいのが、真髄の本丸のガチだと思ってる。誰から知らない作品を進められる、これもいい。誰かに感動した物語を進める、これもいい。映画の原作だから、テレビアニメの原作だから、だから、知った。これでもいい。つまり、漫画作品との出会いはなんでもいいが、だからこそ、明確な好き嫌いがある。だから、「GやDやE」は嫌いなのである。となると、ディズニーのアニメは嫌いで、ピクサーは別格。という基準もあるが、それは、自分自身のさじ加減。人に言わせると、私の好きな漫画作品にはパターンがあるらしいが、そのパターン、パターン化する意味は何だろう?とさえ思うぐらいに、ある基準があるにはある。だから、海外の漫画作品について、アートやクリエティブとして捉えてしまっている部分が多く、これまた、自分の中の漫画という作品の属性で言えば異なっている。同様に、宮崎監督の「ナウシカ」が漫画だとは思っていないし、「アキラ」と比較した場合、「ナウシカ」はどうも漫画だとは思えない。それは、この作品の目的は漫画として完成させたニュアンスが少なく、宮崎さんはアニメ映画を作成するための壮大な壮大過ぎる「絵コンテ&脚本」のように感じるからである。これの微妙なモノサシで最近のベストワンが「岳」だった。三歩さんが「自分にとっての登山」を語り始めた頃から、「あれ?」と感じていた。そして、ローツェに単独で登ると言い始めてから、もしかして、これはエンディングに向かっているだろうなぁ~とちょっと、ワクワクドキドキしたが、寂しい感覚になった。そして、このエンディングである。

 う~ん、しばらく、この感動の重さに心が動かない。小説で映画でテレビで舞台で、この感動の重さが味わえるだろうか???と反芻してみるが、恐らく、私の場合、この種類の感動が一番比重が高い。それほど、「岳」の最終回は響いた。こんな最終回、想定内だったが、それを読み終え見終わった感覚は想像以上に重い。重すぎる。

 コミックスにして全18巻。こんな物語を世の中に残せた最高だろうな・・・と。今、描いている構想している物語に向けて、無類のテンションを上げています。

ツイッターのサーバ調子悪くないかな!?

 最近、ツイッターのサーバにアクセルするとIEが閉じるという症状が出ているがこれは、このIEが壊れているのだろうか?何回やっても書き込みができない。まぁ、あまり活用はしていないから仕事には特に影響がないが、ブラウザのことやサーバのことを少しチェックしています。何かツイッター関係で情報がありましたら教えてください。ここ最近のお話なので何かトラブルがあったのかな?って、ツイッターでつぶやこうと思ったのに・・・。

なるほどなるほど。

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 なるほどなるほど、そういうことか!って、なんでベニヤ板に描かれているんだいっ!このテイの説明はもっと普通一般的に然るべきパネルに貼ってあって掲示されているような性質の属性の情報なんではないのだろうか・・・。クレーの音が激しくこだまするこの場所ではいろいろなテンションが上がり、日の丸を付けた人の顔が、まるで、シャイニングのラストシーンのように見えてきた。別の世界に足を一歩踏み込む感じは、そうそう、こんな感覚ですよね。久々に五臓六腑に響く振動でした。

その気はどの気!?

