プロのノイズ。

 特に昨年は例年にも増して様々なプロフェッショナルな人との出会いが多かった。これはとても嬉しい。何よりも嬉しい出来事の連続だったと思っています。これを感謝せずに何を感謝とするかというレベルである。と同時に自分の中にある感覚としての「感謝」についても自覚させていただけた。偶然か必然かと問うよりもすべて感謝で包括したいと。また、それは求めたからか与えられたのかとも問うが、そんなことはどうでもいいことで俯瞰で見ればとてもとても刺激的でした。その瞬間に自分自身の中にある感覚がどのように反応しているのかを認知し刺激は刺激としてインプットできたこと。反芻すればするほど、その価値が覚醒し芳醇にアミノ酸に変換されるという仕組み。

 何基準でプロかと規定するかは気分で変化するのですが、プロとアマのそれぞれの特長と境界の座標についてなどなどいろいろ考えることが多かった。残念なプロもいれば、素敵なアマも存在する素敵さを知ると、自分はデザインのプロだからという軸足が貧弱に思える側面もあるし、クリエイティビティーとしてアマならでは独自性というかふっきれ度合いがなんとも素敵に思えたし、突っ込む感じもダイブしている姿勢も案外アマの方が強いような。プロという保険に保護されていると、アマを軽視してしまう。これが実は危険でそもそもプロとアマなんて関係ないというベクトルに立ちかえることで見えてくる世界のディテールに改めて驚いたという表現が適正かもしれない。

 さらに、プロでありながら、常にアマの純粋な強い目線を失わず、さらにプロとしての精密な論法や手法を駆使できることの有意義さ。すると、プロとはとかアマとかどうでもいいことで、いかに先入観が重く光を屈折させていたかを知らされた。ネット時代、情報はシリアルに手元の端末に到着する。ビックデータが叫ばれて久しいが解析したところでそこに存在するパターンに新しい創造の種はないような気がする。常に生まれてくる何かをパターンに適用・代入することはレッドカードような。

 コミュニケーションにおける、リアリティーとは何か?というテイの書籍を読むと、ノイズこそに人はリアリティーを感じると記されていることが多い。「ノイズ」?雑音や歪んだ本質の澱がなぜ?と感じたが、その文脈を読むと確かにビックデータを解析・精査して出された結論にはノイズが存在しない。それは誤差というか歪みというか傷というか埃というか本来デジタルの信号に存在しなような小さい虫にこそ正解に導くヒントが隠されていて、それを本能で知る人間は精査された正確無比な数値化されたコンテンツに反応しない・・・という仮説。それを隠ぺいする方法は先進の技術がカバーするから、導入時には何事もデフォルトでいいが、応用の段階で、実は、「ノイズ」こそが真価だという結論に達している。数年前、「傷よ翼になれ」と書いたからこそマイクロスリップという言葉に辿りつけたような気がします。

 クラウドのビックデータがいくら肥大化しても「傷」を検索して「マイクロスリップ」に繋げる機能はないはず。あるとすれば、それを数値化したhtml言語の中だろうが、それさえ、実は、精緻化されたつまらない信号に過ぎないことを本能は見極めているとか見極めていないとか。

 プロならトライした数だけ魅力的な「ノイズ」を創れ!ということだろう。

 想定外の出来事をコントロールするチカラを志帆さんは「FORCE」と編んだのかもしれない・・・。