答のない答を探しまわるより・・・。

 基本的に義務教育では「答ありき」。しかし、教育というアプローチ自体に実は「答」はない。だから、教育が必要なんだと何かで読むまでもやもやが晴れることはなかった。恐らく、中高生のレベルでこれを言っても仕方ないしまずは学校の中の「答」を確認しましょうとなっていただろう。しかし、社会に出ると別の「答」がある。あるように教えられるからその「答」に歩を進める。しかし、向学の赴くままにベクトルを覚醒してしてくると、ある瞬間からふっとその「答」が実はどうでもいいことだということが分かる。まぁ、これも「分かる」「感じる」レベルだから何の確証もないし、根拠も、パブリックな規定はない。だからこそ「答」なんだと分かる人間は1000人いたら何人いるだろう?恐らく1人ぐらいだろう。しかし、その一人が実は真理を掴み他の999人を牽引しているとしたら、やはり、「答」は偏在する価値観のようなものだと言えるんじゃないだろうか。書籍「ワーク・シフト」を読んでいると、その論説・文節に捉われず、全体像が何かそのベクトルを示唆してくるような感覚にとらわれる。これが錯覚か確証かなどもまったく不明ではあるが、「どこか何かが違う」という違和感は確実にある。

 答のない答を探しまわるより、地球と一緒に回ろう!という歌詞を聞くと、結局、人間は何をすべきかみたいな達観論がいくつか頭をよぎる。このフレーズを聞いてこの気持ちにさてどれぐらいの割合の人間がそこを掘るか?ということが答に一番近い感覚。それほど、音楽という表現手法は芯を喰った時に魂を揺さぶってくれるんだから、他の芸術家が嫉妬するはずである。