 「これ嫌だなぁ~」「この面子で会議してものびしろはないなぁ~」みたいな予見で心が重い時ってありますよね。これは総じて苦手意識なんだろうけど、これを克服するためにはまず心がその方向を向かねばなりません。でも、どれだけ強引な理論で自分自身をねじ伏せようとしても「嫌なものは嫌!」と行動を司る自分が腰を上げない。挙句の果てに頭が痛くなったりお腹が痛くなったりするから、人間はつくづく心で生きていると思える瞬間。しかし、人生にはノリにノッっている場面ばかりではない。これ嫌だなぁ~と思っても大人な判断をしなければ・・・という場面が多い。しかし、逆に、大人な判断ばかりを繰り返しているともう一人の自分が麻痺してきて、この行動は自分のため?他人のため?が判断不可能になる。よく、ボランティアが好きです!って屈託のない笑顔で汗をかいている人を見かけるが、その場合のボランティアにはかなり自分の都合のテイストと複雑怪奇な先入観が共存している場合が多い。まぁ、ボランティア論をここで話出してもしかたないのですが、「その気」とは具体的にどのような気持ちなのか?というテーマで言うと、「好きか嫌いか?」「損か得か?」「正しいか悪徳か?」という3つの基準に深く関連する自分的な「あり」か?「なし」か?のモノサシになってくる。この気をその気にさせる・・・いや、その気になる背景を用意するという努力が、さてさて、努力なのか配慮なのか工夫なのか?迷い始めると、自分の中のボキャブラリーだけその背景が浮かんでくる。結局、最後の最後で、一番、自分の「いつもやっている判断」に落ち着くから不思議。ただ、それでは、必ず、次のその機会に同じことをしていることについてはあまり深く考えず、同じ失敗をしていることが多いようなパターン。実はこのルーティーンが個性のフレームなんだという学説があり、ここに至る複雑怪奇なルーティーンを分解して言葉でそのパーツを再構築して意識を変えるあたりが恐らく臨床心理のテクだろう。これに、「精神的疾患」としての「鬱」ですって診断された(まぁ、先生の匙加減だが・・・)人は、適当な精神安定剤的な血糖値を抑制か促進する薬を体内に入れて、「ああ、自分は精神的に安定した・・・」などと曲解と誤解の狭間で迷いながら、それを正解と誤認している。これでは、とても「安定」には程遠い。つまり、何か外部的な要因や内因で「安定させよう」とすること自体が全て逆なのである。人間の精神も身体の機能も感覚・感性も一番いい状態とは小さい「破壊と再生」を繰り返している状態である。人間の細胞は1週間から10日で全て再生されているという説があり、ならば記憶とは?となるが、それは、様々な長さの記憶能力が反復しながら信号として次の再生に繋げているから子どもの頃の記憶が色あせず残り、昨日の晩御飯は何を食べたか忘れるのである。これが、「動的平衡」の原理。だから、その気は変容するべきなのが、再生・再構築をしながらも、「教育」されてきたことを楽だと感じる判断力が、本能の声を消すのである。自らの「学ぶ」訓練を怠っているから、中身が再生されないままで、リミッターの奴隷になるのである。それが「その気」になりにくい心の構造だと思いますね。だから、どの気?だと聞かれてもどの気もこの気もなく、1週間から10日間で再生されているのだから、常に再生される準備をしておく必要こそが、実は、その気の構成分子なのでしょうね。だから、その気になるためには、一回、自分のルーティーンを壊す必要があるのです。日本人が一番苦手な思考ですよね・・・。だから、日本という国が成立してきたという慣習もありますが、それは、早く、過去の物語にならないと再生なんてとんでもない・・・という書籍もありますし・・・。さぁさぁ、加古川の次期社長、この意見、どんなアングルでもいいからツッコんでみな!いつでも、どのアングルからでもレスりますから。

生きたストローク。

 「いい絵」の条件とは?などという質問をよくされる。そんなこと立ち話でお話できないことだし、いい質問ではあるが、質問者のボトムがどこかまず見極める必要があると同時に、リミッターも瞬時に設定しないと失礼になる。これがコミュニケーションの一番難しい節である。条件として「絵に興味のない人」「絵とは無縁の人」「絵を利用しようとする人」「絵に縛られている人」「絵を誤解している人」に対してはこのような質問は成立しないから、質問者の意図も汲み取る必要があり、よくぞ数多の会話の糸口の中からその質問をチョイスしてくれたという感激の気持ちもあるから、用意はしているものの、精一杯レスを返したい瞬間。だけに、完結にまとめようとするが、これが難しいのガチの部分ですね。

