都会の子どもの疲労度。

 子どもが育つ環境づくり。このテーマであらゆる人達があらゆる手法で取り組んでいる。私自身は教育の現場にいる人間ではないが、社会に関わっている以上、そして二人の娘の親として、教育の現場が子ども達にとって適正であってほしいと願うひとりの親父である。まずもって、自分自身が田舎育ちだから自分自身の子どもを都会で育てるということが全くイメージできなかった。「そうであってほしくない。」と願う側面よりも、自分自身が適正と感じられる環境で・・・と願っていた記憶がある。結果、今、そうなっているか否かを判断するモノサシはどこにもないが、少なくとも自分の子どもが学校や塾に行くために、山の手線や環状線や地下鉄の駅で待っている状況だけはNGだったし、刺激が多いと言われている都会に対して、自分自身が特筆するような刺激がなかったことで今の価値感があると思っているから、ここを基準にこれから先も時を重ねたいと考えている。一見刺激的なようで実は無駄なモノが多い場所と都会を規定してしまったのか、大人なら楽しさに変換できるのだろうが、成長過程で都会の密度は子どもの視線では少し煙たい。キレイな空気と精神と肉体が覚醒するスペース・のびしろを想定したら、都会でないほうがいい。そう考えた人間だったから、今が、適正だと思えている。恐らくこの部分で正解はないだろうし、いろいろな比較をしたら後悔になるケースもあるだろうが、ここら辺はちょっと乱暴な言い方がだが、「自分ありき」でいいかなと思います。そこの基準を失うと、底なし沼ですからね。沈まぬよう、無意味に浮かばぬよう・・・、何事も。