2013年01月 アーカイブ

プレデターか・・・。

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 なるほどなるほどこれかこれか。グンバツのスペックに期待しよう。

LINEか・・・。

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 これが話題の「LINE」アプリか。PCへの設定ができるようになったらしいとのこと。早速、試してみよう・・・。いろいろなことが先へ先へなので、先頭は見えないが、この仕事をしている以上、ついていけるところまでついていくしかないかな・・・と。山があり谷があり登り下りの連続ですが、探究する気持ちだけは失わぬようにしたいですね。しかし、先頭集団は実際どこまで進んでいるのだろうか?

なるほどこういう感じで・・・。

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 ここへの出店というかスペースの確保の準備をしています。これがなかなかの障壁ありなのですが、まぁこういう時代ですから、何事も取り組んでみてから考えればいいかな・・・と。じっとしていても始まらないですし、動ける時は動きたいし、太陽に向かって植物が重力を逆らうように代謝を複製に取り組みたいですね。さてさてどうなることやら。

戦略とは破れた時の言い訳。

 私は今でもまだ「就業力」という言葉を100%理解していないだろう。3年前にあるプロジェクトに関わらせていただくことでこの言葉を知る。しかし、今だにその本質を適正に落とせる箱が自分の中に用意できないままでいる。しかし、だからと言って歩を止めることもできない。それは、迷うよりも価値がないからである。グローバルコミュニケーションというなんとも不思議なマジックキーワードで美味しいお酒を飲むのも健康的なことかもしれないし、決して具現化できない抽象的な概念の試行錯誤が達成感に向かっています的な仮説も好きにはなれない。具体的にそれがどういうことなのかをここに書き出せばいいのだが、それこそ、自分の言葉で自分が迷路に入ることになるので、あくまでもふわふわさておくおとが、ネットリテラシーの原則でありテッパンだろう。しかも、そのスキルこそが最も健全な有益な時間に繋がっているとしたら、ネットの未来はそこまででしょうね。と、このテーマは長くなるので、一旦保留し、年頭にあたりこの1年はどういう一年にしようかなどと考えてきた1月だったが、具体的にこうかな?という方向が見えたのでそれに付随してちょっと「戦略」について書きます。

 どんな属性の企業であれ会社であれ会議はする。トップ・上層部が然るべき頭を捻り、時にコンサルタントに意見を仰ぎ、経営上の組織上の会社における営業戦略や経営戦略をたてる。たてているはず。この場合の「戦略」の実態ですが、大枠、「目標設定に向けての生産的な策略」のような語感が正しいように思うが、私のねじ曲がった心ではどうもそのようには受け止められない。discodeでもないのですが、全く逆の語感を持っている。「挑戦して失敗した時の言い訳」を用意することが戦略を練るという同義に捉えている。というのも、私は戦略を企てる技術も才能もない。つまり、論理を整理して精査したり、想定することや仮説をたて策略を練ることをとてもメンドクサイという気持ちが心の底に流れている人間だからであり、裏を返すと「プラン通りに事が進められたことがないタイプ」の人間だから。だから、運を期待しない。幸運は追えば追うほど逃げていくと考えている。その代わり、とことんまで失敗した時のことは想定する。これは自分ではネガティブだとは捉えておらず、どちらかというとポジティブに最悪のケースをいくつもイメージしていろいろなことを進めている事が多く。100の悪いイメージでいると、たった一つの小さいないいことが想定以上の活性化になり覚醒するスイッチになる人間だと思っているからである。

 例えば、健康について言えば、私は恐らく癌で死ぬと思っている。これをあまり悪い死に方だとは思っていなからである。癌に苦しんでいる人に対して、「お前は癌じゃないからそんな能天気なことがブログに書けるんだ!もっと、大人らしく言動を慎め!」と言われても、プラスマイナス0の軸で「癌で死ねたらいいなぁ~」もしくは、「脳梗塞で死ねたらいいなぁ~」と思っている。だって、交通事故は嫌だし、テロに巻き込まれて犠牲になるのも嫌だし、災害で死ぬのも辛い。まして、ボケボケになって娘や介護の方に迷惑を数年かけて死ぬのもできたらしたくない。ならば、「癌」なら発見されて、自分の死期が判明した段階で、自分の死を考える猶予が与えられるのではないだろうかと思っている。だからといって、今、死にたいとは微塵も思っていないし、この自分の生命にはとことんのとんまで固執したいと思っている。だから、是非ではなく、この考えが根底にあるから、「健康」の価値にリアリティーを持っていれるとという極論。

 で、「戦略」について、私は何事も「策士は策に溺れるべくして溺れている。」と思っている。それは、戦略という仮説というかイマジネーションはすべて何かに挑戦する時にそれが達成できなかったことへのロジックとして自分自身を納得させるための予防線というか伏線だと思うから。「私のこの戦略を持ってしてもしも失敗したなら仕方なしと潔く・・・」ってもう挑戦する前から諦めているような。で、ダメだったときに、「ねっ!やっぱり。でも、次に繋がるいい内容だった・・・。」と自分を慰めている人がこのタイプに多い。

 私は「勝ちは勝ち」「負けは負け」ただそれだけだと思っているから、「勝負は時の運」だとも思っていないし、「ただ勝っただけ。」「ただ負けただけ。」が正解だと思っている。だから、楽しいと。もし、挑戦する前に期待するとしたら、「この挑戦、楽しくあれ!」と願うだけにしている。他のことは、何をどう考えても何にも結果、繋がらないと考えている。これでは能天気過ぎるのかもしれないが、意外と意外と、この方が「結果」がいいということも48年間の人生で学んでいるからである。

 さて、バイオ大学の「発見発信プロジェクト」に参画された1回生のお疲れ様でした。ねっ!「戦略」とはその程度がちょうどいいみたいですよ。いろいろこれからも「楽しい」をチョイスしてください。「負けるが勝ち」などの言葉遊びはできるだけ社会に出る前に学校といっしょに卒業して、自分の存在感を極めてください。

 ただ、結果を得るために必要な能力があるとれば、状況判断の迅速さと的確さだろう。空間認知能力とでもいうのか、状況が変化した時に自分の戦略(言い訳)に固執しない判断力とポテンシャルがあれば、楽しい挑戦を続けることができるはず。

「プロメテウス」と「日本のデザイン」

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 最寄りの書店にDVDがなかったので映画のノベライズと、原さんの「日本のデザイン」です。結果、「プロメテウス」はアマゾンで注文したので明日到着予定。この1本は今後普遍の金字塔になるだろう。映画を観た夜は動悸が激しくて1時間ほど眠れない眠れない。普通3分で寝る人間を眠らせないこのクオリティー。それほどの一本でした。

 で、原さんの書籍は結構読んでいるのですが、この方、デザインも最高ならこうしたロジックも秀逸というなんとも戦略的なクリエイター。恐らく今日本で原さんの上は事実上いないだろうと思っている。まぁ、比較するものではないとしても、原さんの存在感は飛び抜けているはず。とは言え、原さんのコンテンツが好きかと言えばそれは別次元。にしても、秀逸な書籍であることは間違いない。

 つまり、デザインという「美意識」が日本人の「美意識」とどう相関しているんだ!というアプローチから始まりさすがさすがの正にの縦板に水。少し前、ある小説(スウェーデン)で「人間のモラル」について考えさせられることがあったが、さて、「モラル」と「美意識」の関係について、自分はどのような見解を持っているのだろうと内側へダイブしてみたくなる一冊でした。

 しかし、「プロメテウス」はガチでバヤイ。

Noomi Rapaceだったのか!