 で、「いい絵」についての、一番表層の部分でその答にしている場合が多い。それは、絵に精通していない人でも共感できるだろうからと、考えているからである。深い話をし出したらエンドレスだし、お互いカウンセラーになって深層心理をお互いに紐解き合いながら意見交換しなければ、この綾は紡げないからである。その表層の部分のひとつは「ストローク」のお話です。

 よくデッサンでも水彩でも油絵でもストロークが「生きている」「死んでいる」と表現するそれである。では、なぜ、絵が上手くなるために練習するのか?から説明をしますが、練習の絵は必然的にストロークは死んでいる。というより、練習のストロークが生きているはずはないからである。いい絵を描くために技術的なこと知識的なことをまずは頭に一定量詰め込めば、準備ができるし、白い紙と鉛筆さえあれば、絵は描ける。しかし、例えば、白い紙に一本だけラインを描いてみるとよく分かるのですが、白い紙を見て鉛筆を握っていた気持ち、紙にラインを走らせる瞬間の気持ち、そして、そのラインを客観的に見つめた時の気持ち。この3段階の気持ちの中に、一瞬でも余計な思惑が入るとラインストロークは死んでいるはず。しかし、いい状態で白い紙に対峙し、さっと鉛筆を走らせると、そのラインは生きた軌跡として白い紙に刻印されているはずである。微妙なお話ですが、鉛筆を持ってラインストロークを走らせなければ、白い紙に鉛筆のラインは残らなかったはずですから、そのラインを引いた人の気持ちがそこにあるという論理。たった一本のラインでさえ、100人100色ですから、描き込んだデッサンや水彩画や油絵などのそんな気持ちを重ね続けた一枚の絵が「生きている」か「死んでいる」かは、描き手の軸次第ということになる。これが、また、絵だけのお話ではなく、あらゆる万物万象に適用できるから、恐ろしい。

 つまり、「生きたストローク」とは、結局、無心である必要がある。だから、無心になれるまで練習する必要ががあり、練習をどれだけすれば無心になれるかは個人差があるということ。練習しないでここのクラスにダイブできる人を、まぁ、一般的に「天才」と呼ぶんでしょうね。羨ましい限りです。

 気持ちは気持ちとして、策略は策略として、感性は感性として刻印されるから、手は抜けるはずがない。生きたストロークでいい絵(いい仕事)をしたいなら、磨くことと感じることの末に自然に手が頭が心が動くことが必要条件。だから、絵筆もロッドもマウスも同じ同じ。

答のない答を探しまわるより・・・。

 基本的に義務教育では「答ありき」。しかし、教育というアプローチ自体に実は「答」はない。だから、教育が必要なんだと何かで読むまでもやもやが晴れることはなかった。恐らく、中高生のレベルでこれを言っても仕方ないしまずは学校の中の「答」を確認しましょうとなっていただろう。しかし、社会に出ると別の「答」がある。あるように教えられるからその「答」に歩を進める。しかし、向学の赴くままにベクトルを覚醒してしてくると、ある瞬間からふっとその「答」が実はどうでもいいことだということが分かる。まぁ、これも「分かる」「感じる」レベルだから何の確証もないし、根拠も、パブリックな規定はない。だからこそ「答」なんだと分かる人間は1000人いたら何人いるだろう?恐らく1人ぐらいだろう。しかし、その一人が実は真理を掴み他の999人を牽引しているとしたら、やはり、「答」は偏在する価値観のようなものだと言えるんじゃないだろうか。書籍「ワーク・シフト」を読んでいると、その論説・文節に捉われず、全体像が何かそのベクトルを示唆してくるような感覚にとらわれる。これが錯覚か確証かなどもまったく不明ではあるが、「どこか何かが違う」という違和感は確実にある。

