物語こそが・・・。

 実は全てのコンテンツの優劣は「物語」のディテールが左右するという仮説がある。どの頃のどんな書籍で読んだのか、誰かから聞いてふと思い出したのかさえ不明ですが、その仮説を想い出した。これはタイミングだから何故そのことを思い出したかではなく、覚えていたことのディテールと想い出したことのディテールの相関性こそが「物語」なのである。ここを疑念視しても本末転倒。と、それほど瞬間瞬間に小さい微細な「物語」を繰り返し人間は生命を全うしているという着地点のお話。だから「物語」なのである。人の誕生が「物語」であり、人の死が「物語」である以上、生命こそが「物語」なのである。それはどのような媒体で繋がっているのか?その一つに「記憶」というファクターがある。「想い出」でも「後悔」でも「達成感」でも「サティスファクション」でも呼び方はなんでもいいが、言わば「記憶」を重ねて人間は生きているとすることが誕生から死までの「物語」を繋ぐラインなのである。それがシルクの糸なのか、4ポンドのフロロカーボンなのか、ナノワイヤーなのかはポテンシャル次第。

 その記憶力について脳科学者は言語化した理論で真理に光をあてようとするし、精神の側面から天体のルールでその座標を特定しようとするMr.85も2:8(パレートの法則)で構成されるのが世の中のスタンダード。しかし、記憶力はそもそも生まれた瞬間にあったのか?母体の中の記憶から、幽体離脱するまでの記憶する力は生命に対してどのような恩恵がありどのようなリスクを及ぼすのか?記憶力のいい人は子どもの頃、羨望の的だったが、下手すると記憶力の悪い方が、精査上手の能力が高いような。好むと好まざるに関わらず幸福と不幸はback to backである。だが、「人生、楽あれば苦あり。」とつぶやくことで、恩恵もリスクも調整することができるのもリアル。ならば、記憶力とはそもそも何のために備わった能力なのか?それは「代謝と複製」のために他ならない。それとこれが一致しない場合は、ここから先は読み進めない方がいいが、記憶力とは?と少しでも問題視したなら、少しは霧が晴れるかもしれない。

 記憶する能力が紡ぎ再構築するのが「物語」だとすると、情報であり外部刺激であれインプットとアウトプットを相互に繰り返す脳にとって全てを限られた有機体に格納することはできない(できるのかもしれないが・・・)はずだから、これらの刺激の収集と運動のアウトプットと並行して、精査も行われているはずだから、それが繋がった「物語」に心が反応するのであり、同じ物語に接していていも、インとアウトのポジションが異なり、その異なることさえもレイヤーに蓄積させているからこそ、ルールとループが成立し続けるのだろう。

 身体から魂が離脱する時(便宜上の表現であり、心臓と脳が停止した段階で信号は消えている。)、人間のイマジネーションは白い光を網膜に転写するという逸話も「物語」としてありとなる。