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 いろいろなスパライルがふっと重なり、小さい波動が予想外に深く大きくなる時がある。まぁ、普段、どんな気持ちで、書籍や雑誌やテレビや映画やWEBサイトを観ているかということに尽きるが、ガチガチな生真面目モードでもそれは見逃す。「見えている。」ということは意外にフラットな状態で100m全力で走ったあとののインターバルのような状態だから。

 そうかそうか、彼女が「Noomi Rapace」だったのか。そう言えば、あれも!あれも!そうだ!!!そうなんだんということ。これは逆にまさかの「サリー繋がり」。時と場所を変えて、一つのヒロインが二人の女優でここまで覚醒するのか・・・というドッキリ×10な感想です。

 で、Noomi Rapace観はまずは今回はこの程度にして、映画「プロメテウス」をやっと昨晩観る事ができた。気合いは充分に入っている。映画公開にも行けず、DVDレンタル開始から約1ヶ月が経過している。気持ちの中ではもう2~3回熟成してしまって、ワインが固形して粉末になっている状態。この映画の情報を専門誌で知ってからだと恐らく2年熟成したことになる。このスピード時代に何故そこまで待つのか?「お前は馬鹿か?」とよく入れるが、そんな時代だからこそ、目の前の鮎を飲みこむのか飲みこまないのかを「考える鵜」でありたいと思っている。「本能を本能で抑えてこそモノホンの本能である。」フランスの古い詩人が言っている。

 さて、何故このクラスの映画のレンタルDVDが6本しかないのか?早速、SELLコーナーに行けば、「品切れ」。だから長浜がド・ローカールな所以はここ。恐らく、仕入れの担当者のレベルが推察される。「この映画はマニアック過ぎる。」とか「本格的なSF作品は長浜ではレンタル及び販売につながらない。」と軽率に適正に判断している結果だろう。しかし、それは言わば適正な中の適正な判断。有名・著名な俳優・女優を軸に仕入れはするべきだろうし、このディテールこそが、長浜の、引いていは日本の縮図・相関図だろうから・・・。

 かなり、前置きが長くなったが、恐らく、2013年の最高傑作は「プロメテウス」だろう。もし、「火と戯れる~」が2013年に完成するようなことがあればこの発言は撤回する可能性があるが、恐らく間違いないだろう。どう考えてもこれ今日(現代)の世の中の万象と相関しても「これ以上の映画は不可能である。」と書いて間違いない。「何が何以上なんだ!」と厳しいコメントを頂くことになったとしても、素人なので許していただきたい。とにかく「これ以上の映画は不可能である。」という感想が一番しっくり来る一本でした。

 さて、アマゾンでDVDを注文しよう。

ネットを活用したから!?

 いろいろな人の話を聞き、いろいろなツイター・SNS、そして、いろいろなメルマガに書かれている文脈の中に「ネットを活用したから売り上げが増大した!」という記述。この文面をその言葉通りに取り込むと「ネットを活用すると売り上げが上がる。」「ネットを活用するだけで何かマジックのように売り上げが上がるんだ。」と比較的大きな勘違いに繋がるパターンが多いような気がする。ネットを活用したことはリアルとしても、ネットは手段でありツールだから、それを使っただけで自社のサービスや商品の本質が上がるわけではない。従来のお店売りでは売り上げが停滞しているからネットショップを展開する。これは極自然な流れだとしても、ネットショップスタイルに過度の期待をすることは、これだけネットショップが百花繚乱な時代に絶対にひとり勝ちは難しいと思う・・・。と、モヤモヤしていると、コストもかけてネットショップを公開したけど、あまり効果や反応がなかったから「やぁ~めた」となるパターンが意外と多く、さらに、10年以上WEBサイトは公開しているが効果はないので、もう、新しい企画も、ましてや、リニューアルなどせずにこのまま・・・となっている人の特長は、ガチな本気モードが欠落している印象を受けます。

 しかし、よくよく考えてみれば、「ネットの展開に期待する。」が手法だけを整えて実態の部分が欠落していたと考えてみる必要もあるような気がする。恐らく思うに「ネットを活用したから売り上げを増大した!」人とは、別にネットがなくとも覚醒しただろうし、本末転倒の部分で言うと、そもそも、売り上げののびしろをポテンシャルとして持っていた人が、ネットに情報を公開して、ユーザーと繋がったことで、商品の魅力やディテールが伝導し従来のお店売りに等しい反応があっただけ。結果、売り上げが増大したんだろう。すべては逆転・逆流の発想のような感覚。

 デザインの仕事も同じような側面があり、デザインの仕事をするために、専門の学校を卒業して、真剣に実直にデザインを仕事として向き合っている人が、仕事が出来るかと言えばそうではない(そうではない場合が私の経験の中では多い。)。とはいえ、大手有名広告代理店に入ることが目標ならば、然るべき大学を経て入社すればいいが、それとデザインの仕事のベクトルはシンクロはしない。恐らくざくっとした印象だが、デザインという仕事は想像以上にベタでありガチだから。パソコン使ってソフトでさらさらっとドキュメントを創ってスマートに仕事が完結する・・・というテイではない。もっと、地道で時間の余裕もなく仕事のことだけを思考し続けるようなタイプで、何事にも貪欲にどこまでも貪欲に新鮮で魅力的で有益な情報をリサーチし続ける。リサーチし続けながら、試行錯誤と紆余曲折、失敗と完成を繰り返しがら、ゴリゴリに前に進める図太さが何よりも必要なのである。

 では、前述した「ネットを活用して売り上げを増大させた人。」は、どちらのタイプか?私はゴリゴリタイプだと思う。何もかもが計算通りにはいかないことは周知の上、トラブルや憤りやジレンマさえ想定内のプロセスだと、瞬時に立ち位置を変えながら、新しい立ち位置で新しいひらめきを適正にケースバイケースにひねり出せる人が、前に進むことができる世界が「ネットの世界」ではないかと・・・。

 「インターネットとデザインの関係性」については、また、別の機会にしっかり言及したいと思っていますが、ふと、そんなことを思いついたのでログっておきます。

フロー状態とは?

 茂木先生はフロー状態につていこうつぶやいている。

フロー(1)よく、緊張していることを集中と勘違いしがちだが、そうではない。理想的な状態とは、集中していると同時にリラックスしているチクセントミハイの言う「フロー」状態である。

フロー(2)ボルト選手が、100メートル9秒58の驚異的な世界新記録を出した時の走りを見ていると、笑って楽しみながら走っているように見える。このように、集中しているがリラックスしている時に、人は最高のパフォーマンスを発揮する。

フロー(3)スピードスケートの清水宏保選手によると、世界新記録が出る時には、主観的にはむしろ「流している」感覚がするほどリラックスしているのだという。実際に世界新記録を出したトップアスリートによる、貴重な証言である。

フロー(4)フロー状態において、人は、最高のパフォーマンスを出しつつ、その時間の流れを深く楽しむことができる。理想のあり方として、そのような至福があることを知ることで、自分の努力の黄金律とすることができる。

フロー(5)フロー状態になるためには、課題のレベルと、自分のスキルのレベルが高いところで一致していなければならない。スキルが及ばなければ、緊張しがちになる。課題が低いと退屈する。課題とスキルの高レベル共鳴がフローを生み出すのである。

フロー(6)新しい課題に取り組んでいる時は、スキルが低いから、どうしてもつまづいたり緊張する。そのような、「山登り」の苦しい時間帯をくぐり抜けると、ある時、ぱっと「フロー」の平原が開ける。いつかは「フロー」に入ることを楽しみに、地道に研鑽を積まねばならない。.