 答のない答を探しまわるより、地球と一緒に回ろう!という歌詞を聞くと、結局、人間は何をすべきかみたいな達観論がいくつか頭をよぎる。このフレーズを聞いてこの気持ちにさてどれぐらいの割合の人間がそこを掘るか?ということが答に一番近い感覚。それほど、音楽という表現手法は芯を喰った時に魂を揺さぶってくれるんだから、他の芸術家が嫉妬するはずである。

「きゃりぱみゅ」というアプローチ#02。

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 いやいや、「ファッションモンスター」良かったですね。ここまで仕込んでる感じはさすが。楽しい感じがこう自然と伝わってくる感じ。これは正に見えている人の完成ですね。見えているって強いですよね。大切です大切です。視力じゃないですからね、見えているって。知識があるから経験があるから努力をしているからって「見える」とは関係ないですからね。「見えている」って大切なことです。ホントホント。

 と、何故か、同じ記事にもう一つ記事を重ねてみたくなった。これもブログという表現の得意技のひとうかもしれない。書き換えるのではなく、2個目をパラレルに・・・みたいな。

「きゃりぱみゅ」というアプローチ#01。

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 いやいや、「ファッションモンスター」良かったですね。しかし、しかし、ヤスタカさんは仕込みますね。ここまで仕込んだら楽しいだろうな。いやいや、楽しいはずだ・・・。なんかこう「見えている」って感じですね。

独立は自由なのか・・・!?

 書店で「フリーランス」という書籍を発見した。どうやら、独立したい人、脱サラリーマンの人向けに書かれた書籍のようでした。独立するには適齢期があるとか、自由な時間を人生に!とか、人間関係に悩んだらその出口が独立だ!みたいな、まぁ、軽率な言葉が並んでいた。いったい「独立」するということをどこまで軽く考えているんだこの著者は!って静かにツッコんだ。世の中の経営者がこの書籍を手にしたら全員が多分タテに引き裂いただろう。適正な休みを頂き、適正な賃金を頂き、適正なモチベーションを分配しているのはあなたの会社のトップの人ですよ。独立したらそれを全て手放すんですよ。そんな勇気ないでしょう?この著者はある一部の側面を煽っているだけで、この著書が反応する本当のユーザーは独立して自営している人達でしょうね、多分。サラリーもらっている人は恐らく「独立」「フリーランス」に憧れているだろうが、自分自身でそれが手に負えないことを知っているんだろう。その一線は越えないというテイでぶつぶつつぶやいているのが楽しいんだろう。独立・自営・フリーランスの大変さは恐らく寝耳に水以上に目からの鱗以上に天上天下唯我独尊なんですよね。

 まぁ、それも世の中「パレートの法則(2:8の法則)」で上手く回っているのだから、無益なつぶやきはやめよう。自分らしくあればそれでいいじゃん!

「天然若鮎のオイル漬け」というテイスト。

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 私はグルメではない。テレビを付ければ◎◎牛が、三大食材が、どこどこのシェフが、新しい食感がと、グルメグルメの映像が飽和している。どこで何を食べればいいのか?などなど、こだわりがないので、時間もお金もかけない派のど真ん中。だから、現在のテレビのグルメ志向の創り方にはもう満足感を通り越してちょっとメンドクサイレベルになっている。「ステイタス」「グルメ」「ビューティー」全てある一方が利益を求めるために創造した価値感だから、それが慣習になり、それが文化になり、ライフスタイルになっていることを想定すれば、グルメ文化のどこかの段階でリミッターが効いてくるはず。いつまでも有益な生産的な試行錯誤が続くと思いたいが、情報の飽和の加速が今後、緩やかになるとは思えないので、よほど芯を喰った価値感でなければ、次のステップまで価値感をkeepできないような気がする。誠に恐ろしい情報化時代である。

