損得勘定。

 「楽しまなきゃ損だ。」という論理がある。また、「損をして得を取る。」という思考パターンのそれらはいったい何をどう推量しているのだろうか?その詳しくを正確に算定する基準はない。恐らくこれらの推察をいろいろな基準で計測しながら、「損」と「得」の相関性を調整しながらあらゆる活動の指針になっているはず。つまり「損得勘定」をしっかりできていれば、思考も心も懐もいい状態をkeepできそう。

 だが、これはなかなか難しい。ある人にしてみれば損な行為が別の人では得だと感じてしまうことがあまりにも複雑に絡み合っているのが世の中であるから。ひとつの基準である貨幣価値にしても、お金をたくさん持っている人とそうでない人では1円の価値が異なるし、心にその価値感の比重を多く置いている人であれば、一般的にそれは損だろうという出来事が「得」に変わる。また、貨幣価値とは別のベクトルで言語という伝達手法がこれをある側面でややこしく複雑にしているとも言える。言葉の質量とでも言うのかここが実は一番社会生活におけるマジックなのである。情報は誰かの言葉の集積であるが、アウトプットされたその情報の質量はサーバに保存された段階で質量を失うに近い。しかし、価値があると誤解しているのが現代社会の根底に流れる、一種のモラル。このモラルを自分の中のモラルと相関させるとひとつの方程式に気がつく。気がつくがその段階ですでに、自分なりの理解力と認知した情報に誤差が生まれる・・・みたいな。

 だから、損得勘定とは自分自身のさじ加減ひとつなのである。つまり、自分の中のモラルと普遍的な概念や哲学や論理をどう捉えているかで変容する、変容の仕方をいくつ持っているか、もしくは、持っているか持っていないか?見えているか聞こえているかのディテールというか、リアリティーでしか、その実態は実は判断できないのである。もっと言うと、判断では正確に判断ではない場合が多く、実は、最後の最後で「五感」しかリアリティーを真実を得る方法がないが正解。ただ、岩盤に描いた牛の時代から「牛」のリアリティーは同じだということも知るべきである。