フロー(7)英語などの外国語習得においても、最終的に目標とすべきは「フロー」状態である。途中の過程においては、苦しくぎこちない。しかし、スキルを上げるに従って、次第に英語を使うことが「蜜の味」になるフロー状態が近づいてくる。

フロー(8)フロー状態をつかむと、最高度のパフォーマンスで仕事をするということと、人生を楽しむクオリティ・オブ・ライフの命題が、自然に一致する。仕事をしつつ、それが人生の愉楽になる境地に達することができるのだ。

フロー(9)課題とスキルを高いところで一致させるためには、常に「もっと上」を目指す向上心がなければならない。トップ・アスリートがフローを経験できるのも、絶えざる克己心があるからだ。

フロー(10)日本人初のオリンピック金メダリストとなった三段跳びの織田幹雄さんは、「身体を躍動させること」自体が喜びであると語っていた。ここにもまた、フロー状態を知る一人のトップ・アスリートがいる。

フロー(11)課題とスキルが高いレベルで一致し、集中しているけれどもリラックスしている。最高のパフォーマンスを達成しながら、蜜の味の時間が流れる。日々の営みの中で、そんなフロー状態を経験できることを目指し、楽しみとして目の前の努力をしよう。

 これは、先日、茂木先生がいいともに登場されたときに語っておられた内容なので、どうしても、抜粋して整理しておきたかったことです。

 これらのことについて言及すれば、いわゆる「モードに入る」とか「スイッチが入った状態」のような状態だろと拝聴していたが、ちょっと細かいところが違った。単純に集中力のありなしではなく、スキルと課題が一致するという部分が次元の違いを感じた。「スキルアップ」というテーマの書籍はあまり興味がないので、買わないし、そもそもスキルって何かヒントを得たからとか外因的にコツを情報として受け取ってもそれが活性化することはないような気がしているからだ。サインが見えている人というのは、それが結果であっても確実に原因というか要因を持っているから。しかし、その要因が何か小さな結果の積み重ねで会得できるのか、後天的な要因なのかは分からない。これらの条件が揃ってからの「フロー状態」だろうから、そこは当然自発であるべきかなと。

 そして「課題」とは何か?言ってしまえば「生きていること」が課題であり、人類が存在していることが「課題」だとも捉える事ができるし、今日何を食べようとか、この仕事をどのように取り組もうかとしていることも「課題」である。あるイレストレーターが「小さい日々の二択をしっかりと判断することで今がある。そして、これからもこの二択は続く。」と言っている。この言葉は重く深い。そう!まさに、意識・無意識に関係なく小さい二択の積み重ねが「今」であり、これからやってくる出会うであろう「why?」に対して、適正に二択に対して答を出せるか出せないか。それがつまり「スキル」になるのだろうと思います。

本当の真実が掴めるまで。

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 本当の真実が掴めるまで、やはり、キャリーオンなんですね。カッコイイ・・・。

GOOD!

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 なかなか、グッドな写真ですね。いいなぁ~いい、希子ちゃん。類まれなる存在感。

「「Amazon輸出」入門」が到着!

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 昨日、この書籍が到着した。内容はまだ確認中ですが、2013年1月1日初版で、1月20日が第2版だから、かなり旬な内容だと判断できるだろう。さて、中盤まで読んだが、なかなか唸る内容でした。何事も移り変わりの激しい世の中ですが、確実に世界は小さくなり市場は多様化していると言わざるを得ない。まぁ、キャッチの部分で、「毎月100万円」とは売り言葉としても、なかなかの具体例が痺れます。ほんとこの世の中、知らないことが多すぎる。鱗はいったい何枚用意すればいいのだろう?

 さて、具体例をひとつづつこのブログに紹介することはできないとして、一番、震えた文章があったので、それを抜粋します。このニュアンスは痺れましたね。要はそういうこと、すべてはそのアプローチで完結し継続していくが本流だということを凝縮したフレーズでした。ここに気がつかず、いつまでも一攫千金を夢見て、その幻想に心を奪われ大河に散っていくよりも、自分の刀が届く範囲をしっかり守りましょう!想像力は自由でいいが、想像しているよりも天守閣は遠く、想像しているよりも天守閣は近いということ。つまり、遠いと近いの感覚に「自分のモノサシ」を適用するのはいいが、そのモノサシ、自分が思っている以上に世界では通用しないってこと。意外とそのポンコツさ加減を認めた上で、ロデムのように自由自在に太刀を固めて間合いを吟味しましょうね!というフレーズですね。

 それは、「愚者は「俺がやれば儲かる」と考える。賢者は「誰がやっても儲かる」ビジネスをする。」である。ほぉ~、真理ですね。何日天下を獲れるか分からん戦いにひとつ命をかけるより、もっと、その命、意義のあることに身になることに生産的なことに使いましょうと…言われているようだ。絶対に人は「たったひとつの命を捨てて、生まれ変わった不死身の身体」になれないのである。

嘘800、真実一つ!?

 世の中的に、嘘が800なら、真実はひとつと思いたい。恐らくコナン君も同じことを考えているはず。しかし、真実はひとつではないし、この世の中が嘘だらけだと悲観するものでもない。100点満点のテストに日夜取り組み何がなんでも100点満点を目指してきたほとんどの人(勿論、私も含めて)にとって、嘘800はいけないことであり、たったひとつの真実(正解)こそが正しく価値があるという先入観があるはず。いやいや、今の時代はそんなそんなキレイゴトではすまないよ、もっと、ボーダーラインぎりのちょっと、アンダーグランドでディープでダーティーなハリーこそが逞しく生きる手段。すでに日本もサバイバルなんだから、飛ぶ鳥を落とすのも、生き馬の目を抜くことも、必然と捉えて、理想だのビジョンだのと戯言に時間を浪費することなく若者よモノホンの大志を抱こう!的だと思うので、多少のいや、便宜上必須アイテムとしての嘘の脚色力・構成力は時にと言わず正義でいいのではと思います。仮に原理主義者で唯一神が心に在るとして、それは恐らく後天的な慣習からの教育素材であるはず。形式を尊び行動に理由を求める世代が形骸化した諸行に自分の時間を奪われているだけ。真実が一つか?に疑問があるとしたら、科学的であれ非科学的であれ、今立っている場所をすこし動いてみること。場所が変われば恐らく真実が変わるはず。そこでもやはり真実がひとつだと思えるならそのままの感覚が正解でいい。しかし、何かどうにも違和感があるなら、もう一度場所を変えるべきだろう。分子が動くように、地殻が流れているように、時間が相対性の中で永遠に刻まれるように。

輸出入門!!

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 ちょっと、かなり、相当、気になる一冊ですね。買おう。

グラフィックデザイナーとは?

 「グラフィックデザイナー(英: graphic designer)とは、グラフィックデザインやグラフィック・アートの領域にあって画像、タイポグラフィ、モーション・グラフィックスなどを組み合わせてデザイン作品を制作するデザイナーである。パンフレットや広告のような出版・印刷される媒体、もしくは電子的な媒体のためのグラフィックを主に作成する。アートディレクター、エディトリアルデザイナー、写真家などを兼ねることも多く、組版、イラストレーション、ユーザインターフェース、ウェブデザインなども担当する場合があるが、専門職に委ねられる場合もある。また後進の教育に携わる者もいる。グラフィックデザイナーの中心的な任務は、情報を身近で記憶に残る形で伝えることにある。」ということがライン上には一般的に掲載されているが、これだけでは具体的に詳細としてのグラフィックデザインの仕事は分かりにくい。何も体系化されているから高尚な印象は受けるが、グラフィックデザインとはもっともっと普遍的で偏在している感覚のような気がする。そもそもよく言われるテイで「名刺の肩書きにグラフィックデザイナーと入れれば誰でもグラフィックデザイナー」というフィーリングはあながちである。もしくは、イラストレーターを使えたら・・・とか、D.W.を使えたらWEBデザイナーという話もあったりするから、決して、敷居のハードルの高いモノではないとは思いますが、しかし、その反面、世の中の情報産業をはじめとするメディアの構造は複雑になり多種多様になり多面化しているのも現実。その中で、自立したグラフィックデザイナーとなりえるためには、それ相当のポテンシャルが必要だとも言える。私自身、この仕事は長いのでどこまでのさじ加減がどれぐらい必要で何と何を抑えれば・・・という部分は整理不可能なぐらい自覚がない。

 何事も仕事ありきは当然としても、それだけでこの多様な時代、デザインという仕事をハンドリングできるか(できているか?)と自問するがこれまた正解のないが現実。つまり、上記のような規定は規定として、正解は仕事の数だけあるという乱暴なところでおりあいをつけるしかないのかなと。でも、軸は大切だから、こうしてブログに書き出してリフレクションを待ちたいとも願っている。

最高の離婚!?