 そこでパッケージデザインとはその価値の訴求や存続に一役を担うわけですから、どんな場合でも狙いが必要です。それは時代によって表現のテッパンは異なりますが、軸や芯の部分は同じ。先のブログのインダストリアルデザインも同じ。私自身、「G-MARK」グッドデザインマークにあまり心が震えたことがない。デザイン業界の重鎮がセレクトしたアワードシステムだが、そもそも、「デザインの品質を何で決めている」のか突き詰めれば突き詰めるほど底は深く空は高い。そのアワードが無価値だとは言わないが、「それはそれこれはこれ」でいいと思います。何もそんなテイで奉らずとも価値は個人で判断すればいいのかと。ネット社会のSNSの仕組みが浸透する前の感覚というか、デジタルコミュニケーションが浸透する少し前の状態を振り返るとその本丸の部分が少し実感できるのかなと思います。

 その場所での視点の置き方はSNS内の情報交換にも、今後の進化系デバイスの中でも有効のような気がします。

 う~ん、オイル漬けの味のお話がなったな・・・。

T3-AIRというスタイル。

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 ダイワさんの戦略は一見ストライクのように思えたが、私自身ターゲットの本丸なのか?と考えた。市場に出る前にこれが「欲しい」と感じたのはこの性能やデザイン感よりも「市場に出る前」感がその割合のほとんどだったのかな・・・と。しかし、こうして改めてこのテイストの画像を見ると心が動く。これは心のどの部分が動いているのだろうかとずっと考えている。現在企画している「釣り漫画」にもキラキラした道具やタックルやウエアは描く想定をしているから、やはり、手元に実物があることが大切だなぁ~というテイが「欲しい」に代用されているのかな。そもそも、あまり、工業デザイン、いわゆるインダストリアルについては興味がなかったから平面、グラフィックデザインの仕事をしているので、工業デザインについては、芸大の頃も、東京時代も少し経験値としてかじらせてもらったが、心は震えなかった。と、やはり、私は平面の人間なのかと。触手が伸びたとしても、3DCGまでなのかなと反芻しています。

 どうも、これで何が何でもバスを釣りたいとは思わないから始末が悪い。

 基本、バスフィッシングやルアーフィッシングに興味を持った時(小学生)、その釣りのスタイルは竹の竿にウキをつけてみみずで鮒を釣っていたガキだったから、ルアーロッドやリール、まして、キラキラしている高価なハードルアーには手が出なかった。働き出してコレクションする楽しみも少し味わったが、それは、釣りとは連動しなかったので、飽きた。何周か回って、ガチでバスを釣る時はスピニング2本がベストスタイルとなった。しかも、どれも有名ブランドではない。

 で、手元にこれが欲しい気持ちはあるが、使うかな・・・?微妙である。

 目的と道具の相関性について、私自身は道具よりも「技術」や「メンタル面」を重視しているようなので、こんなスタイルになっているということなのでしょう。でも、機能的なタックルは見ていて美しいし、この醍醐味はルアーフィッシングの醍醐味の本丸のひとつでもあるのは間違いなから、バスフィッシング、ルアーフィッシング、ゲームフィッシングの魅力を物語にするテイでは、自分の感覚を少しこのベクトルにシンクロしなければいけないこともテーマです。

路地の時間。

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 なんか雰囲気ありありです。この国に対いていろいろな感情があるようですが、私はどこか故郷のような印象を強く受けています。進化進化と経済の発展ありきで豊かになったのか?高齢化やエネルギー問題はこれら明らかな代償です。それが果たして「豊か」なのかと考えると出口が見えなくなりますが、そもそも「出口」って何?ぐらい一周回ってくると失ったモノの方が多いような。手に入れたリアルと体感できないバーチャルリスク。二頭追う者は・・・みたいなことにならないようにしたいものですね。

