生きたストローク。

 「いい絵」の条件とは?などという質問をよくされる。そんなこと立ち話でお話できないことだし、いい質問ではあるが、質問者のボトムがどこかまず見極める必要があると同時に、リミッターも瞬時に設定しないと失礼になる。これがコミュニケーションの一番難しい節である。条件として「絵に興味のない人」「絵とは無縁の人」「絵を利用しようとする人」「絵に縛られている人」「絵を誤解している人」に対してはこのような質問は成立しないから、質問者の意図も汲み取る必要があり、よくぞ数多の会話の糸口の中からその質問をチョイスしてくれたという感激の気持ちもあるから、用意はしているものの、精一杯レスを返したい瞬間。だけに、完結にまとめようとするが、これが難しいのガチの部分ですね。

 で、「いい絵」についての、一番表層の部分でその答にしている場合が多い。それは、絵に精通していない人でも共感できるだろうからと、考えているからである。深い話をし出したらエンドレスだし、お互いカウンセラーになって深層心理をお互いに紐解き合いながら意見交換しなければ、この綾は紡げないからである。その表層の部分のひとつは「ストローク」のお話です。

 よくデッサンでも水彩でも油絵でもストロークが「生きている」「死んでいる」と表現するそれである。では、なぜ、絵が上手くなるために練習するのか?から説明をしますが、練習の絵は必然的にストロークは死んでいる。というより、練習のストロークが生きているはずはないからである。いい絵を描くために技術的なこと知識的なことをまずは頭に一定量詰め込めば、準備ができるし、白い紙と鉛筆さえあれば、絵は描ける。しかし、例えば、白い紙に一本だけラインを描いてみるとよく分かるのですが、白い紙を見て鉛筆を握っていた気持ち、紙にラインを走らせる瞬間の気持ち、そして、そのラインを客観的に見つめた時の気持ち。この3段階の気持ちの中に、一瞬でも余計な思惑が入るとラインストロークは死んでいるはず。しかし、いい状態で白い紙に対峙し、さっと鉛筆を走らせると、そのラインは生きた軌跡として白い紙に刻印されているはずである。微妙なお話ですが、鉛筆を持ってラインストロークを走らせなければ、白い紙に鉛筆のラインは残らなかったはずですから、そのラインを引いた人の気持ちがそこにあるという論理。たった一本のラインでさえ、100人100色ですから、描き込んだデッサンや水彩画や油絵などのそんな気持ちを重ね続けた一枚の絵が「生きている」か「死んでいる」かは、描き手の軸次第ということになる。これが、また、絵だけのお話ではなく、あらゆる万物万象に適用できるから、恐ろしい。

 つまり、「生きたストローク」とは、結局、無心である必要がある。だから、無心になれるまで練習する必要ががあり、練習をどれだけすれば無心になれるかは個人差があるということ。練習しないでここのクラスにダイブできる人を、まぁ、一般的に「天才」と呼ぶんでしょうね。羨ましい限りです。

 気持ちは気持ちとして、策略は策略として、感性は感性として刻印されるから、手は抜けるはずがない。生きたストロークでいい絵(いい仕事)をしたいなら、磨くことと感じることの末に自然に手が頭が心が動くことが必要条件。だから、絵筆もロッドもマウスも同じ同じ。