 さて、前クールはあまりいいドラマがなかった。に比べて今回の2013年のドラマはなかなかいいのが多いような印象です。テレビ局も役者を揃えて企画を捻じ込んで勝負を年末に向けてかけたつもりがカラマワリ。年が明けて力は入っているのだろうか、別のタッチで切り替えて来た感じを勝手に受けています。だから、なんとなく役者さんのルーティーンというか物語の傾向とパターンが「面白い」方向に進んだような・・・。何の脈略もない勝手な一視聴者のつぶやきですが、そんな風にテレビのドラマを鑑賞しています。

 で、そのイチオシは「最高の離婚」ですね。現代の「離婚観」みたいな部分を自然体のタッチで4名のこれまたなかなかいい感じの俳優さんが演じておられる。役者を揃えただけなら、昨年も話題性の部分でいろいろあったが、まぁ、大河ドラマしかり、プライスレスしかり、ハネることはなかった。つまり、企画段階でいくら想定していても、「面白い!」とはある意味無関係のような気がします。それはそれは、然るべきテレビ関係、広告代理店関係、スポンサー関係のキレモノが会議に会議を重ねてコストも賭けたドラマでしょうから、一般素人が何かを語る隙間などないのですが、それでも、ハネたとは思えない。それが視聴率というモノサシで計測すれば予定調和な物理定数がはじき出されて金の出所的には「一定の価値」を生んだのかもしれないが。作品として批評するのは簡単ですが、これは広告宣伝ツールですからね。その視点で言えば、「継続の力」で書類は最後まで行くという仕組みだろう。

 さて、「離婚」について、いろいろな角度で考えてしまうこのドラマ。なかなか楽しい。そもそも「結婚とは?」とか「離婚する条件は?」とか、ロジックで考え過ぎると、結論は意外と近い。しかし、もっとバックグラウンドにある「結婚というシステム」を感覚的というか慣習的にというか哲学的というか、非言語で捉え推察すると、このドラマ「最高の離婚」の結論がどこに向かっているのか楽しみです。しかし、本末転倒、瑛太さんの演技は観ていて単純明快に楽しい。

大河ドラマ「八重の桜」

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 基本的に大河ドラマは観ない。まず、あまり日本の歴史に興味がないからである。普通に史実としての日本の歴史については高校生レベルぐらいの知識はあるつもりですが、それでも興味の対象になるような出来事が少ない。唯一時代として興味があるのは、夏目漱石の時代である。それも漱石の世界観から見たその頃の日本像だから、かなり偏っている。

 それが、戦国時代や平安時代って言われてもピンとこない以上にその史実は本当か?ということが多すぎる。武将の武勇伝など適正な書物など残っているはずはないし、仮に現存している手記があったとしても、それをどのように解釈するかなど、もう、フィクションゴリゴリなはず。たったひとつの真実のワンピースをその現代の価値感で脚色し再構築したのが歴史小説だろうから、読み物として絵空事として興じればいいだけの話だが、それにしては世の中のヒートアップ加減にはどうも心からシンクロできない。

 へそ曲がりでできないと言っているのでは決してなく、手記と武勇伝だけで再構築された物語に心が震えないというテイ。ならばお前は何に震えるのか?となると、実際に今も存在するリアルなモノと歴史の中で同じく存在していたモノを通じてその存在と人間という関係性を基軸に歴史的な背景や物語や登場人物像を組み立てている物語には心が震える。

 「火縄銃」「砲術」の歴史は戦争の歴史だから、美化することはナンセンスだと頭は理解していても、波乱万丈の歴史に翻弄された人物像の手にある銃のお話となれば、心が反応し、ピントが合ってくる。黒船がいかなものかは知る術はないし、その時代に日本人と外人の間の谷はどれだけ深いなども同様。21世紀、世界は小さくなったと言われているし、2012年の訪日外国時は2011年の比較して28%も増えている事実を推し量ると、この「八重の桜」は多面低にドンピシャなのかもしれない。まして、綾瀬はるかちゃんが凛として砲術に勤しむその絵は大河ドラマのテイなのに心が震えた。

 人類の歴史は戦争の歴史である。領土争いは今も昔も同じだし、文化や慣習や宗教観の違いで人がこうも見事に争うのは何故なんだろう。争いのない世界を描くクリエティブは多い、争いを美化し曲解し真実を隠蔽しようとする美しい創造物も多い。しかし、今も地球のどこかで銃弾に倒れている生命がこと切れようとしている人達がいる。そんな深みの部分を「八重の桜」ではどこまでえぐるのだろう。それが楽しみです。

ブログらしいブログって。

 何事も正解はひとつではない。と言葉にするのは簡単ですが、正解がないから想像力が必要だという論理もメンドクサイ。直感で生きてこそクリエイターだという理論も多面的過ぎてよく掴みどころがないに等しい。ただ言葉遊びだけに戯れたいのなら何でもいいが、言葉にするということは必ず質量を伴う。質量保存の法則ではないが、重力下で人間の細胞分裂が微妙なバランスを均衡しているように、コミュニケーションという地球上に存在する重力下では必然的に言葉が刀だとすると、人それぞれの鞘があるはず。いきなり一刀両断に切りつけるマナーがあれば、お互い鞘から刀を抜かずに間合いを詰めるというルールもあるはず。では、昨今のSNSはどういう構造になりどういう機能性があるのかと分析・洞察してみると、意外と単純だったりする。が、それでも質量はどこに保存されているのか?という疑問と、そもそも、この機能の中に質量は適用できるのか?という乱暴な仮説が頭をよぎる。しかし、ビックなデータは解析され新しいデータに改編され実しやかに質量らしきリアリティーが交錯している。負けるが勝ちなのか、勝者こそが正義なのか?イントロが大変長くなったが、ブログらしいブログって何だろう?

 最近、ある映画の記事を書いたら、「いいかげんなことを書くな!お前にその映画を語る資格はないわ」というコメント頂いた。そもそも、映画関係者でもない私が映画について好き勝手に書いていることに資格があるとは思っていないし、「映画と資格」の関係を確認したい気持ちの側面もあったが、夏でもないのに水を掛け合うことは避けた。確かに根拠のないことを書いたし、私に映画を語る資格はないのが現実である。だから、あながちこのコメントにむやみにテンションは上がらなかった。「まぁ、そう言えばそうかな・・・」と。しかし、最近、「あなたのブログは素晴らしい!」という言葉を頂いた。誰が見てるか分からないという乱数にいろいろなベクトルが浮遊しているものです。人間だから、褒めていただければ嬉しいが、何が素晴らしいのか?明確に書かれていないため、五臓六腑はに落ちない感じ。でも、「お前に資格はない!」と言われるよりも「素晴らしい」と言われると嬉しい。

 さて、この多面的なコミュニケーションのログをどう捉えるべきか。いずれも、たわいもないことですが、いろいろな感情を引き起こされた。ショックだったり嬉しかったり。で、この言葉の質量をこれまた自分勝手な物差し・秤で計測しようとするのですが、いずれも、メモリが0なことに気がついた。これらのコメントの言葉の質量は0gだった。意味がないとか価値がないとかという表現ではなく、あくまでも質量として計測不可能だった。これは何故か?ブログのコメントだから?いずれも会ったことのない人だからか?言葉本体のレイヤーがスキャンできなかったからか?いろいろ考えたが、答は出ていない。

 つまり、「想像力とは正解へ導かない。」という3段論法が成立した。

 さて、このブログという存在、いかなるものなのだろう???では、電話の会話なら質量はあるのか?面と向かって話合えば質量はあるのか?お互い刀を構え対峙すれば質量は交換できるのか?インターネットのことを先日観た映画では、「ライン」と言っていた。なるほど、ただの「ライン」なんだとその時、妙に納得してしまった。さて、点と点の間を何色の何ポンドの何フィートの糸(ライン)で繋げようか・・・。

ポケットティッシュがお土産。

 ある国から日本に来ている人は自国に帰る時のお土産として路上で配布されているポケットティシュを集めて持って帰るらしい。無料で配布されている上にそのコンパクトな仕様はその国では充分にお土産物として喜ばれているらしい。紙の質もとてもよく、そのポケティーは日常雑貨よりも高い値打ちで捉えられているらしい。そんなことがあるのかという感想だった。確かに駅前で無料配布され、コンパクトなサイズに適量がある。紙の質が高いとはあまり考えたことがなかったがお国が変われば価値感も異なるというヤツですね。つまり、それほど実は日本に氾濫しているいろいろなアイテムは良質であるということになる。