匿名性という特質。

 インターネットを介するコミュニケーションの特質として「匿名性」という側面があるらしい。つまり、直接FACE TO FACEでは大人しい社員が社内のSNSやメールでは人格が豹変するとか、会議の席では大人しいタイプの発表もしない、発表しても意見がまとまらずボソボソと言葉少ないタイプが、SNSになるとズバリズバリと核心を切る、それ以上に個人を主張して頑固として意見を譲らない・・・みたいなこと。これは、デバイスやPCを介することで一枚強力なフィルターが出来たと安心するため。つまり、N.Y.のタクシーみたいなもので、運転席と座席の間にある小さい穴のあいた防弾ガラスのようなもの。これがあると、お互いに煩わしさがなくなるため、警戒心がほどけ、本性・本音・本能が表出するという仕組みらしい。これは、現代社会のストレスの側面でもあるとある学者が論じていた。なるほどなるほど、面と向かっては何も言えないが、一旦、デバイスの画面の前では翼が広がるということ。これが実はのところの本性というやつらしい。

 さて、本当にそうだろうか?その側面は確かにあるとは思うが、ネットだから、デジタルコミュニケーションのTPOだから、本音が出やすいって、心地良くお酒に酔って饒舌になっているそれとどこが異なるか?無礼講の席ではハメを外して、社内のパブリックな場所でネコをかぶるのは、人間社会のコミュニケーションの綾というもの。ネットだからズバズバ言ってきても、バッサリ切ればいい。会議の席だろうが、ネットの書き込みだろうが、意見は意見。呼応するだけの特性を想定したら、どれだけ激しい言葉をフレーズをチョイスしてもパンチが飛んでくる可能性が0なんだから、いなせばいいじゃん。それがまた遺恨を残すようなことになるタイプなのかさっぱりタイプなのかは、その文脈で判断できるでしょうし。

 逆に会議の席や面と向かって言葉多い人。これは、しっかりコミュニケーション能力が高いのかとなると意外とそうでもない。よくよくその文脈を聞くとさほど質量のあることは言っていない場合がある。勢い80%、本質20%、でも、真理は0%みたいな・・・、ぐらいのテイで発言型だということだけを印象づけようとしているタイプもいるはず。これは、本音かたてまえかとなると、完全に「たてまえ」で処理可能。

 だから、ネットには匿名性があるからネットだからデジタルデバイスを介しているからと言って、コミュニケーションが淀むということでもないような気がする。リアル会議でもネット会議でも結局、ポテンシャルの違いでどうとでも解釈できるような気がする。というぐらいに言葉・言語の方程式などルールはあるだろうが、正解はないのだから。抽象的な気持ちをどれぐらい満たすのかというノンバーバルな質量のX軸と、言語や数値で理解度を変化させ公式や方程式で是非を問うY軸、それに時間の経過をZ軸とすると、必然的にその場所の体積がぼんやりと設定できるような気がします。

 さてさて、自分自身のそれはどんな形でどこに偏在しているんだろうと・・・いう感じですね。

イモトアヤコVSマッター・ホルン

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 ひとりの女性というか、ひとりの女性芸人がやることではない以上に、今回の映像は完全にテレビプログラム、日曜日のテレビ番組に流す映像のクラスをはるかに逸脱している。どのシーンを観てもハリウッドの映画のワンシーンのようだし、ここまでただのバラエティー番組が踏み込んでいいのか???この番組を流してしまったら、他のテレビ番組はカス以下に思えてくる。いやいや、カスでも価値があるが・・・。まぁ、そんなことで、心から凄まじい映像を拝見できたことや、クライミングの真骨頂をバラエティ番組で観れたことなどなどとても素晴らし世界最高レベルのガチバトルに感激感激である。

 しかし、イモトさんは凄いという言葉以上の存在になっているぞ。どこまで行くんだイモトさん!1年後んにヒマラヤ!?そして2年後にエベレスト!!!なんとまぁ、もう、芸人である必要ないじゃん!

 いやいや、凄まじいアタックでした。石崎さんもお疲れでした。という感じ。震えますねこういうアタックは。