 料理にしても同様で、日本に来るといろいろな国の食べ物が食べられると海外の皆様は喜んでいるらしい。日本人が韓国に行ってブランド品が安いとショッピングに興じているが、世界的に見ても日本に流通しているいろいろな商品は世界レベルでは高価なモノが多いのだろう。それを平気で買っている日本人って!?ということ。無理にへりくだり「もったいない根性」むき出して価値感を曲解せずとも、普通にしていることが、ちょっと良質なのだということを抑えておくと、世界観が少し大きくなったような気がした。実際、海外に行ったことはというと、アメリカと中国しかないが、明らかに、日本とは違った。まぁ、限られたエリアでずっと暮らしたわけではないので真髄までは見ることができなかっただろうし、日本についても、すべてを知りつくしているというわけでもない、自分の経験値とテレビやラインの情報を比較して、そんな世界観のことを少し考えた。

 価値感ってなんだろう?とか、生活レベルってなんだろう?とか、貨幣価値と慣習・経済・文化の相関性ってなんだろう?とか。商品を開発して販売に繋げるために広告を制作する仕事をしているが、その商品の価値の比較的表面的な要素やスペックについてパーツ・パーツで捉えてデザインを発想することばかりを繰り返してきたから、本質の価値や慣習や文化との関係性などほぼ考えることなくデザインを構想・創造してきた。これではダメなんだろう。世界に通用するデザインとは?などとかなり意気込んだテンションになった時、自分は何をどう考え、どんな道具でどんなソフトでどんなデザインをするのだろう?もし、他言語の方から「ヘイ!カズ!ボクノカイシャノWEBヲツクッテクレナイカイ?」と突然連絡メールが届いたら、自分自身にその用意はできているのだろか?恐らく、一旦、気持ちが引く自分がいるだろう。そんな時でも、「OK!OK! So, What's kind of your favorite color? 」と間髪いれず反応できるのだろうか?それが今後の大きな課題ですね。

伊吹山登山。

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 なかなかの傾斜でした。なかなかの雪加減でした。なかなかタフな冬の伊吹山でした。いつものことながら、万全のサポートをありがとうございました。お陰さまで山頂のカップヌードルカレー味を堪能・達成・満喫することができました。で、今日は雨と。さらになかなかのタイミングでのアタックだったということですね。

 最後に山の神様に感謝。

伊吹山の山頂。

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 しかし、その4時間後、山頂に到達するとこんな感じ。気温はマイナス2~3度。6合目ぐらいからガチの雪山でしたね。いやいや、山頂で食べたカップヌードルカレー味は素敵でした。登り4時間、下り2時間の冬の伊吹山アタックでした。そこでひと言、「冬山は装備が大切」です。いやいや楽しかったです。

美しい伊吹山が・・・

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 下から見るとこんなに美しい伊吹山なのですが・・・。

仙腸関節か・・・。

 いわゆる腰痛というのは素人知識で背骨の軟骨が正しくない姿勢で変形したり、背筋や腹筋のバランスが運動不足や老化で減退することで起こるのだと認識していた。腰痛や筋肉痛の歴史は中学生の頃に遡り、陸上、野球で過酷なトレーニングをしたことで筋肉や腱を痛めていたと認識していたが、どうやら、それはただの結果であり、根本には「仙腸関節」が深く関係しているとのことをある書籍で知った。

 なるほどなるほど、健康に対する一つの疑問が少し解決したような気分になっています。それは、骨盤の中にある間接の歪みから起こるいろいろな身体の部位への悪影響が結果、腰痛になっているとのこと。そんなこと、針治療の先生にも、整形外科の先生からも説明を受けてこなかったし、疲れが溜まると何故か腰痛になり、マッサージをすれば痛みは抑えられるレベルの知識の人間にしてみれば、そこが原因だったのか!と目から鱗状態である。

 ならば、あの両足に刺した針は何だった?あの強制器具での牽引は何だったのか?となる。確かに、ヘルニアで苦しんだ40歳~42歳の間、針も牽引もしなかった。それは、軟骨が出ているということをMR検査で知ったから。その時の問診では、針治療や牽引器具での治療は逆に患部にいい影響を与えないと教えてもらったからだ。で、どうしたら腰痛にならないのか?と質問すると、普段の適度な運動と食生活の改善だと言われた。痛みがあれば鎮痛剤も服用したが、胃壁が荒れるだけだった。結果、現在、腰痛となんとかうまくつきあっていられるのは、毎日のトレーニングが効果を上げていると捉えているが、それでも、仙腸関節の問題を根本的に解決したことにはなっていないだろう。しかし、毎日やっている縄跳びやストレッチの中で、体幹トレーニング。肩や腹筋・背筋の他に股関節の柔軟さを上げるトレーニングをしている。寝ころんで股関節を最大に回すというストレッチなのですが、これは、自分自身、短距離走をやっていた時から股関節が弱かった。どのように鍛えるのかも知らず、ただただ、走っていたことだけで、仙腸関節は悪い状態のままだったのだろう。

 それが、富士山登山でも同じ症状が出たことで、股関節を回すトレーニングを取り入れたことで、もしかして仙腸関節が改善され、現在の健康状態に繋がったのかもしれない。これは、仙腸関節を鍛えようという意識ではなく、自分は股関節が弱いのでストレッチのつもりでやっていたこと。それに、体幹のトレーニングにもなるんだとテレビで知ったから取り入れたトレーニングだった。まぁ、なんでもやってみるものです。

 改めて、仙腸関節の存在を知って、それを意識することで、さらに腰痛を遠くに追いやりたいものです。身体が健康だと確かに心が軽い。心が軽いと脳も活性化するという仕組みなんだろう。いやいや、何歳になっても知らないことばかりでビックリします。

現体制で発展できず~と。

 ちょっと刺激的で芯を喰った記事がある。「習近平総書記をトップとする最高指導部が始動した中国は、胡錦涛前総書記が率いた10年間に成長した一方、政府の施策や不正に異議を唱える住民の抗議活動が相次ぐ。週刊誌の記事改ざんを巡ってもインターネットで当局への不満が渦巻く。民主化の必要性を説く芸術家のアイ・ウェイウェイ氏に中国の今後を聞いた。~胡時代をどう総括しますか?~2000年代初めは北京五輪を通じて中国が国際化し、言論の自由や民主化が進んでいくと期待していた。しかし、五輪は政府の宣伝にすぎず、市民参加型のイベントではなかった。08年の四川大地震では校舎倒壊で学生が5000人以上亡くなった事態などを隠ぺいした。進歩はなく、表現の自由はゼロだ。私の自宅周囲には15個の監視カメラがあり、電子メールなどは当局の監視下にある。こような社会統治のやり方は恐ろしく、文化大革命の時代のようだ。公正さや倫理観など社会を支えるものが崩壊している。~何が原因だと考えますか?~現在の政権は市民が選択したものではなく、密室での決定の結果にすぎないため、市民の支持を得ていない。司法の独立、選挙、言論の自由がすべて許されていない。絶対的な権力は必ず腐敗、堕落するものだ。元重慶市党委書記が起こした権力腐敗の問題は政治体制の構造に起因しており、氷山の一角だ。王立軍らの裁判は非公開で、真相は闇のまま。司法制度は欺瞞に満ち、正義を実現できていない。~習時代にどんな期待を持っていますか?~権力者に幻想や期待を抱いていない。しかし、今後10年で中国社会が自由に向かって走り出すと信じている。中国の現体制では持続可能な発展は実現できない。世界的な競争激化の中で中国が生き残るためには政治体制に変化が起きるはずだ。インターネットによって個人が自由に表現することが可能になり、伝統的な権力や政治構造を覆す可能が出てきた。中国では中流層は現体制から利益を得ており変革を導けない。ネットの広範囲な普及が原動力となって社会全体の変革が起こるのではないか。~反日デモをどう受けて止めている?~領土の争いは昔から多くの国で起きているが、その争いを国家全体の問題に引き上げて民族の感情に訴えることは異常事態で反動的な潮流だ。中国当局は通常デモを許すしておらず、反日デモは当局の暗黙の協力で実施されているのだろう・・・。」という記事を日本人としてどう捉えるか。非常にリアルな記事である。

 特筆するのは、「領土争い」の部分。人間の本質インターネットで変革に向かうとは考えにくいが、逆説的な意味で「突き抜けている人」「以上・以下になりえない人」「総括的に下層域の人」この3層がより明確になっていくだろうと思う。そして、このお話は中国だけではなく、勿論、日本でも起こっていること。その曲線がIQの分布に酷似し突き詰めれば突き詰めるほどその分布の座標軸に変化が起こっていないことに気がつくはず。結果、それらのモラルや倫理観や情報のディテールがインターネットで一定期間の拡販・覚醒を経て、何が創出されるのか?という視点だろう。「土地」を持っている民に貨幣価値制度が依存している以上、偏在する価値が時間軸を越えて心に突き刺さる矢になりえるのだろうか?という軸足で間違いないだろう。結局、地球の資源や表面積の陣取り合戦の歴史が脳幹に擦り込まれている悲劇だろう。

 ある仕事で中国をリサーチして半年が経つが、リサーチすればするほど、日本やアメリカ、ヨーロッパの経済・文化の歴史とシンクロしていることに気がつく。この混沌がどのような意義があるのかを捉えているアイ・ウェイウェイ氏のような人に真価を期待したい。ラーソンのような小説作品こそが、世界の心を震わせるのだから、まだまだ、期待はできるはず。

 新体制と言えば、日本も比類なき現実があるとして、「発展」の語感は「創造」なのか?「破壊」なのか?

ツイッターウェジット

キャメロン到着。

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 キャメロンが到着。なかなか、いい顔でございます。早くコースでこの扉を開けたいものです。

カッコイイ・・・。

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 なんだろう、このカッコイイ空気感は。カッコイイの芯を喰っているというか、カッコイイの向こう側に突き抜けているというか、カッコイイの最上級があるとすればこの写真だろう。ほんと、ファンの心理というのはイマジネーションがMAXになりがち、だけど、どのMAXの次が恐らく用意されているだろういうテイのMAXなんだから、高すぎる。いいなぁ~いいなぁ~。

早く次を。

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 早く次を観たいです。D.グレイグも007でアバターを抜いたらしいから、恐らく間違いなく「火と戯れる女」はそれ以上。ただ、D.フィンチャーがどう考えているのかが心配。絶対絶対、3部ともフィンチャーであって欲しいあって欲しい。しかし、このテイの映画、日本では無理だなぁ~。文化も歴史も慣習もセンスも違うのだろう。でも、それが逆にポテンシャルなんだろうけど、やはり、隣の芝生は青い!青過ぎる!!!

零下のスタートホール。

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 恐らくスタートの段階で気温は3度ぐらいだっただろう・・・。芝生の上は霜だらけ。グリーンでパットは霜が軽く霜だるま状態だった。どうなることやら・・・が正直なところだったが、ここでこのタイミングでベストスコアだからゴルフは分からない。このまま暖かくなったら春とか夏だったら・・・想像するだけで口もとが緩む。しかし、今回のスコアに奢らず次のラウンドも新鮮な気持ちで挑戦していきたいです。ゴルフ楽し!

ここで、キャメロンかな・・・。

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 待望、念願、渾身の90切りを達成できた。一時はヘルニアでゴルフはドクターストップだった時もある。その時はクラブを屋根裏に仕舞った。実際、ガチで、もうゴルフはできないだろう・・・とかなりショックだった。腰痛をおしてラウンドした時もあったが結果は想い出したくもない惨憺たる結果だった。今、想い出しても変な汗が出てくる。もう、100は切れないだろう・・・などと考えていた。しかし、その時期から6年を経て体調を整えた結果、ベストスコア94が更新された。しかも、7打の更新で87打。結果だけを見れば納得・大満足の数字ではあるが、ご両名なら説明不要ですが、明らかに明らかにチョンボショットが多かった。チョンボパットもあったし、カップにけられたのも3回あったし、池に2個落とした。これらのことを考えると、自分の中では絶対に次は87打ではないぞ!という悔しさがまだ心にもやもやしている。でも、まぁ、それは次のラウンドでこのもやもやを吹き飛ばそうと思っています。ヘルニアに苦しんでいた時は100ももう切ることはできないと落ち込んだが、なんとか立て直し90を切った。しかも、まだまだ相当の「伸び代」を残して。もしかしたら、夢の夢の70台さえ・・・とかなりいい気分。

 まだまだ、上を狙うためにも、90切りの記念の戦利品として、キャメロンを買おうと思っています(かれこれパターは何本買ったか覚えていないが、30本目ぐらいかな!?)。

 スコアはパターで作れ!ですからね・・・。でいいですよね、ご両名。

素敵なママだこと。

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 素敵な女性はずっと素敵なんだろう。昨年も素敵な女性との出会いがあった。男性の草食化など適当なメディアコントロールもあながち・・・かもしれない。オスの本能がどうのこうのとセクシャルコンテンツに一喜一憂することも大切かもしれないが、その向こうにその裏側にある女性へのリスペクトを男はもっと意識下するべきだ。「男が強い」と擦り込まれる時代は終わった。というかそんな時代は実は始まっていなかったが正解。「女性が社会に出る時代だから」などといつまで男尊女卑的なことを平然と言葉にするのはナンセンス。弱い生物の断末魔にしか聞こえない。結婚が理想的なシステムだとは思わないが、郷に入っては郷のシステムがある。誰かが創ったシステムなのかもしれないが、それが人間の歴史。否定しても肯定しても自分なりのモラルがあればそれでいいじゃん!

 カエラママの素敵さはどこから降り注ぐのか不明なのはたぶんオスの鈍感さが少なからず起因しているはず。だからこそ、オスがオスであり続ける理由なのだと今日現在の結論でいい。

 お茶を濁す意味でおかまの発言がメディアをフラット化させているが、それも、また、裏のシステムで言えば、オスの心理が機能・作用している。もっと深い部分で女性と男性を捉えてお互いがリスペクトすることで本来のシステムがフル稼働するのだろう。相互の座標を捻じ曲げるような不器用さも時としてありかもしれないが、真理からは遠い。

 リスベットとミカエルのように永遠に女性と男性は引き合うはず。しかし、第4部と第5部はもう読めないのか・・・。それが辛いですよラーソンさん。辛い。

今年も行くぞ。

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 昨年富士山に行った時に買ったご当地商品「富士山サイダー」。まぁ、味はサイダーだったが、今年もここを目標に健康を整えてチャレンジしようと思っている。今年で4年目のアタックになるが、1回目のアタックの年の正月に富士山登山を決意して朝のスクワットを始めた。それからほぼ毎日、このトレーニングは続いている。あの山頂に立つことが指標になっていられることがなんとも高いテンションをキープさせてくれている。富士山が噴火するまで恒例のアタックはやめないぞ。

「金」という一年。

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 昨年の一文字は「金」だったが、今年はどんな一年になるのだろう?

ガラスのジェネレーション

 年末年始はずっと元春さんを聴いて仕事をしていた。古くならない歌詞とその音楽性の突き抜けている感じが改めて心に響く。クリエティブとはこういうことなんだろうと。一瞬で古くなる言葉がネットの中で乱舞しているが然るべき手法と狙いを込めた作品は時代を越えて新しいフォースになるんだ。だから心に響くという仕組み。次から次へと市場に氾濫するコンテンツの中に存在するサイン。創造するということは古くなること前提でタイムラインに何を載せるか残せるか。この仕事をしている以上、この意識なしでルーティンだけでやっていないかと自問を突き付けられた気さえした。「君の身代わりにその深い悲しみを背負うことはできないけれど、明日のことは誰にも分からない・・・」か。

Let it be...

 「なるようになる・・・。」「そのままに・・・。」で訳はいいだろうが、この真理がビートルズを神格化し、「イマジン」がジョンを引き上げたと仮定すると、なんと、コンテンツのチカラは強いと知る。改めて「なるようになる。」が「明日は明日の風が吹く。」になるためには、普遍のポテンシャルが必要なのだと痛感する。さて、日本語は難しい。海外では政治や教育や文化や哲学・科学・医学・芸術、そして、スピーチの際、教育現場での言語、日常会話(口語)でそれぞれ異なる言語を使い分けているということ。なのに、日本で単一言語なのである。それは、明治維新の教育システムに起因するらしいが、それが全ての発端であり、国語が日本人をどれほど有利にし無効にしたかについて記された書籍を読んだ。ただの書籍の情報でしかないが、思い当たる節はボコボコにある。ページをめくるたびに「なるほど」の連続はとても心地いいリズムだった。疑念がほどける瞬間、次への答を解くカギが手元に落ちてきた感覚。なるようになってきたが成すように成した人の功績を大きな口を開けて飲み込んでいたことに気が付き、一旦、それを出したいとさえ感じた。「やるなら今しか・・・」と思えば思うほど、のどにつかえるその大きな異物を今年は少しづつ出していきたいものです。

 違和感はあとから来るが、時間の経過と共に喉元過ぎれば違和感はなくなる。嘘を虚栄を続けるとそれがいつの日か真実に変わることを消化としたくないし、明治維新を必要以上に美化することをしたくないから、強者が正義とも思いたくない。戦国時代、武力こそが規範のプライオリティーを決めていた頃の精神論を美化し偶像化した紙芝居が好きな人が多いことがこの国の観光振興に多大な功績を与えている悲劇が回り回って文化を老朽化・空洞化させているのだから、ここでリセットする必要があるだろう。慣習上の祭が純化していた時代からライフスタイルは変容している。摩擦も文化だと思えば、浪費も達成感に代用できるかもしれないが、疲労対効果の指標を黙認してまで村文化につきあう気はない。

 フラミンゴが言っている。「勝った者が正義だ!」という真実をワンピースファン達はどう捉えているのだろう?イタチがサスケに伝えたかった真実は言葉の裏にある「愛」だろうが、岸本先生はその裏にある人間の醜さも同時に描いている。三歩さんは本当にエベレストの山頂で炭素に還ってしまったのか?南波兄弟はいっしょに月の上で何を語るのだろう?なるようになる・・・確かに真理かもしれない。

プロのノイズ。

 特に昨年は例年にも増して様々なプロフェッショナルな人との出会いが多かった。これはとても嬉しい。何よりも嬉しい出来事の連続だったと思っています。これを感謝せずに何を感謝とするかというレベルである。と同時に自分の中にある感覚としての「感謝」についても自覚させていただけた。偶然か必然かと問うよりもすべて感謝で包括したいと。また、それは求めたからか与えられたのかとも問うが、そんなことはどうでもいいことで俯瞰で見ればとてもとても刺激的でした。その瞬間に自分自身の中にある感覚がどのように反応しているのかを認知し刺激は刺激としてインプットできたこと。反芻すればするほど、その価値が覚醒し芳醇にアミノ酸に変換されるという仕組み。

 何基準でプロかと規定するかは気分で変化するのですが、プロとアマのそれぞれの特長と境界の座標についてなどなどいろいろ考えることが多かった。残念なプロもいれば、素敵なアマも存在する素敵さを知ると、自分はデザインのプロだからという軸足が貧弱に思える側面もあるし、クリエイティビティーとしてアマならでは独自性というかふっきれ度合いがなんとも素敵に思えたし、突っ込む感じもダイブしている姿勢も案外アマの方が強いような。プロという保険に保護されていると、アマを軽視してしまう。これが実は危険でそもそもプロとアマなんて関係ないというベクトルに立ちかえることで見えてくる世界のディテールに改めて驚いたという表現が適正かもしれない。

 さらに、プロでありながら、常にアマの純粋な強い目線を失わず、さらにプロとしての精密な論法や手法を駆使できることの有意義さ。すると、プロとはとかアマとかどうでもいいことで、いかに先入観が重く光を屈折させていたかを知らされた。ネット時代、情報はシリアルに手元の端末に到着する。ビックデータが叫ばれて久しいが解析したところでそこに存在するパターンに新しい創造の種はないような気がする。常に生まれてくる何かをパターンに適用・代入することはレッドカードような。

 コミュニケーションにおける、リアリティーとは何か?というテイの書籍を読むと、ノイズこそに人はリアリティーを感じると記されていることが多い。「ノイズ」?雑音や歪んだ本質の澱がなぜ?と感じたが、その文脈を読むと確かにビックデータを解析・精査して出された結論にはノイズが存在しない。それは誤差というか歪みというか傷というか埃というか本来デジタルの信号に存在しなような小さい虫にこそ正解に導くヒントが隠されていて、それを本能で知る人間は精査された正確無比な数値化されたコンテンツに反応しない・・・という仮説。それを隠ぺいする方法は先進の技術がカバーするから、導入時には何事もデフォルトでいいが、応用の段階で、実は、「ノイズ」こそが真価だという結論に達している。数年前、「傷よ翼になれ」と書いたからこそマイクロスリップという言葉に辿りつけたような気がします。

 クラウドのビックデータがいくら肥大化しても「傷」を検索して「マイクロスリップ」に繋げる機能はないはず。あるとすれば、それを数値化したhtml言語の中だろうが、それさえ、実は、精緻化されたつまらない信号に過ぎないことを本能は見極めているとか見極めていないとか。

 プロならトライした数だけ魅力的な「ノイズ」を創れ!ということだろう。

 想定外の出来事をコントロールするチカラを志帆さんは「FORCE」と編んだのかもしれない・・・。

物語こそが・・・。

 実は全てのコンテンツの優劣は「物語」のディテールが左右するという仮説がある。どの頃のどんな書籍で読んだのか、誰かから聞いてふと思い出したのかさえ不明ですが、その仮説を想い出した。これはタイミングだから何故そのことを思い出したかではなく、覚えていたことのディテールと想い出したことのディテールの相関性こそが「物語」なのである。ここを疑念視しても本末転倒。と、それほど瞬間瞬間に小さい微細な「物語」を繰り返し人間は生命を全うしているという着地点のお話。だから「物語」なのである。人の誕生が「物語」であり、人の死が「物語」である以上、生命こそが「物語」なのである。それはどのような媒体で繋がっているのか?その一つに「記憶」というファクターがある。「想い出」でも「後悔」でも「達成感」でも「サティスファクション」でも呼び方はなんでもいいが、言わば「記憶」を重ねて人間は生きているとすることが誕生から死までの「物語」を繋ぐラインなのである。それがシルクの糸なのか、4ポンドのフロロカーボンなのか、ナノワイヤーなのかはポテンシャル次第。

 その記憶力について脳科学者は言語化した理論で真理に光をあてようとするし、精神の側面から天体のルールでその座標を特定しようとするMr.85も2:8(パレートの法則)で構成されるのが世の中のスタンダード。しかし、記憶力はそもそも生まれた瞬間にあったのか?母体の中の記憶から、幽体離脱するまでの記憶する力は生命に対してどのような恩恵がありどのようなリスクを及ぼすのか?記憶力のいい人は子どもの頃、羨望の的だったが、下手すると記憶力の悪い方が、精査上手の能力が高いような。好むと好まざるに関わらず幸福と不幸はback to backである。だが、「人生、楽あれば苦あり。」とつぶやくことで、恩恵もリスクも調整することができるのもリアル。ならば、記憶力とはそもそも何のために備わった能力なのか?それは「代謝と複製」のために他ならない。それとこれが一致しない場合は、ここから先は読み進めない方がいいが、記憶力とは?と少しでも問題視したなら、少しは霧が晴れるかもしれない。

 記憶する能力が紡ぎ再構築するのが「物語」だとすると、情報であり外部刺激であれインプットとアウトプットを相互に繰り返す脳にとって全てを限られた有機体に格納することはできない(できるのかもしれないが・・・)はずだから、これらの刺激の収集と運動のアウトプットと並行して、精査も行われているはずだから、それが繋がった「物語」に心が反応するのであり、同じ物語に接していていも、インとアウトのポジションが異なり、その異なることさえもレイヤーに蓄積させているからこそ、ルールとループが成立し続けるのだろう。

 身体から魂が離脱する時(便宜上の表現であり、心臓と脳が停止した段階で信号は消えている。)、人間のイマジネーションは白い光を網膜に転写するという逸話も「物語」としてありとなる。

モノヅクリのエネルギーについて

 企業である以上、利潤を追求し会社を存続させるためがまず最優先される目標であり、それを欠いて何も成立しないが正解だが、それだけで「仕事」を捉えると現在の日本のような構造・システムに陥る。それがどのような経緯で根幹にを成す要因は具体的に何かと分析することは非常に難しい。難しい理由の一つにゆるがないベーシックな要因が機能・連動しているからである。そこにメスを入れると恐らくどの会社でも出血多量で死に至るからである。それを生物としての会社組織であることを経営者達は経営の根本に置いているからである。私自身もそこに不器用にメスを入れて太い血管に傷をつけるわけにはいかないから、抗生物質でなんとか腫瘍を小さくして自分自身の治癒能力でそれを解決したいと考えている。が、化学が創出する薬物には常に2面性があり、「薬と毒の関係」を知る人ならば、その効用を鵜呑みにはしないというジレンマというかダブルバインドなのである。引いてはエネルギー問題と構造や方程式は同じで、モノヅクリのエネルギーについてもプロトニウムを輸入すればいいという簡単な問題ではないのである。つまりこの場合エネルギーの総出力量が問題ではないのである。電気は電気かもしれないが、電気の質を精錬する必要がある。電子機器が安定して機能すれば電気に質は求めない・・・が現在の日本の構造に陥るトリガーになってしまったからである。

 では、クリエイターを動かしているエネルギーの本質とは?まだまだ私も48歳だからそのあたりを明確に言い切ることなど到底できないが、なんとかその登竜門には立っているような気がするから、この文脈を書いていると言える。ここで「登竜門って何?」となる人はもう一度、下山して、英知と脚力を整えてからこの門をくぐるべき。なぜなら、ここから本当の傾斜が始まるはずだから。ここからの傾斜を登り切り、次の門に辿り着くためには、資本も名誉もお家柄も知識も学歴も機能しないからである。必要なのは、英知と脚力と健全な魂しかない。それがこの登竜門なのである。まぁ、ここら辺で「メンドクサイ」と感じた人は下山して欲しい。ここから先のお話は文法など無視した感覚の言語であり非言語の世界だからである。

 では、そのひとつ「英知」について。モノヅクリとは若い頃、自分自身のIDのどこかを削り取り、アウトプットするモノだと捉えていた。削り取った後でも次のエネルギーを蓄えるために、できるだけエネルギー量を蓄積することに一生懸命になっていたような感覚。より多くがキーワードだった。しかし、貨幣価値でこれらの感覚が決して会得できないことと同じぐらい自分の身体・心・魂は偏在していると知る必要がある。だから、対話とかコミュニティーの存在感でIDを確定している人の言葉は水素より軽いとなる。とにかく量的なタンクの大きさがエネルギーの絶対量を決めて器が大きいと出力も大きいという先入観が実は人間のエネルギーのイン&アウトの方程式には適用できないことを分岐させているのである。

 「逆に」というフレーズが逆に芯を喰っているというミラクルなのである。つまり、強そうな人ほど強くない。弱そうな人ほど弱くない・・・的な真理。しかし、人間の歴史には武力こそ正義という論理が根底にあり、日本なら男尊女卑のルールがあらゆる生活の場面で機能している。それを慣習と呼ばず、日々のルーティーンとして麻痺している空間で、世界の中心で愛は叫べないのである。だが、隠ぺいする村文化にこそ実は生産的な方法論が隠されていると信じていた民が神格化された偶像への崇拝の後、その一生を摩訶不思議なリミッターでコントロールされているとしたら、それは間違いなく悲劇である。

 日出る国の悲劇と喜劇の隙間に核融合は不必要だったということを、モノヅクリのエネルギーの相関性に代用すると必然的に変数は何かが見えてくる。貴方のアミノ酸の活性率はどこまでセルフコントロールできますか?というお話。

明けましておめでとうございます。

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 年末に2012年の総括をしようとネタを仕込んだがやるべきことが多すぎて結果ブログは書けなかった。年頭、1日~3日も「さぁ、今年の方針をログろう!」とメモるがこれまたやるべきことが多すぎて今日(4日)になってしまった。結果、別にブログを書かなくとも日常のそれには何も影響がないということに気がついた・・・という2013年の始まりです。とは言え、やはり、自分自身に対して頭の中にあることを整理するためにブログはとても有効なので、まぁ、適度に自分自身を追い込みつついい状態でいいメモ(ログ)を残していこうと思っています。新聞を読むと昨年にも増して「IT」というフレーズが多用されているような印象を受ける。そもそも日本における「IT」の存在は何だろう・・・あたりを細かく分析するといろいろな驚愕の答が出てきそうではあるが、政治もしかり、教育もしかり、日本はリセットしようとしているように総論として感じる部分も昨年よりは増えているような印象だから、大きな潮流がそちらにシフトした時に、その流れに敏感にデリケートに反応できるように脚力と眼力を温存しておきたいと思います。

 年末にかけて(というわけでもなく)いろいろ書籍を読む中で、最近のキーワードは「日本語」である。今もそのテーマで書籍をリサーチする場合も多い。日本語しかまともに読めない人間が、改めて日本語をどうするのか?ということだが、翻訳された書籍の裏にある異文化の臭いや慣習の声を聞くためには、さて、どうしたものか?と。で、そのためには、いわゆる文学の神髄にもう一度触れておく必要があるかなと漱石を数冊読んだ。読んだ末、しをんさんの「舟を編む」を読み切った。読み切った!と意気込むような作品ではないのですが、あまりも、他の日本の小説作品(あまり読まないが・・・)と比較して、なんというか文学の香りというか方法論に改めて改めて堪能できた作品でした。

 それに敏感に反応してしまったのが、この年賀状。いつもしっかりリミッターを効かしたデザインをするように習慣化していたのを、ちょっと崩した。デザインなんて「崩しありき」だと思っているので、今年はこんなテイだったということ。デザインについてこの記事では語るつもりではないので、あくまでも、どういう明けまして・・・にしたかという部分。つまり、年賀状を出す相手の顔を想い浮かべて・・・的なことがセオリーだとしたら、今回はそれを止めたということ。つまり、デザインや広告で言うとろの「ターゲットに分かりやすい」というリミッターを少し、少し解除した。例年なら、というか、デザインを仕事としている日本人ならこのリミッターを外すのは結構勇気がいる。というかそれは勇気か!?と思い始めたからこういう年賀状になったみたいな。

 まず、「旧年中はお世話になり、本年もどうぞ・・・」的なことをやめ、日の丸の中にイメージを捻じ込んだ。そして、頭に浮かんだフレーズをそのまま書き出した。すると、とても自分自身が気持ち良かったことに気がつく。つまり、2013年はこの感じかなというニュアンスに心が満ちた。難しい日本語を使っているわけでもないし、義務教育を経ている人なら理解はできる範囲である。ただ、専門用語はいくつか散りばめた。つまり、語彙の語感や意味・背景は1枚目のレイヤーと捉えているので、2枚目より下のレイヤーを感じて欲しいのである。ここを感じられる人は少なくとも心に頭に魂に2枚以上のレイヤーを持っている人だから、自由に作成して1枚目のレイヤーをリミッターと設定した作品だということである。これを暗号だのパズルだのオブストラクトだの感傷的だのと捉えていただくのはもう見た読んだ人のポテンシャルに任せるが、ポイントは2枚目以下の階層のレイヤーがあるのかないのか?なのである。

 日の丸を加工した以上、日の丸の裏に走っているプログラムにも手を入れたいという心意気なのである。それは日本語の成分であり、情報の構造であり、感覚の速度が何の干渉を受けるか・・・?なのである。

 正にマイクロスリップこそが真価であり真理でありホンマルである。